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11/30/2010

tonの発音、間違っていました!

『絶対発音力』の中で、私が間違っている箇所がありましたので訂正します。

ハレイの英語学習ブログのハレイさんの指摘で気づいたものです:

http://foreignlanguages.blog29.fc2.com/blog-entry-77.html

私は、ton の母音を、hot の母音と同じだと思ってそう書いた(p.169)のですが、これは誤りで、son の発音と同じです。

綴りが o だと、圧倒的に hotの母音が多く、また、カタカナ語としても「トン」なので、疑うことなくそう思っていたのですが、違いました。

(言い訳しておくと、ton は、中英語の tunne (酒樽)が、son は古英語 sunu (息子)が語源になっていて、いずれも u の文字がもとのようです。)

いずれにしても、指摘してくださったハレイさんには感謝しています。知るは一時の恥、知らぬは一生の恥。恥どころか我々の場合には誤った知識を何百人もの生徒たちに広げてしまうことになるので、むしろ罪となります。

50年目にして正しい知識が得られて嬉しいです。

以上、『絶対』の読者の方には、お詫びして訂正します。ton は、tun だと思って発音してください。

英語は道徳じゃね-!

Mona Lisa さんのブログ

http://ameblo.jp/monalisa-eigo/entry-10700114844.html

で、私のことを:

靜先生は、英語は道徳じゃね-!英語をできるようにしてやってなんぼだー!!そもそも英語教師の英語が下手すぎる!!!という感じなので、先生たちの間では賛否分かれる、というか、「耳が痛い」的な感じもあって、敬遠する人も多いのではないかなと思います。

と書いていただいているのを発見しました。

まさにおっしゃる通りだと思います。英語授業の十五戒で言っていることを煎じ詰めるとこうなります。

学校英語教師ではないモナリザさんだからこそ、ずばりと的を射た描写・記述をしてくださっている、と感じました。大変嬉しいです。



11/23/2010

教科書本文ごときに縛られるな

教科書本文を金科玉条のごとく扱う教員が多い。本文から一歩も逸脱出来ないような人が。

教科書の本文は、編集の過程で、さまざまなeditingを経て、改変され、最終的にたどりついたものである。それは、全体の語数とか、文法事項の配列とか、語彙制限とか、さまざまな制約をうけて、「たまたま」たどりついたものであって、決して the one and only な文ではない。

つまり、単なる one of many ways of saying the same thing である。

ほかにいくらでも表現のしかたはある。

また、ひとつひとつの文はあくまでテキストのなかで意味を持つのであって、文脈から取り出したら意味がよくわからなくなることも多い。代名詞や接続詞など。

だからたとえばグルグルに使う時に、代名詞を名詞に戻したり、長さを調整するために2文を1文にしたり、逆に1文をふたつに切ったり、リズム調整のために単語を足したり引いたり、することは当然必要なことである。

ただ、そうやって本文を改変した時に、不自然な英文や誤った英文になっては話にならないわけで、いちいちAETなどに頼らなくても、「十分な程度に正しい」英文を書けるだけの力量と自信がここでもキーになるわけである。自作の文が不安で使えない、のではどうしょうもない。

やっぱり心技体では「体」が大切、という結論になる。「体」をつけて、教科書本文を「使い倒そう」。

Materials in textbooks are not something you should never deviate from.  They are just examples of expressions that convey certain messages or ideas.  You need to be confident and proficient enough to be able to modify them to suit your purposes and students' needs.

