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6/30/2011

I'm possible という「アリエナイ」CM

PCのダイナブックのCMで、

Impossible



アポストロフィー (')

を付けただけで、

I'm possible

に変わる、

というのがある。

趣旨を推測するに、「不可能」はちょっとしたことで「可能」に変わるんだ、と言いたいのだろう。

しかし、困るのが、おそらく、このCMコピーを考えた人間が、

I'm possible. は「私には(なにかが)できる!」

という意味だと思っているらしい、という点である。

言うまでもないが、I'm possible to do this.  というような英語は生徒や学生がよく書く典型的な誤りの一つである。

I'm possible.

の意味を無理に考えるなら、

「私のような人間が存在するのは可能である」

というわかったようなわからないようなことになる。

こういうレベルでいい加減に英語を使う、というが日本の社会では多いような気がする。

このCMがなんとなく頭に残っていたために、

I'm possible to ....

のような英語を書いて☓をもらう中高生、大学生も必ずいるのだろう、と思えば罪な話だ。

育毛剤の サクセス

のCMで、

クセス

と発音しているのが頭に残っていたために、success のアクセント問題を間違えた、と文句を言っていた学生が実際にいた。

他人の授業を見ると腹を立てる生意気な若手

「いい加減な授業、生徒に対する態度が甘い教師を見ると、むかむかして腹がたつ、腹がたつからなるべく見たくない」

という生意気なことを言う新人に出会った。

う~ん、この言いぐさには....




























親近感を感じるねぇ...

このブログを始めたときに最初にアップしたポストが、それと同じ趣旨だし。

あとは、ただのホラ吹き、身の程知らず、ということにならぬよう、精進してもらうだけだ。

歌を通して英語を好きにさせたい、という勘違い

ずいぶん前、ある県の英語教員の研究大会に講演で呼ばれた時のこと。

その県でその年、新規採用になった新人が、一言ずつ全体に対して挨拶する、という場面があった。

その中のひとりが、ギターを片手に、「ボクは英語の歌を通して英語が好きになりました。だから、生徒にも歌を教えて、英語の楽しさを伝えたいと思います!」

と言ったあとに有名な歌を弾き語りで熱唱。

それがまあ、th も f も r も l も、どうしようもないひどい発音。

勘違い教師に教えられた勘違い生徒が教員になって、また勘違い生徒を育てる、という負のサイクルを絵に描いたような場面。

そういうデタラメ英語を話していて「楽しい」と思う人間を育ててはいけないのである。

そのことは翌日、確か本人にも言ったと思う。

今は5年選手くらいにはなっているはずと思うが、どういう先生になっているか?負のサイクルを正のサイクルに変えてくれただろうか。

Sherry was feverish

The reason why Sherry had stopped eating food and drinking water turned out to be that she had fever. Ah, that explains. At one moment she became so weak as not to be able to support her body on her legs. That made us worry like hell. She still has fever but that's not as high as yesterday, and she can stand. The injections seemed to work.

6/29/2011

韓国英語教師、恐るべし

ソウルで二人の若い英語教師と話した。

英語が非常にうまい。発音はほとんど問題ない。流暢性はばつぐん。いままで話したすべての日本人高校英語教師よりも、たぶんうまい。

発音の問題点は、z が言えないこと。Shizuka がどうしても、Shijuka になるし、English only zone が、English only jone となるので、最初は分からなかった。

あとは母音がわかりにくいことがあった。 ae を過度に e に近く、かつ十分な長さがなく発音するので、分からないことが何度かあった。

が、繰り返すが、あとは非常にうまい。

韓国政府が昨年から、英語教師を、TEE 証明書というもので、格付け始めたそうである。TEE すなわち

teaching English through English

という意味で、TEE-M(aster と、TEE-A の2ランクがあるそうだ。

学校の定期試験には、韓訳はゼロ。なぜなら、統一試験にそんなものが出ないから、定期試験にもださないとのこと。

ただし、授業では、必要に応じて韓訳によって、理解させる、と。しかし、テストには出さない、と。それは政府も望まない、と。

すばらしい。

しかも、2015年を期して、全国的に大学入試としてスピーキングテスト(キューに対してスピーチを録音するもの)を導入する計画で準備をすすめている、そうな。

ますます差が開くな。

6/26/2011

KOREAN AIR の英語

今日、羽田からソウルに飛んできたが、機内で聴いたフライトアテンダントの英語、機長の英語は、いままで日本航空と全日空のどの便で聴いた英語よりも、まともだった。

韓国の英語力が日本のそれをはるかに凌駕してきているという事実の、これも小さな表れか?

6/25/2011

生徒の遅刻を怒鳴り上げた翌朝


石を投げたらその後に

 昔も今も私は遅刻に厳しい。遅刻はある意味で欠席よりも罪が重いからだ。欠席は単に本人が1時間分損するだけで周りに迷惑はかけないが、遅刻は授業の流れを妨害し周囲に迷惑をかける。

 福島高専での朝の1時間めの授業の場合は特に気合いを入れる必要があった。中学高校と違い、高専は事実上朝のホームルームがない。高校のように8時30分からホームルームがあれば、8時40分の授業にまで遅刻する者はそうそう出ないはずだが、放っておくと、学生は授業開始の8時40分を目指して登校してくる。しかも高専では英語などマイナー科目の筆頭なので、学生のやる気がちがう。よって、通常であれば朝の1時間めの英語の授業には開始してからばらばらと遅刻者が入ってくる、という状態になる。

 筆者の考えによれば英語の授業の成否を決める最大のポイントは、授業法がコミュニカティブかどうかではなく、全員が定刻に集まり、教科書を用意してあるような態勢(をとるような気持ちになっている)かどうか、である。

