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11/29/2011

ネッシー授業ビデオの感想

私が高校1年生相手にやった出前授業(教材は、ネッシー)のビデオを見て、英語科指導法Bの学生が書いた感想です。下線部は、私が大切だと感じた部分に付したものです。

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 視聴しながら、自分が高校生の時に受けたリーディングの授業を思い出し、いかにつまらなかったかと思い知らされ落胆した。教材のCDの使い方も素晴らしい。なるほど、パワーポイントで1文ずつ流すのか。私が高校一年生の時の授業で教材CDを聞かされ、長いし眠いしで聞いていなかったのに、その内容についての質問(英語)で指名されたが当然答えられず、私が答えるまで何分間も放置・・・。あのシーンとした空間が辛かった・・・。あのCDから質問まで、なんと無駄な時間だったことでしょう。靜先生の授業では1文ずつなので集中して聞いていられる。そして内容について英語で説明を受けるので、内容を理解しながらリスニングの練習にもなる。生徒の理解を深めるために適宜日本語を織り交ぜてくれるのが嬉しい。(小学校英語などで終始英語で進めている授業をみて、子どもたちの身になっていないのを感じていた私にとって、靜先生が日本語を織り交ぜて授業を進めていることを知って救われた気分です。)パワポでは日本語を先に提示してしまってよいのかと初めは思ったが、先に短時間で理解してから英語の構成を見て理解するという方法に納得した。発音指導に関しては私も現在塾で小中学生に指導しているが、中にはいくら舌や唇を見せても真似できない子もいる。確かに高校生は大人になると自分のやってきた方法を曲げられず真似が難しくなるだろう。バツなモデリングもすることで、正しい発音を意識しやすくなるというのは納得した。erarの綴りによる発音の違いをぱぱっとホワイトボードに書くだけで、生徒の記憶に残るだろう。最後に先生がおっしゃっていたように、教材すべてでなく短くても、繰り返し練習させてリズムや強弱の付け方、間の置き方などを身につけさせるということが重要だと感じた。この感覚を身につければ、他の文章でも応用できるようになるだろう。また、一つの単元における靜先生が用意された教材の種類の多さに驚いた。これほどいろんな角度から練習すれば、生徒たちも楽しく、集中して授業をうけ、そして必死に練習し、授業の終わりにはうんと力がついているに違いない。


 見ていて思ったのが、まず生徒が楽しそうに授業を受けていたことである。先生がきちんとした発音をすることで生徒に注意しても説得力があり、間違っているところは間違っているときちんと指導していた。
自分が教育実習でしていた授業と決定的に違ったのは、生徒のしていることである。自分の時は生徒にドリルをやらせたり、それについての答え合わせをしたりという授業もあったのだが、ビデオの授業では生徒はペンを握っていなかった。しかし文法や内容理解についての学習をしていないわけではなく、文ごとに分けたパワーポイントを見せて、それを音読することで生徒にしっかりタスクを与えられていた。ペアワークもいきなり当てることで緊張感をもたらせていたように思った。
単にさせるだけではつまらないような音読でも、発音を細部までこだわって教えたり、SKNのリズムに乗せて音読させたりすることで楽しさや意欲を掻き立てることができていた。
 大事だと思ったことは、教師が生徒に何をさせるかということである。教師が何を教えるのかももちろん大切ではあるが、何を生徒にさせて、そこから何を学ばせることができるかがもっとも大切なのではないかと感じた。

靜先生は生徒の発音が間違っていると、全体でも個別でもすぐに直しているのが特徴的でした。もし自分が高校生の立場だったら「嫌だ~指さないで~」という気持ちになると思います。でもそれは自分の発音に自信がないからで、靜先生の厳しいチェックで少しずつ発音が美しくなっていくのは本人のためになり、自信をもって英語を楽しく話せるようになると思います。私の高校時代は、発音の指摘などほとんどなかったので、たとえ知識やスキルを身に付けても、発話することは恥ずかしかったです。常に苦笑いしながらALTと話していた気がします。その点、発音を直してもらっている先生の生徒さん達が羨ましかったです。英語の発音は、まさに知るは一時の恥、知らぬは一生の恥です。今のままだと一生の恥派になりそうなので頑張ります。40人中10人が発音を間違っていたらそう聞こえると先生が講義の中で教えてくれましたが、ビデオを見ていて私にも聞こえました。聞こえたら正しくなるまで直すことを心がけます。また短い教材で繰り返しやって音読の仕方をトレーニングすることも、生徒の集中力を持続させるために必要とおっしゃっていましたが、慣れ親しんだ教材をどう攻略するかは集中力があがるしゲームのようで楽しそうだなと思いました。私が授業を行う際は教師として発音をしっかり身に付け指導できるようにし、CDの音声と教師の肉声の使い分けをします。



 英語の授業であるから、英語を生徒がたくさん話している授業でよかった。もちろん、多くの生徒が理解していないようであったなら、補足的に日本語を用いて説明することも大切であると思う。発音の指導として、全体で注意点をいい練習してから、個別で発音させ、そこでも指名した生徒の発音に対して、きちんとフィードバックして、さらに、全体でもう一度発音練習をするという流れが良かったと思う。
 パワーポイントで、本文を見せる時に、先に母国語である日本語を見せて、内容を理解させてから、その日本語にあてはまる英文を見せるという流れも良いと思った。先に日本語訳を見せたほうが、生徒にとっても、本文の内容が頭に入ってきやすいと思う。そして、さらに英単語の補足として、先生が生徒にも分かりやすい英語で説明を付け加えてあげることで、その英単語の意味も理解しやすいと思う。
 授業前に予習するというのは、日本語訳をやってくるというものしか、私は経験したことがなかったが、ビデオ(指導法の授業も)では、日本語訳が書いてあり、そこに対応した英文を書き写すことである。そして、予習してきたことを、日本語訳であれば、ある一人に発表させるだけであるのに対し、このプリントであれば、ペアワークなどで、全員が英語を学習することができ、効率がよいと思った。
 最後に、一時間の授業で、進めるだけやたらに進めるのではなく、Part 1 など、一つのまとまりに特化して、練習させることが大切である


教師がポンポンパタンを言ったり、口の形を見せたりしてから重要な単語の発音をしてもらっていた。また、生徒には机をたたきながら拍をとることや手振りを入ながら発音することを促していた。イメージ作りやリズムを大切にしながらの指導は大事だと思った。そして、その際すべて生徒のほうを見ながら音読指導を行っていることが基本だけれども要になってくるなと思った。視線の配り方、音源やパワーポイント(音声まで組み込まれている)の使い方のテクニックがすばらしく、さっと当てられるので緊張感のあるメリハリがある授業だなと感じた。最終的にはCDの音声についていくことを目標に、その前の練習を教師の肉声でしていたようだが、練習の際大事だなと思ったのは「よく聞いて」「比べてごらん」など適宜声をかけることだ。例えば、Monsterの“ster”は“star”とは違う発音であることに注目させていた。これは分かりやすい例だと感じた。全体で音読して、ひっかかるところがあれば小刻みに止めて、すぐに自分の英語で、より分かりやすい発音で繰り返していた。気付いたらすぐ訂正をすること、より分かりやすくすることがポイントだなと感じた。最後に先生が「40人中10人でも「The」を「za」と発音していたり、「L」と「R」の発音を区別できていなかったりしたら一斉にやっても絶対に聞こえる。」とおっしゃっていたように日本人が間違えて発音しやすいところなど誤った発音に気付けるように意識していきたい。


授業が始まってからまず思ったのは、先生がよく褒めていること。生徒の発音が良かった時に「いいねぇ」という一言をいうことで、生徒に自信がつき声が大きくなっているように感じた。また、ポンポンパタンを言わせる場面では、初めは言うのを恥ずかしがっていた生徒が多数だったが、先生の表情が真面目で堂々としていれば生徒も自然とついてくるものだなと感じた。また、前回の授業中に靜先生も言っていたのだが、例えば「th」の発音をさせる時に必ず「ザ」という発音をする生徒がいる。これは、日本人によくあるミスで絶対にそれを発音する生徒がいるはずである。だからこそ、教師はそれを聞こうとするべきだという。半年間だけの授業を受けて来た私が、この授業での「ザ」は聞こえたのが嬉しかった。「ザ」以外にも「L」や「R」の区別がはっきりと聞こえるくらいのレベルになりたいと思う。
 また、先生が発音したあとに生徒に発音させる活動で、初めはなれていない生徒もいるので2回ずつの繰り返しをしていたのが効果的だったと思う(先生が2回発音したあとで生徒が2回発音)。また、先生の肉声とCDの音とは全く別ものであることは、教師が理解し、区別しなければならないと分かった。肉声の長所は好きなところで区切れるところであるので、それを利用すべき。反対に、CDはネイティブの流れるような発音がされるので、肉声での練習のあとにCDを聞いて文を読んでみると良い。また、発音の難しい(間違えやすい)単語の発音練習の際には、よく間違える発音を対象にもってきて、「比べてごらん」という一言を添えて、考えさせると良いということも学んだ。
 何よりも、ここまで中身の濃いことができるのは一つのユニットを1時間かけてやるからであると感じた。



 英語の授業において私が重視すべきだと考えるのは、英語を単なる受験科目として認識させるのではなく、はっきりとコミュニケーションのツールとして生徒たちに教えることであると考える。今回の英語授業のビデオは、生徒たちは英語を勉強しようというよりは身につけようとしていたように感じた。静先生の発音に耳を傾け、真似をしようとしていたのがはっきりとわかった。静先生も注意すべき発音は自分の口をしっかりと生徒に見せて、視覚的要素も指導に入っていた。そうすることで、生徒の関心は自然と先生に集まり、ほとんどの生徒の顔が下を向かずに顔を上げ、なおかつ先生に注目しているという私の母校の英語授業ではありえない光景が生まれていた。また、個人的に発音を確認していく指導も行われており、これについて私は非常に重要なことであると考える。個人的にチェックされることを生徒が知れば当然okをもらおうと努力をする。その一種の緊張感がいい刺激となり、生徒たちの英語力の向上につながる。教師からの一方通行型の英語授業の場合、ただ鉛筆を動かすだけで、さほど緊張感のないまま授業が進行してしまう。教材の中身を生徒に印象で受けるとともに、実践できる英語を身につけることができる授業であると感じた。



