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2/29/2012

th と v  は紙一重

ある中学の先生から、

授業で扱おうと思っている歌の歌詞に含まれる another が、どうしても another に聞こえず、むしろ an of a のように聞こえる。つまり、thの音が v に聞こえるんですが確かめていただけませんか

という質問をもらいました。

**********************

回答:

その歌のその単語は、私にはthに聞こえました。ですが、これがVに聞こえても悩む必要はありません。

それはいい指導ポイントなんです。

つまり、

voice less th と、 f

voiced th と v

は、音響音声学的にも非常に近い、音だからです。

調音方法を考えてみても、両方とも、前歯という硬い物体に、唇、あるいは舌、という柔らかい物体を同じように軽くおしつけて、そこで摩擦を出して作る音、です。

似ていて当たり前なのです。

耳にそう聞こえるだけでなく、スペクトログラムを見ても、見た目にもかなり近いです。

そして、電話(高い周波数はカットされる)では、聞き間違いが多いことが知られています。

たとえば、生徒に、

fの音で、thank you (つまり fank you)

v の音で、 without (つまり  wivout)

と言ってみて、かなり近いのだ、ということを実感させるといいです。

つまり生徒に言ってやるべき教訓は、

THの音は君たちがやりがちな、ZとかSとは似ても似つかない。むしろ、V や F に近い。そう思って発音しろ。

また逆も真で、Vの音は君たちがやりがちな、Bとはまったく違う。むしろ、THに近い。そう思って発音しろ。

(Vに関しては Wに濁点をつけたようなイメージ、も必要ですが)

ということだと思います。

2/19/2012

「英語で授業」と「先生はネイティブ」の共通点

それは、どちらも素人受けする、ということ。

素人さんには、その英語がどういう内容の英語なのか、発音がいいのか悪いのかわからないので、とりあえず英語で授業していれば、「スゴイ!」

同様に、ネイティブ(かどうかは不明だが、とりあえず外見がそれっぽい)ならば、教え方がいいのか悪いのかわからないけど、とりあえず紅毛碧眼(には限らないが)に接していれば日本人の先生よりは「英語ができるようになりそう!」

どちらも、スゴくない場合も、英語ができるようにならない場合もある。かと言ってもちろん、日本語で授業、先生は日本人、のほうがいつもいいわけではない。

What is common to the policy that English classes at secondary schools should be taught in English and to an English conversation school ad that boasts of all their teachers being NSs of English is that both are intuitively appealing to non-professionals, who do not have detailed knowledge about what is involved in learning a foreign language.  Just because the means of instruction is the target language does not mean that efficient language learning will take place in the same way that just because the teacher is a native-speaker does not guarantee that successful language acquisition will occur.

2/18/2012

一つ一つの音を大切に学ぶ

「. . .今まで『量』を大切にして授業を展開してきました。もちろん『量』を確保することも大切だと思いますが、『1つ1つ音を大切に学ぶ』という姿勢を身につけるのは、やはり学習の初期(小学校・中学校)が適していると考えざるを得ません。小学校の先生に、『発音を大切にしていきましょう!』と働きかけずにきたことは、間違っていたと気づかされました. . .


「. . . 日本の英語教育現場では、発音指導がタブー視されることが多く、その理由は「生徒のやる気を損ねてしまう」、「日本人英語で十分」、「先生自身が正しく発音できない」など様々だと思います。しかしながら、幼少期を英語圏で過ごすなどの特別な経験がない限り、日本人が英語の正確な発音を自然と獲得することはできません。英語の指導者が、間違った発音を指摘し、正しい発音の仕方を指導し習得させることが必要不可欠です。」

(関西大学大学院「外国語教授方法論」の受講後コメントより) 

現在完了を知らない大学生を担当する幸運

ちょっと前の飲み会での話:

「以前、スポーツ推薦の学生がいるクラスを持ったことがあって、授業中その中のひとりが 「現在完了」というものを聞いたことがない、ということが判明したんだ。その瞬間、うれしかったねぇ...

「ああ、だったら俺が教えてやろう! 最初の一歩から教えてやれる。」って思ってね。

「大学生を教えているのに、中学生を教える時のような楽しみが味わえる」って感じた。

....と言った時、横で聞いていた大学院生が、即座に

「わかります~!!」

と言った。

嬉しかったですねぇ。この感覚が分かる人はいい教員になるよ。

2/16/2012

方法論は二の次だ

■方法論は二の次であり、すべては先生のおっしゃる「命がけの愛情」から始まるものだと、強く感じることができました。


先生のような、愛情たっぷりの鬼教師に、絶対になってみせます。


■英語を英語で言い換える、和訳は使うけど、生徒にさせはしない、などなど、英語というインプットの理解を促す方法について、自分はすごく刺激をいただき、これからも追及していきたいと思わせていただいた授業でした。


■英語を教える人間が正しい英語を身に着けていることは大前提なわけであって、そのなかでもちろん、発音は正しくないといけないわけです。ただその「あたりまえのこと」が出来てない教師が実際の現場にうじゃうじゃいて、...


■ゼミ生全員に最終的にTOEIC850以上のスコアをとらせるのは良い考えだったと思います。

(ゼミ生感想より抜粋)

2/15/2012

師匠を超える教師になる!

「この2年間で学んだ流儀を “守”り 自分を磨き続ける。そしてその殻を突き“破”り、自らの境地を見つけ、靜流を“離”れ、いつか必ず師匠を超える教師になる。」


「改めて、教師というのは教える児童生徒に大きな影響を与えるんだということを感じました。授業の内容を児童生徒にとって意味のあるものにするもしないも、それは教師の役割なんだと、今まで以上に引き締まる思いを感じています。」


「きついけれど、為になる。」「先生の熱意が満ち溢れている。」という幸せな時間でした」


「授業の運び方については、英語だけでなく全ての教科に活かせると感じました。毎回生徒を惹きつけるための工夫やポイントが試行錯誤されていて、こんなにパターンがあるなんて驚きました。」


「印象に残ったことは同じ英文を様々な英語で表現する大切さです。生徒が理解できていない様子だった時、日本語で意味を言ってしまえば一瞬で終わります。しかし、それでは元の英文も一瞬で頭から消えてしまい、英語の知識は何一つ増えないのだと感じました。たとえ時間がかかったとしても生徒の知識を増やすため、英語を英語で説明できる知識を私自身がつけたいです。」


授業前の準備に一番時間を割いたのがこの授業でした。」


「2年間静先生の授業を受けてきて、入学前よりも発音が上達したのを実感できます。もちろんまだまだですが、拙い発音をしている自分が恥ずかしいと感じるようになり、もっともっと上手く発音したいと言う気持ちです。静先生に出会う前は、発音には無関心でしたし、日本の英語教育では発音指導は不可能だと思っていました。しかし、静先生の指導法を受けることで、発音を指導できるような力量を持ちたいと思うようになりましたし、大切さも実感できました。」


グルグルのあの緊張感と焦りの中で先生にピンポイントで「だめ!」といわれるあの切迫された精神状態、あれは身につきます。あの空間はもはや吊り橋実験状態でした。」


埼玉大英語指導法B受講者感想より抜粋


全員の分はこちら→ https://sites.google.com/site/zukeshomepage/class/3-su/2011b/g-tefl

2/11/2012

英語は英語で教えるべきか? Yes AND No.

 平成25年度から施行される新学習指導要領には英語の授業は「英語で行うことを基本とする」という文言がある(らしい)。この文言が発表になってから教育現場ではその意図や可否を巡って多くの議論が交わされている(らしい)。「らしい」というのは、私自身は指導要領をきちんと読んだこともない(今後も読もうとも思わない)し、積極的にそういう議論を知ろうとしたり、そのテーマが特集に組まれている雑誌を読もうとしたり、研究会に顔をだしたりしないので、直接は大して知らないが、それでもいろいろな経路で間接的に耳に入ってくる、ということである。
 本稿では、「英語の授業は英語で行う」というテーマに関して思うことを述べたいと思う。ちなみに以下はあくまで私の思いであって、学習指導要領の意図の解説や解釈ではまったくない。宗教の経典でもあるまいしく、学習指導要領の一言一句を吟味して「その真の意味」を云々するほどfruitlessな時間の使い方はないと思っているからである。宗教の経典はすくなくとも恒久的に変わらないから、まあその一言一句を吟味するのは、その宗教に傾倒している方々にとっては大いに意味のあることであろうが、指導要領のようにコロコロ変わる「教典」の、そのcurrent versionを吟味することにどれほど意味があろうか。(それを心ならずもせざるを得ない立場になってしまった指導主事という公務員中間管理職の方々には心から同情はする。が共感はできない。)
 ということで、以下では個人の立場で、英語の授業を受ける生徒たちに資するためには、という不易の視点からのみ自由に論じさせてもらう。

■基本的には良いことである

 4年くらい前であったか当時の勤務先の研究室にいきなり見ず知らずの人から電話がかかって来て、この件について意見を求められた、というか議論をふっかけられた時は参った。電話をかけてきたのは英語教師ではなく、日本の英語教育に興味がある、というか英語教育を憂えている一般の人のようだった。そのような人がどうやって私のことを知ったのかは不明だが、ともかく

「今度、高校では英語の授業は英語で、という方針が出されましたが、それについて先生のご意見は伺いたい。」

というのである。相手がどういう人かも分からなかったのであまりうかつな事も言えないと思い、自分としてはごく中庸的なコメントのつもりで、

「まあ基本方針としてはいいことだとは思いますが、どういう英語を使うのかというのが問題とは思いますね」

と言おうとして「いいことだとは思いますが」まで言ったとたんに相手は、なんというトンデモないことを言うのだコイツは、といった調子で

「いいことなんですか~?!」

と素っ頓狂な口調で不満そうに遮ったものだ。言い分を聞いてみるとどうも、英語はきちんと日本語に直すことこそが大切だ、という考えの持ち主のようだった。議論に深入りせずに電話を切るのに苦労した覚えがある。
 この問いに対する回答が面倒なのは、問いかけている主体がだれであるかによって、答えを変えなければならないからである。

■運用力欠如ヘナチョコ教師には良い試練だ

 まず、

「英語の授業を英語で行うなんて、今までの自分の授業スタイルを180度転換しなければならない。和訳と文法解説しかやったことがない。自分は読解は普通にできるが話すのは正直苦手だ。発音も適当だし。だから生徒の前で英語を話したこと自体があまりない。」

といったレベルの英語教員が相手である場合なら、「英語の授業なんだから英語でやるのは基本だ」というカセをはめてやるのはその教員に担当される生徒にとっては長いスパンでみればプラスのことである。無理矢理にでも生徒の前で英語を話さねばならないとなれば、多少なりとも発音は気にするだろうし、つっかえつっかえでも英語を話すことになるだろう。下手くそな英語を聞かされる生徒には、とりあえずいい迷惑ではある。その英語があまりに下手くそであれば生徒の評価が下がる。誰でも評価が下がるのは嫌だから、名誉回復の努力をすることになり、数年スパンで、徐々に発音もfluencyも表現力も上がっていくだろう。そうすればその教員に担当される生徒全体にとっては利益となるだろう。
 私自身のことを考えてみても中学高校で教えている時、授業中は必ずオーラルイントロダクションというかインタラクションを行うと決めていたことで、3年、5年、10年とたつうちに運用力が向上したように思う。ここで言う「運用力」は単にペラペラと英語を話すということではなく、目の前の生徒に分かる英語で話す力という意味である。中1には中1なりの、中3には中3なりの、高2には高2なりの表現の範囲でどんなことでもなんとか大雑把にでも表現する、という訓練ができたからだ。

■訳毒大好き教師にもいい薬だ

 また、特に高校の教員に多いと思うが

「我が国の英語の授業の目的は、英文を精緻に分析して、対応する日本語に正確に置き換えるという知的作業を通じて、メタ的に考える力、論理的思考力、二つの言語を比較対照する分析力、知力、さらには教養を高めることだ。それこそが会話学校ではなく正規の学校教育の中で外国語である英語を学ぶ意義なのである!」

的な考えを持っている、いわば確信的「訳毒」主義者に対しても、「英語の授業は英語でやれ」というカセをはめてやるのは良いことである。彼らのやりたい日本語を道具にした英文についての解説や翻訳作業を封じこめることができるからだ。(学習指導要領がそういったからと言って、そういう方々が言うことを聞くかどうか別問題。その方向に促すのは良いことである、という意味である。)
 非常に大雑把に言って、英語の授業と呼びながら、50分間に聞こえてくる言語のほとんどが日本語である、というのでは、素人が考えても大した英語力はつくはずがないとわかる。特に英語の運用力はほとんどつかないだろう。
 そういう教員に対して、いままで授業のほとんどを占めていた「日本語での解説」作業を、強制的にでも授業中の隅に追いやる、あるいはほとんど禁止することによって、「じゃあ何をすればいいんだよ」と、立ち止まって考えさせ、あるいは追い詰め、抜本的な授業改造を迫る、という効果はある。つまり、授業中に使う(音読も含め)英語と日本語の割合が、1:9だったのを、せめて5:5とか、できれば7:3とか、英語の比重を重くしていく方向に一歩踏み出さざるを得なくなる、という意味で効果があると考えるのである。