 そのようなけじめある雰囲気を高専で作り出すためには特に厳しい姿勢で臨む必要があった。まず遅刻であることをはっきりさせるために、8時40分の授業開始のチャイムが鳴り終わると教室のドアに内側から鍵をかける。コンサート等で曲の途中で入室できないのと同じである。ドアの外の気配で何人か廊下に集まってきたのがわかる。で、頃合いをみてドアを開け、中に入れる。この後はその場に応じてスピーチをさせたり、させなかったり、少し時間をとって説諭したりいろいろだ。ともかく、そのまま席に着かせることはせず、後ろに立たせる。座るためには自分で手を挙げて授業中の質問に答えなければならない。遅刻に対する抑止力にもなり、授業に集中させることもでき、一石二鳥である。

 ある日の3年機械科の授業で、あまりにも遅刻が多かったことがあり、授業を中断して話したことがあった。お前たちはプロの学生だろ。プロのサッカー選手が9時にキックオフの試合の場合に、9時を目指して会場入りするか?それで試合に勝てるわけがないだろ。着替えてウォームアップができる余裕をもって会場に来るのが当たり前だ。ぎりぎりに来る奴は最初から負けている!云々、という感じでかなり力を込めて怒鳴り上げた。聞いている学生の表情を見ているとまずまず反省かつ納得しているようだ。しめしめ、指導がうまくいった。これでまたしばらくは遅刻が減るだろう、と密かに満足してその日は帰った。

 で、その翌朝、前夜の夜更かしがたたったのか、布団の中で気がついて目覚まし時計を見ると授業開始まであと10分であることに気がついた時の筆者のあわてぶりは想像していただけると思う。昨日あれだけ偉そうに説教した自分が遅刻してはしゃれにならない。福島高専までは車で15分。こういう時に事故るのだ、と自分に言い聞かせながらマーチをふっ飛ばして学校につき、駐車場から直接3年機械の教室に駆け込む。8時54分。がらりとドアを開けると90の瞳が、不可解そうに、あるいはにやにやしながら筆者を見つめる。

 「済みません!寝坊しました!」嘘ついても仕方ないものね。「さあ、どうしてもらおうかな~?」という嬉しそうな声が上がる。そこでとっさに、「じゃあ、罰として後ろに立ってます!」と宣言。ちなみに言っておくといつでも授業はずっと立って行っていた。また幸運なことに高専の教室には後ろにも前と同じくらい大きな黒板がある。「と、いうわけで、今日はここから授業をするから、全員机を後ろに向けろ~! はい、Open your books to page 34.」「え~、何だよそれ、ずるいよ~」という声もなんのその、強引に始めて事なきを得た。

 石をなげたら自分の家を強化ガラスにしないと、というお話である。今でも1時間目の授業がある前夜は緊張する。

楽器指導でグルグル

小学校の音楽の授業でグルグルをやってみた、という教え子のレポート:


--


静ゼミで学んだ「グルグル」を何かの場面で小学校で試してみたいと思い、音楽の時間に挑戦してみました。

ピアニカの学習で、個別指導の必要性を感じたので、机と椅子を取っ払って全員で車座になってやってみました。

不器用な児童や不馴れな児童には指使いもしっかり教えられました。また、ピアニストの得意な児童には少し高度な課題を与え、挑戦させることができました。

何よりも、バズリーディングと同じ環境なので、苦手意識がある子にも周囲を気にせず指導ができました

ただ、低学年相手では、全員を見終わるまでには飽きてしまう子がいるので、1つの課題です。

何か良い案がありましたら教えてください。

--

初グルグル、おめでとう。

低学年だと難しいと思うけど、ひとりにかける時間を短くして、次の周回がけっこうすぐくる、というのがポイントなんだよね。

で、ひとりにかける時間を短くする、ということは、なるべく説明は不要な状態にしておく、ということで、そのためにはグルグルに入る前の、全体指導のところでできるかぎり説明は徹底しておく、ということが必要かと思います。

小学生低学年だと状況は違うのかもしれませんが。また教えてね。

6/24/2011

「手拍子と足踏み」の効果

the scientist who . . . のオーラルイントロを参考に模擬授業をやってみた学生からの嬉しい報告:

********************************************


靜先生

模擬授業、無事に終わりました。

最後の8分間位、全員を立たせて手拍子と足踏み付きでリズム練習をしました。

これが英語科指導法を受講している学生達は、新鮮に感じたらしく、「楽しかった」や、「ALTの授業みたいだった」と、言われました。

**先生も、皆が足踏みしていることが面白かったようです。授業中は、常に堅い表情をしている先生が、その時はずっと笑ってました。その上、「これじゃ、来週の模擬授業の人がやりにくくなる」と、おっしゃってました^

一人一人指名して、足踏み付きで発表させることを始めると、「やりたくない」と、言った人もいます。しかし、「私も一緒にやってるし、皆もやるから」と、言ったら渋々やってくれるようになり、 良かったです。

足踏みしない人や忘れた人には、もう一回最初から文を言わせるようにして、リズムを意識してやらないといつまでも終わらない雰囲気をつくることができました

私が、想像していた以上に、授業が盛り上がって良かったです。

*********************************************************************

よくやった!

その「雰囲気をつくってしまう」というのが大事だよ。

いいことなのだから、とにかく洗脳、洗脳!

あなたはきっといい教師になる、と思います。

Sherry is recovering very quickly.

She's okay now.

6/23/2011

the scientist who wrote "Silent Spring"

(↑中学の教科書のターゲットセンテンスの一部)

確認すると、

『沈黙の春』という本を書いた科学者

という意味だが、そのような科学者はひとりしかいない(=ひとりに定まる)ので、

the

が使われている。

Rachel Carson is the scientist who wrote "Silent Spring."