ここで、指導のポイントを4つほど教わりました。
 1つは、CDの音読と教師の音読との使い分けです。最終的には、生徒にCDのような音読をしてもらいたいわけですが、いきなりCDを聴かせてもできるはずがないので、その橋渡しとして、発音やイントネーションなど、意識すべき箇所を教えるために、教師による音読が必要、とのことでした。私の友達の中には、「教師が発音できなくてもCDがあるじゃん」という意見の人もいましたが、これにより、この意見は間違っているのかもしれない、ということに気づきました。
 2つは、馴染みのある語ほど、CDの音声を聴いても発音などの間違いに気づかない(famousmonsterなど)ので、教師が間違いに気づかせてあげないといけない、ということです。
 3つは、とにかく体を動かしながら英語を言わせる、ということです。
 4つは、これが一番印象に残ったことですが、短い部分に絞って「音読の仕方」をみっちりと伝授することです。こうすることにより、やがては生徒自身が「ここは強調して読んだほうが良いな」などという‘感覚’が育てられます。私は最初、「この授業、音読指導しかしてないじゃん。これで良いの?」と思っていましたが、そのような狙いがあるということを知って、納得しました。全ての文章をテキトウに音読するよりずっと良い、という考えはとても良いと思います。
 最後に1つ、一番初めにfresh water lake の部分を指導したときは、freshだけを上がり口調で読んでいましたが、SKNトレーニングではfreshlakeを強調して呼んでいたので、lakeはどういう風に読めば良いのだろう、というのが疑問に残りました。
(回答:適宜です。両方ありえます)

 
単語や本文の内容を説明する際に常に先生がEIYOWしていることが印象的でした。単語を読む前にポンポンを言わせてしまうと正しいアクセントで言えるというのを実際に見ることができ、工夫次第で生徒のパフォーマンスを引き出すことができるんだなと改めて実感しました。今まで教員はCDと同じようにしゃべれるようになればいいとだけ考えていましたが、CDと教員の肉声を必要によって「使い分ける」ことが大切だということがわかりました。区切る場所、長さを調節したり、アクセントや強調するところなどを細かく指導していくには教員の肉声での指導が欠かせないと思いました。また、教員が正しい発音を聞かせていれば生徒は自然に真似をする、というような幻想をなんとなくもっていましたが、ある程度の年齢をすぎればどんなに正しい発音を聞いてもカタカナ音声に変換されてしまうことを意識しながら、「フェイマス?」と言う風に聞いてみることで気付かせるという直接的な手法がとても効果的な場面もあるのだとわかりました。教科書の全範囲を音読するのではなく、短い教材に集中にて丁寧に練習していくことで、感覚を育てていくことが大切というお話を聞き、まったくその通りだと思いました。



 今回、靜先生の授業をビデオで見て感じたことは、1つのユニットをゆっくりと時間をかけてやることで、内容把握もしっかりでき、発音にも注意することができるのでとてもいいなと思いました。細かく見ていって、一番印象に残っているのは発音指導がしっかりされているということです。始めにポンポンとリズムの練習をしてから実際の英文に入っているので、イントネーションの付け方が分かりやすく、英語に苦手を感じている生徒にもアクセントのつけかたなどがわかりやすいと思うので、自分で英語をしっかり話せているという自身にもつながるのではないかと思いました。また長い文を読むときなどもただ前からたんたんと読むのではなく、意味文節ごとに区切ってちょっとずつ足していく方式だったので、生徒が意味を少しずつ理解しながら読んでいけることも利点だと思います。
そして、読解の面では文構造が分かりやすく表現されていたので意味内容もとても理解しやすいと思いました。それから、生徒にどんどん発表させていたので、到達度もはかることが出来ると思います。一つの意味段落に長い時間をかけて行うことで生徒の理解度はかなり変わると思います。そしてその時間内で発音指導もできるのでとても効率の良い授業だったと思います。


パワーポイントを使って授業がスムーズに進められていた。指導法Bのこの授業でも毎回パワーポイントを使い授業が進められているが、板書やプリントに比べ、見やすく理解しやすい。貴重な授業の時間の短縮にもつながる。教師はパワーポイントなどのITスキルも必要である。静先生のパワーポイントの使い方は、シンプルでわかりやすい。
また、CDと肉声による音声をうまく使い分けて行われていた。肉声では、好きなところで区切ることができることや、アクセントを強調して発音することができる。正しい発音ができないことを理由に、発音はCDにすべてたよるという授業ではいけないことがわかった。肉声による指導も必要であり、CDをうまく活用した指導も必要である。
 発音に関しては、その場ですぐに直させることの重要さがわかった。間違えた直後に指摘されることにより、生徒はその後きちんと正しい発音ができていた。ポンポンパタンは非常にわかりやすく、つかみやすいと感じた。また、強く言うべき単語を指示され、印をつけたことにより、生徒は長い英文でもリズムよく、発音しやすくなっているように感じた。
 生徒の英語を話す時間が、ペアワークを何度も行うことにより多かった。ペアワークの時間でも、一人ひとりの発音に耳を傾け、注意し訂正していて、そのことにより生徒は意識して発音ができているように感じた。


今回見せていただいたビデオ授業を見て一番感じたのは、教師が生徒の発音上での細かいミスにしっかり気付き、その場ですぐ指摘することの大切さである。靜先生は、3、40人近くいるクラスの中で英文を読ませる時に、誤って発音している生徒が少しでもいた場合、注意して聞いていればその間違いにきちんと気づくことができるし、気付けるようにならなければならないとおっしゃっていた。ビデオ授業を見て、私も「教える」立場になる以上は、生徒のミスに気付けるのを当然のこととして捉えていかなければいけないということを再確認することができた。
 また、授業の中で先生は構文チャートを利用していた。私は、生徒が英文の内容を理解していく上で、構文チャートのように英文を教師側が分かりやすく分解し、それを生徒が重ね合わせることで英文全体を理解することができるという点で、このアイデアはとても画期的だと感じた。




◆大事だと思ったこと
l,r,v,fの発音を特に重視して指導すること
・CDの音声と教員の肉声とを使い分けること
 →CDはネイティブな発音だが、都合の良いところで区切ることはできないので、区切って練習したい場面では肉声のほうが、都合が良い。
  ただし、正確な発音でリピートさせたい場合はCDを利用する。
・生徒に「famous」を発音させた時に、「私はフェイマスと言っているか?私が言ったように発音してみなさい」という、違いに気づかせる呼びかけをする
・短い教材を丁寧に扱う。
 →ポイントを絞って発音のトレーニングができる
・発音にはリズムが大切!

◆感想
 クラス全体で発音→数名指名して発音→teacher-fronted→ペアという流れができていた。一番うまいと感じ
 たのは、monsterの発音だった。はじめは生徒の多くが「モンスター」という発音だったのが、靜先生のn
 の注意と「star」と「ster」の違いの提言により、ほとんどの生徒の発音が「monster」になっており、的確
 な指摘であると感じた。


 一番大きな印象は、単語の発音を確認しながら教科書を音読して声に出すので、生徒がひたすら読むだけではなく、静先生が発音の指導を生徒一人ひとりにしていて緊張感があり、このような授業を続けていけば、生徒たちは発音や強勢など身に付く。教師が自信を持って授業をし、生徒たちに緊張感を持たせることが授業の基本であり大切だと感じた。中学校でこのような発音重視の授業を実践出来ている学校は少ないと思う。しかし、英語が大切なコミュニケーションの道具となっている現代、そしてさらに重要になっているだろう近未来に、このような授業法が浸透し英語を聞き、話すことが出来れば、将来子どもたちにとって役に立つことは間違いない。
本文の音読についても、意味のまとまりを意識して徐々に意味を理解していくようになっていたので、主述、修飾関係を理解しやすいし、EIYOW活動などで生徒たちが英文を新たに作る際にも応用できると思った。教科書の音読は、強弱がはっきりしていて、それを生徒に意識させていたのが良かった。単語に関しては、丁寧にpon-ponを使い生徒たちが完璧に出来るまで何度も指導していた。生徒が出来ていないのに、それを見過ごす教師いるかもしれないが、生徒のどこが出来ていないのかを明確にし、それを訂正することが教師の重要な仕事であるのは言うまでもないということを改めて感じさせられた。

 静先生の授業を受けるまで、英語の発音にこだわりを持った授業を受けたことのなかった自分にとって、これほど発音にこだわった授業を見るのは初めてだった。一単語一単語を何回も生徒にリピートしてもらい、それに対して教師が簡単なコメントをするという形式の中で、効果的な練習が行われていたと感じる。例えばmonsterという単語を取り上げた際、onetenstarといった単語を例示しながら、monsterという単語を二つに分けてmonsterの発音を意識して練習させるという工夫は、生徒に対して非常に分かりやすい方法であったと感じる。
また、静先生のおっしゃる通り、これまで母国語だけで生きてきた大半の日本人生徒を前にして、英語の発音における細かな違いに気付くことは難解であると考える。実際に英語の発音の違いを聞き分けるには、きちんとした練習を積み重ねない限り、発音をただ聞くだけでは気付かずに聞き流す可能性が高いように思う。「比べて聞いてごらん」という一言は、生徒が意識して発音を聞くようになり、英語の発音に対する興味関心が生まれる第一歩だろう。さらにlは合っているけど、rの発音が違う」というような指摘もあったが、このようなコメントをするだけでも、lの発音とは何なのだろうという疑問が生まれ、生徒の探究心につながる場合も望めると思う。
授業全体が英語中心に進められており、しかも短い範囲を集中的に行うという内容だった。リズム感を大事にした音読を練習することで、つっかえながら日本語英語で音読をするというありがちなパターンも減少を望める授業内容だと感じる。それとともに、教師の英語力が厳しく問われる内容だったと実感した。