■コンテント至上主義者にもいい薬だ

日本語での解説を多くしたがる教師の中に、上の文法語法大好き日英語比較対照主義者とはまたやや毛色の変わった一群がいる。彼らは、英語を含めて学校教育の教科・科目というのはすべて生徒の人間性や教養を豊かにするためにあるという考え(ここまでは総論としては誰も反対はできないのだが)を持っている。だから題材の内容を深く深く追求して生徒の知識を増やしたり、題材内容自体について生徒に考えさせたり、意見を形成させたりすることを第一に考える。そのための単なる媒体に過ぎない「英語」などという「くだらない」ものには、それほどこだわらず、どちらかといえばさらりと流してしまういわば、羊頭狗肉仮面英語教師集団である。
 戦争と平和とか環境問題とか人権とかの教材が好きで、それらについて熱く(もちろん日本語で)語り、背景に関する資料(もちろん日本語の)を配り、それらについて自己表現(日本語で。あるいは、正確性は二の次三の次の英語で)をさせることに使命感を持っているタイプである。俺は発音だの文法だのといったくだらないことじゃなくて、人間性の根幹に関わる教育者なんだ~、という感じだ。
 いわゆるコンテントベースというかグローバルイッシューをメインにした行き方も悪くはないと思うのだが、それはあくまで目標言語ですべての題材を与えて、コンテントに対する興味関心のあまり、その目標言語の題材も読んでしまう、また目標言語での自己表現を止むに止まれずしてしまい、その結果、目標言語の理解力及び表現力が向上する場合、ならば、という話だ。
 そのレッスンを終えて、例えば温暖化についての理解は深まったが、英語の単語も理解できる表現もほとんど増えませんでした、では何の授業だったのか、ということになる。
 そういう人々に対しても、英語でやるのを基本とせよ、という枠をはめてやることは良いことである。インプットもアウトプットも英語に限るという条件であれば、インパクトのある「重い」題材も時には悪くはないだろう。

■「コミュニケーションかぶれ」教師には逆のアドバイスが必要

では、逆に「英語の授業は英語でやるのを基本とする」という方針に対して、「それはよくありませんね。そういうことをやっているからダメなんだ」と言ってやらねばならないと私が思うのはどういう相手かというと、どちらかというと中学教師に多いと思うが、

「英語の授業とは英語によるコミュニケーション(活動)を行う場である。だから英語を使うのが当然である。英語を使ってどんどん自己表現させよう!自己表現命!」

みたいな人である。彼らは大学の英語指導法のクラスでそう習い、指導要領の解説を読み、現場に出てからは官製研修で指導主事にそう言われるなどして、そういうものかなあと思ってしまっているのだろうか。また、ALTに多いが、

「英語の授業では恐れずにどんどん英語を使わせることが最優先だ。その目標を達成するのを阻害することは一切やらない。発音の矯正なんてもっての外である。通じさえすればいいのだから文法だって多少おかしくたって二の次三の次! Don’t be afraid of making mistakes!  Don’t worry! English is fun!!  Let’s have fun with English!

と思っているような方々である。彼らは日本にきてそう指導されたからというよりも、communicative language teaching とか、task-based language teaching の流れをうけた話を聞いて、あるいは本を読んで、そういうものなんだ、と思っている(思わされている)のかもしれない。

教室はコミュニケーションの場所でなし

 まず、「英語の授業とは、英語でコミュニケーションをする場所である」という考えは根本的におかしい。おかしいというより、理屈として破綻している。これは英語だけに限らない。「英語」をどの言語に言い換えてもよい。「フランス語の授業とは、フランス語でコミュニケーションをする場所である」「韓国語の授業とは韓国語でコミュニケーションをする場所である」etc.
 どう理屈が破綻しているかというと、この考えは、○○語の教室は、その言葉ができない人が、できるようになるために通う場所である、という当たり前の事実に反するからである。
 「○○語の授業」というのは、○○語でコミュニケーションがができるように導くためも営みであって、○○語でコミュニケーションをする営みではない。
 たとえば私がドイツ語を身につけたくてドイツ語教室に通うとする。それはドイツ語でコミュニケーションができるようになりたくて通うのであって、ドイツ語コミュニケーションをするために教室に通うのではない。よく読んで欲しい。この二つは微妙に、しかし明確に違う。
 単にドイツ語でコミュニケーションをしますよ、と謳っているようなドイツ語教室にお金を払って通おうする人は、上級者以外にはいないはずである。ドイツ語でコミュニケーションするのではなくドイツ語でコミュニケーションができるようにしてくれる教室、そういう能力が育つような練習をさせてくれる教室に通いたいのである。
 単に目標言語でコミュニケーションしましょう、というような教室は、そもそも「教」室とは呼べないではないか。それでは単なる目標言語圏の街中、世の中と変わらないではないか。コミュニケーションできないから、できるようにしてもらいたから、わざわざお金を払って教室に行くのである。それが、「教えて」くれもせず、発音も文法も「直して」くれもせず、単に「コミュニケーションしましょう」というのでは、根本的になにか考え違いをしている。
 もう一度言う。教室はコミュニケーションをする場所ではない。コミュニケーションができるようになるための訓練をする場所である。

■意味のやりとりだけではうまくならない

 教師としてきちんと押さえねばならない点は、コミュニケーションすなわち意味のやり取りだけに集中していると、意味が(なんとか)伝わる、というレベル以上には媒体である目標言語の上達はない、ということである。
 端的な例が移民だ。移民はその目標言語の社会のなかで暮らすので、それに必要な最低限の正確性と流暢性を身につけるが、意識して努力しなければ、それ以上は何年そこに暮らしても上達せず、いわゆる化石化(fossilization)が起こる、という現象が知られている。
 考えてみればあたりまえである。毎日の生活に支障はないのだから、自分でそれいじょう向上しようとい思わせるインセンティブはない。また実社会の本物のコミュニケーション相手には、「あなたのこの発音はおかしいからこうしたほうがいいよ」とか「その単語は意味はわかるけど変だからこっちの単語を使ったほうがいいよ」「今の語順はおかしいから直したほうがいいよ」などという、無料の会話レッスンをやってくれるような暇人はいない。その結果、そのレベルの片言英語で一生終わることになるのである。
 また、身近な例では、日本における(普通の)ネイティブ教員の授業を見ればよくわかる。普通のネイティブ教員の授業をうけても生徒・学生は基本的には英語がうまくならない(少なくとも私が過去25年に見聞きしている範囲ではそうである)。なぜかというと普通のネイティブは英語しか話さないからであり、かつ、直接的に発音や文法語法を訂正しようとしないからである。
 先日、私がかつて大学院で教えた現職の中学の先生と出会って近況報告を受ける機会があったのだが、中で彼女が「ネイティブに教えてもらうより、日本人がきちんと教えたほうが、音読とかもよっぽどうまくなりますね」と言っていたが印象に残っている。
 まったくその通りなのである。このあたりの理屈は『英語授業の心・技・体』(研究社)の第1章に詳しく書いたのだが、簡単にいうと、かなりの程度英語がうまい日本人英語教師のほうが、ネイティブ英語教師よりも発音指導や音声指導の効果があがるのである。なぜなら、前者はどうすれば上達するかを「教える」ことができるが、後者は目標とすべきモデルを提示することはできても「教える」ことができないからだ。

■多くのネイティブ教員がダメである理由

 (普通の)ネイティブ教師の授業を受けてもなぜ生徒の英語が上達しないかを端的に示す典型的な場面を目撃したことがあるので、ひとつ紹介する。教育実習生が中学に実習に行った時の研究授業でのヒトコマである。この授業はティーム・ティーチングとして実習生とネイティブ教師が二人で組んでひとつの授業を行なっていた。その中でその授業でのターゲットであった構文(なんであったかはもう定かな記憶がない。状況から言って I will have .. とか、I like .. とかの構文だったか。印象が弱かったのである。)を使って、生徒がひとりずつネイティブのところまで言って話しかけて、よければ何かのポイントをもらう、というような活動が行われた。印象に残っているのは、ひとりの生徒が

あい~わんとぅうばい~ はんばあがあ~

と必ず母音を中核とする日本語の音節だけを使って、個々の音もプロソディもバリコテのカタカナ英語で話しかけたのに対して、そのネイティブは、

Oh, you want a hamburger! Ok.

と受け止めて(というか、受け流して)次の発話を促していた。別に珍しくもない、よく見られる光景だと思う。
 もちろんネイティブなので発音は英語として適切で、生徒のもともとの発話にはなかった冠詞の a も補っている。つまり、生徒の不完全な発話を引きとって、それを正しい形に直したものをオウム返し的に繰り返している。
 第2言語習得理論の用語では recast (つまり、正しい鋳型に再び入れなおしてやること)と言われることのある手法である。学習者が英語圏で生活していて教室を一歩でれば「正しい」英語が溢れ、自分の現地の知人たちも全部そういう「正しい」英語をしゃべるので自分もそのようになって仲間入りをしたい、と強く感じているような状況であれば、そういう recast を繰り返していれば徐々にそのフィードバックが有効に働いて、その学習者自身も「はんばあがあ」でなく a hamburger と言うようになるのかもしれない。
 しかしここは日本である。日本の学校の英語の教室では残念ながらそんな魔法のようなことは起こらない。単なる正しいモデルを提示する、あるいは正しいモデルに exposeするだけでは、生徒の口からでてくる英語の質にもたらす変化は控えめに言って minimal である、というのは、中高の現場の教師ならだれでもよく知っている。現に上の例の生徒は3年生であった。英語を始めて3年もたった時点でこの状態だった、ということ自体が、この方法で教えていても効果がないということの動かぬ証拠である。

■「わからないフリ」をしてこそALTの存在価値がある

授業が終わったあとでこのALTと話す機会があったので、私は、

「生徒が日本語的な発音で話しかけてきたときに、わからないふりをすることはできないかな?日本に住んでいると徐々に日本人英語にも慣れてきて実際にはわからないわけではないかもしれない。でも、ハンバーガーっていう発音を聞いたときに What? What did you say? I don't understand. Could you say that again? のような演技をしてもらって、試行錯誤のすえに生徒が hamburger と言ったときに初めて、Oh, you mean "hamburger!  のように大げさに分かったフリをしてくれると、それで初めて生徒は適切な発音が大切だ、と思ってくれるんだ。」

と言ってみた。が、彼は微妙な顔をしていたのを覚えている。
この「適切でない英語はことさらわからないフリをする」「英語が適切であったときに初めて分かったフリをする」という役割は、生徒と母語を同じくする我々日本人英語教師には演じるのが難しいものなので、この部分は是非ネイティブに担当してもらいたいものである。
 ところが現実は、英語がいまひとつ適切でないと思っても、それは見て見ぬふり、あるいは耳をつぶって、「オーケー、オーケー!わかるよ~! 通じるよ! 君の英語は通じるよ! その調子でもっともっと話してごらん~!」という対応をする。から、生徒は悪い気はしないのだろうがが、反面、まったく上達はしないのである。

■ではどうすれば良いというのか

 授業を英語で行うのか行わないのか、から少し逸れたので話を戻し、私の考える母語と目標言語の使い分けの指針を以下に示す:


<指示は日でも英でもよい>
 いわゆるクラスルームイングリッシュ、つまり教室内で教師が生徒に与える指示の英語(教科書を開きなさい、後について読みなさい、ペアを作りなさい etc)については、英語で行いたければ英語で行なっても良い。しかし私が見聞きする範囲では、適正な発音でクラスルームイングリッシュを使いこなす教師はかなり少数派なので、一般の教員は細心の注意が必要である。時間をかけてまだるっこしく英語で指示をだしながら、その英語の発音がLRもめちゃめちゃで、VBもなく、SHSもごちゃごちゃで、thzも一緒だ、というのであれば何のために聴かせるのか、ということになる。そんなgarbageで指示するくらいなら、美しいネイティブ日本語で指示を出したほうがよほど効率的だ。 私自身は現在は英語による指示はほとんど出さず、日本語がほとんどである。指示まで英語にしてしまうと、以下に述べる意味理解と合わせてほとんどすべて英語になってしまうので、メリハリがつきにくい、という感じを持っているからである。

<本文の意味の説明は英で>
 クラスルームイングリッシュは使っても使わなくてもいいと思うが、どうしても英語を使わねば、そして使わせねばと思うのは、本文の意味内容を説明・表現する活動である。英語の本文を、手持ちの英語を使って言い換えるとか、具体例をあげる、などして表現する、という意味だ。
 そして一見逆説的と思われるかもしれないが、そのためには和訳や日本語での説明をを積極的に併用してもよい(あるいはすべきだ)と思っている。事前に和訳を配る、あるいはその場で対訳形式で配るなどして、生徒が1文ずつの和訳を見ている、あるいは頭に入っている状態で、その英文の意味をパラフレーズや噛み砕き英語によって説明する、ということだ。(和訳は文が長い場合は英文を意味の切れ目ごとにスラッシュを入れ、そのスラッシュごとの和訳を提示するなどして、日英の語順の違いの壁を超える工夫も必要である。)これを私は「字幕メソッド」と読んでいる。洋画の英語セリフを日本語字幕を見ながら聞いているイメージだ。日本語で意味がわかると、その助けがなければおそらく聞き取れない英単語が聞き取れる、という経験は誰にでももあると思う。「字幕」を示すことによって効率的に生徒の意味理解を確保した上で、その意味を表現する英語を聴かせる、という活動だ。
 視覚情報は強いし、日本語は生徒にとって母語なので、目で一瞬見るだけで書いてあることを理解できる。意味を知った上で、その意味を表現する英語はどのようなものか、に意識を集中することができる。日本語の意味を確認してから、英語で言ってみる、よりも時間が2倍節約できる。
 つまりこの活動で狙っているのは、単なる本文の意味内容把握ではない。それに加えて表現力の増強、手持ちの語彙・表現の活性化、passive vocabulary active vocabulary化である。