これに対して、

Rachel Carson is a scientist who is famous all over the world.

では、「世界的に有名な科学者」は何人もいるので、

a

になる。

以上のことを踏まえて、the .... who ... という表現を導入してみよう。(中学生を想定)

******

黒板に、Graham Bell, Isaac Newton, Rachel Carson, Charles Darwin の絵か写真を提示する。

Do you know them? Do you know these people?  Who are they?

Their names are Carson, Bell, Darwin, and Newton.

Which person is which?  Which is Carson?  Which is Bell? Which is Darwin? Which is Newton? Which is Bell?

Any guess?

といって、適当に当てさせる。

Yes.

This is Bell.  Graham Bell.  He is a scientist.

This is Newton. Isaac Newton.  He is a scientist, too.

This is Carson.  Rachel Carson.  She is a scientist, too.

This is Darwin.  Charles Darwin.  He is a scientist, too.

と種明かしをしたあとで、さらに

One of them wrote the book "Silent Spring."

といいながら、[ wrote the book "Silent Spring"] という紙を貼る。

One of them found gravity or 引力。

といいながら、[found gravity (引力)]という紙を貼る(以下同様)

One of them made the telephone.

One of them wrote about 進化論。

Which one?

Which is the scientist who wrote the book "Silent Spring"?

適当にあてさせた上で、

Yes.  This is the scientist who wrote the book "Silent Spring."

Rachel Carson is the scientist who wrote the book "Silent Spring."

以下同様にして、

Yes. This is the scientist who wrote about 進化論。

Darwin is the scientist who wrote about 進化論。

Yes. This is the scientist who made the telephone.

Bell is the scientist who made the telephone.

Yes. This is the scientist who found about gravity

Newton is the scientist who found about gravity。

と口頭で言ってから、リピートさせる。そして、さらに、

Which is the scientist who made the telephone? -- Bell is the scientist who made the telephone.

Which is the scientist who found about 引力? -- Newton is the scientist who found about 引力.
Which is the scientist who wrote about 進化論? -- Darwin is the scientist who wrote about 進化論.
Which is the scientist who wrote the book "Silent Spring"? -- Carson is the scientist who wrote the book "Silent Spring."

を質問に対して、適切な答えを言えるようなるまで練習する。

敢えて日本語で説明しない。

さらに、

Tezuka Osamu
is
the
singer
who
wrote Bochan
.
Mother Terresa
novelist
sings Girlfriend
Natsume Soseki
sister
produced Mighty Atom
John Lennon
musician
wrote Imagine
Avril Lavigne
comic artist
won the Nobel Peace Prize


というグリッドを提示して、友だちと相談しながら、正しい組み合わせを見つけさせ、口頭練習をする。

私なら、敢えて日本語の説明はせずに、多少の謎?と気持ち悪さを残しつつ終わるかな。

気になるなら、


坊ちゃんを書いた小説家
the novelist who wrote Bochan

鉄腕アトムを創りだした漫画家
the comic artist who produced Mighty Atom

という対比を示し、しかし、敢えて音声では日本語を言わず、英語だけをもういちど読み上げるかもしれない。

こういう字幕メソッド(視覚では日本語を示しながら、音声は英語を提示する)は、理解を確保しつつ、英語の授業は英語で進めている、という雰囲気を維持することができる。

べつに日本語言ってもいいけどさ。その場合は簡潔に。

どんなに長く、詳しく説明しても、どうせすぐきちんと理解はできない。なんどもこれから出てきて触れて、使っているうちに、わかってくる、くらいの構えが正解だ。


わかってもわからなくても、


the writer who wrote Silent Spring
       O              O      O       O


the novelist who wrote Botchan
       O                 O         O           O


the sister who won the Nobel Prize
       O            O           O      O


といった、リズム練習を強引にするのを忘れずに。その際、絶対、who に拍を置いちゃだめだよ。機能語だから。

で、

Who is the scientist, who is the scientist who wrote Silent Spring?
 O              O          O              O                      O      O        O        O

The scientist who wrote Silent Spring is Rachel Carson.
         O                O      O      O           O         O         O      O


みたいな、リズムQAもやるかな。(注: ↑どうやっても、◯の位置の表示がずれてしまうので、意を汲んでください)


そして、この時に、

「疑問詞の who と、関係代名詞の who と、一緒に出して、混乱しないかな?」

とかいう心配をする必要はないのです。

いいんです、混乱しても。

というか、もともと気分はいっしょだから。

the scientist.  その科学者

Who?  って、誰?

the scientist who?  どこの科学者?どういう?

the scientist who wrote "Silent Spring"  科学者。どこの誰かというと、沈黙の春を書いたあの。

という感じなので。もともと近いんです。

だんだん使っているうちにわかってくるじゃん、でいいのです。

それがいやなら、面倒くさい英語によるオーラルイントロなんかやめて、最初からガチガチ日本語でルールを説明するしかないね。

どっちにしても、導入よりも、そのあと、どのくらい練習量、慣れるためのトレーニングを確保するか(その時間内に、という意味ではなく、その後も繰り返し、繰り返し、という意味)のほうが、ずっと大切でしょう。









6/22/2011

評価を武器に生徒の壁になろう

からの抜粋)

最近,次のような高校生の話を聞いた。3年生のこの生徒は今必死に「受験勉強」している。コミュニケーション能力をつけることを目指す担当の先生が授業中に指名しても音読など一切しない。個人面談を行ったところ「自分はいま大学受験を目指して自分流で必死にやっているのだから,どうか放っておいて欲しい」と言ったという。