●常に生徒の発音に耳をすます
  40人のクラスだったとして、いったい何人が正しく言えていないか、10人くらいか?20人くらいか?は耳をすましていれば分かる。
CDの使い方
  CDに頼りすぎない。CDと教員の肉声をうまく組み合わせることが大切。例えば、アクセントや文脈上の区切りなど、教員が見本を提示することで、生徒の読む力を高め、生徒がCDの音声について読んでいけるための橋渡しをする。
●発音指導
  「俺は本当にそうやって言っているか?」と生徒の間違っている発音と、正しい発音を比較する(ビデオ内の例ではfamousLochRockではなくLock)。また、無作為に生徒を指名し発音させ、フィードバックは全体に向けておこなう。
靜先生が強調していたポイントと、自分が感じたポイントは以上のことでした。
全体を見ていての感想として、もちろん教材の内容を扱ってはいるものの、ゲーム感覚で取り組める授業だなと思いました。教科書本文をただ使うのではなく、まずは単語から、ポンポンなどを使って細かな発音指導から入り、徐々に長い文章に増やしていき、最終的には文章を暗唱させるところまで行う。よくある“やらされている授業”ではなく、「発音ができなくて悔しい」「うまく言えるように頑張ろう」と自分から能動的に参加して行きたくなるような授業だと思いました。



 靜先生の授業を見て、1時間丸々を発音練習に使う授業に驚きました。自分が中学生のころは発音練習というと毎時間文法学習に入る前に10分くらいするもので、しかも内容はCDで全文をまとめて聞いたりそれをシャドウィングしたり、一文ずつ区切ってリピートしたりして読むのが発音練習であり先生自身が本文を読み聞かせるというのはあまりなかった気がします。高校生のころについては発音練習より文法学習のほうがメインで、先生に倣って読んだりすることがあったとしても記憶に薄いです。教師が10のテンションを見せてはじめて生徒が6くらいについてくる、その通りだと思い大げさな手本がすごくいいと感じました。ペアワークをしている生徒が先生の真似をして発音注意単語を長めに発音しているのをみて、先生のパフォーマンスが生徒に印象付けられていると思いました。これはCDにもALTの先生にも代わることのできない、第二言語として英語を操る日本人の先生だからこそできる技だと思います。真面目に受けなきゃもったいないと思わせる授業でした。


Loch Nessのビデオ鑑賞では、授業展開に無駄がなくスムーズに行われていたことが印象的でした。発音の指導が細かいという点は、いつもの講義を通して想像できたけれども、静先生が教室でテンポよく一人一人を指導している様子を見ると、発音指導に加えて、生徒たちの意欲や集中力をうまく引き出す授業づくりには生徒と向き合うことを決して恐れないこと、内容の濃い授業を作るための計画・構成を練る努力が重要だと思いました。発音指導においては簡単な単語の段階で正しい発音を丁寧に教え、その後様々な活動を通して定着できるよう机間指導しながら繰り返し練習させるというCDにほとんど頼らない形式に感銘を受けました。自分自身の中学・高校時代の英語の授業を振り返れば、発音はなんとなくしか練習せず、ひたすらCDを利用してシャドーイングやリピートするだけだったので、自分の口からたくさん英語を出すことで身に付くことの重さに気づきました。過去にスピーキングを怠ったため、現に私は英語で表現したり発音したりすることが苦手なままで、実用英語の能力は低いと思います。日常・社会で求められる英語運用能力を少しでも伸ばせるような、枠にとらわれない応用的で質の高い授業を教師はするべきだと改めて感じました。そのためには生徒と向き合う態度すなわち威厳を持ちながらも生徒を愛し、育ててあげようという心や役に立つ意味のある授業の計画構成が必要不可欠であり、努力を重ねていかなければならないと考えさせられました。


靜先生の英語の授業をみて、一番印象に残っているのは、生徒がいきいきと英語をしゃべっている姿です。生徒たちは、先生の大げさでダイナミックな発音のあとにつづいて、しっかり口を開けて発音練習をしていました。最初はおおげさだなぁとでもいうような顔をしてクスクスと恥ずかしがりながら発音していた生徒も、しばらくすると、自分の口の形に集中して隣どうしで確認しあいながら発音の練習をしている姿が見られました。私は今まで、英語を本来の英語らしく発音することが恥ずかしくて、授業で音読しなければいけないときは極力カタカナ英語を使っていた人間です。周りの友達にも、流暢に英語を話せる子はおらず、ほとんどの子がカタカナ英語をつかっていたと思います。英語を英語らしく、正しい発音で話すことが一番の理想なのだということは分かったはいましたが、周りがそんな中で、ひとり英語らしい発音で話すことは、思春期の学生にとっては「浮く」行為のような気がしてできませんでした。そんな中学、高校時代を送ってきた私には、VTRの生徒たちの活動がとても堂々としたものに見えて、うらやましさを感じました。思春期の子供たちに、恥じらいもなく英語の発音を練習させるには、教師になにが必要なのだろうかと考えました。そして靜先生の授業を見て大切だと思ったことは、教師が『この発音はこういう風にするのが正しい』という明確な提示することと、それができていない生徒がいた時に遠慮なく「おまえのは違う、こうしろ」と指摘できることだと思いました。教師が、いつもぶれることない基準を持って教室全体をひっぱっていくことが重要なのだと感じました。生徒たちが恥ずかしさや、せこさを忘れて英語そのものに熱中できるように、教師がまず一生懸命になることが大切だと思いました。


今回観た授業は音声面での指導を中心に授業が行われていた。まず、単語をそのまま発音するのではなく、音節ごとに区切った発音練習もしていた。また、どの部分に強勢を置くのかも練習していた。これで生徒たちはどの部分に強勢を置くのかが、よく分かったと思う。ただ、「ここの部分にアクセントがあるよ」のような教え方では、生徒たちは実際に口に出す時に実践できないと思う。
 さらに、本文を読むときにRead look upの形式がとられていた。ただ英文を短期記憶して、生徒が先生のあとに続けて読むのではなく、ある小さな意味のまとまりから入って、最終的に教科書を見ないで本文中にある長い一文を言えるようにしていた。また、予習の段階で本文の和訳をある程度に分けたものをあらかじめ渡して、それに対応する英文の部分を書き移すという宿題を課していた。生徒がこの宿題をきちんとやってきたかどうかは分からないが、予習の段階で生徒の意識が英語に向かい、授業中に一文の中の句ごとの英語を、本文を一時的にでも記憶して言えるようにするということで彼らの頭に英語の自然な表現が頭に残り、彼らが英語をアウトプットしやすくする大きな要因だったと思う。
 また、SKNトレーニングでは本文中でどの単語を強く・はっきりと読むのかをリズムで体験することができ、何より生徒がとても楽しそうだった。もちろんその時もしっかりと発音指導もしていたし、これは最後まで続いていた。
 この授業を観て思ったことは、教師が楽しそうに授業を行わないと生徒は楽しく授業に参加できないということである。教師の雰囲気で生徒は大きく影響される。また、生徒の活動への取り組みの様子を見て適宜に活動内容を変える柔軟性も必要だと感じた。後者はある程度の経験がないと自分のものにはなりにくいと思うが、前者は意識さえすれば明日からでも実践できる内容なのではないかと感じた。


授業を観て、英文構造の図式化など視覚的な教材をテンポ良く駆使していたのが、さすがだと思った。先生対生徒のやりとりに飽きてきたかなと感じられたとき、すかさずペアワークを導入し、また、個人を他の生徒が見ている前で発音矯正していたのは、授業の緩急を付けるための工夫でもあるということが分かった。日本語訳の表示について表示時間が全部把握出来たのか分からないほど短かったことと、今回の生徒たちの反応からして表示する必要はあったのかにだけ疑問が残った。今回の授業は、基本的に生徒が積極的に取り組んでいた印象が強く、靜先生も授業の進行がやりやすそうに見えた。それは正直なところ女子だけのクラスであったためではないかと女子校出身の私には感じられた。これが男子高または男女共学のクラスであったらまた違った印象の授業になったに違いないと思うと同時に、生徒によって多少なりとも授業の雰囲気や質が変わってくるのではないかと考えさせられた。
(回答:確かに、日本語訳の表示時間は、あと1秒長くてもよかったかも。授業の雰囲気は、10クラスがあれば10通りです。合わせてやるしかありません。)



私が授業のビデオを見させていただいて印象に残ったのが、英語の音声教材の使い方です。今まで音声教材と言えば、まず教科書の中の新しいユニットに入ったときに全文を一回通して聞いて、そのあとクラス全体でCDの後に続いて何回か全体で練習をするという流れで使っているというイメージしかありませんでした。これはつまり先生はこの場面ではあまりすることがなく、音声教材を授業の中心に据えてCDが先生のようになって授業を展開しているように思います。しかし今回靜先生の授業を見させていただいて感じたことは音声教材はそのように使えるほど本来万能ではないということです。先生はCDで生徒に教えているというよりはむしろCDを上手く活用して授業を行っていました。私はこういった風に音声教材を使った授業を見たことがなかったのですが、とても素晴らしいなと思いました。確かに発音もイントネーションもCDから聞こえてくる英語は、おそらくネイティブが発音しているので完璧なのだと思います。しかし、どうやったらそのように発音できるようになるのかCDを聞いているだけでは分かりません。なぜなら生徒たちからCDの音声を発音している人が見えないためにどういう口の動き方なのか、舌はどのような動きをしているのかなどは見えないし、実際に聞くこともできないからですCDはあくまでメインではなく副教材的に活用し、せっかく授業にいる英語指導のプロである先生をフルに活用していくことが大切なのだなと思いました。





授業のビデオを観て思ったことは、全体で英文を言うときは良くても、個別に言わせると誤った発音をすることが多いので、緊張した状態でも正しい発音で言えるように英文を読む回数を増やす必要があるということです。ビデオの中では、和訳は全て既に見られる状態になっていましたが、和訳を先に出しておけば、英語で内容を説明しても理解しやすくなるし、音読練習する時間も多くとれるので、英語を聞く・話す活動に専念できるので良いと思いました。生徒も頑張って正しい発音で英文を言おうとしていて、英語を学んでいるという感じがしました。一つ大変そうだと思ったことは、発音を個別に確認しているときに旗を使っていたことです。マイクと旗2本を一緒に持つとかさばりますし、あげるときにうっかりして反対の旗をあげることもあると思います。ただ、はっきりと発音の良し悪しを提示することは大切だと思うので、旗のような視覚的なものでなくても、その発音で良いのか、何処を直せばいいのかを明確に伝えることができるようにしたいと思います。