<形式に対するフィードバックを日本語で>
 そして絶対に日本語できちんと行わないと効果がないのが、生徒の生成する英語自体に対するフィードバックである。生徒が音読した英語、自由に発言した英語、書いた英語に対して、発音、リズム、イントネーション、語法、語の選択、文法面の評価とアドバイスをする、とい意味である。そしてこれはそれぞれの発音の直後にしないと効果がない。
 今の中学でも高校でも、最も欠けているのがこれである。生徒に何か言わせて発音のダメ出しをする。何か書かせて語法や表現にダメ出しをする。そういうダメ出し、すなわち
「今お前が言った英語はこういうところがダメだ。それをダメでなくするためにはこうする必要がある。そこを直して、さあもう一度言ってみろ」

という具体的で建設的なフィードバック、という意味である。そしてフィードバックによって一時的にでも改善したならば、

「そう、そう! それだよ。それが正しい英語だ。それをよく覚えとけよ。」

と、positive feedbackをするのである。こういう褒め言葉は、むやみやたらに連発せず、欠点が改善された時にだけ選択的に使用することが何よりも重要だ。
 最近は、生徒に「自己表現」(自分の考えなどを口頭で発表させること)させ、「そういう時は発音や語法にはあまりこだわりません。恐れずに英語を言う姿勢を伸ばしたいと思うからです」的なことを言うひとが多いのだが、大間違いである。カタカナ発音であろうが、平板モノトーンであろうが、文法が間違っていようが、何でもかんでも グレート! エクセレント! サンキュー! と賛辞の大安売りをしているようでは、曲がりなりにも人前で英語を口にした、という体験ができた、という以上の意味はその活動にはなくなってしまう。せっかく英語で何か発表させたのに全く意味がない。
 ある日に、低いレベルの英語で「自己表現」した生徒がいたとする。教師は英語に対するフィードバックはせず、内容に対して、あるいは堂々と話したことに対して Excellent! と言って空疎な励ましをする。もし次の日に同じ課題を同じ生徒にやらせてみたら、また同じレベルの英語を言うだろう。その次の日にまたやらせてみたら、また同じレベルの発音で同じレベルの語法で同じレベルのスピーチをするだろう。それを100日間繰り返してみても、発音と語法はまったく変化しないだろう。せいぜい、そのカタカナ英語を早口で言えるようになるくらいだ。当然である。フィードバックがないのだから。

20年前の自分を見て感じる誇り...

 私は教員生活の最初の15年間ほどは、中学でも高校でも授業はほぼすべて英語で行なっていた。教室内の活動の指示も、内容面の活動もすべて、である。経験のない人は誤解しているが、中学でのオールイングリッシュ授業は高校よりむしろ容易い。なぜかというと、使える(と言うより、使わねばならない)単語・表現が限られているからである。限られているのだから、その限られた枠内でだけ勝負すればいいからだ。例えていうなら、クローゼットに50種類の服がある場合に毎日何を着ていくかをあれこれ考えるより、5種類しかない場合のほうが、来ていく服の組み合わせを考えるのが簡単なのに似ている。話が単純なのだから、似たような組み合わせをくり返せばよいのだ。
 幸いなことに中高一貫校だったので、同じ生徒たちを中1→中2→中3→高1と持ち上がることができたので、中1のABCから始まって徐々に使える単語を増やしながら、表現できる内容の幅も徐々に増やす、というトレーニングを(私も生徒も)積むことができた。中学を持つと、たとえ高校レベルの教科書本文であっても、必要に応じて中3レベル、中2レベル、中1レベルの英語で説明することができるようになるのである。相手のレベルに応じて自由自在に英語のレベルを調整して話せる能力というのは、英語教師にとって何よりも重要なものだ。
 その後は高校に移ったが、そこでも同じ生徒を高1→高2→高3と担当し、さまざまな中学から入ってきた生徒たちであっても最初からすべて英語漬けにし、高2の段階では三省堂のクラウンのかなり抽象的な内容の本文であっても、英語による説明を聞いて理解できる生徒を育てることができていた。1989年に語学教育研究所の大会で公開授業として行ったEdward SeidenstickerWords and Silenceをテーマとした授業(録画DVDをジャパンライム社から以下のサイトで購入することができる)


は今見なおしてみてもかなり高度である。「アメリカ人と日本人は沈黙というものに対する考え方が異なり、日本人はアメリカ人ほど沈黙によって居心地が悪くなることがない。それは日本人がコトバというものを基本的にそれほど信頼していないからだ」という抽象的な内容を、生徒に身近な例を引きながら解説し、「不言実行」という日本語の表現を出して本文内容を掘り下げて解説している。一方的な解説ではなく適宜生徒に応答を求めながら冗談を飛ばしてそれに生徒が爆笑するという場面もいくつかあり、生徒が授業内容を理解していることがよくわかる。
 現在、大学の英語科指導法の教材としてこのビデオを見せるとがあるが、1989年の時点であれだけの生徒を育てることができていたという点は自分でも誇らしく思う。教師に運用力さえあれば、すべて英語で通すことなどは全く難しくない。難しいのは、そのような授業に耐えられる、そのような授業にきちんとついてこられる「生徒」を育てることなのだ。だからあのビデオをみて私が誇らしく思うのは、自分がオールイングリッシュの授業ができていることではなく、そのような授業にきちんとついてこられる生徒を育てられていたこと、なのだ。

... と反省その1:ペアワークの欠如

しかし誇らしさと同時に、後悔を感じる点が2つある。それは(1)生徒同士の英語による発話(ペアワーク)がゼロであることと、(2)生徒の発音を直接的に訂正していないこと、だ。
 全体に対して英語で発問をし、一瞬間を置いてから個人を指名し、その生徒の答えを待って、その正しさを確認、もしくは一部内容的な部分で訂正をして、また次の発問に移る、というサイクルをすべて英語で繰り返している。だから指名されていない生徒は頭の中で考えてはいるだろうがずっと黙っているわけで、英語によるオーラルイントロダクション(本文の背景知識に関するやりとり)の15分と本文の構文や意味の吟味20分を合わせて35分くらいはほとんどの生徒は表面的にはじっと黙って座っているだけだ。(ちなみに次の10分はコーラスリーディグをして、最後の5分は、パラグラフごとに教科書付属テープの音声を聞かせて、その内容を個人を指名して英語で要約させる、という活動をしている。)
いまの自分がタイムマシンに乗ってあの教室に戻ることができたならば、発問の2~3回に一回は全員に問いかけたら個人を指名する前に、ペアで英語で答えを言い合ってごらん、とするか、あるいは、発問に対する正解を確認した直後に、そのQAをペアで再現してごらん、といった形でペアワークをいれこんでいくと思う。 そのほうが生徒の発話量が確保されて練習にもなるし、授業の雰囲気を柔らかくすることができるからだ。
 ただこの点の後悔は実はそれほど強くは感じない。というのは、あの授業はあれはあれで、リスニングとリーディングに焦点をあてたものであって、スピーキングは別の授業で十分やっていたという思いがあるからである。あのWords and Silenceの授業の直後の時間は、やはり私が担当していた別の英語科目で、こちらのほうが1時間中生徒にスピーキングをさせていた。私は最初から最後まで教室の後ろに座り、予め決めておいた手順に従って、生徒のprepared speechとそれに続く質疑応答、そのprepared speechに対する即興反駁スピーチ(ディベートの反論のようなもので、自分の意見とはかかわりなく提示されたスピーチの内容の反対のことを言うという練習)という組み合わせをふたつ、あらかじめ指示してあった題材についてのミニディベート、最後にその話で題を与えての即興スピーチ、という内容の授業である。こちらのほうもペアワークがないので、役割に当たっていない生徒は圧倒的に黙っている時間が多いので、今の私だったらやはりペアワークを取り入れただろうとは思うが、生徒に喋らせる時間はある程度は確保していた。

■反省その2:日本語によるフィードバックの欠如

 しかし生徒にペアワークをさせていなかったという後悔よりもずっと強く痛みを感じるのは、ビデオの中の生徒たちの発音をその場で直していないことなのだ。もちろん当時から発音には人一倍厳しかったので、一斉音読の時はフィードバックをしていたと思う。だから平均的なレベルとしては一般の高校生よりもかなり上である。しかしその基準に満たない生徒もいた。あのビデオの中でも、指名されて答えるのに、あきらかに母音挿入をしながら、「ああして~、こうして~」という単語ごとにpitchを落とす例の日本語的リズムで応答している生徒もひとり映っている。
 あの場面を見るたびに私が心が痛むのだ。なぜならば今私が教えている生徒たちに比べると明らかに発音の質(の下限)が低いからだ。今の自分だったらもっともっと上手くしてあげられたのに、あの時の生徒Uに申し訳なかった!!という気持ちが疼く。
 当時は英語の授業は英語で通すのが一番望ましいのだ、という根拠のない思い込みとこだわりがあったため、英語でのやりとりを途切れさせることができなかった。日本語で発音フィードバックをしてしまうとオールイングリッシュの流れが途切れてしまうような気がしてそうはできなかった。またこれは自分の運用能力がいまよりの低かったためだと思う。現在であれば、日本語で意味を言って、それを英語で言って、次の事柄を日本語で言って、それを英語に直して、といった言語間のスイッチングはseamlessにほとんど抵抗なくできる。だから基本的には英語で話していても、必要と思えばちょっと日本語を使い、またすぐ英語の流れに戻る、ということにまったく抵抗を感じない。しかし当時は、英語では話すことの敷居がいまよりも高かったため、せっかくその英語ワールドの中にいるのに敷居をまたいでいったん外にでて日本語ワールドに出てしまうと、もういちど敷居をまたいで英語ワールドにもどるのが心理的に大変だったのだと思う。
またくだらないプライドもあった。とくに公開授業であったため「メンツ」もあって日本語を使うことができなかった。靜はオールングリッシュで授業しているんだ、という「名」が欲しくて、生徒の英語をうまくするためには何でもやる、という「実」が取れなかったのである。
 今であれば、生徒の発音がイマイチだったら、または表現や語法がイマイチだったら、recastなどというまだるっこしくて効果がでるのに何十年もかかるような方法を取らず、さっと日本語に切り替えて、

「ほら! RLになってるぞ!」
theはザじゃない! ちゃんとth発音せい!」
「ちょっと待て。そういうリズムはやめろ。何度も教えているように英語のリズムでしゃべれ。こんなふうに。」
「今お前が言ったのはこれこれだが、時制がおかしいだろ。これこれが正しいから、もういっぺん言い直せ」

のような直接的かつ明示的かつ否定的なフィードバックをする。そして、言い直した英語の質が良くなっていれば、「そうそう、それでいい。いつもそうしろよ」と肯定的フィードバックをする。
 そのようにしたほうが、1年たち2年たったあとの生徒の英語の質が高くなることを今は知っているからだ。

■まとめ: 生徒の口からは英語を、教師の口からは日本語も

英語の授業の目的は、生徒の英語運用力(理解力および産出力)を高めることである。そのためには生徒に英語を使わせる(アウトプットさせる)ことがもっとも大切である。アウトプットのためにはもちろん自分がアウトプットしている英語の意味が分かっていることが大前提であるので、その前提を確保するためには、インプットとして英語だけでなく日本語も大いに活用すべきである。教師は日本語もちいて英語の意味内容を理解させたうえで、生徒の口からは徹底的に英語を引き出すべきである。
 そしてさらに大事なことは、英語を引き出したなら、その英語の質をもっといいものにする努力をすべきである。そのフィードバックは母語を使ってなすのがもっとも効果的である。せっかく教師と生徒が母語を共有しているのだから。母語を使って明示的にフィードバックをしながら、生徒には徹底的に目標言語でのアウトプットを求める、のが正しい行き方である。
 そういう意味で、「生徒には必ず英語を使わせ、教師は必ず日本語も使う」というのが、日本の英語授業のあるべき姿である、ということを指摘して結論としたい。これは学習指導要領が今後どう流行しようが不易の部分だと私は考えている。

2/08/2012

だからダメだよ生徒指導

場面 ある高校の廊下で

教師: こらA、セーター着るなら着る、着ないなら着ないってちゃんとせんかい!
生徒A: なんで?
教師: そら、お前、学校のルールで決まっとる。
生徒A: そんなルール俺、関係ない。
教師: だめだ、ちゃんとやれ。
生徒A: (立ち去りつつ)関係ない。
教師: (立ち去るのを見送りつつ) ちゃんとやっとけよ~
生徒A: (適当に片手をヒラヒラさせて、はいはい、みたいなジェスチャー)

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講評:

第1に、生徒に「なんで?」と言われた時点で、どうして、「学校のルールで決まってるから」などという他力本願の応答しかできないのか?

だらしないのはよくない。だからやめろ! きちんとしろ! と「頭ごなしに」悪いものは悪い、と自信と確信をもってなぜ言えないのか?!