この逸話は,「本物の英語教育を目指す高校教師の実践が,大学入試の悪しき影響で妨害された」という典型であって,そこからすぐ引き出したなる教訓のひとつは、「だから大学入試が変わらねばだめなのだ」であろう。事実私も機会あるごとにそのよな主張をしてきた。

しかし、ふと疑問が湧いた。現場は本当にそれほど無力なのだろうか。生徒は大学に合格したい。だから合格につながることだけやり,そうでないことは極力排除したがる。これは彼らの立場からすればごくごく理にかなっている。生徒は大学か「合格」という評価を得たいがためにこのよな行動をとるわけで,つまりこれは「評価」の威力の一例だ。

だとすれば現場教師も「評価」の力を活用すればよいではないか。つまりこういうことだ。

大学入試に合格するためにはその必要条件として高校を卒業せねばならぬはずだ。高校卒業のためには授業で一定の成績を上げることが必要なはずだ。そして生徒に与える評価を管理しているのは他でもない現場の教師である。高校教師の評価は,大学受験生にとって第一のハードルであって,このハードルをクリアできなければ第二のハードルである大学合格という評価にはたどり着かない。よって先生の評価は少なとくも理屈の上では大学入試という評価に勝るとも劣らない大きな力を持つことが可能なはずである。

例えば,音読をしない/できない生徒が教室にいたとする。先生は音読の習慣技能は英語運用力の養成に欠かせないという信念を持っている。

そうであればその信念をそのまま評価に反映すればいいではないか。「私の授業では音読の成績を全体の20%にする」とか。それでも生徒が真剣にならなければ数字を304050%と,真剣になるまで上げてゆけばよいだけの話。

もちろん現実には英語科教員の姿勢がばらばらだというまくかないし,教科を超えての理解も必要だろう。さらに保護者がどう言うとか,それに対して管理職がどう出るとか,地域がどう評価するとか,そういうそもろもろの問題もあるので「言うは易し」であることは認める。しかしポイントは,「体を張る」ことにより,現場の教員は,少なくも理屈の上ではこれだけの影響力を駆使できる,というとだ。

高校・高専教員時代の私自身を例に出すと,「今回の最後の提出物を出さないと,今まで出した提出物もすべて無効にする」と言って全員出させた,か,と「日本語を一言もしゃべらないと誓約書を出して英語合宿に参加したのだから,自室で日本語をしゃべっていた者には単位はやらない」と言って80人の参加者全員に不可をつけた,などの「実践」がある。

残念ながら後の例は,数か月のすったもんだの挙句,最終的には校長命令で再評価させられた,というオチがある。しかし周囲の大人たちの思惑とは関係なく、当の生徒たちの私の「全員不可」処置に対する支持は間違いなく高かった。

体を張ることによ高校教員は大学受験生にとって第一の「壁」になることができ,入試という第二の「壁」より、むしろ大きな影響力を持てる。その影響力を活用して彼らをいい方向に導かないという法があろうか。


自分が壁になるのを恐れて何もせず,「入試があるから生徒が思い通りにならない」と言う教師は,応分の責任を果たしていない。

英語を受験科目から外せ!

と、おっしゃっていたわが師匠の若林俊輔先生の気持ちがよくわかる。

受験、受験と二言目には言い訳をするどうしようもない英語教師たちに愛想を尽かしていらっしゃったのだ。

受験の威力に(実は)守られている英語教員は、受験科目にない「非主要教科」の先生方に学ぶことがたくさんあるのじゃないだろうか。

受験があっても...

生徒の発音を少しでもいいものにしようと懸命に頑張る若い教師を、

「受験があってもそんなことやってられるの?」

などとくだらんこと言って足を引っ張る先輩教師を、私は許せない。

Top of the World ラップできた

大文字の音節を等間隔で発音すると、ラップになります。
1行に4拍。3拍のところは、最後にカラ拍。


SUCH a FEELing's COMin' over ME
there is WONder in MOST everyTHING I SEE

not a CLOUD in the SKY, got the SUN in my EYES
and I WON’T be surPRISED if it's a DREAM

EVeryTHING I want the WORLD to BE
is now COMing TRUE esPEcially for ME

and the REAson is CLEAR, It's because YOU are HERE
YOU’RE the NEARest thing to HEAVen that I've SEEN

I'm on the TOP of the WORLD lookin' DOWN on creAtion
and the ONly explaNAtion I can FIND

is the LOVE that I've FOUND ever SINCE you've been aROUND
your love's PUT me at the TOP of the WORLD

6/21/2011

受験に出る出ないは関係ない

「発音は受験に出ないから時間をかけられない」

とか

「スピーキングをやる時間はない」

とか、を過度に言い過ぎる、考えすぎる教員は、公教育の「学校」の教員の資格はない、と私は思っている。

補習塾や予備校の教員とは違う。

数年前、受験にでないからといって、やらねばならない世界史を履修していない高校が多かった、という世界史未履修問題があったが、受験にでないコンポーネントに力を入れない英語教師は、これと同レベルにひどい。

世界史の知識は人として必要だから勉強するのである。

英語のスピーキングも人として必要だから訓練するのである。

受験に出る、出ないは関係ない。

すべての大切なことを受験に出せるわけではない。また受験にでないことのすべてがどうでもいいわけではない。

こんな当たり前のことが分からないのは、情けない話しだ。

大切なことと大切でないことを自分で選択して生徒に与えてやることを放棄した、思考停止人間である、と私は思う。

学校の英語教師が単なる受験請負屋であっていいはずはない。

中学は予備校ではない。

高校は予備校ではない。

とはいいつつ、ある程度、予備校の機能も兼ねなけれればならない現実はあるが、それはあくまで「兼ねる」のであって、第1義的に予備校であるわけではない。

突き詰めたところは、学校は予備校ではないのであって、受験に出る出ないに拘らず、必要と判断されることを与える場なのだ! と突っ張れなければ学校教師ではない、と私は思っている。