(回答:たしかに、マイクを持っているときは、旗は無理でした)



ビデオを見て思ったことは、生徒のほとんどがとても楽しく授業を受けていたことが印象的でした。どうしても英語の授業は、生徒が宿題としてやってきた和訳について先生が解説を入れながら解答を言うという形になりがちですが、靜先生の授業は全く異なり、生徒に発言させる時間がとても多いものでした。靜先生のこの授業スタイルは本を読んで知っていましたが、実際に授業の風景を見てみると、自分もこのような授業を受けてればなと思いました。また、PPMを使うことによって名詞や形容詞など、英文を読む際に注目すべき部分を意識させ、英文を読む力を養うことがとても良いなと思いました。英文を速く正確に読むコツは、前置詞や冠詞をあまり意識しないことが重要です。これはPPMを使って英文を読む際に気をつける点と一致しており、発音練習をしながら英文を読む力もつけられ、PPMはただ発音を練習するためだけのものではないのだと改めて感じました。とても雰囲気がよく、充実した授業だったと思います。

(靜:前置詞や冠詞を意識しない、というのは、違うと思うよ。というか、違います。)



 授業中に扱った題材はたった1パラグラフだけだったが、一文一文をさらに細かく分けて丁寧に指導し、短い文を生徒に何度も何度も繰り返し暗唱させることで、生徒はだんだんと完ペキな発音とリズムを自分のものにしていた。それが、生徒自身の自信につながっていくのだと強く感じた。もし、「この1時間はこのページをすべて終わらせたい!」と教師が焦ってスピードを上げてしまったら、そのぶん生徒とコミュニケーションを取りながら授業をすることができなくなり、生徒にとって意味のない時間になってしまうだろう。常に教師と生徒、生徒同士が確認し合いながら共に学んでいくという授業スタイルを大事にしていこうと思う。また今回、副教材のCDをとても上手に取り入れていく術を学んだ。ネイティブのしゃべりと生徒の発音を限りなく近づかせるためのかけ橋として、教師が途中で区切り補助しながら練習していた。つまり、音声と肉声を混ぜ合わせながら進めることで、生徒も飽きずに音声に集中することができていた。そして授業の最後には、ずっと練習してきた成果として、何も見ずに、ネイティブのように本文を読めるようになり、生徒たちはとてもイキイキとした表情をしていた。そして本文の内容をさらにわかりやすく伝えるために先生独自の英語で説明していたが、あのように本文をまるで自分の言葉のように生徒に向かって語りかけることができるよう、日々努力していきたい




今回ビデオを観る際ある点に注意しながら観ていました。「発音をまったく勉強してない生徒にどこからどのような手順で指導していくか」です。自分達のようにある程度勉強していれば、気になった、あるいは間違っているところを随時指摘していけばよいのですが、今回の中学生相手の授業ではそうではなく、まずRLなどの子音を教えてからさらに語と語をリンキングやあいまいな母音を指導、最終的にそれをリズムに乗せ“英語”にするという流れでした。最初から完璧を求めて一気に詰め込むのはベストな方法ではないのだと思いました。
それとは別に1つ気になったことがありました。それは、生徒に発音(LR)の手本を示す際、詳しく調音の仕方から教えるのではなく、実際にして見せただけだったことです。少し発音を勉強した自分ならば音を聴いただけでRLのどちらだったかを区別することができるのですが、発音のはの字も教えられていない中学生には手本を示しただけで本当に全員理解できているのかと疑問に思いました。音が違うということははっきりとわかったとしても、生徒には先生の口の中で何がどうなって違いが生じているのかということが本当にわかっているのだろうかと思いました。グルグルなどの他の活動でもその漏れをどうにかすることはできるだろうが、その場では低いレベルの生徒に授業のペースを合わせる必要はないのだろうかという疑問を抱きました。

(回答:実際に示すだけでも効果がある場合もあり、詳しく言わないと効果が出ない場合もあり、すべては、臨機応変、生徒の反応に合わせて。)




全体の感想としては、楽しく且つきちんと英語のスキルが身に付けられる授業だったと感じました。僕が知っている英語の授業は、楽しくしようとすると内容が簡単で、指導に関しても甘くなりがちでしたが、今回の授業は、文章の構成を把握し、内容を理解した上での暗唱や、細かい発音指導等、生徒にとって充実したものになっていたように感じました。そして、特に印象に残っているのは、ペアワークの際に生徒が積極的に、大きな声で活動に取り組んでいたことです。どんな授業をするにしろ生徒がやる気を出さなければ意味がありません。逆に言えば生徒にやる気を出させるような授業をしなければならないと思うのですが、今回はそんな授業が行われていたように感じます。また、授業方法の面で見ても工夫がなされていて、ペアワーク中は個々に指導するのが難しいですが、ペアワーク後にいきなり指名して発表させることで生徒達が自発的に活動に取り組むようになったり、音声の面では、長い教科書の文のときは音声データを用いて、発音指導等の細かい指導をする際には自身のきちんとした発音で行っていてうまくバランスがとれていたのではないでしょうか。音声に関して、英語授業ではCDALTに依存するのではなく、自分で発音する場面も作ることで、発展的でわかりやすい授業が行えるようになると感じました。



今回の授業を見て幾つかの点に気付いた。まず、教科書の本文の内容を一回噛み砕き、生徒たちに対しより簡単な英語で説明しなおす活動の効果だ。生徒たちがただ音声教材を聴くだけの活動において、教師が英語でジェスチャーや簡単な単語への置き換えを生徒たちに指し示すことによって、視覚的に本文内容理解のヒントを提示すると同時にやや難解な構文を分解し再構築することで、彼らの本文内容理解の補助をしていた。機械的に音声を聴くだけの活動を生きた英語の活動へと昇華している。こういった工夫で、何気なく終えてしまう活動に変化をつけることは、生徒たちのモチベーションを保つ上でも大事な努力であると考える。また、構文を分解しチャートにまとめる活動がよいと思った。文章上でその関係性を示すだけではなく、図を媒介に視覚情報で与えることで彼らの理解を飛躍的に向上させている。あらゆる媒介を使って情報提示することは教師にとって必要なスキルであると感じた。



 靜先生のビデオ授業を見て、去年から言われ続けていましたが発音や文章のリズムの大切さを改めて感じました。私は今まで、中学校・高校の授業で単語の発音練習はしてきましたが文章の中でのリズムはやった記憶がほとんどありません。しかし先生の授業では単語の発音、フレーズ、一文と、少しずつ長くしてリズムの練習をしており、それによって一気にカタカナ英語から英語らしい英語になっていて私も高校時代からそんな授業を受けたかったと思いました。
 また、一般的な授業ではただ教科書の本文を読んだり訳したりだと思うのですが、先生の授業では構文を分解したスライドでの説明があったためものすごくわかりやすかったです。それによって生徒はテストなどで他の文章でも、自分で分解して理解できるようになるのだなと感じました。


 僕はまず『発音指導が丁寧である』ということを感じました。一斉授業でもペアワークでも発音が間違っているたびに止め、言いなおさせる姿勢がとても印象に残っています。特にLRの発音の違いや、/n/の発音の仕方は生徒にとって難しいようで、最初はあまり正確でなかったと思いました。しかし、靜先生が何度も注意しているうちに正確に発音できる生徒が増えてきました。みんなの前で発音指導をされて、「その発音だよ!座っていいよ!」と言われた生徒の嬉しそうな顔を覚えています。やはり発音指導は、生徒に「しつこい」と思われるのではないかと感じるくらいに行った方がいいなと改めて感じました。また、今回は一斉授業の時間が少し長めにあったと思いますが、生徒をランダムに指名することによって、当たっていない生徒にも最後まで適度な緊張感やプレッシャーを与えているところはさすがだなと感じました。



   先生の授業を見たら第一印象は事前準備の充実さと大切さである。どんな授業をしようとしても積極的な態度と正しい態勢を組み立てないといい授業にはなれない。 授業の大まかな流れをしっかり考えて、何をやるのかを計画する。そして、ひとつひとつ内容を考えいく、詰めていく。準備の段階で、授業中に話す内容、つまり台詞まで考えるべきと思う。そして、何を板書すればいいのかを考えたり、またそれをどういう風に板書するのかの板書計画は立てる。さらに授業を進める上で、生徒に練習をさせたり、ペアを組むとかいろんな活動を行う。全体的に英語の魅力を感じ取った。
 もう一つ気づいたことは、授業というのは教師と生徒がコミュニケーションをとらない、共鳴し合わないと成り立てないものである。ゆえに教師は生徒の実態をきちんと把握し、このクラスには、どんなレベルに合わせて授業をしていくかといった生徒観を書く重要性を深く感じました。
 大事なところは音読練習させる場面である。こういう場面は授業中に何回も出できた。 基本的には英語で授業を行っているが、確認のため、日本語で難しい点や長文を説明をするときもある。複雑なところや説明してもわかりにくいところはあまり出でないが、何回も繰り返し発音する場面はあった。生徒の反応から見ると、とてもいい授業であることが分かった。
 わかりやすい英語をどれだけ使えるかが英語教師の腕の見せ所でもあると私はそう思う。






TOEIC 800なければヒトデナシ

TOEIC 
  800なければ人でなし
     900なければ金とるな


解説: 人でない、はもちろん言葉のアヤだが、およそ800を上回っていないと、英語を話させても書かせても「まあまとも」な感じはしない、という程度の意味である。また900くらいはないと、ヒトサマからお金を頂いて英語を教えるのは基本的にはおこがましい。お金を払って(投資して)教えてもらう、レベルである。
もちろん私はTOEICの回し者ではないので、別にTOEICでなくていいのだが、TOEICに換算した場合におよそ800が取れるくらいの英語力、900が取れるくらいの英語力、という一般的な意味である。
スピーキングがないとか、仕事関係の内容が多いとか、大学生にとって内容的にどうだろう、とかいう言い訳は、とにかく点数をとってから言ったほうがよい。
どんなテストにも限界や欠点はもちろんがあってTOEICも例外ではない。しかしそれでも、抽象的な内容の英文を和訳させて喜んでいるような大学入試問題に比べれば、ずっと、ずっとマシである。

11/27/2011

易きにつくな

英語専修2年生 各位

そろそろ来年のゼミのことを考えてる人も多いと思うので、ひとつメッセージを。

どのゼミにするかは個人個人でよく考えて決めればよいことですが、その考慮の中に、英語教育ゼミはtoeicの基準(注*)があるからやめよう、とか、どうしようか、という逡巡があったとしたら、その情けない考えは是非、是非、捨てなさい。


(*注:3年の12月までに750、4年の12月までに850というクリアすべきハードルのこと)

英語学を専攻しようが、英文学を専攻しようが、英語教育を専攻しようが、仮にも英語専修の名前で大学を卒業するならば、英語に関しては十分な力がなければ恥ずかしくないですか。

英語ができない人間が、英文学を語るのは滑稽じゃないですか? 英語が読めない人間がやる英語学って、ナンセンスじゃないですか?