つぎに、「学校のルールなんか俺には関係ない」 という暴言を見過ごすのは有り得ない。社会だろうが会社だろうが学校だろうが家庭だろうが、いま所属している空間の「ルール」を守る、のは基本的な条件であるはず。

絶対に許してはいけない。

ここのルールなんか俺には関係ない、と言い放つ生徒に対しては、その場がどうなろうとも、たとえ緊迫しようとも、絶対に許さない、という姿勢がなぜ取れない?

許していい発言とそうでない発言がある。

そういう発言を許容して、口先だけで、「やめろよ」なんて言っているから、生徒に見切られている。

2/03/2012

授業の終わり

すべての授業が終わってしまった。

喪失感あり。

若い彼らには、ひとつでもふたつでも、大切なことを伝えられただろうか。

89年の語研大会公開授業を視聴させた学生感想


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 今回の授業を見て、生徒から答えを引き出すことの大変さがよく分かりました。うまく引き出すためには、どのように質問するか、どんなヒントを与えるかがとても重要だと思いました。生徒に答えてさせたい答えをさせるためには、どうすべきか考えてから質問すべきです。そのためには、授業前に考えておく必要があると思います。
 また、静先生は生徒の答えをしっかりひろってあげていました。生徒はがんばって答えているので、きちんと受け答えてあげることが大切だと思います
 すべて英語を使って行う授業であり、本文を読み進めるさいもすべて英語で行われていました。先行詞の位置の確認や、単語の言い換えも英語で分かりやすく説明されていました。英語で授業を進めるためには、事前に準備が重要となってくると感じました。


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 先生は、この授業を見せる前に、ペアワークなどが入っていないけれどとても参考になる授業ですと言っていました。私はこの授業を全部見終わってその意味をとても強く感じました。生徒達の集中力が欠いてない事や生徒達のリアクションからわかりました。ところどころに先生のユーモアな体験話や地元の話が出てきて聞き入っていると、英語を一生懸命に聞き取っているという感覚がなくなって英語のやりとりに頭が慣れて本文にも入りやすくなっていました。また、先生はこの授業で生徒達全員を相手にして英語で授業を行っていましたが、まるで個々に英語で会話をしているように見えてきました。教科書に沿ってどんどん進めることが目的ではなく、教科書を生徒とつなげるために簡単な英語でかみくだきながら、対話しながら進めていくことによってそのような感覚を受けたのだと思いました。文のキーワードは、単語を言ってその定義を言うのではなく、質問をこちらから投げかけて生徒の口から出していくというのは印象に残る度合いが断然違うと感じました。また、生徒が答え詰まっているときに、タイミングよく違う角度からの質問をして答えを導いていたタイミングなどが参考になりました。私の中学・高校の今まで受けた授業で先生が生徒に質問や指名をして「シーン…」と沈黙な空気が流れることや、自分自身もあてられて答えが詰まったときにずっとシーンとしてしまうのがとても苦手でした。なので、ちゃんと実力を持ってこのように対話ができることが大切だと学びました。

>>そうですね。すべては教員側がやさしい英語を「使いこなせる」のが前提です。


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 今回の授業はいつものグルグルなどの体験的な活動を行うのではなく、教師が解説し、ときどき生徒に質問を投げかけ、答えさせるというものだった。今回印象に残ったのは二点ある。ひとつは、基本的に教師は英語を用いていたことだ。英語だけで授業を運営するというのは最新の方法ではなく昔から実践されていたのだと知った。英語で授業をするというのは、ただ単に教師側が英語をしゃべればいいのでではない。生徒たちに英語で考えさせるところに重点を置くことが大切である。英語を使って授業をするとはそういうことである。したがって、英語で日本語の答えを求めても意味がない。英語を教える側の目的は、生徒たちに英語的思考を会得させることであり、和訳させるだけでは不十分なのであると考える。そもそも体系が異なる言語なのだから、論理的に異なる方法で考えなければならない。日本語で考えていたら英語は身に付かないのだと考える。もうひとつは、投げ方にひと工夫あった点である。文章全体の中で大切なことを生徒たちが自ら推測し答えられるように促していた。生徒たちは文章の内容の重点を抑えながら、そして同時にその重点について英語で考え推測しながら授業に臨んでいた。「はい。」や「いいえ。」で答えられるような単純な思考を要求したところで意味はない。文章がどういう展開がなされていて、どういう内容であるかわかっていないと答えられないような質問でなければいけないと分かった。


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高校生の私があの中にいて先生に「***、どう思う?」と聞かれたら「I dont know.」しか答えられないかもしれません。最初は、あの高校のレベルが高いのだろうと思っていましたが、先生からのメールを頂きハッとしました。教師が生徒のレベルを引き上げるのは当たり前、まさにその通りですよね。先生の授業では、生徒はとても真面目で、しっかり英語で受け答えができていて、授業に真剣に挑む心意気が感じられました。私とそれほど年齢が変わらないのに生徒を引き付けるような授業をしていた先生を改めて尊敬しました。
また、先生が和訳を生徒に先に渡すことで時間を短縮でき、さらに日本語で内容を理解したことで生徒がみな同じ位置から授業を受けることができ、とても効率がいいと思いました。本にも書いてありましたが、私の時代では「英語=和訳」というイメージしかなく、英語の時間なのに英語よりも日本語をたくさん書いた記憶があります。これでは英語を十分に学ぶことはできません。例えば発音の指導など皆無に等しく、最近までtheを「ザ」と言っていた自分を恥ずかしく思います。和訳の時間を生徒から削ってあげることで、生徒は英語をたくさん学ぶことができるので羨ましいと思いました。
小学生の授業では、小学生よりも先生が楽しそうでした。お手本となる先生が楽しそうだと児童もつられて、楽しい内容の授業がもっと楽しくなるのですね。また、教材で箱から箱がでてくるものがありましたが、生徒がみんな大笑いしていて、楽しそうでした。笑ったことでリラックスでき、意欲的に学習に取り組めそうだなと思いました。先生の授業は厳しくもありますが、笑いもありいつも楽しいです。いつの時代の生徒もそう思いながら受けていたと思います。

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まず今回の授業を見て思ったことは先生がとても若いということです。びっくりしました。別人かと思いました。おもしろかったです。今回注目したいのは生徒になるべく答えさせる、その引き出し方です。授業でも触れていましたが、生徒の集中力を持続させるには生徒にこたえさせることが必要になってきます。答えられるというのはつまり授業を聞いているということです。質問文ではなく、普通の文で語尾をあげる、空欄を作って答えさせる、文脈や時には後に出てくる文もしゃべって、空欄を考えさせる。これは僕も授業中にやりましたが、非常に難しかったです。もうひとつ注目したいのはすべてを英語で行う授業についてです。これに関する僕の意見は先生とほとんど同じです。状況にもよりますが、すべてを英語でやる必要はないということです。しかしこれはやる必要はないということで、やれないからやらないとは別のものです。英語で生徒に授業するというのに僕は全く賛同できません。前にみた授業では専門が体育の先生が全部英語で説明している授業を見ましたが、ひどいものです。文法はめちゃくちゃ、単語だけで説明、ひどい時にはジェスチャーのみで説明をしていました。もう何がしたいのかわかりません突然外国に放り出された人みたいでした。そんな授業を受けるなら日本語でやることを説明してから、英語活動を行う方がましです。それは極端な例だとしても、どんな英語教師だって日本語の方がしゃべりやすいと思います。ほとんどの生徒が日本語の方が理解できると思います。もし将来僕がそんな授業をしろと言われたら、洋画でも流してやろうと思います。その方がきちんとした英語に触れられると思うからです。

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・ビデオの感想
 私は今回の授業を行ったクラスを初めて拝見したので、まず20年前の映像なのに授業が全て英語で行われていたことが凄いなと思いました。私は小学校で教育実習をした際、授業の導入をどうしようか考えていましたが、導入はあくまでも導入なので5分もかけずに導入を終わりにしていました。しかし今回の授業の導入は結構長い時間とっていたように思えます。(小学校と高校とでは授業時間が違うのでという理由もあるかもしれませんが)授業では導入で如何に生徒を惹きつけるかがポイントになると思います。そこでは生徒に発問を投げかけたり、させたりすることが大切かと思います。先生の今回の授業では地元居酒屋のローカルネタを用いたり、生徒に質問を投げかけたりしていて、しかも流れるような話で凄いなと思いました。内容理解ではただ英語を読んでいるだけでなく、一つ一つの言い回しをそれとなく提示したり、時には文章中にある単語が何を指示しているのかを生徒に質問したり、説明したりしていて一瞬たりとも気の抜けない授業だと思います。歌やグルグルの無い授業だったのですが、単元を通して考えると今回のような授業をはさむこともメリハリをつけて、大事だと思います。

>>授業のパタンのレポートリーがいくつかあるとよいです。

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今回の靜先生の授業は、今まで受けたことの無い授業だったので、とても新鮮な感じがしました。生徒から答えをどう引き出すかを考えて、例を出しながら行う…上手くやるには訓練が必要だとは思いますが、上手く出来るようになったら生徒に確実に英語力を付けられる、影響力の強い授業だと思いました。そう思った理由は、導入の時点で内容が取り入れられているので、内容理解も深まると思ったからです。私が高校生のときは、単語を調べ、意味を書き出すだけで内容把握は授業時に行うという感じでした。確かにそれでも予習になりますが、この授業で求められる予習とは内容にかなり差がでます。また、授業では先生の発する質問に対して答えることも求められているので、自分の理解してきたものを自分の言葉で表すことにもなります。これで、言語活動もすることが出来るのだと、驚きました。だから、この授業ではいろんな力を育てられると思いました。予習の段階ではリーディングとして内容を把握し、授業で教科書を使わずに教師の音声のみで導入を行うことによってリスニングによる内容把握が始まります。また、教師側が質問を投げかけることによって、答えるのにスピーキングの能力も使うので、確実に英語力がついてくると思いました。導入の段階でこれだけの力が求められるので、予習の段階でかなりの準備が必要になってきますが、そういったものの繰り返しによって英語力をかなり確実につけていくのだと思います。こういう授業ができるのが理想ですが、教師自身のトレーニングも必要です。つまり、教師も生徒も高めあえる素晴らしい授業だと思いました。とても参考になりました。ありがとうございました。

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日本人に英語が定着しないのは、日常の生活で英会話が耳に入る場面が少ないからだといわれる。英語のみで授業を進めるということは英語だけで展開される場面を日常である学校生活の中で作り出し生徒に英語を聞きならせられるという点で有効だ。ただしそれは英語を聞き取る能力が十分に、ではなくともある程度身についている生徒に対する授業にだけ当てはまる有効さだと思う。私は聴覚と視覚、相互からの作用があることでリスニングの能力は鍛えられるものだと考えている。そのためたとえ教師が生徒に簡単な答えを求める単純な質問をする時でさえ、黒板に書いた英語もしくは日本語を指し示すことやジェスチャーを交えて意味をアピールすることも大事なのではないかと切に思う。中学生のころの先生に「授業はすべて英語で進める」のポリシーを年度始めに高々と宣言した英語科の先生がいた。実際、挨拶から指示出しから説明についても英語で教壇に立つ先生で、生徒も毎日の挨拶、たとえば天気はどうですか、今朝は何を食べましたかなどの質問は理解でき応答もして、教科書の何ページを開きなさいの指示もわかるしもちろん続けて読みなさいの指示にも応じることができる。ただ、説明ともなると聞きなれないわからない単語のつながりに生徒の頭上には、はてなが浮かぶのである。結局、教室内のひそひそ声ががやがやに拡大し異変に気付いた先生が日本語で言いなおすのである。そんな経験があって私は英語のみで進行される授業を自らが行おうとは思わない。ただ、工夫をしたうえでの英語進行授業の実施は可能だと思う。たとえば、よく質問で使うフレーズのプレートを作成して黒板にはり示したり、前回の授業で靜教授が実践した例として挙げていたが教壇上では英語、机間指導の際は日本語というように言語を使い分けたりなどのサポートである。これらの工夫で聞き取りに苦しむ生徒への援助をした上で、英語で進める授業を軸とするならば、どの生徒にも授業で身につけてほしい効果を享受させることができるだろう。

>>内容理解こそ、英語でトライしてもらいたいですね。和訳も併用でいいから。

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 All Englishの授業についての感想を書かせていただくと、授業を英語で行う場合、生徒達にとっては日頃聞きなれてない言語であるので、全てを一度で理解するには少々難しいと思われますが、今回の授業を見させていただいて、多くの生徒さんたちが、先生がお話されている間も、何度も首を立てに振って頷いていて、All Englishでも十分に理解できていることが見て取れる授業でした。
今回の授業では、生徒さん達が理解するのに難しいと思われる言葉・表現は、違う言い方に変えて何度も何度も言い直されていて、英語のみで授業をする場合、生徒さん達に伝えたいこと、問いたいことを表現するためには、豊富なボキャブラリーとより分り易く簡潔な言い回しを考える能力が要求されるのだと考えました。


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 今回ビデオを視聴して思ったことは、all English の授業を行う時には、生徒が必死になって答えた内容に関して教師がしっかりとリスポンスするということ、生徒がなかなか答えを言えない時にさりげなく助け船を出すことが大切である、ということである。英語が得意な生徒に関しては、内容面だけではなく発音に関してもしっかり指導することで、生徒の英語力を向上させることができるし、英語が苦手な生徒に対しては、教師は簡単な英語表現を用いることで、生徒から答えを求めることが必要になると思った。それから、all English の授業では、生徒のレベルによって発問の仕方や表現を変えていかなければ、流れが悪くなってしまうので、教師はそうした点にも注意しながら授業をしていかなければならないと思った。また、授業を行う中で、教師のうんちくは非常に有効なんだな、ということを感じた。授業の合間にそうしたうんちくを言うことは、授業のリズムを整えると同時に、授業の雰囲気をより楽しくすることにもつながる。教師は授業を行う前に、授業の内容に関わる内容の話を用意しておいた方がいいな、と思った。


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 オールイングリッシュと聞くだけで難しいなというイメージを持っていましたが、実際に見てみると、文法も中学校レベルでとてもわかりやすいものでした。授業のスピードとしては少し速く感じましたが、生徒は予習してきているということで納得できました。ビデオを見ながら考えていたのは、「自分は英語で生徒にわかるように世間話を出来るのか?」「教科書本文を基にした質問をあんなにテキパキと生徒に尋ねられるのか?」ということです。もちろん、授業をする前に予習すると思いますが、それにしてもあの臨機応変さはまだ私にはありません…。授業後に、「教員になって23年後に今日のようなオールイングリッシュの授業はできるか?」と先生に聞かれましたが、今の私では無理です…。でも、それは“今”であって、必ず将来あのような授業をしてみせる!と強く思いました。中学生相手でもオールイングリッシュをやっている先生はいらっしゃると思いますし、使える語彙も高校生と比べると少ないのでより難しいと思います。でも、だからこそ出来るようになりたいと思います。残り数回ですが、盗める物は全て盗みたいです!