そうでなければ、受験に出ない教科をやる必要がない、ことになってしまう。冗談ではない。

スピーキングもリスニングもリーディングもライティングもすべて含めて、英語運用力を総体的に伸ばした結果、受験にも受かる、という方向に考えるべきだし、また実際そうすべきなのである。

そしてその一方、「受験」問題を作る側の人間(=大学の人間)は、受験に照準を合わせて必死に準備すれば、本来伸ばすべき能力、知識、技能が伸びるような試験問題、テスト形式をつくってゆくのが、社会的、教育的、倫理的責務である。

食物連鎖の(とりあえず)一番上にいるからには、それなりの責任が伴うのだ。

6/20/2011

中上級者、とくに L に注意

LとRの話になると、「LとRとかそういうことばかりでなく..」という言い方で、downplay する人も多い。

それはその通り。

ただし、それは as long as the person making the comment is always producing those two different sounds distinctively. である。

先日も英語のよる研究発表を聞いた。かなり達者な英語で、原稿を読むのでなく、その場その場で適切な単語を即座に探しながら、余裕をもって「語る」ような、レベルの高い英語だ。

が、Lは半分以上がむしろRに聞こえる音になっている。

英語教師がそれでは、やっぱりアカンでしょ。そして聞いている私は「英語教師」なので、発表の内容にたいするのと同じくらいの注意を、つねに発表者の話す「英語自体」にも向けている。発音、アクセント、表現、文法、その他。

Rはもう自動化されている中上級者に、Lがいい加減な人が非常に多いことに気付かされるきょうこの頃、というか近年。

まあ1ユーザーとしてはともかく、英語の教師がそれでは誰が何と言っても駄目だ。

From intermediate to advanced level JEFL speakers should pay more attention to the quality of their Ls, rather than of their Rs, properly.

選挙を立てるな!

女子大の「日本の政治の仕組み」をテーマにしたライティング授業で、

Mr. Tanaka is running in the election.

や、

Japanese elections cost a lot of money.

などの文でグルグルをやっている時、複数の学生が、なんど注意しても

eLection



eRection.

と発音するので、意を決し、

「だ~か~ら~ electionはきちんとLで言えっていってんだろ。そうしないとシモネタになるんだって! electionは選挙! erectionはボッキ! ボッキボッキ言ってんじゃねえよ!」

と一喝。

少なくとも印象には残ったであろう。

明らかに何人かは、今までよりことさらしっかりと舌先を歯茎につけよう、と努力してLを発音しているのが感じられた。

しかしその後も、どうしても erection と発音するヤツもおり、...

「バツ。それはあっちだから...」

選挙は一日にしてならず。気長にやるしかない。

A new member of our family

Sherry came to our house to light up our days.

6/19/2011

人の授業(ばかり)を見るな

これは異論のほうが多いだろうとは思う。

が、以前から思っていたこと。

駆け出しの頃ならいざしらず、教師として5年くらいたったなら、いたずらに(←いたずらに、がポイントね)他人の授業を見たり、他人の実践報告を聞いたりしないほうがいい。

しないほうがいい、というか、そうしないと自分の授業の改善ができない、と思っているのは、プロとして情けないのではないか。

情けないし、その頃までには自分のスタイル、俺流、私流英語授業 をあるていど確立して欲しい。少なくとも自分の教え子にはそうなって欲しい。

Reinvent the wheel. (車輪を再発明する)

という表現がある。車輪がすでに世の中に出回っているのを知らず、苦労して自分でそれを発明する、という意味の、「無知からくる無駄な努力をすること」をネガティブに表現したものだ。

だが、独力で車輪を構想して発明できたなら、それはその人は非常にすぐれた人間だ、ということだろう。

科学技術の世界では、確かに Reinventing the wheel. は時間の無駄である。それは他人の成果の上にたって、次の段階に進む、という時間とともに進歩することが明らかだからだ。

しかしそれは我々の世界、英語教育、もっと具体的に言うと、英語の授業、には当てはまるとは私は思っていない。

一人ひとりがゼロからの出発なのだと思う。

明治時代の英語の授業も、22世紀の英語の授業も、基本はまったく変わらないのだと思う。

ずいぶん前に、英語教育雑誌に寄せた小論の結論として、次のように書いたことがある。

「(我々の仕事は)単語を教えて、文法を教えて、あとはどんどん使わせるだけ。他に何かありますか?」

この基本はいつの世も変わるとは思わない。

そうしたとき、他人が発明した「車輪」を単に「パクった」人と、独力の試行錯誤のすえ自分で「車輪」を発明した人では、どちらかその「車輪」を本当に我がものとして使いこなせるか、は明らかだと思う。

だから私は自分の教え子には、ひとりひとりが、車輪を独力で発明して欲しい。

研修マニアにはなって欲しくない。

他人の実践、他人の意見、に影響され過ぎる人間にはなって欲しくない。

英語授業の真実は、自分の教えている教室の中に落ちている、と考える人間になってほしい。

恩氏の故・若林俊輔先生の pet phrase に、

「教わったように教えるな」

というものがあった。自分が中学・高校で教わってきた方法はダメだから、それを踏襲して自分の生徒を教えるな、という意味だ。

教師になってから5~10年くらいたったある日、何かの折に、先生が目の前にいる私のことを他の誰かに向かってコメントするとき、

「こいつ(この野郎?だったか)は、『教わったように教えるな』を実践していやがる(笑)」

と苦笑しながら仰ったことがある。

これは、「こいつは、オレが大学で英語はこう教えろ、と教えたことと違う(というか逆らうような?)、独自の方法で、自分の生徒を教えていやがる、小憎らしいやつだ」という意味だった。

先生のこのコトバは何よりも嬉しかった。そして若林先生も、自分の教え子が「俺流」を確立してやっていることを喜んでくれたのだ、と私は思っている。

だから私は自分の教え子にも、靜流を超えて、自分の流派を創りあげて欲しい、と思う。

しんどいクラスは素晴らしい

しんどいクラスこそ、教師の授業力を鍛えてくれる。

授業方法のレパートリーを広げてくれる。

オモリをつけて泳ぐ練習をしているようなものだ。

筋肉が発達して、普通に泳ぐのは楽々になる。

A difficult class, or more precisely, a class that you find is difficult, is actually a blessing that trains your teaching skills.