いろいろなところに書いていますが、おとなりの韓国のトップ企業のひとつ、サムスン電子の入社試験では、「足切り」が toeic 900 ですよ。「足切り」だよ。

たかが850くらい取れないくらいなら、英語専修の名前で卒業などしなくてよい。恥じ入って退学してしまえ。

英語力を最大の武器にできるように、4年間の時間を費やしているではないのか?

易きにつくな。

頑張れ、英語専修生!

iPad のアクセントパタンに関する不満

iPadでもiPad2 でいいが、日本人がこの製品名を呼ぶ呼び方に不満がある。

私が今まで聞いた範囲では、日本人はほぼ例外なく

iPad を、「山形県」「中学校」「言語学」「選挙権」などと同じアクセントパタンで、「アイパッド」と、低く「ア」で出て「イ」で上がり、「ド」でまた下がる、というアクセントで発音する。

しかし本当は、

iPad は、「愛してる」「関西」「関東」「全国」「ロンドン」などと同じイメージで、高い所から「ア」と入って、Padでは下がるのだ。

もちろん、日本語で話しているときはカタカナ発音で構わないのだが、どうして本来のアクセントを採用しないのだろう?

本来のアクセントパタンで、カタカナ的に「アイパッド」と言ってもなんら日本語として無理はないのに。

11/24/2011

博多ラーメンの麺の硬さ、という変数

いきつけの博多ラーメン屋は、注文時に麺の硬さを選ぶのだが、硬い方から、


  • なま
  • ばりかた
  • かた
  • ふつう
  • やわ


の5段階となっている。(当店の麺は生でも食べられる良質の麺を使用しています、との但し書きあり)

この麺の硬さという変数は、順序尺度 (ordinal scale)上の変数である。また、見かけ上は「離散変数」のようだ。

私はいつも「ばりかた」を注文する。そしてときに、替え玉(麺だけのおかわり)を注文するが、それもやはり「ばりかた」である。

ところが、最初にラーメンとして注文したときの「ばりかた」よりも、あとから替え玉として注文したときの「ばりかた」のほうが、どうもいくらか硬い傾向があるようだ。

これがなぜかは不明である。まだ「替え玉のほうが硬いみたいだけど....」と大将に言ってみる勇気はでない。

しかしなんらかの原因で、おなじ「ばりかた」でも微妙に硬さが違う、ということは事実である。

これはばりかただけでなく、「かた」でも「ふつう」でも「やわ」でも同じ現象が起こる可能性はある。

つまり、この店では「なま」から「やわ」までを、5段階の「離散変数」discrete variableであるかのような書き方をしているが、実は、麺の硬さというのは離散変数ではなく、連続変数 continuous variable であるのだ。

考えてみれば当たり前である。最初の生の状態をゼロとして、沸騰した湯で茹でる時間を次のように連続的に変化させることは可能だ。

1秒
2秒
3秒
:
33秒
34秒
:
1分24秒
:

便宜的に1秒間隔で表示したが、これを100分の1秒とか1000分の1秒間隔とか、限りなく間隔を狭くすることは、少なくとも理論上は可能である。それに応じて、茹で上がった麺の硬さも、連続的に変化することになる。

つまり、本来、茹で加減に応じた麺の硬さは連続変数であるのだが、それを、5段階の明らかに違う湯で時間を使用することで、あたかも離散変数であるかのように扱っているのである。

英語能力や熟達度も間隔尺度上の連続変数であろう。ラッシュモデル (Rasch model)でもそのように扱っている。

一方、最近耳にすることの多い NTT (Neural Test Theory)では、学力を離散変数として扱おうとしているようである。

む.....どうなんでしょうねぇ。

11/23/2011

自信がないと質問も受けられない

英語科指導法B 受講者各位

昨日の授業で、英語でディスカッションをしましたが、その時のことを思い出してください。私は途中で二度、「タイム!」と言って、ディスカッションを止め、「何か表現でわからないものがあれば質問してください」と言いましたね。

20年前の私であれば、ずっと英語で通していました。生徒に何か英語で言わせて、その生徒が言葉に詰まって沈黙しても、助け舟を出すために、あくまで英語で、

What do you want to say? Do you mean A? Do you mean B? Or…

などと、すべて英語でヘルプをだそうとしました。

生徒がどんなに困っても、そのフラストレーションと、苦闘の中から language acquisition が起こるのだ、と信じていたからです。

起こるかもしれませんが、それは非常にゆっくりな話で、たぶん何十年もかかると思います(日本で単に教室で英語を学習している、という環境では)。

今は、あのように、生徒が困っているようであれば、日本語でいったん止め、言いたいことを日本語で言わせて、それに対応する簡単な英語表現を教え、また英語ディスカッションを再開する、という方法をとっています。そのほうがずっと効率的だと気づいたからです。

なにかわからない表現があるときに1分間英語であ~だこ~だと言って苦闘させるより、最初の10秒で表現を与えてしまって、あとの50秒はまたその表現を使ってdiscussionを再開したほうが、時間の使い方としてずっとよいし、結果的にそのほうがその生徒の力がたぶんつく、からです。

で、そのような方法を、君たちにも将来採用して欲しいのですが、そのために気づいてほしいことがあります。それは、

「なにか表現で困っていることはないかい?」という質問を教師ができるためには、当然、生徒がどんな質問をしてきても即答できる、という自信がなければ無理だ、

ということです。

単にどんな答えでもいいわけではなく、その解答を聞いた生徒が、「ああ、なるほど。その単語なら知っているから自分でも覚えれば使えるな」と感じるレベルの、「生徒の力に合った表現をすぐに答えてやれる」力が必要だ、ということです。

単に自分の英語力レベル、単語力を高めて、英検1級に合格してtoeicに満点が取れればいいというのではなく、難しい単語を使わずに答えることが必要だ、ということです。

単なる高度な英語ユーザーでなく、教員ならではの英語力が必要だ、ということです。

わかりますよね?

これを聞いて「それは自分には難しいな」と思う人もいるかもしれません。しかし、そこで挫けてしまうと、結局、

「自由なディスカッションをさせない教師」

「自由英作文をさせない教師」

「ディスカッションをさせることはさせても、単に内容に対して『それはいい意見だ』とコメントするだけで、英語自体にフィードバックができない教師」

になってしまうのです。

君たちにはそのレベルの教師になって欲しくありません。

だから、今より一層、自分のプロダクション能力、手持ちの単語を使いこなす能力、を高める努力をしてください。そのためにはLongmanやOALDなどの学習者用英英辞典の定義をいつも見ている、なども大変いい勉強になります。

いっそうガンバッテください。

教師の「意思」と「楽しそうな姿勢」

先週、英語科指導法の授業で、2007年に私がやった高校1年生の出前授業のビデオを見せたあと、受講生の一人が書いた感想。真理をついている:


今回の授業を見て感じたことは靜先生の授業は変わらないということです。この変わらないというのはマイナスな意味の停止ではなく、今と昔と外見上の変化はあっても、芯の部分ではなんにもぶれていないということです。ポンポンのやり方などや細かいところは確かに今とは違っている部分がありました。しかし先生の「正しい英語をしゃべらせる」という意思が授業から感じ取れました。

靜先生の授業はまず、先生が楽しそうにやっています。そしていつもやる恥ずかしい踊りのようなものもやります。生徒も最初は笑ったり、恥ずかしがったたりしていますが、少し時間がたてば踊りだしています。これは、ひとえに先生の楽しそうな姿勢があるからこそだと思います。先生がモデルを示さなければ生徒はついてきません。しかし裏を返せば、先生が確かなモデルを示せば生徒はおのずとついてきてくれるということです。

11/20/2011

「命がけの愛情」の出典

私が「命がけの愛情」という用語を使ったのは、次の小論の中でであった。

https://sites.google.com/site/zukeshomepage/publications/practical-papers/026-shirakeru

今読み返しても、う~む、実にいいこと言ってるなぁ(^^)



現代英語教育97年12月号)

しらける授業をしていた私

靜 哲人

しらける授業というテーマを与えられて考えてみて、私はついぞ自分の授業で生徒がしらけないか、という心配をしたことがないことに気づいた。しらけ、というのは授業を受けている側がふと我に返り、授業者のやっていることを、ある距離を置いて見て、そしてそのことについて否定的な感情を持つ時に起こる感情であろうと思う。だとすれば生徒をしらけさせたくなければ、こちらのやっていることを客体視するような余裕を与えなければ解決する。私の場合、常にいかに生徒をいじめるか、を模索しているので、嫌がることはあってもしらける暇はないと思われる。

 そういう訳で、過去の授業を振り返ったとき、生徒がしらけていたことはまずなかった思うが、むしろ自分で自分の授業に対して「何をやっていたのか」と、しらけてしまうことは多く、恥ずかしい思い、生徒に申し訳ないという思いがこみ上げてくる。紙面を借りて、その反省をさせていただき、せめてもの罪滅ぼしをしたいと思う。

