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11/30/2012

なぜ速く話すのか?

きょう、とある懇親会で会ったネイティブが言っていたことで、おお良いこと言うねえ、と思ったのが:

「日本人のスピーキングは全体に、非常にレベルが低い。それは主に発音面である。しかもレベルが低いのに速く話そうとするのが理解できない。うまければ速く話せばいいが、リズムもなにもなく速く話すので困る。なぜ、区切って、ゆっくり、英語らしいリズムで話さないのか?」

「切られた」(斬られた?)私

学生に、

「◯◯君が、この授業は切ると言っていました。忙しいらしいです。」

と言われた。

もちろん授業を履修するか否か、履修を続けるか否かは本人の自由(選択科目のなので)なのでよいのだが、

「この授業は切る」

という表現を、その授業をしている教員本人に対して用いるのは極めて失礼であるのは言うまでもない。

その場でその学生にはきちんと説明した。学生には物事をはっきり教えよう。


「ふつうの」人の思い込みスキーマの怖さ

今回の、山口新聞の記者による、

「聞いていない講演をあたかも聞いていたかのように書いた結果とんでも記事になってしまった事件」

に関連して知人に、

「新聞記者はもともと自分のストーリーがあって、取材した内容を、それに合うように構成するだけですよ、自分の近い人もひどい記事を書かれたことがあります」

と慰められ(?)た。

しかし考えてみると、おざなりな「取材」で思い込み記事を書いた結果があれだ、ということは裏を返せば、

「間違いを恐れずに話そう」

というメッセージが「ありがちな話」「思い込み」として新聞記者という「一般人」のなかにいかに強固に刷り込まれているか、ということを示していると言える。

もともとそういうスキーマが蓄えられているから、講演自体は聞かなくとも、私のレジュメに、「間違いを恐れずに」という文字を見つけた瞬間、

「ああ、間違いを恐れずに話そう、という例のメッセージをこの教授は伝えたのか」

と早合点して、適当に記事を書いたわけである。

(でも、レジュメのその部分のタイトルも、「『間違いを恐れずに』 アホちゃうか。」だったのだが、よほど急いでいたのか、「アホちゃうか」は見落としたか無視したらしい。信じられませんけどね。)

いかに「間違いを恐れずに」というメッセージが一般的であるかの証左である。

他にも英語教育に関して次のような言説は一般的だろう。


  • ネイティブ・スピーカーの授業を増やすべきだ!
  • iPad(など)を使った授業は効果的だ!
  • 英語を英語で教えるべきだ!
  • ディベートをするべきだ!
  • 遊び感覚で楽しく学ぶべきだ!
  • 会話中心の授業をするべきだ!
  • 生きた英語を学ぶべきだ!
  • シャドウイングをするべきだ!


よって、仮に次のようなことをいくら力説しても、おざなりな聞き方をする一般人には、上のように受け取られる恐れは十分にあるので、気をつけねばならぬ:


  • ネイティブ・スピーカーの授業をうけても、一般に思われるほど英語はうまくならないことが多い。直してくれないから。
  • 教師の実力の無さはICTで補うことはできない。チョーク&トークが基本。
  • 英語を英語で教えれば英語がうまくなるとは限らない。英語がうまい生徒は英語で教えられるが、逆は真でない。ゆくゆくは英語で教えられるように、日本語も用いて教えないとだめ。
  • ディベートしてもとんでも英語早口大会になるのが関の山だ。まともな英語で話す日本人ディベータを見たことがない。(もちろんいるのでしょう。が、見たことがないですね。)
  • 遊んでいても身につかない。遊んでいる暇はないよ。
  • 「会話」って何?読んだことについて話すほうがよっぽと中身があるでしょ。
  • 死んだ英語なんてないよ。
  • シャドウイングなんてむやみにやっても意味ない。うまくなっている人を見た覚えがない。


困ったものである。。。


最後に話を戻すと、「間違いを恐れずに」でなく、新聞記者は、自分の書く記事の間違いを恐れるべきであるし、間違えたら訂正するべきである。当たり前だが。

Reporters! Be afraid of making mistakes!






11/28/2012

実際には聞いていなかった(!)、そうです

2つ前のポストの記事を書いた記者は、なんでああいう記事になったかというと、なんと

「(次の取材があったから)実はあの講演は聞いていなかった」

ということです。

実際には聞いていなかった講演を、あたかもその場にいたかのようにレポートしたので、ああいう全く正反対の内容になった、ということですね。

That explains.

ちょっと考えられないくらい理解能力が低かったのでも、なんらかの意図をもって趣旨を捻じ曲げようとしたわけでもなく、単に記者として(控えめに言って)怠慢だった...というオチとなりました。

でもそれならそれで、「お詫びの上、訂正します」という記事を出すべきだと思いますがねえ。。。

11/27/2012

小学校の先生、いっしょにがんばりましょう


[先日の山口の講演に出席していた小学校教師のみなさんに対してメッセージを寄せてくれませんか、と、英語の授業を頑張っている小学校の先生に依頼して書いてもらった文章]