11/22/2010

授業は稽古で本番じゃない

ひとつの芝居が完成して公演にいたるまでには何週間、何ヶ月にもわたる厳しい稽古がある。

また本番が始まってからも、その日、その日の本番が終わってから、反省会のようなものがあって、微調整がなされる(のかも知れない)。

当然ながら英語の授業の本質はそういう「稽古」や「反省会」のようなものであって、最終的に「観客」に見せる「本番」ではない。

公開授業や研究授業というのは、授業を公開してみんなで研究するもだから、とうぜん、そういう「稽古」の公開のはずだ。

ところが、どういう勘違いだか、芝居の本番にあたる段階を見せているような公開授業が多くないだろうか。

生徒にディベートさせて、褒めて拍手して、はい終わり、みたいな。


稽古であるかぎり、ダメだしや、修正点の確認の繰り返しこそがその中心であるはず。演出家、監督からのダメ出しや注文付や演技指導がまったくない「稽古」って、何の意味がある?

授業もまったく一緒。昨日より今日、今日より明日、と向上させるための地道な努力を見せるのが公開授業であるはずだ。

A demonstration class is just that: a demonstration of a class, which is an activity to improve each student's performance until students measure up to the teacher's expectation, just like practice sessions of a play is an occasion where players are trained receiving feedback and directions by the director.  Why do I have a feeling that I always see a demonstration class where there is no feedback or directions from the "director"?

11/15/2010

ひっくり返して書け、書け、書け! Flip Writing

鹿児島高英研の研究大会で、久しぶりに、「ほ~! それいいじゃん」と感じる実践報告を聞いた。

その名は Flip Writing。

1枚の紙の表に、テキストの英文(スラッシュつき)を、裏におなじテキストの和訳(英文にあわせた語順でスラッシュつき)を印刷しておく。和訳のほうは、行間を広くとり、行間に書き込みができるようにレイアウトする。

これを生徒に渡し、「表の英文を見て、それを裏の和訳の行間に書写しなさい」と指示する。

生徒は、表の英文を少しずつ短期記憶に格納しながら紙をflipしながら書き進むのだが、flipするのは面倒くさいので、なるべく多く(1語より2語、2語より3語)覚えようとする、という。

なるほど。そうであろう。そして「なるべく頑張って、スラッシュごとに頭に入れて書くようにすると力がつくよ」と言うとさらにいいだろう。

Flip Writing がいいと思うのは、作業がシンプルであることと、英文をチャンクごとに覚えて書こうと努力するのが本質的に英語力(受容力と運用力)の向上に寄与すると思われるからだ。


授業内の最後の仕上げ、でもいいし、復習として家庭学習に課してもよいだろう。(生徒に趣旨を理解させておいて、ズルしないようにさせる必要はある。)

One task that I believe is quite useful and effective for enhancing students' proficiency is "flip writing," in which students try copying the English text printed on side A of a worksheet onto the reverse side of the same sheet.  

11/13/2010

電子辞書で用例を見比べる

紙の辞書でできて電子辞書にできないことはなく、逆はたくさんあるので、もう紙辞書はいらない、というポストに関して友人から以下のご意見をもらいました:

(1)電子辞書では、1番の語義での用例と2番の語義での用例を見比べる、ということはできないのでは?

(2)すくなくとも最初は紙の辞書を使わせて、辞書というものは語義、用例、成句などがこのように整理されているものだ、というのを理解させたほうがいいのでは?

これについて私の考えは:

(1)について:

要は、紙辞書は物理的に1枚の紙の上に、複数の語義に対応する用例が載っているが、電子辞書は同じスクリーン上には複数語義に対応する用例は載っていない、ということですね。

しかし厳密に言うと、紙辞書であっても、複数の用例を「同時に」見比べることは不可能です。

なぜかと言うと、人間の視野というのは実は驚くほど狭く、せいぜい10-15 character strokes
ひらたく言うと1~2語しか、ある瞬間に見る(見て読み取るほどきちんと見える、という意味)ことができないことが知られています。

すると、1文であっても全部を同時に見渡していることはなく、1~2語ずつ、順番に読み取っています。最初の1~2語を見てそれを短期記憶に格納し、その状態で次の1~2語に移り、それを短期記憶に格納しつつ、最初の1~2語と記憶の中で統合して意味を構築し、...という作業を瞬間的に次々に繰り返して読んでいるに過ぎません。