授業の手順が大切だと思っていた頃

英語教師になって数年は、授業内の活動の手順というか順番を大変気にしていた。当時おもに勉強していたオーラルアプローチの解説書が、「かくかくしかじかの理由により、活動Aは活動Bの後にこなければならない」などと、"teaching procedure"をたいへん重要視していたためである。まず、Review。次にOral Introduction。そして次にReading for Comprehension...等々。これらにまた細かい下位区分があった。これらの手順を頭に入れておくだけでも、新米教師にとっては大変なことだった。教案というほどのものではないが、おおまかな授業の手順を書いた紙をいつも教室に持って行ったが、授業中、おうおうにしてひとつの活動が終わると「えーと次は何だっけ?」という感じで教卓に置いた教案の紙をのぞき込んでいた。その間当然生徒の顔は見ていない。しかも教案通りに進まないとその日は一日気分が晴れなかった。

 これは生徒にしてみればしらける状況だったろうと思う。なんといってもこの先生は、自分たちにとっていい授業ではなく、先生の考える良い授業をしようとしていたのである。きょう何気なくテレビをつけてみると、医院を舞台にしたホームドラマをやっていた。この医院では患者のカルテの整理等にまだコンピュータを導入せず、手作業でやっている。時流に乗ったコンピュータシステムの導入を説かれて、経営者が一喝する:「あんたが言っていることは医者にとって便利なだけで、患者さんにとってはまったく便利なことじゃない。医者は効率よく診断を済ませて短時間で終わらせるのが便利や。けど患者にしてみたら時間をかけて話を聞いて欲しいのや。患者は医者の不便を望んでいるんや。」

この台詞を「生徒は教師の不便を望んでいるんや」と読み代えれば、機器を使って教師の手間を省く工夫が花盛りのこのご時世に、何とも心に響くではないか。当たり前の話だが、英語授業は本来生徒のためにあるべきで、教師の自己満足、英語教育業界内での自己顕示のためであってはならない。授業手順の話に戻ると、つぎに何をするべきかは生徒の表情が教えてくれる、と思えるようになるまでずいぶんかかった。

日本語を使わないのが大切と思っていた頃

約10年前にエレックの研究大会で実演授業をやらせていただく機会があった。生徒は中学3年生である。午後1時開始のその時まで、最初から最後まで英語で通そうか、どうしようか実は迷っていたのだった。そんな時、同じ日の午前中に別の会場で研究授業をされた語研の先生が、やはり中学生を対象に全部英語で通した、という情報が伝わってきた。それを聞いて迷いは消えた。「よし俺も」というわけで、その日の授業はオールイングリッシュになったのだった。
あの日のことが印象に残っているのは、当時は(少なくとも自分の見聞きしていた範囲では)研究授業でもオールイングリッシュはまだそれほど当然ではなかったような気がするからだ。あれから10年。今では研究授業でのオールイングリッシュは当たり前で、そうでなければ恥ずかしい、ような風潮があるような気がする。誤解であれば幸いである。

英語で通す授業が悪いと言っているわけではない。またあの日の自分の授業も、それなりにうまくいった方だと思う。英語でやった授業の結果が悪かったのではなく、恥ずべきは「英語で通して見る人を感心させてやろう。」、(さらに告白すれば)「本場もどきの英語で生徒をびびらせて、その後のコントロールをやりやすくしよう」という当時の私の醜い心根である。当時の私の授業を受けた生徒のひとりに後年言われた。「中学生にとって誰でも英語は恐いもの。入らなければならないのは知っているけど、入るのが恐い水のようなもの。つま先からすこしずつ入りたい。そこにいきなり頭の上から氷水が降ってくれるのは誰にだって恐怖ですよ。」嗚呼、神よ許したまえ!

 別の例を引いてみる。あなたは翌日の授業のプランを練っている。あしたは宿題の答え合わせをやってから、音読をやって、その後重要文型の解説の補足をしよう...。そこに教頭が突然やってきて「明日見学者があるので、悪いけど授業を見せてやってくれないか」と言ったとする。あるいは同僚もしくは後輩の英語教師が「ちょっと授業のやり方で悩んでいるんで、あした3組の授業見せてくれませんか?」と来たとする。この状況でまったく動ぜず、予定通り答え合わせと音読と文法解説を敢行できるなら、あなたは偉い。尊敬する。だが小心者の私はできなかった。

見学者があれば、流れが不自然になりすぎない程度のぎりぎりまで、その時間帯に、オーラルイントロダクションやえせコミュニケーション活動などの「見栄えのする」 活動を持っていった。見学者が教室内にいる限りは英語で授業を行うようにした。夏などでドアを開け放しての授業で、日本語で解説をしているときにたまたま同僚が廊下を通りかかるようなことがあれば、「しまった!聞かれた。」と恥ずかしい気持ちでいっぱいになるのだった。

日本語でやる解説も立派な局面であり、答え合わせの効率的なやり方もきわめて重要な技術だ、と胸をはって予定通りの授業を見せられなかった自分が情けない。それより何より、誰の方を向いて授業をしていたのかと、生徒に申し訳ない。

リーディングスキル養成が大切だと思っていた頃

リーディングスキルという表現がこの業界でポピュラーになって久しい。そしてリーディングスキルというと決まってでてくるのがスキャニングとスキミングのスキスキコンビである。学生時代にこの用語に初めて触れた時は、「おお!なるほど。これぞニューリーディング」などと感動したものだった。あほくさ。

まずひとつ言えることは、スキスキは、日本語であれば新聞のテレビ欄や時刻表などの例をあげるまでもなく日常茶飯事だということである。必要な情報のみを求めて、紙面上を縦横無尽に視線を走らせるたり、斜め読みしてもっと詳しく読むか決めたり、という行為自体は改めて学習するまでもなく、中学生くらいの年齢になればまず例外無く身に付いている能力だと考えられる。

しかし中学生のような初学者に限らず、もう十年単位で英語に接している我々英語教師でも、英語で書かれた時刻表やらテレビ番組表やら新聞の分類広告欄やらを見たときに、日本語のそれと同じ気軽さと効率でスキスキをするのが困難なのは実感するところである。(少なくとも私の場合そうだ。)これは英語と日本語でのスキスキには、その技能自体に違いがあるのか?そうではないだろう。技能自体には違いはないのだが、その技能を発揮する相手である言語が違うのだ。つまり、日本語と英語の違いである。

なにをくどくど当たり前のことを、を思われるかもしれないが、つまりこういうことである。英語でのスキャニングが難しいのは、平たく言えば英語の文字や単語などに慣れていないせいである。堅く言えば文字認識や語彙認識などのlower-order processes の問題であって、higher-order process の問題ではない。 Alderson (1984)が広めた表現を使うなら問題はreading problem にではなくlanguage problem にある。

スキミングも同様である。確かに生徒で英語を飛ばし読みする者は少ない。これは彼らが飛ばし読みという行動自体を知らないからであろうか。そんなはずはない。スキャニングと同様、スキミングも日本語の世界では日常的に行っている読み行動である。ではなぜ英語では飛ばし読みをしないのか?それはしたくないからではなく、できないのでだ。あるいはそのような読み方をすると理解度が極端に落ちることを事実として知っているからだと思われる。リーディングの「スキル」などではなく、もっと基本的な読む力、具体的には文字認識の速さ、語彙のサイズ、語彙認識の速さ、文法解析の速さが向上してくるにつれて、読む(精読)スピードは自然に上がってくるし、そうすればスキスキ(雑読)もこなせるようになるだろう。

 常識で考えてもわかるこんなことも忘れ、単に教科教育法のテキストや、英語教育の雑誌記事や学者の言葉を鵜呑みにし、いわば時流にのって、「速読だ!」「スキミングだ!」と言って、時にはストップウォッチ片手に生徒を急かしていた私は、馬鹿であった。例えるならば、基本的な脚力が不足している短距離走者をオートバイで牽引して速く走らせようとする、無茶な陸上コーチのようであった。そんなことで走力は向上すまい。オートバイのスピードに、脚の送りがついていけなくなってけがをさせるのが落ちである。速く走る方法をしらないから走れないのではない。方法は知っているが自分の筋肉が言うことを聞かないのだ。

スキミングと速読についての最も本格的な研究のひとつはおそらくMasson, Carpenter & Just(1982) である。通常の読み、スキミング、そして速読の最中の眼球運動と、読後の理解度を調べたこの研究で明らかになったことは、

(1)スキミングは、通常の読みのようにすべての語を読む速度を速めることではなく、まばらに読むことによって達成される。
(2)通常の読みとスキミングでは大筋の理解には差はないが、細部の理解は、スキミングが劣る。

この第2点を聞くと、「概要・要点がわかるならスキミングでもいいではないか」と思う人がいると思うが、それでは次の第3点を考え合わせるとどうであろうか?

(3)通常の読みとスキミングの差は、文章の内容がノンフィクションの場合より、フィクションの場合のほうが大きい。

これはつまり、スキミングはそのテキストの内容に関する予備知識に大きく頼っているので、フィクションになると、おおきく理解度が落ちる、ということである。文章中の断片だけを見て、不明な部分を予備知識によって推測する、のがスキミングの正体である。つまり

スキミング=断片的な読み+予備知識+当て推量

という式がなりたつ。果たしてこのような行動が、真の意味で「読む」と呼ぶに値するであろうか?L1リーディング研究では一般に、リーディングといえば、一語一語きちんと読む「普通の黙読」(ordinary silent reading) を指す。なお、読むときはすべての語を見ているわけではない、とか、一度に数語を読みとっている、というのは錯覚である(Rayner & Pollatsek 1989). スキミングはリーディングの範疇に入れないか、もしくは入れたとしても特殊な読み方として、せいぜい周辺的な扱いをされるのが普通だ。スキャニングにいたってはL1リーディング研究で触れられているのを私は見たことがない。なぜわれわれの分野だけ、精読よりスキスキが本筋であるかのような珍妙なことになっているのか不思議である。

メインアイデア把握が大切だと考えていた頃

 8年前、私は高校3年生を相手に、Reader's Choice (Michigan University Press)というESL教材を使ってリーディングを教えていた。A4判に近い大きさと約2cmの厚さ、中身はほとんどauthentic materials、という代物だった。それを持ち前のDrill sergeantスタイルで、がんがん進んだ。1学期の中間試験の範囲が何と120ページを超えたのを今でも覚えている。文字どおり泣いて抗議する生徒もいたが、信念を持ってブルドーザーのように進んだ。 