>>盗んでね!

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Words and Silenceの授業では、先生が教科書に書いてある英語を次々に生徒にとって分かりやすい英語に換えて生徒に示しているのがとても印象的でした。というのも先生がいった内容を必死でメモしていたためにそこに意識が集中してしまったのかもしれませんが、英語を英語で説明して理解する授業でここまでスッと頭に内容が入ってくると生徒達も気持がいいだろうなと思いました。それは生徒達が普段からこのような授業を受けているからというだけではなく、先生が生徒に分かりやすい、分かる英語で例を示しながら話しているということが大きく関わっているのではないかと思いました。普段大学の講義でも先生は適宜に英語を使って講義を行ってくださいますが、その時も分かりにくい表現の場所には例を示して何回も説明してくれたり、分かりやすい表現に変えたりして示してくれます。All Englishの授業では、時に先生は確かに流暢に英語を話しているけれど、生徒からしてみるといまいち先生が何を言っているのかよくわからないなという授業が起こるといいますが、靜先生の授業を受けていてそう感じることがないのは「普段通りに英語で話すこと」と「生徒に分かりやすく英語を話すこと」の区別を持って話しているからなのだなと感じました。また、前回の講義で小学生にAll Englishで授業を行った際の風景を見せていただいたときに、最初はどうやって小学生相手に行うのだろうと思っていたのですが、やり方と先生の技量次第では小学生があんなにも楽しそうに参加している授業を作れるのだなと思いました。前回の課題であったWord and Silenceのパラフレーズでは時間がかかっただけでなく、いかに自分の産出語彙が少ないのかも痛感しました。生徒に分かりやすい英語にどんどん自分の中で英語を消化して変換できるように、英語の学習にこれからも精進していきたいと思います。

>>精進、期待してます。

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 All Englishの授業とは、英語を使って授業を進行させることであると私は考えていました。「教科書を開いて。」「2人組になって。」「この英語を日本語に直して。」これでは、ただ「英語で指示を与える授業」であり、まだAll English の授業とは言えないことがわかりました。英語と日本語で単語の意味が11に対応していることはほとんどないと思います。新出単語を扱う際に、そのことを日本語で言うだけで終えるのでなく、同じ意味の違う単語に置き換えたり、societyの例のように言い換えたりして、実際に使ってみせる(聞かせる)ことで、生徒の視点と思考回路を増やす働きかけをしていく力が教師の側に求められるのだと感じました。
 また、生徒が授業に参加しやすい状況を作っていくことの重要性を再認識させられました。他の教科と比較し、使われている言葉が違うと生徒は慣れるまでの少しの期間、不安を抱えるかもしれません。正確に理解できないという不安を抱えた状態でも、先生が冗談を交えたり、質問を沢山したり、問いかけに答えやすいようにヒントを与えたりして生徒にも英語を話す機会をきちんと与えることがされていました。All Englishの授業といわれると、「教師が英語で話さなければいけない」というイメージがありましたが、それは生徒にも同じことが言えるはずです。生徒が英語で応じることができる問いかけをする、という点も新たに気付かされました。


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今回の靜先生の授業を見て、常に英語で会話していたことが印象的だった。英語で全て会話すると言うことは、もちろん生徒が分からない単語や、聞き取れないこともあると思う。しかし、靜先生の授業では、あまりそのような生徒が見られなかったような気がする。それは、靜先生が分かりやすく、生徒でも知っているような単語を使っていたからだと思われる。それは、生徒が理解する上でも必要だが、逆に生徒自身が説明する際にも、同じような能力が必要である。つまり、教師が使う英語が、生徒が使う英語につながるということを改めて学んだ。言い換えれば、その分責任や英語教師としての意識も高くなくてはならないだろう。しかしそれは、教師だけではなく、生徒にも伝えるべきことだと思う。意識的でなくとも、実際に英語で伝えようとするとき、生徒でも相手に理解させるように正しい英語を使うようにするし、それは、相手が教師であるならば尚更である。このとき、自分の英語に責任があること、自分の英語というものを意識せざる得ない状況に陥るだろう。しかし、私はこれが自分の英語を確立する上で、大切な部分だと思う。このように、周りの人に英語で説明すること、そのような学習をさせるとき、自分の英語に責任を持つことも意識させられるのではないだろうか。自分の英語を使うことが、生徒自身の英語の理解だけではなく、責任を持つことにもつながるのだと思った。


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 はじめに、Oral Interactionの内容が非常にわかりやすかった。日本人が沈黙を求められる時と求められない時を対照的に表していて、テストや電話の時など身近な例で具体的だった。また、この対比に加え、後の飲み屋の例を加えることで、ただ単に日本人が会話をすることが嫌いという内容ではなく、筆者が伝えたい日本人はアメリカ人ほど沈黙を嫌がらないということを点が分かりやすかった。ビデオを観る前に隣の人とパっとすぐに思いついたOral Interactionよりはるかに教科書の内容を表しており、実際の授業風景を見てどのような内容、様子でやるのかとても参考になった。
また、生徒への発問の仕方として、頻繁に生徒を指していた。講義中に学生が静先生を生徒たとえてOral Interactionをしていたが、生徒が分からない時は導き出すようにヒントを与える、発音などが誤っていたら言いなおして訂正させるなど、実際にビデオを見たすぐ後に同じことを真似するので、見ていて印象に残りやすかった。
Explanationでは、英語で一文ごとに意味内容や文法などを確認していた。説明が英語のみなことと、言い換えなども口頭で言っていたので、生徒が英語を英語で表現する能力はこの授業の形式なら数ヵ月後格段に向上すると思った。私の高校の頃の英語教師は日本語で説明することがあったが、英語の授業ならば英語で行うのが生徒の英語力向上には当然だと思った。大学に入って友人と高校時代の英語の授業の話をすると、授業中は生徒も教師も英語しか使わない友人もいた。英語を聞き、表現することが大切だと感じた。


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 授業はAll Englishで、初めに題材に関する話題のOral Interactionが行われ、筆者についての導入から、wordssilencesilenceが必要な状況とそうでない状況、日本人は話すことが嫌いだというわけではない、と本文に則して進められた。そういえば私はOral Introduction”だと思い込んでいたのだが、Teaching Planを見るとOral Interaction”であった。その名の通り、教師が一方的に話しているだけではいけない。教師が話す英語を聞いているだけではただのListeningの練習であり、退屈で、気持ちに張りがなくなり聞いた内容の印象も薄れてしまうだろう。しかも教師が生徒の理解度を計ることもできないので、聞いていない生徒すらいるかもしれない。どんな授業でも生徒を巻き込み、体育が身体の運動ならば、教室では脳の運動をさせるべきだ。SpeakingListeningに比べるとはるかに難しく、理解ができていて話したいことが頭にあるのに話せないこともあるだろう。まず生徒の発言にはYes.Right.などと言って受け入れてあげることが必要だ。そして発音や文法などの間違いがあれば訂正、矯正する。言葉が出ないようであれば誘導して発話を促すと、授業をスムーズに進められるだろう。これを繰り返すことによって、生徒のSpeaking力が高まり、誘導がなくとも生徒の発言が期待できると考えられる。そもそも、それが授業の目的であり、英語教員の使命である。
 授業後半では本文のExplanationが英語で行われた。理解しやすい単語や表現を用いて、一文一文をかみ砕いていく。生徒は、聞いた表現を教科書に書き込んでいくので、集中できたり後で読み返すことができたりする。

小中学校のAll English授業
           tolerance of ambiguity(曖昧さの許容性)…理解度が低いと不安に感じる度合いは人によって違う。これが高い人は外国語学習を進めやすく、成功しやすい。
           All Englishの定義は何か…何もかもが英語、和訳を先渡しするなど目で見るものは日本語、教壇では英語だが机間では日本語で指導、など様々な形態がある。
           Sekineさんの授業…音楽をかけながら1分で机の移動をさせたり、2,3人のグループでグルグルをするなど、効率がよい。教科書本文のグルグルは1人ずつだが、紙を奪ってしまうので見て言うことはないし、ハンコを押してあげるところが女性教員らしい。


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 今回、ビデオを見てすごく感動した。私が高校のときに受けていた授業は、指示や問いもほとんどが日本語でなされ、授業スタイルも教科書を一文ずつ読んで和訳していくというものであった。だから、All Englishの授業は見たことも経験したこともなかった。そんな中、今回の授業ビデオを見た私は、「All Englishでここまで授業ができるのか」ととても驚いた。それも、ただ全てを英語でやればいい!というものではなく、しっかり授業(教科書)内容の理解が計られ、生徒の英語能力を高めるためのものになっていた。
 その中でも特に印象的だったのは、先生が生徒に投げかける問いの質と、その仕方である。生徒から答えを聞きだすために質問するわけだが、その問いが教科書の要点(あるいは整理しておきたい点)を聞きだすためのものになっていたし、1つのことを質問するにしてもいろんな表現で言い換えがなされていてとても分かりやすかった。また、困っている生徒に対しては、選択肢を与えたりヒントとなる言葉を与えたりと、生徒の答えを誘導するような質問の仕方をしていた。やはり、教師からの一方通行の授業になるのを防ぐためには、ただ教師が話をしたり説明したりするのではなく、生徒に問いを投げかけ、生徒の口から答えを言わせるようなスタイルにする必要があると感じた。また、その問いも、生徒が考える価値のあるものにし、答えるときも正解不正解ではなく、なるべく生徒に自分なりの言葉で表現させることを求めることが大切だと実感した。このように、自分で考え、自分なりに自分で答えるからこそ、授業内容の理解がより深まるとともに、生徒たちの英語力が育まれるのだと思った。

>>そうだね。

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 今回のビデオを見て思ったのは、この授業は生徒が集中力を維持させて受けなければならない授業だと言うことです。時々、席順や番号順で生徒を指名する先生がいますが、自分が当てられないと分かっている生徒はあまり授業に集中しません。なので、ランダムに指名されることがわかっていれば生徒も集中し、授業に緊張感が生まれます。それに、生徒が自分で単語などを英語で説明しなければならない活動がありましたが、その活動があることで先生の言葉を注意深く聞く態度が身につきます。正確な英語を話してくれる先生であれば先生の言葉を一生懸命聞くことで英語を聞く力がつきます。授業に真剣に参加しているだけでリスニングの練習になります。教師は授業だけでも生徒の英語力を伸ばせるようにしなければならないのだと改めて感じました。

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  今日ビデオを見て一番に、自分にはこういう授業は全然できないなと思ってしまいました。授業中すべてを英語で話す事も、英語で簡単な質問を生徒に問いかけることも難しいことだと感じました。教師の実力がものを言う授業だと思いました。行っている教科書のトピックについて話をふくらませて、なおかつ生徒が分かる簡単な英語で話さなければいけないし、生徒に話をふったり、興味を持たせることも大変なことだと気付きました。また、クラスにいる生徒の英語のレベルも様々だと、教師が話している英語をほとんどわかる生徒とほとんどわからない生徒と両方いると思うので、クラス全員に理解してもらうこと、理解しようと努力してもらえるように促さなければいけないとも思いました。教師が話し手いる英語が全く分からない生徒は、授業中、何も頭に入らず、わからずじまいになってしまうのでそこは気をつけないといけないと気付きました。