ということは、紙の上で上下に2~3センチ離れた箇所に印刷されている2つの例文を「見比べる」のも、同時に見ることはできず、上の例文と下の例文の間を秒単位で視線が行き来しながら、脳内で「見比べる」という意識が形成されるということです。

すると、これは電子辞書の2画面を行き来するのと本質的には変わらないことになります。そして今の電子辞書のレスポンスの良さを前提とすると、2画面を行き来して「見比べる」ことは十分可能だと感じます。

(2)について:

「最初は紙の辞書を使うべき」という論点ですが、これも「べき」とまでは思いません。辞書の構造を理解させるのは、電子辞書でもできますし、どうしても紙で一度説明したければ、ある見出し語に関わる全記述を1枚の紙に印刷して見せて、一度解説し、あとは電子辞書を使わせても問題ないのではないかと思います。

ただ現実問題として、最低でも数万円はする電子辞書を最初から全員に揃えさせることは無理ですから、現状としては、最初は紙の辞書を持っている生徒が多いことは間違いないとは思います。でも仮定の話で、今の性能と機能の電子辞書が、3000円で買えるならば、最初の段階から全員に電子辞書を使わせてもまったく問題ないと思います。

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すくなくとも私に関しては、紙の辞書に手を触れることは過去10年間ゼロになりました。

I am not really convinced by the argument that usage samples can be better viewed (and compared if necessary) on paper dictionaries than on electronic counterparts, nor do I buy the idea that beginners should get used to paper ones to get an idea about what a dictionary is like before beginning to use e-dictionaries. 

11/10/2010

カタカナ読みと化石化

もうひとつ、先日もらった質問:

「先生は英語読みとカタカナ読みを両方言わせて対比させるエクササイズを提唱していますが、敢えてカタカナ読みをさせることで、その良くない読み方を化石化することになりませんか?」

回答:

なりませんん。カタカナ読みは化石化どころか、日本人の中に日本語として確固として存在しています。

日本語としては、例えば「ブログ」(burogu)という発音が「正しい」のです。それを、blogと対比させて、

burogu / blog / burogu / blog

とし、日本語と英語の違いを体感させることが大切なのです。

大切なのは code switching です。

日本語を話しているときは日本語の音韻ですべてを話し、英語を話している時は英語の音韻ですべてを話すように、「スイッチ」を整備することが大事なのです。

カタカナ読みをこの夜から駆逐することは不可能ですし、まったくそんな必要はありません。

日本語なんですから。

11/07/2010

発音をカタカナで書く生徒は...?

昨日もらった質問:

「私は発音指導に凝っています。生徒に発音をさせるための補助としてカタカナで書かせたのですが、先輩教師からそれはやめろ、と言われてしまいました。先生は発音をカタカナで書かせることはどう思いますか?」

この問題は一概に言えない。

カタカナで書いてはダメだ、ということはないし、カタカナで書いた方がいい、ということもない。

(また敵を増やすのを承知で言うと、カタカナ絶対反対主義の教員は、実際に発音指導をしていないのだと思う)

実際、私の厳しく細かい発音実技指導を受ける生徒、学生(中学生、大学生)の中には、部分てきにカタカナでメモしている者はめずらしくない。さらに言うと、この夏やった教員免許更新講習でも、つまり現職教員でも、カタカナで発音イメージを書き取っていた人がいた。全然悪いことではない。

よいカタカナ表記と、ダメなカタカナ表記がある。

質問者が言ったのは、

she を シー  sea を スィー

と書かせるような話らしく、これは害はほとんどない。厳密に英語の音とイコールではない、というレベルの話は当面クリアすべき目標とは無縁だし、ひつようなら、実際の実技指導で教えればいいことだ。