 このようなスパルタ授業を1年間続けた結果は決して悪くなかったと思う。かなりの生徒が高校生として第1級の英語力を身につけて卒業してくれた(と信じている...)。さて卒業式の前日の謝恩会でのこと。謝恩会では生徒たちがクラスごとに高校生活を総括するような出し物をすることになっている。くだんのクラスは私の真似をしたのだが、その中に、私役の生徒が「ペラペラペラ」と、意味不明のことを超早口でまくしたてたと思うと間髪を入れず、生徒役の生徒を指名し"What's the main idea!"とこれまた高圧的な口調で詰問する、という場面があった。嗚呼、ああいう風に見えていたのか、と一気に酔いも醒めた。

 このReader's Choice はリーディングスキルを重視していて、ひとつのセクションがメインアイデアをつかませるために設けられていた。200語くらいのパラグラフがいくつかあり、それぞれのメインアイデアを選択肢から選ぶのである。何が失敗だったかというと、このセクションの英文が、全編を通じて最も難解で抽象的であったのである。つまり、丁寧に精読してやっと理解できるレベルの題材を、英語による質問と解説、そしてメインアイデアの選択、という方法で進んだものだから、生徒は消化不良を起こしたのである。

 あのセクションで生徒がメインアイデアをつかむのが難しかったのは、「概要をつかむ技能」に問題があったのではない。そんなものは母語でも訓練されているし、仮にあの題材を日本語訳で読めば、正しいメインアイデアを全員が選択しただろう。問題があったのは、語彙、そして構文が難解だったのである。逆に言えば、細部まで正確に理解できれば、メインアイデアなどは自動的にわかるはずであった。英語教育業界の動向などに惑わされず、きちっと構文を解説し、語彙に注意をはらわせる、地に足のついた授業をすべきだった。

辞書を引くより推測を、と力説していた頃

 当時は今思えば本当に極端な指導が多かった。たとえば生徒が単語帳を作っていると嫌な顔をした。つまり単語は文脈のなかで覚えねばならない、と思っていたのである。

「単語は文脈の中でこそ意味がある。単語自体には意味はないのだ。やはり野におけ英単語、と言う。英単語という花は、野山に咲いているからこそ美しいのだ。野山に咲いていれば、その花がどんな地形のところに多いか、とか、どんな季節に観察されるか、というようなことまでわかる。それをひとたび摘んで持って帰ってきて標本にしてしまうともうダメだ。標本にして家に飾っておく必要はないのだ。花の色を忘れたなら、またすぐ裏山に出かけていって、実際に自然の中の姿を見ればいいだろ!」
 文章を読むとき、しらない単語があると最初からしらみつぶしに辞書を引きたがる生徒には、「全部の単語がわかる必要はない。要点がわかればよいのだから。」という指導をしていた。明らかにFrank Smithあたりのトップダウン理論の影響を受けている。いや、率直に言って、影響というより単なる盲信である。

 3年ほど前のある日、授業中、Mini-Worldを教材にして各自読ませていた時、やはり記事の中の未知語に全部印をつけ、それをひとつひとつ辞書で引いている学生がいた。いつも通り、「概要が分かればよいのだから、そんなに全部単語を引かなくてもいいんだよ。」とアドバイスした時に、「でも気になりますから。」という答えが返ってきた。なぜか、このやりとりをひとつのきっかけに、「辞書を引き過ぎるのは、リーデイング力養成にとってはむしろマイナスだ」などと思っていた私の気持ちに変化が現れたのである。

 彼女の英語力はクラスでも上位の方であった。意味の見当をつけずにむやみに辞書を引いて見当はずれの語義を書くような学生ではない。文脈からある程度語義を推測することも知っている。しかし、自分が読んでいる英文の未知語の意味は気になる、というのである。考えてみれば当たり前であった。

 ボトムアップ処理効率化のためには語彙のサイズは決定的な意味を持つ。GoodmanやSmithに代表されるトップダウン重視のリーディング観は誤りであったことが今では実証されている(Rayner & Pollatsek 1989; Stanovich 1991; Eysenck & Keane 1995 など)

ではどうすれば?

 結局、私は昔ながら文法訳読式の授業でよいと言っているのか?つい昨日、ある学生が訴えた。「○○先生の授業は、毎日、読んで訳して、読んで訳して...それだけでした...。クラスのみんなはほとんど誰も聞いていませんでした...。」これを聞くとはやり訳読式の授業は、と思いがちかもしれない。しかしおそらく問題は「英語」教授法ではなく、この教師の生徒掌握力、授業運営法、人間力、そしてその根本の「どんな手段を用いても実力をつけてやる!」という命がけの愛情、の欠如にある。これさえあれば、英語教育に難しい理屈などいらない。単語を教えて、文法を教えて、あとはどんどん使わせるだけ。他に何かありますか?

(しずか・てつひと/福島工業高等専門学校助教授)

「自己表現」を叫ぶ英語教師が「自己表現」できない自己矛盾

ジコヒョーゲンさせよう。ジコヒョーゲンさせてジソンカンジョーを育てよう!

とお経のように唱える英語教師は多いのに、公開授業や実演授業後の協議会では、表面を撫でるような発言しかない場合が多いのは何故?

1)英語に自信がないので、英語で協議会が行われていると、沈黙するしかない。

2)ヒョーゲンすべき中身がないので、日本語の協議会でも、沈黙するしかない。

のどちらか、あるいは、その両方だろう。

そのような問題を抱える英語教員がもし、私の英語授業に「生徒」としていたとする。その場合、(1)の問題は、私の授業でなんとか解決しようとするが、(2)の問題は、私の「英語」授業の守備範囲でない。

ヒョーゲンしたい中身があるときに、その means を与えてやるのが、英語の授業であって、中身まで考えてやるのは、英語の授業の仕事ではない。

と言うと必ず、「自分の英語の授業では生徒を人間として成長させたいんだ」というような教員がいる。

そのambitionは大いに結構。ただし英語自体をきちんと教えている、という条件つきである。そういう ambitionを口にする教員に限って、英語自体をきちんと教えていないし、それどころか、自分の英語自体もトホホレベル、ということが多いように思う。


「発音なんてくだらないことで生徒を萎縮させるより、どんどん話させて、間違いを恐れず自己表現させて、自信を与えて人間としての成長さえることこそが云々」というようなことをいう教員で、自分自身がまともな英語をすらすら話す教師に私個人は未だかつて遭ったことがない。

そういう考えの持ち主だからこそ、教員になった今でも、まともな英語が話せないでいるのではなかかろうか。実は自分でもそのことはわかっているから英語教師として自信もない。だから研究協議でも意見を言えないのではなかろうか


(こう言われて「俺は発音指導はくだらんと思うが、自分自身はこれこの通り、まともな英語の話し手である!」と憤慨する人は、今度、どこかで英語で議論を吹っかけてきてください。本当にそうなら認識を修正します。)


英語の教員なんだから、まず自分できちんとした英語を使い、そして生徒にも、とにかくまず英語をきちんと教えよ、というごくごく当たり前の話をしているだけだ。


そういえば私の英語科指導法を受けていた大学2年生が、いつかペーパーにとてもいいことを書いていた。

Proficiency doesn't come from confidence.  Confidence comes from proficiency.

11/19/2011

「ほら、よく聞いて!」

私の授業では頻繁に聞かれ、他の人の授業では一度も聞いたことがない教師のセリフに、

「ほら!よく聞いて!」

というものがある。

どういうタイミングで言われるセリフかというと、教科書の文をコーラスリーディングしている時に、

私: XXXXXXXXXXXXXXXXXX
学生たち: YYYYYYYYYYYYYYYYYY
私: ほら! よく聞いて! オレはYYYYYYYYYYYYYなんて言っているか? 
よく聞いて真似しないとうまくならないよ!
XXXXXXXXXXX
YYYYYYYYYYYY
ほら違うだろ?
もういちど。
XXXXXXXXXXXXXXXXXXX
学生たち: XXXXXXXXXXXXXXX

のように使うものである。

先日も、

1989

を、デフォルト発音の、

ナインティーン・エイティナイン

を、まともな

nineteen_eighty nine

にするために使った。

漫然とコーラスさせるのでは、何度やっても上達はゼロだ。

次回の授業では、是非、言ってみよう:


ほら~! よく聞いて! 違うよ~!

11/18/2011

year の発音のコツ

生徒はもちろん、教師もほとんどできているのを聞いた試しがないのが、

year

の発音。ほぼ例外なく

ear

と言っている。

last ear...

とか、

I am 14 ears old...

と言われてもね。

発音記号をみると最初に

/ j /

というのがついている。これは「わたり音」glide の印なので、直後の音よりも、口蓋図で言うと、

「より上でかつより前から」

直後の音に変化する、ということである。





同じような音なのに、young や yes の冒頭の音は言えても、year が言い難いのは、/i / がもともと口蓋図のなかでも、

「最も上で、前」の位置(にかなりちかい)からである。

もともと最も上で前、の位置の音に対して、それよりさらに上で前から変化する、というのが難しいのである。

と言っても何のことやら分からないと思うので、生徒に指導する時に使っているのは、

これは「や行」だから、という表現である。

YA  YE   YI

とやったり、

イェイ  イェイ   イィ~!!

とやったりする。

さらに、

last year は、

ラースチヤー

と発音してやったり(実際、これにかなり近いのである)

year は、実は、ヤー に近いので、そのように発音してごらん、

といったりすると、感のいい子はできるようになる。

11/17/2011

グルグルはやっぱり最高だ

今日の授業も楽しかった。

やっぱりグルグルは最高である。

楽しいし、力がつくし、言うことなし。

これだけ言って、英語の授業でグルグルをしない人は理解できん。

とにかく、教師は足をとめないことである。

回転寿司のイメージだ。

回転寿司のベルトコンベヤーは常に一定のスピードで動いている。

ぼやぼやしていると好きなネタを取り損なうから、お客は注意して見ている。(注文できるけど、というツッコミは、とりあえず無視で。)

とにかくどんどん歩け。

英語教師は超低速と超高速で、話せ

英語教師は、ゆっくり、しかし単語と単語の間は一切切れ目がなくなめらかに、しゃべるのを基本とすべし。

Speak slowly and smoothly.