>>あきらめずに、向上しましょう。

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Words and Silenceの授業については、まず、何十年も前の授業風景であるにもかかわらず、現在仮にまたあの授業を行ったとしても十分通用するようなものだったことに驚いた。私が生まれるずっと前から、All Englishという概念はあったのだ。私は、中高とどちらもAll Englishの授業なんて受けてこなかったし、そのおかげ(せい)で、大学に入ってからの靜先生の音声学や教職入門での英語の説明に、すごく苦労した。(今でも苦労していることは否定できない。)ただ、All Englishだからってそれが良い授業かどうかはわからないと思った。靜先生のあの授業では、今の靜先生同様に生徒に英語で発言させようとしていたし、1つの授業の中で生徒が口を開かない、ということは絶対になかったと思う。しかしAll Englishだけが重視されてしまうと、とにかく授業を英語でやればいい、という概念が広がってしまうのではないか。確かに、教師が英語のみの授業を行うことで(ただしその教師の発音が正確だとして)、生徒はリスニングの力をつけられるだろうし、教師自身も、生徒がわかるような表現を使うように努力したり、向上心が芽生えたりするかもしれないが、ただ英語でまくしたてて、生徒が口を開くことなく終わってしまう授業では、生徒は「言っていることはわかるけど自分で説明しようとするとできない」ようになると思う。無理にAll Englishを取り入れる必要はなく、やはり大事なのは生徒に英語を発させることなのだと思った。
また、今週の授業で様々な授業ビデオを見たが、特に葉っぱのフレディの教材を取り扱っていた先生(**先生?)は、2年目とは思えないほど自信を持って生徒たちを指導していた。あそこまで自信を持つには、きっとそれなりに教材研究もして、自分がどう授業をまとめていくか、どう生徒に英語を発させるか、などの準備が必要だし、自分の英語が生徒たちに聴かせられる英語だと思えないといけないと思う。同じ英語専修の学生として、できることならあそこまでの授業をできるように、あんな英語を話せるように努力したい。

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 まず第一に、テキストの内容を予習してきたにもかかわらず、自分の英語力の低さのために靜先生が授業中に何を言っていたのか、全くと言っていいほどに分からなかったので、ビデオを見ている時はただただ「なに言っているのか分かんねえよ」という感想しかありませんでした。すみません。ビデオに写っていた高校生の女の子たちはリスニング力がとてもある、と思います。ここで改めて実感したのは、all Englishによる授業を受けられるのは、もともとレベルの高い子どもたちだけだ、ということです。今日知られているような一般的な英語の授業を受けてきた子どもは、ほとんどリスニング力を高める機会はなかったと思います。靜先生の授業では言い換え表現やキーポイントなども淡々と言っているように思えたので、何を書き取るべきなのかも分からない子が多いのではないかと思います。書き取りながらリスニングをするとなるとさらに難易度は上がります。理想としては第一言語である日本語は一切用いない授業をすべきだとは思いますが、今日の教師・生徒いずれの英語力をとっても、非現実的なのではないか、とビデオを見た後でも思っています。あと、これも慣れだとは思いますが、50分間ずっとリスニングをしていると、途中で集中力が切れてしまいそうな気がします。あとはやはり、グルグルのような生徒がやる気になる内容は必要だな、と思いました。生徒への質問の仕方も、生徒が答えやすいようにその都度同じ文を分かりやすく言い換えたり例を示したりするなどの配慮が必要、と言われてみれば当然なことでも、それを英語でやらなければならないので、英語の運用能力が自分たちにはまだまだ足りないな、と痛感させられました。

※「もともとレベルの高い子」というのは存在しません。レベルの高い子を作るのは自分の授業です。


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 ビデオの中で、生徒のレベルが高いように感じた。それは、靜先生が生徒に本文の中の語を英語で説明させたり、意見を聞いたりして、生徒がそれにすぐに応えられた場面から感じた。本当に今の時代の高校生よりもレベルが高いのかは分からないが、そう感じたのは事実。しかし、ビデオを見ながら、生徒が言いたいこと、口ごもって言えないことを、先生自身が引き出せ、先生の力で「言わせてあげられる」ことが可能なのかもしれない、とも考えた。例えば、「change what”?」と聞いてあげる場面では何がchangeするのか(したのか)を生徒から引き出すことができたり、この本文では日本人の体験ととても近いものがあるので、「Do you agree?」といって生徒自身の意見を聞くこともできた。また、生徒が切れ切れに言った文を先生がつなげて直していくことで、生徒の耳にはなめらかな英語の文章が入っていったように感じた。何よりも、導入がしっかりしていて生徒が授業に入り込んでいっているように感じた。これは先生が事前に本文の中身と関連することをネタとして持っている必要があると思った。そういう意味では日頃からアンテナを張っておくことが大切であるように感じた。この点に関しては面白い話を探す芸人の日常と変わらないのではないかとも考える。


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 今回,初めてオールイングリッシュの授業を見ました。正直私は授業のすべてを英語で行うことにあまり積極的ではありませんでした。というのも,当然日本語を母国語としている我々には,英語よりも日本語を使用した方が「理解する」という点においては断然効率的だと思うからです。しかしながら,今回靜先生の授業を拝見して,オールイングリッシュの授業に対する考え方が少し変わりました。教師が適切な英語運用能力をもち、生徒にもある程度予習させておけば英語だけの授業も成り立つということを感じました。実際に先生の授業では,ほぼすべての時間,靜先生が内容説明をされていました。ただし,ずっとしゃべっているだけでは生徒が飽きるため,ときどき生徒を指名して本文の内容を理解しているか確かめていました。このとき大切なのは,一から英語で言わせるのではなくポイントとなる部分を答えさせるように教師が誘導してあげることです。靜先生のように途中まで自分で言って生徒に続きを言わせるような形にすれば生徒にも分かりやすいのかなと思います。また,何らかの形で生徒が発言した際には「褒める」ことを欠かしません。褒めることまでいかなくても,「うん。うん。」と声かけをしてあげていました。この発言しやすい雰囲気を作ることもオールイングリッシュの授業において大切なことだと思います。生徒の英語は間違っていたり,センテンスになっていないことが多くあるため,簡単な英語で言い換えて生徒に言いなおさせるというのも,生徒に英語を使わせるうえでは重要なことだと思いました。私はまだ今回見たような英語の授業をする力が備わっていません。ビデオを見て,簡単な英語を正確に使う練習をしていく必要があるということを認識させられました。

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 英語の授業の形式がall Englishになる、ということは知識としてはあったが、実際にどういったものなのかということには考えが至っていなかった。今回実際にall Englishの授業を見てみて、何故今までの形式からall Englishの授業に変わったのか、その意味を考えて、それに応じた授業をしなければならないのだと感じた。英語の実用的な能力の向上を目指してall Englishになったにもかかわらず、形だけを取り繕って授業内容はこれまでの日本語での授業と変わらない、なんちゃってall English授業をすることは、詐欺行為も同然であると思う。
 英文を自分の英語で説明することは、この英語科指導法の授業で練習してきていることだが、学校のall Englishの授業では、その説明を生徒たちにわかる語彙、文法で簡潔に表現しなければならず、さらに高いレベルが求められるのだと思った。また、書かれている英文の意味を説明するだけでは英語独特の表現や比喩表現の意味をとることが難しいため、具体例なども説明しなければ、教科書の内容を理解させるには不十分であるのだとわかった。そのため教師は「英語」の知識だけではない幅広い知識・能力を持っていなければall Englishの授業は行えないのだと感じた。

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 今回の授業で見た映像で、生まれて初めて日本人教師によるall English の授業を見ました。その中で僕が思ったのは、教科書本文に書いてある内容を英語で言い換えることによって、和訳をしようとする意識が自然となくなるのではないかということです。普段から訳読しかしない授業を受けている生徒は、「英語の勉強=和訳」の方程式が頭の中で自然と出来上がってしまいます。しかし、映像で見たような、教師が英語を英語で言い換える授業を日ごろから受けている生徒の頭では、少なくとも「まずは和訳をしなければ」という考えにはならないでしょう。結果、和訳に費やす時間をより有効に使うことができ、効率的な英語の勉強が自然とできるようになると思います。
 ただ、今まで見てきた静先生の授業と比べると、生徒が英語を話したり、書いたりする量が圧倒的に少ないということも感じました。先生に当てられた数人の生徒を除いては、ずっと先生の話を聞いているだけになってしまい(先生の解説に合わせてメモは取っていますが)、キツイのではと思いました。
 やはり、全体で教師が英語を英語で言い換えて解説する場面と、グルグルやペアワークなどを使って生徒に英語を話したり書いたりさせる場面の両方のメリットを上手に使い分けて、生徒の総合的な英語の力を伸ばすことが大切だと思いました。

>>その通り。バランスです。

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 アジア人は欧米人より内面的な部分が多いと思います。物事の内部、特に精神に関するところはより敏感、人の心理や感情等の心的状態を言葉で発するより察することは多いです。特に日本人は知らない人に一定な距離を保つ、また疑心を持つ人もいます。それ故、英語スピーキングに弱い一つの原因と考えています。現実で話す機会の少なさと話せる自信の足りなさに負けてしまう人は少なくないだろう。外国人と会話する時にスベルより黙る人は極めて多いと思います。実は、英語スピーキングを進歩する為にはスベルことが欠かせない一歩です。でも、周りの友達はほとんどそういう人なので、恐らく別にたいしたことないと思ってしまう人は多いです。そして、良くなりたいという気持ちを失う、結局英語に興味を無くなる。
 何も考えずにとりあえず言葉を発することは私の愚見です。
 話す事ができたら、その後、沈黙を選べよい。ここの沈黙は単なる無言ではなく、繊細な考えや思想が含まれている。それこそ、沈黙を表す意味が本当の意味を持つと思います。会話が成立したら、沈黙の世界の魅力を感じられると信じている。
 マックス・ピカートから言うと、人間が人間として生存しうるのは、言葉によるものであって、沈黙によるのではないのである。しかし言葉は、沈黙との連関を失えば萎縮してしまう。沈黙とは単に「語らざること」ではない。沈黙はひとつの積極的なもの、ひとつの充実した世界として独立自存しているものなのである。私も似てる考えを持ってます。
 
        


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・最も印象に残っているのは、先生の聞き方!
 自分が先生だったら、おそらく一方的に情報を発信しつづけるだけの授業になってしまいそうだなと思ったが、先生の聞き方は違った。
 最初は疑問文で普通に質問。(what,when,how~?)など。その後、生徒たちからの反応がない場合には質問を変えて、yes/no疑問文での質問。ここでとにかく生徒の言葉を聞きたいという意思が伝わってきた。そして、yes/noでも答えられなかった場合には先生がぎりぎりまで答えをいって、続きを生徒から引き出そうとする。(たとえば Is it comfortable?など)自分だったら、たぶんもどかしいしめんどくさくて、生徒に言わせたいことを自分で言ってしまうと思った。
・図を利用して説明していた点
 表を書いて、日米間の違いを表現していた点は非常にわかりやすいなと思った。英語を聞きながら、確かめのような感じで視覚的刺激にもなっていると思う。
 もし、クラスの中についてこられない生徒がいたとしても、あの図を見ながら英語を聞けば7割は理解できると思った。
Japanese do not like to talk. Far from it.
 本分の説明で、上記の文Far from it. をわかりやすく説明していた。数直線を利用し、likedislikeを対極におくことで、より理解しやすいツールになっていたと思う。
 私自身も本文を読んだときに、このFar from it. の意味が高校生にどう説明したら通じるのかと疑問を抱いていたが、先生の説明ならば中学生でも理解できるのではないかと思うほどだった。納得した。

>>生徒からの答えの引き出し方、盗んでいって下さい。


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 今回のビデオを見ての第一印象は、先生がとてもお若かったということです。しかし、昔から生徒に対して話すときには、お手本となる英語を話していました。最初に、先生もおっしゃっていましたが、all Englishの授業といっても、先生が英語を話し、生徒たちに考えさせて発表させるのが日本語では、多少のリスニング練習にはなりますが、生徒が英語を話さなければ意味がありません。少しでもいいから、生徒たちに英語を話させるように、先生は英語を堪能に操れることが最低条件であると思いました。また、先生は生徒が少しでも英語を話せるように、疑問文で生徒に投げかけたり、重要な単語のみでも生徒に発言させたりするようにしていました。今まで見た授業とは違い、お馴染みのグルグルがない授業でしたが、いろいろな生徒を指名して、たくさんの子が英語で発言できるように工夫されていました。
 また、教科書を使っての授業なので、すぐに教科書の内容に入るのかと思いましたが、そうではなく、本文の内容が入ってきやすいように、具体的な例を挙げながら、授業の導入を行っていました。生徒もすべてが英語の授業だと、得意な子と不得意な子で能力が顕著にあらわれてしまいますが、始めに簡単な例を挙げることで、これからこのような内容の話になるのだな、と不得意な子でもなんとなく内容をつかむことができるようになると思いました。all Englishの授業といっても、どのように英語を取り入れるのかが大切であることが分かりました。先生は、リスニング、スピーキング、発音など、全てができなければ、質の高い授業(生徒の英語力をあげる授業)はできないのだと思いました。