英語は決して早口コトバではない

1年生が最近書いたペーパーに書いた文で印象に残ったものふたつ:

(1) I thought English was only rapid talking.

要は、高校時代までは

I was made to believe that getting proficient in English meant learning to speak the language rapidly.

ということだ。

彼も、やたら早口でデタラメ発音英語をしゃべる、という状態で、「自分は英語ができる」という錯覚とともに入学してきた。

そして今、多くのクラスメートと同じように、英語の音の作り方を一から学び直す、というシンドイ作業に取り組んでいる。G と Z の違いも知らなかった自分に愕然としながら。高校までに自分が受けて来た授業に対して憤りを感じつつ。

大きな声で読め、元気よく読め、早く音読しろ、シャドウイングしろ、というアバウトな音読指導の罪をいまさらながらに痛感させられる。

音を度外視した音読指導などヤメてしまえ!(というか、音読指導は音を重視して行え!)

(2) Many English teachers think that what they say is more important than pronunciation (with which they say it) in order to justify their and their students' bad pronunciation. I do not want to do the same thing.

こちらの学生も必死に自分の発音改善に取り組んでいる最中だ。そして必ずやいい英語教師になってくれるだろう。

6/18/2011

Don't Stop Believin' マスターする

学生にリクエストされた、Don't Stop Believin' (Glee) をマスターした。



believing, feeling の /l/ の響きを練習するのに好適な歌だ。

レパートリーを増やすには学生に希望を聞いてみるのが一番である。

発音練習一体型単語スペリングテスト

英語苦手な生徒が多いクラスでも使える「発音練習一体型、単語スペリングテスト」を紹介します。

単語リストがあるとします。教科書の新出語の欄でもいいです。

まず、適当な数の単語の意味を(再)確認しつつ、フォニックスを意識させながら、全体リピート形式で発音練習します。

「適当な数」は生徒・学生のレベルによって調整します。

最低は2つ、最高は5つくらい。

で、その数個の発音練習が終わったらすぐ教科書を伏せさせ、教師がたった今練習した数個の単語の中から、訳語で1語を指定して、それに相当する語のスペリングを書かせます。

書き終わったら各自すぐ答えを見て、採点。1語1点。

すぐに次のセットの意味確認と発音練習に移ります。

これを、適当な数のセットぶん、繰り返します。これだけ。

テンポを作り出すポイントは、

(1)ちょっとチャレンジングな位の数の単語をセットにする

(2)書けても書けなくても、各自のタイミングで正解の確認と赤ペン入れ、に移らせる。(書けなかったら正しく赤ペンで書く)

(3)早く終わったら数秒間でも、次のセットの単語をじっと見ていて良いことにする。

ですね。それから、

(4)きちんとひとつひとつの音と綴りの対応関係を意識させたうえでスペリングを書かせる

ことも大切です。特に下位の生徒は、音を度外視してむやみにスペリングを丸暗記しようとする者がいるので、その無駄な努力をやめさせてやるのが大切です。

結構汎用性があり、単語でなく、フレーズにする、などのバリエーションも可能です。


意味を理解して満足してはダメ

(授業を取っている学部生に送ったメール)


みなさんは毎週、英語のペーパーを書くのに苦労していると思いますので、ヒントをひとつ。

英語を書く時になってはじめて、書くことを考えているのでは上達には限界があります。

ふだんから英語を聞くとき、読むときにも、つねに「書くこと、話すこと」を考えましょう。

例えば、ある文章を読んですらすらと意味が取れるとき、意味が取れたことだけで満足していてはいけません。すべての単語を知っていて、書いてあることが簡単に分かっても、立ち止まって自問しましょう:

「この単語はすべて私は知っている。しかし、果たして自分はこれらの単語をこのように使いこなして表現できるだろうか?

答えは多くの場合、No のはずです。つまり、単語は知っているのに、そのようには使えない自分がそこにいるのです。そこで始めて、「自分でもこの単語をこのように使えるようになるために、この表現を心に留めよう」という、

書き手(話し手)としての視点

が生まれるのです。

日本人が英語を使えるようにならない大きな理由のひとつは、「英文を読む(聞く)時、意味をとろう、意味をとろう、に集中するあまり、その意味を表現している語句自体を身につけよう、という努力をしないこと」にあります。

ですから、これからは、何かの英語の文章を読む(聞く)時、意味がわかるだけで満足せず、つねに、writer としての目、speaker としての目を持って、表現を盗もう、というつもりで読んで(聞いて)ください。

この意味では例えば、中3・高1レベルの教科書や、英検3級・準2級程度の問題も大いによい教材です。このレベルの理解に困難を覚える人は、みなさんには少ないでしょう。

しかし、みなさんの中に、このレベルの英文を自由に正しく書ける、話せる人も、また少ないからです。

要は、reception をしながらも、常に production のことを考える、ということです。

ネイティブの先生の話を聞いている時も、ふむふむ、わかる、わかる、と満足しているのは第1歩にしか過ぎません。「なるほど、あんな単語をあんな風に使うのか。こんど真似してみよう」という心構えで、聞く、のです。



昔から、英作文は英借文と言います。スピーキングもまた然り、です。


Whenever and whatever you read, read it from a view point of a writer, always asking yourself, "Can I use these (simple) words in this way? I am familiar with all of these words, for sure.  But could I have combined them to produce these phrases and sentences?"  If the answer is No, that is your chance to expand your active vocabulary.  