学習者にわかりやすいように、超ゆっくり、はっきり、正確に、強調して発音できなければならない。

超ゆっくり、正確に発音できない教師は、スピードによってごまかしているのである。

また、英語教師たるもの、超高速でも正確に、発音できなければならない。

超高速になると正確に発音できない教師は、発音の筋肉習慣が自動化していない、未熟者である。

そして、超低速と超高速の間を、無段階で、いったり来たりできなければならない。

自分の商売道具の英語は、自由自在に操れなければ、プロでない。

ネイティブ音声と教師の音声

全英連の高校の授業でもうひとつよかったのは、録音されたネイティブの音声を聞かせた直後に、教師が肉声で同じ単語を発音してみせて、その音声がネイティブと同じじゃん!という感想を生徒に持たせる程度にうまかったことである。

最初の活動の、L/R  V/B のミニマルペアの単語の聞き分けを、iPadの 英語耳ゲー というアプリケーションを使ってやる、という部分だったが、最初に問題音声を聞かせ、生徒の解答を引き出してから、答え合わせをする、という局面で、

「Rの中にLがひとつだけ混じっていたのは、5題中の3番だった。本当にそうだったのかもういちど音声を聞いてみよう。」

ということで、再度ネイティブ音声を聞かせたのだが、その際、ひとつひとつ、教師がリピートしてみせて、

「ほら。こういう感じに発音してるだろう?」

とダメ押しをした。

これは、本番一週間前に見せてもらった授業ではなかったのを、

「単なる、何番が間違っていた、という答え合わせを超えて、『ああ、確かに~番は違っているな』ということを納得させないと、次につながらない。また、教師も肉声で、まったく同じに発音してみせるべし」

とアドバイスさせてもらったのを受けて、授業者が本番では見事に修正してくれたものであった。

世の中の英語教員は、CDなどのネイティブ音声をきかせっぱなしの場合が多すぎる。ネイティブ音声を聞かせたら、直後に同じことを言ってみせて、

「先生、カッケー! おんなじじゃん! 日本人なのに、ネイティブと変わらない発音ができるじゃん! カッケー! この先生についていけば、私もあんなふうになれるかも! がんばるぞ!」

と生徒に思ってもらえるのともらえないのとでは、その後の活動にたいする生徒の姿勢が違ってくる。

これは、いまの world Englishes の世の中において、必ずしも native variety と同じ英語を学習者は話す必要がない、という言説が総論として正しい、ということとは関わりのない事実である。

英語の教師は、American variety も、 British variety も、Australian varietyも、acceptable Japanese variety も、acceptable Indian variety も、かなりの程度に再現できて、始めて商売になるのである。

11/16/2011

正しい音と悪い音の対比

全英連では高校の授業についてきちんと講評する時間がなかったので、すこしずつここに書きます。

まず特筆すべきは、あの授業は、ターゲットの文を正しく発音したものと、意図的に誤った発音をしたものを提示して、その聞き分けをさせた、公開授業としては史上初のものであろう、ということです。

その前に、iPadを使って、/ v / と / b /, / l / と / r / の聞き分けをさせたうえで、今度は教師がそのあと音読することになる教科書の文のいくつかを、/ v / を / b / で、あるいは / l / を / r / で、などと別の音で置換して発音し、生徒に対して、発音が合っていれば

Yeah!

間違った部分を含んでいれば、

Boo!

と叫ぶよう求める、というものでした。

日頃から訓練されているので、生徒たちは見事に聞き分け、どこがダメだったかと問われれば、

You said "rife" instead of "life."

などと答えていました。

意識するようになればきちんと聞き分けられるようになる、という何よりの証拠です。

あのような、誤った音と正しい音を対比させて練習するのは、単に正しい音だけをひたすら提示する練習よりも、かならず効果的です。意識が高まるからです。

そのような consciousness raising をしたうえでその後の音読練習に入るので、音読の質ももちろん高くなります。

LもRもないような教員にはあの生徒たちの爪の垢を煎じて飲ませたいような、見事なパフォーマンスでした。

レーザービーム vs. Laser Beam

ストレイト ドキドキする

It's so very straight. Makes my heart throb like hell.

視線はまるでレイザービーム

His gaze is like a laser-beam that kills me with intensity.

心をしゅわりと突き刺すの

It pierces a hole in my heart before I know it.

虹色のラブビーム

The* rainbow-colored beam makes me fall in love

*は「虹」のタイミングの前に、おまけ的に言ってください。





クリアアサヒ vs. Clear Asahi

カタカナ読みの英語と本来の英語の読み方の違いを音節という点から意識させるために書いてみた第一弾.


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クリアアサヒが家で冷えてる
Clear Asahi is waiting chilled in the fridge in my room
心ウキウキワクワク
That image makes me a really happy man
ラララララララララララ
La la la la la la la la la la 
クリアアサヒ!
I love Clear Asahi!



フィードバックできない教師は、一切アウトプットさせるな

グルグルの場合には適切なフィードバックが不可欠なのは言うまでもない。

が、一斉授業でコーラスリーディングをする場合にも実は同様である。

しかし、グルグルで、目の前のたった一人の生徒のutterance の質にフィードバックできない人間が、40人の生徒が一斉に発するutterance の質にフィードバックできるはずがない。

ということは、グルグルできちんとフィードバックできない教員は、実は一斉授業でもフィードバックできない教員なのである。

きちんとフィードバックできないなら、アウトプットなどさせるのは時間の無駄である。だからいっさいアウトプットはさせないほうがましである。

しかし、いっさいアウトプットさせない英語の授業など、やらないほうがましである。

やらないほうがましの授業しかできない英語教師など、いないほうがましである。

ということは、グルグルできちんとフィードバックができない教師など、いないほうがましである、という結論になる。

一斉授業では顕在化しない教師の真の実力が白日のもとにさらされるのがグルグルなのかも知れない。




どS? グルグルの特徴

一斉授業でも、ペアワークでも、ピンからキリまであるのと同じように、グルグルにもピンからキリまであるのは当然、かもしれません。

先週月曜日に宮城県の高校で飛び込み授業のグルグルをやり、水曜日には勤務校の学生の教育実習先のグルグルを観察し、金、土には奈良の全英連では複数の授業者の「グルグル」を見、その後また昨日、自分で中学校3年生相手に、4回目(4週目)のグルグル(今回は入試長文は休んでLady Gaga のBorn This Way)をやってみて、改めて自分のグルグルにあって他の人のグルグルにない特徴について意識することがあったので書いてみます。

■特徴1:口を触る

相手が男子生徒・学生(大学院生含む)の場合だと、bやvの口唇の形を教えるために、初対面でもなんでも、口唇をつかんで教えること多し。とにかく、正しい口の動かし方を伝えたいので。

女子だと、実際には触らないが、口唇の前3センチくらいに指を持って行って、つまむ動作などをして教えること多し。

■特徴2:リズムを体で伝える

これも男子に限るが、リズムを伝えるために、強い音節で軽く肩を叩いたり、胸板を指でつついたり、肩を掴んで左右に揺らしたりする。

■特徴3:体を動かすよう仕向ける


これは女子も含めて、ステップを踏ませたり、体を揺らすよう指示する。もちろん指示する時には自分でもそういう動作をしている。生徒は多少恥ずかしそうであっても、初対面でも従う。目の前の教師がしているから、だろう。

■特徴4:ボヤボヤしている生徒はどんどんとばす


私が前に立った瞬間に目を合わせて発音を開始しない生徒は、一瞬だけ待って、とばす。これによって、まわるペースを上げるのと同時に、生徒の側に緊張感を生み出す。昨日、飛ばされた男子生徒の一人は、「こりゃ、先回りするしかない!」と言いながら、自分の定位置から5人先くらいまで移動して、再挑戦してきた。そういうのは敢えて排除はしない。

■特徴5:適宜、叱咤する


先ほどのラウンドと同じミスを指摘される者が何人かいれば、適宜、全体に向けてワザと怒ってみせる。

「くぉら~! 同じ事を2度言われんじゃねぇ!! オレが一周まわる間に何を練習してたんだよ! さっきと同じことやってれば永遠に☓なんだよ! 同じことを二度言われるのは馬鹿だぞ!」
こういうと、漫然と練習する者が減り、必死になって近くの友人に教えを乞うて練習するものが出てくる。

この叱咤は、「オレはお前たちを本気で上手くしてやりたいんだよ~!!」という気持ちを伝える手段でもある。

■特徴6: やる気をなくした、とか、わからん、などの甘えた発言に動じないし、度を越せば聞き逃さない

なんどか☓をくらって、聞こえよがしに「あー!もうやる気なくなった!」などという生徒の発言は完全無視。何度でも☓をつける。上の叱咤つき。

昨日も、thで☓をくらった生徒が、私が通り過ぎた瞬間に「わかんないよ!」と、ふてくされ気味の口調で言ったので、振りかえってガンを飛ばし、

「何がわからねえんだよ?!」

とドスを利かした上で、舌を歯につけることを再度指示。

「わかったな?」

この生徒は次のラウンドでは合格。

■特徴7: 距離が近い

たぶん、他の人がやっているグルグルよりも、生徒の顔と私の顔の距離は2分の1程度にまで近い。大学生に「近い!近い!近い!」と言われたことがよくある。気にしない。相手の口を見る時は、目をかなり近づける。自分の口の形を見せるときは、適宜、横を向く。

プレッシャーを感じている時の発音が、本当に身についた発音なので、それを引き出す、という意図もある。

■特徴8: 基準はなるべく厳しく、厳しく


安定してできるようになって初めて◯を出す。もう一回やってみな、といって、先程は出来ていても今度ミスったら、「ほら!」といって☓を出す。

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どうでしょうか?

こういうやり方をして、現在教えている160人の中学生の中で、萎縮している女子が1名だけいます(前々回の授業中、ずっと泣いていました(^^;)。

この生徒に関しては、「大丈夫だから、落ち着いてやってごらん」というスタンスで、ゆっくり目に指導しています。ただし、◯の基準はまったく変えません。

そのうち、追いつくと思います。