また、

level  レヴォ
possible パッサボー
milk  メオ


のような工夫した表記なら、やはりほとんど害はなく、益が大きい。

また、実技指導していて、どうしても視覚に引きずられて、まともにリンキングができないような時に、

when I was in Osaka
ウェイワズィノサー

like it a lot
イケタローt

again and again
ナナ


と書くと、はじめてまともに読めるようになる、という体験は何度もある。

ただ、これを、

ウェン アイ ワズ イン オーサカ

と書かせて放っておくのは害のほうが大きいだろうね。英語に聞こえないでしょ。

まとめると、

(1)発音のことをよく分かっている教師が、工夫したカタカナ表記を、ピンポイント的に使うのはとても効果的である。一律にカタカナを嫌悪する教師は、現実を見ていないのだ。学習者が音声を記憶するために表記する手段としては他に何がある?

(2)カタカナは英語ではなく日本語を表記するためのものだから、基本的にダメだ、という議論は、専門家向けのものであって、一般学習者には関係ない。100%正確な音を表すのでなく、あくまで教室で実際の音を実技練習したことを記憶にとどめるためのものとして使えば、非常に有効である。(ALTが嫌うのは放って置いてよい。彼らはカタカナの威力を知らないだけなのだ。)

(3)ただし、あくまで目標は、英語文字を直接読めるようにすることなので、カタカナは補助として、文字と音の関係を丁寧に指導する必要があるのはもちろんである。

It is definitely true that using Kakakana to represent English sounds CAN be quite effective in helping your students to learn to produce real or good-enough English sounds.  No doubt about it.

挨拶する心と Hello!

「挨拶する心のない生徒に、Hello! という表現だけ教えてもしょうがない。」

そうかな...?

それはそれ、これはこれ、じゃないかな。

挨拶する心、と言っても、いつでもどこでも誰にも挨拶しない、というよりも、teenagerとして、ある特定の状況下で挨拶をしないことを選択している、のではないだろうか。教師には挨拶しなくとも、部活の先輩には挨拶しているのではないだろうか。

ま、ともかく。挨拶に関する生徒指導は生徒指導としてきちんとすべきである。

しかしそれと英語授業を連動させるのは、逆におかしな事態を招くような気がするけど。

私なら、その時、その生徒に、その「アイサツスルココロ」があろうがなかろうが、Helloという言語形式はきちんと教える。発音を含めて。Lは決して日本語の「ロ」じゃないよ、というのも含めて。

その生徒がその挨拶をしたくなった時、きちんとした発音とイントネーションでそれを使えるように、自分の英語の授業では、道具としての英語自体をきちんと教える。その道具を使う日がくるかもしれないから。

英語の授業は道徳や倫理ではない。

「世界平和を願わない生徒に、英語の文法を教えてもしょうがない」

「イジメを卑劣なことだと思わない生徒に、発音を教えてもしょうがない」

とは全然思わない。

I disagree with the view that it is a pointless endeavor to teach how to pronounce "hello" to someone who does not feel like greeting in the first place, or put differently, that moral education should come before language skills education.

嬉しい書評みつけた

心・技・体について嬉しい書評見つけた:

http://ameblo.jp/monalisa-eigo/theme-10026510323.html

嫌いな歌 No. 1: 世界に一つだけの花

花屋の店先のいろいろな花をみて、どれもそれぞれ綺麗だ、と言って、それを人間に当てはめて、一番にならなくてもいい、というが、それはマッタクオカシイ。

それぞれ綺麗だ、といっているのは、いろいろに異なる花の種類の話で、バラのなかの一本一本ではない。

赤いバラを買うときには、すこしでも生きの良さそうな、発色のいい、きれいなものを選んで買うだろう。

競争しなくてもいいよ、自分は世界に一つだけの花だよ、などという歌詞の歌が、これだけ支持を集めていること自体が、日本が駄目になっていることの原因であり、結果だ。

You are OK as you are (without making any more effort to get better).