終わった範囲はどうでもいい。何ができるか、が問題。

「決められた範囲を終わらせる云々」「範囲が終わらないから云々」ということを言う教員は非常に多い。

範囲が終わる、って何だろう?

身につけるべきスキルが身につかないのに、単元だの範囲だのを「終わらせる」ことに何の意味があるのか?

ない。

そういう姿勢では1年たっても3年たっても、マトモな英語が使える生徒が育たない。いや、3年どころか、そういう姿勢だからこそ、6年やっても10年やっても英語が使えるようにならない。

他人が一般向けに作った教科書の単元を単に「終わらせる」より、自分の目の前の生徒が「できる」ようにならせてやることのほうが、ずっと大切だろう。

そんなに「終わらせる」のが気になるなら、前から言っているように、1年の最初に、教科書のすべての本文の丁寧な解説と和訳とCDを与えておけ。それなら最初から「終わっている」だろう?

その上で、教室では、対面のコーチングでしか向上しないスキルに集中して、ひとつでもふたつでも「できる」ようにしてやれ。

「範囲がどうの、終わらせるのどうの」ということを二言目には言う教師は、何かを根本的に考え違いしている。

目の前の生徒を見ろ。

私は、知識の量はその時は少なくても、まず、ひとつでもふたつでも、マトモに言えるフレーズを持っている生徒を育てたい。



ふたつマトモに言えれば、3つ目もマトモに言える。3つマトモに言えれれば4つめも言えるようになる。そしていつか100でも1000でも言えるようになる。

しかし一つのフレーズもマトモに言えなければ、知識量が100あっても1000あってもマトモに言えるフレーズはただの一つもない。


それが、今現在ほとんどの、「英語が使えない日本人」の実態。

「範囲が終わる、終わらない」を死語にしよう。そんな見せかけはどうでもいい。何ができるようになっているか、いないか、が問題なのだ。

「やったか、やらないか」はどうでもいい。「なにができるようになったか、なっていないか」こそが問題なのだ。

What you have and have not (merely) COVERED does NOT matter.  What DOES matter is what you have enabled your students to DO. Learning a language is not about what you KNOW. It's about what you CAN DO.





6/16/2011

犯罪は起こってから取り締まるより、抑止するのが大切

proactive という語があります。問題が起こってからそれに対処するのが reactive
なら、問題が起こるまえに、それを予防するためにするのが、proactive な行動です。

で、proactive 発音指導の一例:

状況: 各自、自分の考えを50語くらいで書いてきています。そこで、全員立たせて、自分の書いた英文の中で、

/r/を含んでいる語

とか、

thを含んでいる語

とか指定して、それを手を上げて発表させます。もちろんきちんと発音して。

ひとり発表するごとに、必要に応じてモデルを示し、みんなでリピートします。

この作業をやったあとに、ペアでその「考え」を相手に言う、という作業に入ります。

歩きまわって耳を澄ましてみると、すくなくとも自分で発表した語については注意して正しい発音で言うようになっています。

これを繰り返すと、徐々に他の語も直っていくでしょう。

6/15/2011

スラッシュ書き取り自己採点テスト、グルグルつき

きょうは「スラッシュ書き取り自己採点テスト」を紹介します。

適当な長さのパッセージ(たとえば50~70語くらい)を選び、あらかじめ、教師が指定した箇所にスラッシュを入れさせます。

チャンクの長さは、学生のレベルによって調整します。read and look up でいっきに言えるようになってほしいな、くらいの長さにします。

で、テストの始まり。

生徒は各自、そのパッセージを紙に書き写すのですが、その際、ひとつのチャンクをじっと見て、working
memoryにいれ、よし、となったらその記憶をたよりに書きます。チャンクの途中で答えを見てはいけません。

ひとつのチャンクが書き終わったら、もしくはもう書ける単語がなくなったら、答えを見て、赤で1語ずつマルをつけます。その際、もちろん書けなかった語は補います。

これを各自のペースで最後まで繰り返し、終わったら自己採点します。

もちろん、スピードがばらばらなので、早く終る生徒もいます。

その生徒は今度は立って教師の周りにあつまり、いま書き取ったチャンクごとの、グルグルを始めます。きちんと言えたら1チャンク一個10点とか5点、とか。これなら遊ぶ学生はいません。個人差にも対応できます。

6/05/2011

「個に応じた指導」なんてイラン

前のポストの彼女の最初の状態もそうだけど、「生徒一人ひとりに合った学習方法があるから..」とかいうフザケタ考えが跋扈(ばっこ)しているのが、非常に良くない。

まあ多少は個人差はあるとおもうけど、そんなことを学校の教師の側が気にすることはまったくない。40人ひとりひとりに合わせることはできないし、必要ない。

教師は自分のプロとしての経験とカンに基づいが「これがベストだ」というものを、自信を持ってクラス全員に有無を言わせずやらせるのが一番よろしい。

全員A定食を食わせる。なぜならそのA定食がほかのアラカルトよりも効果があるから。

というか、それが出せないならプロの資格はないでしょ。

右を向け、と言ったら生徒全員に右を向かせる。

それが一番大事。

「個に応じた指導」は教師の自信のなさの言い訳。

6/04/2011

嫌がられることをする教師は...