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 Words and Silenceの授業を観て、Oral Introduction(といってもall Englishの授業なので導入に限らず授業は英語で進んでいくのですが…。)は重要な役割を果たしているのだなと思いました。特にこのWords and Silenceは日本語で説明されてもピンときにくい、少し難しい内容だったように思われます。このように内容的に難易度の高い英文を扱う時は、日本人の本音と建て前の話をしてあげたり、Nomiyaの話になった際に学校の近くの飲み屋の話を持ち出し、生徒になじみがある先生を引き合いに出すのは生徒に興味・関心を持たせやすいと思いました。また、大妻でのThere is/areの導入の際に実際に箱を使って視覚的にうったえていたのもall Englishの授業を行う上で重要だと思いました。All Englishをやり始めた段階や、中学1年生の1学期の生徒が英語で説明されることに慣れていない場合、聴覚的情報だけでは状況把握ができず、嫌になってしまう生徒もいるかもしれません。そんな時、視覚的情報が入ってくれば、状況がわかり、英語の説明も聴覚的情報のみの場合より理解できると思うのです。
 そして前回の授業で靜先生が、教師のレベルというか、all Englishの授業の実践経験により、与える助言は異なると言っていたことに安心しました。上手い言葉がみつかりませんが、今まで授業内で行ったことはどれも初めて経験することばかりで、2年生の後期にもなるとだいぶ慣れてはきましたが、靜先生に出会う前の私にとっては経験したことのない、不可能に思えることばかりでした。もちろん今は不可能だとは思っていませんが、現場の先生でもall Englishの授業と聞いただけで後ずさりしてしまう先生も実際多いと思います。しかし、靜先生が授業内で何度も言っていたように、all Englishの授業に関わらずすべてのことはやってみないと教師側もall Englishの授業が上手くもならない、上達しない、生徒側の聞く能力や話す能力も上がらないと思います。
 なので、全く英語を使っていなかった人は短文レベルでもいいので勇気を出してやってみることが必要だと思います。
 失敗からたくさんのことが学べると思いますし、最初から成功する人など皆無だと思うのですが、all Englishということであわててしまい、終始自分だけが英語でつらつらと話をしているという状況に陥ることだけは避けるべきだと思いました。

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 ビデオを観て改めて思ったことは、All Englishよりも、日本語で授業を行った方が良いということです。英語で何かを詳しく説明しようとすると、生徒に集中力を長く求めることになり、あまりに長いと、一回聞き逃すと理解しづらくなる可能性があると思ったからです。その為、最初から日本語も交えて授業を行うか、もし英語で通すとしたら、ある程度簡潔な英語で話す力は必要であると感じました。途中出てきた語が何を指しているのかを聞くときなどは、英語でも日本語でも聞くことができるので、そのような場面では日本語で聞いても良いと思いました。しかし、ビデオでは、熟語の言い換え表現が出てくる場面が何回かありました。また、英文の内容を英語で説明する場面もありました。教科書の文を読んでいくだけではなく、教科書に出てこない別の語で説明することは、生徒の「英語を英語で理解する力」を高め、さらに英語を英語で説明させることにつながると思います。よって、文の構成については日本語、もしくは簡単な英語で聞き、内容については英語を使って理解させることが大切であると考えました。
 もう一つ、英語とは要素が異なりますが、教師としてはっきりした声で、生徒に話しかけられることがとても重要に感じられました。それもただ大きいだけの声ではなく、しっかりした口調が大切であると思います。**さんの授業を観て、そのことがとても伝わってきました。冷静で、丁寧に生徒に指示を出すところが脳裏に焼きついて離れません。あれだけの速さで指示をし、生徒を動かし、英語を使わせることができるのは、その日の授業が頭に全て入っているだけでなく、それを実行する力が備わっているからだと思います。その力を支えるのは、生徒を動かす効果のある力強い口調であると思いました。英語力だけでなく、生徒と向かい合う力に関しても、これから先に高めていきたいです。


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 靜先生のWords and Silenceの授業をみていてすごいと感じたことは、ずっと英語しか使っていないにもかかわらず、言っていることが簡潔で分かりやすく日本語を聞いているように頭に入ってくることです。一文一文が簡潔で短いことと、伝えたいところが強調されているところがポイントだと思いました。先生が先日メールでおっしゃっていたように、日本人が英語を話すときの悪い点は、ただ単語を羅列し単調な話し方で何がいいたいのかが分かりづらいところであるということを実感しました。まだ文法上の知識も少ない中学生にとっては、教師がはなす文全てを間違いなく聞き取り理解することは難しいことだと思います。話のポイントを正確に理解してもらうためには、教師側がもっとも伝えたいところをおおげさに表現するといいと思いました。それは発音上でも大切なことですが、手をつかった身振りなども有効だと考えました。また、靜先生が一文一文の意味を説明しているとき、単語の言い換えがさくさくと出てきてかっこいいと思いました。私もいつかの授業で英単語を他の英単語で言い換えてペアで問題を出しあう練習をしましたが、その時に言葉の言い換えはすぐには思いつかないことを学びました。少なくとも使用する教材に出てくる単語くらいはすぐに明瞭に言い換えられるように練習しておく必要があると感じました。
また他の単元のAll Englishの授業も見て、先生と子どもたちの英問英答の量が多いことと、それらのテンポのよさに驚きました。教科書本文の一文、二文が終わるごとの確認によってクラス全員が同じところまできちんと理解しているのがよく分かりました。また、聞き逃すと大事な事を聞き逃してしまうような気になるような先生の毅然とした態度と誰が指名されるか分からない緊張感が、生徒達の集中力を高めているのではないかと感じました。


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 はじめ、All English の授業に生徒はついていけるのだろうかという疑問を抱いていましたが、それは教師になろうとしている身としてとても恥ずかしい考えだと気付かされました。先生は英文を話す上で、生徒にきちんと理解してほしいところはよりわかりやすい単語をいくつも挙げ、言い換えて反応を見ながら話していました。これにより、生徒はすべてを理解できなくとも、必要な情報だけをしっかり頭に入れ全体的な流れを把握することができます。少しずつ難易度を下げていけば、中学生や小学生にも通じるものであると感じました。また、先生は合間合間で生徒の反応を見て簡単な質問や意見を求めています。
クラスの生徒たちはそれに楽しんで答えているようでした。
もし生徒がおぼろげな英語を話したら、先生は正しい英語で言いなおしながらinputを与えていました。そうすることで、生徒は“何かしら発言をすれば靜先生が上手に拾って正しい文で言い換えフォローをしてくれる”といった安心感から、形くずれはありますがミスを恐れずに英語を積極的に話すようになるのだと思います。全体を通して、決して生徒に強制的に英語をしゃべらせるのではなく、生徒たち自らが「発言しよう!」という気持ちになるようなクラスの雰囲気がしっかりとつくられていました。
小学校でのAll Englishも、上で述べた通り十分可能です。加えて小学生は、特に“真似る”ということにとても長けているので、先生の発音をそっくりそのまま真似ることが可能であると思っています。実際にDVDを見ると思ったよりもきれいな発音だな、という印象を持ちました。小学生には、座って話をする時間をほとんど設けずに、常に立って動いてリズムを刻み、英語で“遊んでいる”と意識させることが大切だと感じました。
中学校で指導していた女性の方は、靜先生もおっしゃっていた通り、とても目がギラギラしていて生徒の動きを常に監視していました。「一人ひとりの口元は、全部見えているんだぞ」というようなオーラがでており、迫力のある授業でした。怠け出す生徒はどこかで必ず出てきます。それを瞬時に察知し気合いを入れ直すタイミングを、教師は逃してはいけないのだと強く感じました。


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20年前の靜先生、若かったです。発音とか語り方も今と違って(スタンスは同じだと思いますが)20年の教員生活の中で今の靜先生の授業はだんだん確立されていったものなんだなと思いました。
まずOral Introductionだが、英語だけを使用しての教材のOral Introductionは指導法CDで実践したりしてきた。その課題として語研の研究発表会に伺って高校の英語の先生の研究授業をビデオでみて、Oral Introductionについて大変苦労している様子がわかりました。授業時間内にやるべきことはやらなくてはならない。授業の時間は限られているが、教材に入る前段階としてOral Introductionも重要。どの程度の内容をどの程度深く扱えばちょうどよいIntroductionとなるのか、さじ加減はとても難しいのではないだろうか。今回の授業のテーマはWords and Silenceであり、内容中にでてきたJapanese literatureについて予備知識というかトリビアのようなものを英語で話し、Japanese literatureとはどのようなものかの理解を深める。あと文章後半部に出てきた1例nomiyaについても英語で話をする。日常的な予備知識のようなものが授業中に出てくると、生徒は授業に興味が傾くのでとてもよい。
授業内容に入っても、そのまま英語での授業を続ける。今の靜先生の授業スタイルそのままだった。本文を読む、その文についてさらに詳しく言い換えながら英語で説明する。この方法により、文章中の表現の他の表し方がわかり、表現の幅が広がる。和訳をノートに書くよりもずっとわかりやすく、英語を使う上で必要な知識が身につくのでよい
英語で行う授業には賛成である。その英語も難しい意味の通じないような単語を羅列し、聞き取れないほどのスピードで話してしまえば、生徒は聞く気が失せてしまい注意散漫になってしまうかもしれない。正しい発音、聞き取りやすいスピード、理解・もしくは話を推測し考え教科書の内容理解を深められるような内容、生徒の気をひくような内容で授業を進めていかなくては生徒はついてきてくれないだろう。その技量を持ち合わせている教師は現在の英語教育の場に多くいるとは言えない。

124日授業分の感想≫
先生に見せていただいた授業例の中で印象に残ったものは、埼大卒業の先生の授業である。
卒業生の授業を見ていて思ったのは、教師と生徒間で信頼関係が築けているなということである。生徒の発音指導をする点は靜先生と共通していた。その靜先生の流れを組みながらも、先生自ら築いたスタイルもあるように思えた。例えば歌を歌うときに机を下げて生徒を前に座らせるというスタイル。この机を下げさせるとき大音量で歌う音楽をかけていた。これも何か意図しているものがあるのだろうか。そして机を下げたり学習環境を変えると中学生は騒いでしまいなかなか集中させるのが難しいと思うが、声を張り上げたりせず少し注意しただけで授業に取り組める姿勢に変わっていた。グルグルをやるときも妥協せずきちんと指導していたが、注意の仕方が上手でしかも上手くなって欲しいという気持ちが伝わってきて、生徒もこういう注意のされ方であると、やる気がそがれることもなく向上心を持って取り組むことができるのではないだろうか。


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まず一番に、高校生相手であっても難解な語彙を簡単なものに言い換えることで、高校生はかなり理解を深めることができるのだということがよく分かりました。実際に本文を言い換える際には教師が完全に内容を理解し、対象としている生徒の学年を考慮し、わかりやすく伝えるための努力を怠らないことが重要だと再認識しました。また板書計画において、教材の真のエッセンスとなっているところをピックアップして黒板に記入することを心がけ、生徒が黒板を移すだけで授業が終わってしまうような活動は極力避けることが、授業の密度を高めることにつながると思いました。そして、板書の際には出来る限り簡潔に書くことにこだわり、理解しやすい板書を心がけることが大切だと分かりました。

All Englishの授業感想
寺子屋ワークシートを使用して授業を行う授業は、今まで見たどの形式とも異なる、各自がワークシートによって学習を進める形式であり、教師が事前にワークシートを準備しておけば、生徒が個々のペースに合わせて学習を行え、非常に学習効果が高いと思いました。このワークシートは作成する際に教師自身の理解度のセルフチェックの役割も果たしているように私には思え、一石二鳥だと思いました。
*******での授業を見て、たとえ小学生であっても定型の文パターンを与え、簡単な語彙を用いて説明を行い繰り返し練習する中で、All Englishの授業であってもGGMをやるところまで進めることに感動しました。
全体を通して、All Englishで授業を行うためにはテキストを噛み砕いて簡単な言葉で自由自在に表現する英語力が必要だということを再認識しました。この英語力を身につけるために、どんな文章でも100%理解できる読解力と、理解した事柄を自由自在に(簡単な言葉でも、難解な言葉でも)言い表せる表現力を習得できるように、今後とも努力していきたいと思います。



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 約二十年前の高校の英語授業の中で、すべての説明に英語を用いた授業を行っていたことにまず驚いた。そして、教師の英語力が重要となる授業だと感じた。教科書本文だけを英語で行っているのではなく、教科書に関連した身近な話なども英語で取り入れながら進めていたので、本当に英語運用力がなければ行えない授業だと思った。
センター試験や大学入試を突破することに特化した英語の授業しか受けてこなかった高校生も多くいる中で、ビデオのように全てを英語で話す・聞きとるという授業を高校生のうちに受けられるというのは素晴らしいことだと思う。生徒が受けるべき英語の授業とは、まさにビデオのような「英語」の授業ではないかと感じた。しかし、正直、オールイングリッシュの授業を毎回行っても、生徒の能力から考えた場合、はたして授業は成り立つのかとも考えてしまった。しかし、教師は、生徒を向上させようする意識のもとで、真の英語力がつくような授業を行わなければ授業の意味がないとも感じる。毎回の英語の授業がビデオのようであれば、無駄な部分が全くなく、先へつながる英語力を身につけられると思う。実際にそのような授業を高校生相手に行っている様子を見て、授業の質がどれほど生徒に影響を与えるかということを考えさせられた。また、ビデオの再生時間を見て思ったのだが、授業開始からたいして時間が経っていない中でも、多くの内容を学んでいるような気がした。これも、無駄のない非常に中身の詰まった内容が行われている証拠だろうと感じた。