なんていうメッセージを、生徒に言ってどうする?

OKじゃないから、学校に来て、教育を受ける必要があるんじゃないの?

The very fact that Sekainihitotsudakenohana is so popular today is evidence that something is very wrong with our society.

好きだ、嫌いだ、ばかり何で気にするの?

フタコトメには、「~の結果、英語が好きだ、という率が増えた・減った」ということを言いたがる教員の気持ちがわからん。

いや、わかる。だから情けない。

~では「好きだ、楽しい」が~%になった。それが、~では、~%になった...云々。

そういうことばかり気にしている・言ってるから駄目なんだよ。

好きだ、嫌いだ、楽しい、つまらない、じゃないんだよ。

学校は勉強するところで、勉強とは、強いて勉めるものであり、べつに

♫楽しい楽しい楽しい♫

ものであるわけはないし、そんな必要はまったくない。

必要だからやるんだよ。

教師が生徒に迎合する必要はまったくない、というか、そういうことをしているからダメなんだよ。

大人が子供に迎合する必要はないし、そんなことをしているから、今の日本になっているんだよ。

もっと毅然として、「教師」として「大人」として、自分のやっていることに自信を持とうよ!

「支援者」などという生ぬるいものに成り下がるな。

授業の本質は、強制と矯正だ。

Being obsessed with how much your students "like English" and/or "feel that English classes are enjoyable"is actually doing them disservice.  Like it or hate it, they need to do what they need to do.

英語の授業は日本語でやれ

昨日、今日と、初めて全英連の大会というものに行ってきた。

昨日は公開授業(小、中、高)、今日はそれについての討論等があったのだが、

昨日の授業(中学・高校)に関して

「高校は日本語が多かった while 中学はすべて英語で(教師が)パフォーマンスしていた」

というコメントを聞き、ちょっとこれは書いておかねば、と思い、書く。

見ていない人のために解説しておくと、高校は私が助言者として関わった授業で、授業内タスクとしては、私が心・技・体で提唱しているものや、Reading in Action (金星堂)として教材化しているものにかなりの部分はそった形で、「絶対発音力」等も取り入れた授業で、いわゆるクラスルームイングリッシュはほとんどなく指示は日本語、また、生徒に対する発音面、文法面のフィードバックもすべて日本語であった。ただし生徒の発言はすべて英語。

一方中学は、すべて教師は英語で、しかし発音やリズム、語法はかなりヨタヨタ、something を somesing 、That's right を Zats right というレベルの「クラスルームイングリッシュ」。生徒に対する発音面、文法面の明示的フィードバックはゼロ。いわゆる recast (生徒が間違ったことを言った時、それをさりげなく、正しい形を言ってやる。生徒がそれに気づくことはほぼない。)をやっていた。


生徒の英語はとんでも発音が多い。「プレゼン」と称して、生徒に写真を説明する発表をさせていたが、かなりのとんでも英語。それを指摘して直そうとはしない。しかしそのあとで、「発表の良かった点を話しあってみよう。Japanese, OK」というpidginみたいな指示も。


まあ、最近はやりの典型的な勘違い授業である。

今日は分科会で、私は高校の授業について「助言」をしたが、その中で、開口一番、「昨日の高校の授業で一番よかったことは、日本語をたくさん使ったことです」と言った。

詳しくは

https://sites.google.com/site/zukeshomepage/publications/practical-papers/eigode_okonau_yori

を(もういちど)読んで欲しいが、要は、「生徒の英語の形式面(発音、リズム、語法、文法)の質を向上させる気があるなら、絶対に日本語を使え、ということである。

意味のやりとりは英語で、形式についてのやりとりは日本語で。

なお、今日の討議会は、私は英語でやったが、他の方々の様子を見るとやっぱり、ほとんどの英語教師には、英語の授業について英語で討論するのはかなりハードルが高いようである。