私の大学院の集中講義で、苦手意識のある英語の歌を全員の前で歌うことを強制された大学院生にもらった、嬉しい感想:

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最初に一人ずつ歌を選んで歌うという課題を知り、ショックを受けました。リズム感もなく音痴な私は、あの課題を知った時に受講するのをやめようとまで思い詰めました。日本語の歌でも嫌なのに自信のない英語で歌うなんて、それほどまでに私にとっては苦痛だったのです。

集中講義では丁寧に、そして根気強く英語の発音を直していただいて、すごく勉強になりました。初めて私の発音を訂正してくださる先生に出会いました。

しかし刻一刻と近づく私の歌の披露・・・発表の前日はずっと研究室で夜中までアカペラで歌う練習をしていました。辛くて、うまくできない自分が悔しくて涙を拭いながらの練習でした。

こんなにもいろいろな思いを抱えて英語の歌のアカペラに臨んだのに、発表はもう緊張してどうやって歌ったのかはしっかり覚えていません。しかし歌の発表を通して辛いことから逃げないという基本的なことを、身をもって学んだのは確かです。

私は生徒一人一人に合った学習方法があるのだから、生徒が嫌がることをするのはよくないと考えていました。しかし今回の集中講義を通して“「嫌がられる」ことをしてやるのも仕事”“ 生徒に対する迎合は何も生まない”という先生の言葉を痛感しました。人間的にも成長できましたし、リズムに合わせて必死に歌う練習ができました。

まだアカペラで英語の歌を歌う自信はついていませんが、靜先生の授業を受けてから自分でも歌えそうな歌があれば歌詞を見てシャドウイングをするようにしています。私の人生の中で一番インパクトがあり、そして濃い授業でした。ありがとうございました。

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よくガンバりました。私の辞書では、教育の本質は強制矯正だからね。



6/02/2011

教育実習で実感した教師の責任

教育実習生からの嬉しい報告:

実習を通して正しい英語を正しい音声で話す事の大切さを改めて実感しました。生徒(特に1年生)は教員の話す英語をきれいにコピーして、きれいに真似してrepeatしてくれます。だからこそ教員はきれいな英語で話さなければ生徒の英語力も伸びないとかんじました。

また、正しい英語を正しい音声やイントネーションで話す事は生徒からの信頼や尊敬を得る事にもつながると思います。「やはり先生はすごい!」という印象を生徒に持たせる事で生徒の英語に取り組む姿勢も変わってきます。

今までも正しい英語や音声は大切だと思っていましたが、今まで漠然と思っていた大切さが、今回実習を経験させていただいた事で現実味を帯びたものへと変わりました。



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まったくその通り。中学1年でどういう教員に当たるかで、その生徒の英語人生は大げさに言えば決まってしまう。我々の仕事はそういうコワイ仕事だ。だからまた、とてつもなくやり甲斐もある。

「コミュニケーション活動」を暇つぶしにしないためには

『「コミュニケーション活動」という名の暇つぶし』

と書いた。が、誤解してほしくないのは、「いま世間でやっているほとんどの」という意味で「 」をつけてあることである。

communication activities は、ようするに手の込んだペアワーク(もしくはグループワーク)なので、別に特別な活動ではない。

暇つぶしになってしまうのは、教師の「元気よくガヤガヤ声を出していれば成功している」という馬鹿げた姿勢のせいである。

きちんとした音声でここまでのレベルでパフォームできて初めて満足なのだ、という基準を明確に撃ち出して、その基準の達成を厳し求める、という姿勢さえあれば、暇つぶしでなく、英語運用力の向上に大きく役立つ。 当たり前だが。

6/01/2011

虎の目、竜の耳

いい授業を見た。

中学1年。

教師が生徒を睨んでいる。虎の眼だ。生徒全員の口元を観察してVの発音を正しくしているか、見ているのだ。

一斉音読の生徒全員の声に耳を澄ましている。なかにひとりでもおかしな発音をしている子がいないか、聞き分けようとしているのだ。竜の耳だ。

個人指名して読ませる際も一切妥協はしない。きちんといえるようになるまで、3回、4回、5回、「もっかい、最初から!」

それで諦める生徒はいない。教師が諦めないからだ。そして、6回目、7回目には、きちんとした音が出せるようになってゆく。Japan が言えるようになる。college が言えるようになる。college と courage の違いが言えない英語教師も決してめずらしくないのに。

教師が生徒の心をがっちりつかんでいる。生徒は教師に憧れている。

教師が高く上げた右手の指先に全生徒の注意が集まる。オーケストラの指揮者だな。

生徒はみるみるうまくなっていく。

きちんとした英語らしい発音ができるようになっていく。生徒は嬉しそうだ。楽しそうだ。楽しくないわけがない。自分が上達するのがわかるのだ。そしてまた先生が満足そうにOKと言ってくれるのが嬉しいのだ。

簡単にOKがでないからこそ、OKが出たときに歓びが大きいのだ。誰でももらえるOKじゃないからだ。

教師はリズムをとって身体を揺らす。生徒もそれを真似して腕をたたく。

机と椅子をすべて教室の中央に寄せて、グルグルが始まる。何周も何周もする。自分の番を待つ生徒は男子も女子も、大きな声で、友だちと話しながらも真面目に練習している。そしてOKをもらうと大喜びでガッツポーズだ。時折、教師は、全体に必要なフィードバックを大きな声で与える。

みるみるうまくなっている。

生徒はみんな必死で努力する。そして楽しそうだ。

準備に時間ばかりかかって益の少ない、例の「コミュニケーション活動」という名の暇つぶしなどはない。おなじ「うるさい盛り上がり」でも、なんという英語の質の違いだろう。

こういう教師に教えてもらえる生徒は幸せである。