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 私が中学・高校時代に受けた英語の授業は、新出単語を音読した後、教科書を一文ごとに和訳、新出文法事項は教師が板書しながら日本語で説明するというものがほとんどでした。教師が英語を話す場面は本文を音読する時のみという状況で、靜先生の実践をいくつも拝見している今ではあれは英語の授業として不適切だと感じています。
この授業の冒頭から最後まで、先生は生徒に対してすべて英語で問いかけていました。さらに、生徒をただ指名しているのではなくて授業の流れが事前に作られていて、問いかける内容はその授業においてポイントとなるところであることが本文を理解させることに対して効果的だと思いました。教師は教材研究を綿密に行い、教材を理解し自分の言葉で説明する能力が必要で、生徒に対して伝えようという気持ちもとても大切なのだと改めて感じました。

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all-Englishというととても難解で生徒がどうにかやっとついていく・・・というようなイメージでしたが、実際には本文に関わった内容で雑談のやり取りをし、先生の冗談に生徒が笑うというレベルの高いやり取りがとても楽しそうに行われているのが印象的でした。
初めから終わりまでall-Englishの授業を見るのは実は初めてでした。以前研究会に参加した際に、oral introductionまでは流暢で英語で授業し、explanationは完全に日本語という授業を見ました。その際には、複雑な文の構造の説明などは日本語で行う方が良いという意見と、パラフレーズすることでexplanationも英語でできるという両方の意見が出されていました。その場では、explanationを英語で行ったらきっとついていけないし、構文がよくわからない!と思っていましたが、このビデオを見て、意味の確認や難しい表現の言い換えなどは英語によるexplanationでも十分に理解できると感じられました。複雑な構文の理解は少し難しいかなと感じましたが、文法用語を並べた説明がないと英語を読解した気にならないように刷り込まれてきただけのような気もしました。また、毎回授業の全てがall-Englishで行われている中でのexplanationなのか、一度日本語による確認があったのか、また授業時に初めて見る文章なのか、それとも予習させてあるのかなど、毎回の授業の行われ方によっても様子は変わってくると思うので、色々な先生がall-Englishや日本語による説明をどのように使い分けているのかを調べてみたいと思いました。いずれにしても、このビデオを通して、パラフレーズすることによる英語でのexplanationが十分に可能だと言うことが確認できました。ほんの数回だけ登場した日本語も、“不言実行”“本音と建前”などにオン語独特の言い回し、考え方を有効に引き出すためのもので、とても面白い使い方だと思いました。

>>うん、非常に的確な意見です。


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 私はこのビデオを見て、英語で授業を進めることの難しさについて考えさせられました。難しいと感じたのはおそらく自分の英語力に自信が無いということだと痛感し、生徒に本当の英語力をつけさせたいならば、自分自身の英語力をしっかりと磨いておかなければならないと思いました。英語教師は生徒に英語を教える指導者でありプロフェッショナルでもあるべきなので、正しい英語を即座に口に出せるのは出来て当然のことですが、それに加えて、英語で授業を行うには授業の流れを頭に叩き込み、事前に内容をかみ砕いて理解しておくことが必須でしょう。普段から正しく英語を使用し、様々な場面に対応できる力が備わっていればそれほど難儀なことではないと思いますが、教師の英語力が中途半端なものであったら、英語での授業は全く無意味なものになることが想定されます。伝えたいことを英語で説明するには、直訳するだけではなくきちんと状況や内容を理解していなければ英文は意味を成しません。英語を学ぶ側として生徒たちも、単なる直訳的な英語でもたくさん使用するとなんとなく力がついたような錯覚にも陥ることがあると思います。さらに、英語で授業を行う際には、発問もかなり重要になってくることに気がつきました。生徒答えられるレベルの質問文を考慮しながら、また意味のある英語の発話が出来るような一方的にならない授業づくりも心がけるべきでしょう。教師の英語力の充実と授業の流れや構成を上手く作り、発話を工夫するということの大切さを改めて感じました。


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今回のビデオを観た率直な感想は、「今の自分にはこのような授業をできる力はない」ということでした。生徒の前で英語を話すということだけで、発音に気をつけたり意味のまとまりごとに区切ったりと、気にしなければならないことが多いのに、教材についてわかりやすい表現に変えて伝えたり即時に生徒に英語で問いかけたりすることは、私にとってかなり訓練が必要だと思いました。また、この授業では本当に英語しか使っていなかったので、生徒にとって教師の発生する英語を正しく聞き取り、意味を理解できないことには、全くついていけなくなってしまうのではないかと思いました。しかし、先生が英語で言った冗談(?)に対して生徒が笑うといった場面が何度も見られたので、英語を理解する力のある生徒たちだと感じたと同時に、いかに靜先生が生徒のことを考え、伝わりやすい・わかりやすい英語で話しているかということがわかる授業だったと思います。さらに、このような授業をすることで、自然と生徒も英語で話す(答える)ことが身につくのではないかと思いました。
先日、私は英語の授業研究会に参加したのですが、そのときに、「英語の教師が英語で授業をすることは当たり前だが、本当に伝えたい事は日本語で言わないと伝わらないこともある」という意見が出ていました。もし私が中学や高校で英語だけの授業を受けていたらちゃんと授業についていけていたかを考えると、どんな授業が良い授業なのかわかりません。生徒の学力にもよると思いますが、やはり教師側の英語力にかかっているのかなとも感じました。

>>確かに、日本語でないと伝わらないこともあります。ただ教師の英語力が大切なことも本当です。

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 今回見た授業の映像は20年以上も前のもので、にもかかわらず全て英語というハイレベルな授業が行われていて驚いた。この形式は靜先生の英語能力の高さがあるから行えるもので、教師の能力が高ければ高いほど(もちろんそれだけではだめだと思うが)良い授業が行えるということがよくわかった。先生は、全て英語で通す授業は最近になって言われたわけではなく、20年以上前のこの時でも推されていたと言っていたが、いつからそのように言われていたのかが気になった。
 生徒からの反応をもらうために、生徒がわかるように英文をかみくだいていき、さらに生徒が言った英文を、生徒をほめつつまとめなおしていくには、教師の英語のレベルが、少なくとも英単語の定義を英語で説明できるレベルにないといけないし、それだけでなく毎時間の準備を絶対に怠れないということを感じた。生徒が言わんとしていることを、その本人にも、他の生徒全員にも伝えるためには、英語能力だけではなく、生徒の発言をしっかりと予測しておく必要がある。それができずに、1度でも生徒に、「この教師は自分の言いたいことを英語で表せない」と思われれば、二度と全て英語で通す授業はできなくなってしまうのだろう。先生が高校のレベルについて言及しなかったのは、どんなレベルでもこういった授業が行えるから、ということなのだろうか。それと、さすがに教員という職そのものに慣れてからではないと厳しいのか、先生はどれくらいの時期からこういった授業が出来たのかが気になった。

>> 中学で教えていたころからやっていたので、最初からできました。使える単語が少なければ少ないほど、すべて英語で行うのは易しいのです。



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[感想]
All Englishの授業の悪い例として、訳読授業が挙げられていた。例えば、What does "society" mean in Japanese, ○○さん?というように教師が質問をして、生徒が「社会」と答えれば、Yes. "Society" means 社会 in Japanese.で完結してしまうような授業だ。この授業・問いかけは、生徒の貴重な英語を発言できる機会を奪ってしまうし、生徒の予習の質、学習意欲も高めることはできないだろうということが予想される。同じ意味を問う在り方でもWhat does "society" mean?と問えば、単語の持つ定義について尋ねることができる。これは、生徒が本当にその単語の意味を理解しているかだけでなく、その単語を日常の中でも使えるのかがわかるのだと思う。生徒がどこまで理解していて、どこを理解していないのかが測れれば自ずと教師ができる支援も見えてくるはずだと考えられる。具体的には、本文を易しく言い換えたり、例を出したり、イメージを湧かせるような短めの質問をしたりすることができるだろう。
また、前提としてその段階(中学・高校どの学年か、レベルか)で分かる英語単語、文法だけを使って本文の内容を生徒にわかりやすく説明できなければならない。たとえ小学生が相手だったり、習っていない単語をどうしても使わなければ説明できない場合でも、適宜画像を見せたり、黒板に絵を描いたり、ジェスチャーを入れたりするなど視覚的なものから理解を図ることもできる。
All Englishの授業だからといって単に教師が全て英語で話していればいいというわけではない。教師が一方的に英語を話して、生徒がポカンとしているような授業では意味がないAll Englishの授業といっても、その具体的な定義はないようだ。和訳を先渡ししておいて、英語で授業をする在り方もあれば、教壇に立っている時は英語のみ、降りたら日本語も適宜用いるようにする方法もある。All Englishの授業を教師の自己満足な授業で終わらせないためには、何よりも生徒に伝わる、生徒の理解度を測れる(そして、不足を補える)工夫が施された授業でなければならない。また、その際、授業のテンポも大切だと考える。グルグルメソッドやポンポンメソッドが有効であることは言うまでもない。手拍子をしたり、BOXステップを踏みながら練習したり体で英語のリズムを自然と覚えてしまうような工夫も大切にしていきたいと思う。

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映像を見ようと顔をあげると、そこにはやる気に満ちた高校生と若き侍が映っていた。その侍は聴衆の前に立ち、堂々とした立ち居振る舞いで英語という名の刀を抜いた。隠しても隠しきれずにじわじわと伝わってくる侍のオーラからは、生徒を真剣に授業に臨ませるための環境や雰囲気、信頼関係づくりなどの日々の行いを大切にするということ。また、わからなかったらわかるまで何段もレベルを落としていくパラフレーズする力、英語を使いこなすためにかかさない鍛錬。そしてなにより、生徒には完璧な答えは要求しないが完璧な英語を身につけさせるということに関しては妥協を許さないという、確固たる信念が伝わってきた。私はぞくぞくした。なにせあれほどレベルの高い生徒、授業を見せつけられたのだから。自分もこれからいろいろなことを学び、経験し、いずれは教師になるだろう。そしていつかはあれ以上の生徒を育ててやるのだと考えると、わくわくしてしょうがない気持ちになったのである。現在の英語教育に革新をもたらすべく、あの若き侍、そして現代もなお戦い続けるグルグル侍の姿をしっかりと目に心に焼き付け、日々精進していかなければならないと思った。
あと、ひげがはえてなかったので驚きました。

>>期待してるよ。

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 靜先生と**先生の小・中・高のAll Englishの授業を見て、まず、中学校と高校でのAll Englishの授業は日本語での授業に比べ、生徒のモチベーションが違うように見えました。もちろん、どのような授業形態であってもそれまでの教師と生徒との信頼関係や教師が作り上げてきたレベルの高い生徒たちであればモチベーションを高く保つことはできると思います。しかし、同じレベルの高い生徒たちで考えると、日本語で授業を行うよりもAll Englishの方が生徒たちはより多く英語に触れることができて英語に慣れ親しむことができるのではないでしょうか。
 次に小学校でAll Englishの授業を行う場合は中学校、高校以上にきちんとした正しい発音でなければならないなと感じました。というのは、小学生のほとんどがこの授業で初めて英語を耳にするはずだからです。そして、小学生は教師が発する英語をそのまま真似しようとするからです。ですから昨年度から始まった小学校での英語の必修化で英語教育を学んでいない教師が無理に英語を使い、児童に間違った発音を聞かせるというのは児童にとってものすごい悪影響だと思います。
また、小学校でAll Englishは難しいのではないかと正直初めは思っていました。しかし、逆にことばの意味は分からなくてもジェスチャーや表情で相手の言いたいことを理解しようとする気持ちを持つことができるので、その後に英語を学ぶ上ですごくプラスになるのではないかと感じました。


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 今回のビデオを見て感じたことは、生徒が教科書の内容を理解しやすいように教師がうまく誘導してあげることの大切さです。もちろん、All Englishで教科書本文の言い換えを説明したりすることも必要だと感じていますが、教科書の内容を生徒が理解しているかを確認する意味でも、どのような質問を生徒にしてあげるのかは授業の展開の仕方や、その内容の濃さを左右してくるのではないかと感じました。そのため、教師にはうまく生徒から答えを言ってもらえるよういかに分かりやすい質問を出す力も必要になってくることになると思います。英語の教師として、生徒にとって分かりやすくスムーズに展開していけるようなAll English の授業を自分も行えるように頑張りたいです。


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 私はWords and Silenceall Englishの授業を見て英語で授業を行うことの重要性を知った。静先生が発した一語一語をしっかり聞きとろうとするとなかなか内容を理解することは厳しいのではないかと考える。しかし、もっと柔軟に構えて、ある程度単語を拾って内容をつかもうとすることで英語がすんなり耳にはいってくる。英文をしっかり聞きとることはできなくとも、先生の言っていることの大意をとろうとすることが非常に大切であると感じる。そういった授業を繰り返すうちに今まで聞きとることができなかった単語をつかめたり、単語のつなぎ合わせではなく英文をしっかりつかめるようになるのであると考える。英語は言語であるのだから声に出す、聞きとることが必要不可欠である。それにも関らず、文法、単語、文構造を過剰に意識しすぎて日本語ばかりで説明する、あるいは授業で静先生がおっしゃっていた「society」の日本語の意味を英語で尋ねて「社会」と答えさせるような授業は、英語がコミュニケーションのツールとなる言語であるということを忘れてしまっているように感じる。実際、小学生相手にall Englishで活動をしていたビデオを見ても、小学生は静先生が言ったことをしっかり理解し、動いていた。教師が自身の英語力を向上させ、正しい英語を生徒たちに聞かせることが生徒たちの英語力向上への大きな手助けになるはずである。