ま、気持ちはわかるが、それではいつまで立っても上達はしない。日本の中ではそれでも普通なのだが、世界水準でみると、情けない話である。たぶん韓国にも水をあけられつつあるだろう。

この業界で全国に名前が知られているような人にも、英語で話してくださいと言われるとなんとなく逃げたり、実際に話してみると、かなり情けない英語だったり、という例はたくさんある。

だからダメなんだろう。まあ、日本の英語教育がダメであることの、結果であり原因である。

これを読んでいる特に若手のみなさんは、是非、少なくとも自分の毎日やっている仕事に関わる事柄については、いつでも、どこでも、誰が相手でも、自由に英語でも日本語でも、構えず、語れるようになって欲しいと思う。

なんといっても、here and nowの話題である。何も哲学について語れとか、世界の経済情勢を論じろ、という話ではない。自分が毎日やっている、一番よく知っている事柄である。そのもっとも話やすい話題について、comfortableに英語で語れないのは、プロとして絶対的に運用力が不足している。

で、どうして不足しているかというと、練習量が足らないからである。で、どうして練習量が足らないかというと、英語の授業について実践報告したり、協議したり、という絶好の機会に、英語の練習をしないからである。

要は、悪循環:

自信がない→練習しない→自信がつかない→練習しない→いつまでもダメダメ

ちなみに、そういう fluency は、CNNを「シャドウイング」しても身につかない、のは分かるよね?

今日のまとめ:

(1)英語の授業中は、自分は大いに日本語を活用して、生徒の英語のレベルを上げようとせよ。

(2)英語教師同士が集まって公的に語る時(協議会とか)は、場の空気がどうであろうが、自分だけは、意地でも英語を使う、くらいの気持ちをもて。それで、うまく語れなかったら、家にかえって辞書を使って、どう言えばよかったか調べて次回に備えよ。

comfortable じゃないから、つぎは少しでも less uncomfortable になるために練習が必要なのだ。

11/05/2010

全英連: ダメ出しのないダメダメ授業

小、中、高の授業を見た。

小と中はいずれも、

七. 「通じる」ことは必要条件であって十分条件ではない。意味が通じる英語をさらに良いものにブラッシュアップしてやれる場所は教室しかない。「通じればよい」という世間の基準に合わせていては、コーチングの専門家たる教師の存在価値がない。

八.  生徒のパフォーマンスは常に評価してそれを伝えよ。どんな場合にも足らない点を見つけてダメを出せ。ダメ出しとはすなわち向上のためのヒントでありアドバイスである。評価のない発表は時間の無駄遣いと心得よ。

という点においては、「教師の存在価値のない」「時間の無駄遣い」とも言える、ダメ授業だった。

中は教師の英語発音もかなりしんどいものがあった。

プレゼンと称して、とんでも発音での発表を続けさせ、それを褒めちぎっていた。誤解ないように書くと、生徒は一生懸命であり、それは尊いことである。しかし、あれでは駄目なのだ、別の言い方をしないと英語ではないのだ、ということをきちんと教えてやらないのは、彼らの頑張りに対して、不当なことである。

やっぱり、

■英語教師が英語を話し続けるのがいい授業である

■発表の態度とか中身でよい点を発見して無理にでもホメるのがいい授業である

■発音とか文法のミスをあからさまに生徒に知らせないのがいい授業である

という根本的な思い込みがある限り、他の何をどうしようが、この国の英語授業はほとんど時間の無駄であり続けるだろう。

この点、高はまったく違う授業だった。

「この生徒たちに、もっとうまく、まともに英語をしゃべらせてやろう」という当たり前の姿勢があり、そのためには、日本語を使って、「○○を直して、もう一度!」と何度も言わせる、という、当たり前の「授業」の姿があった。

I regret that I was made to observe another two classes that wasted everyone's time by neglecting to explicitly correct students' less-than-satisfactory English.