大阪府の小学校で35年間教師をしています。(中略) 靜先生の授業を受けるまで、「私にはRの発音は無理」だと思っていたし、「Lは日本語のラ行で問題ないだろう」と考えていました。きちんとした指導を受ければだれでも身につけることができると今では思います。 
小学校英語というといつも指導者の問題が取りざたされます。小学校教師に求められる英語の力はと聞かれたら、私は「アルファベットの一つ一つの音が正確に出せて、易しい絵本やチャンツ、歌が正しいリズムで読めたり歌えたりすること」と答えます。これができないから小学校での英語教育に反対だという先生もたくさんいます。これが今の日本の英語教育の大きな問題点であって、個々の教師の怠慢といえるものではないでしょう。 
でもこの点について今さら中高の英語の先生をうらんでみてもはじまらないし、文科省の研修も期待できそうにありません。まずはLとRから始めて見ませんか。具体的には、マザーグースでも歌でも絵本でも簡単なものでいいので、自分の気に入ったものを選んで教師自身がモデルを徹底的にまねて覚える、というのを勧めます。そしてターゲットの語を決めて教える。小学校教師は音を大事にした入門期の文字指導の経験を持っているし、楽しい音読指導の方法もたくさん知っています。「あ」の一文字だけで45分の授業を組み立てられる力もあります。それらは英語の指導にも必ず生かされます。 
 今、一年生を担任していて、運動会のダンスで使った「under the sea」の歌を一緒に歌っています。RとLだけ、サビだけと思っていたのに、一つの音にこだわってみると、また次の音が気になってきます。帰る前に1、2回歌うだけですが、「今日はbetter とwetter の違いに気をつけて歌ってみよう」といった感じで、日に日にうまくなってノリノリになっていく子どもたちを見るのは楽しくてしかたがないです。実はその前の晩には必死になって「w」の音を練習しているのですが。子どもを鍛えるつもりが私自身が鍛えられている毎日です。まだまだこれからです。いっしょにがんばりましょう。


ありがとうございます。小学校教師に求められる英語の力についてはまったく同感です。「あ」の一文字だけで45分間の授業を組み立てる力、はすごいものですね。それにきちんとした発音さえ備われば、鬼に金棒です。英語の発音はこつさえつかめば決して難しいものではありません。小学校の先生方、どうぞ子どもたちのために、ガンバッテください。












11/23/2012

新聞記者というのはバカだったのか。

昨日やった講演について、山口新聞の記事があったので見たらビックリ、

http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2012/1123/9p.html

「大東文化大学の靜哲人教授が『実力は細部に宿る~音声と文字を大切にした指導を!」と題して講演。会話中心の英語教育を勧め『間違いを恐れず思い切ってしゃべって。しゃべった後失敗から学ぶ。きっと次は成功する』と上達の秘訣を述べた。」


とありました。

(フザケルナ)

まず、会話中心の英語教育など勧めてはおりません。だいたい「会話」という浅薄な響きの用語は使ったことはありません。音声を大事にしろ、と言ったのであります。主として書いてある教材の音読の話であって、「会話」の話など一言もしておりません。

つぎに、間違いを恐れず思い切ってしゃべって、などは死んでも言っておりません。私のことを知っている人ならば私がそんなことを私が言うハズがないことはわかると思います。言ったのは、

「間違いを恐れず」という表現は大嫌いである。間違いを恐れずしゃべらせた後は、どこが間違ったかきちんと指摘して、次は同じ間違いをしないようにさせなければ意味がない。 Don't be afraid of making mistakes! などと脳天気に言っているな。

ということです。

それが180度違う、正反対の発言にされるとは。。。。 

新聞なんてこんなものですかね。

この記者が個人的に理解力and/or要約力が尋常でなく低いのか、なんらかの意図を持ってこういう記事をでっち上げた確信犯なのかは不明。

今井遥選手、応援よろしくお願いします

大東文化大学の外国語学部英語学科の

今井遥選手

が、今夜のフィギュアスケートNHK杯に出場します。

次代を担うホープ!

応援、よろしくお願いします。

ゴミを送ってくるんじゃねえ!

(学生への一斉メール)

どうしても self-monitoring ができないようなので、manzoku2は提出前に、最低限、別の誰か1名に聞いてもらい、

L

R

TH

V

F

さらに

リズムの適正さ、

などを批判的にチェックしてもらい、必要に応じて録り直しを何度もし、それで合格した最終バージョンを送りなさい。

チェックしてもらった他人の名前も、ファイル名に。

ゴミみたいな英語の録音を送ってくるな!

自分の very best を送ってこい。

博士号と授業の二律背反

同僚とのカフェテリアでの茶飲み話:

授業が「できる」人は博士号(なんかとっている暇はないからそんなもの)は持っていない。。。

博士号を持っている(ような)人は授業が「できない」。。。

よねえ。。。

だよねえ。。。

今どき、大学だと博士号を持っていないと苦しいし、かといってそういう人を採用しても授業がイマイチじゃあ元も子もないしねえ。。。

博士号を持っていて授業が「できる」人、

授業が「できる」けど博士号も持っている人、

いないかねえ。。。

++

補足:

いや、もちろんうちの大学では、授業が「できて」かつ博士号を持っている人を育てますよ(汗)





11/22/2012

基地の街で

きょうは米軍基地の街、岩国で講演(公演)だったのですが、いくつか面白いことがありました。

最初の1時間弱くらいは、

「私は他人の授業を見たくない。なぜなら見れば90%以上、嫌な気持ちになり、いたたまれなくなり、耳を塞ぎたくなるからだ。それはあなたたち教師が、生徒のダメダメ英語を聞いても英語自体の指導をすることが一切無く、無意味に OK! Thank you! Great! というばかりだからだ。」

という話をしました。で、そこで、ここまで聞いて何か質問とか反論とかありませんか、とフロアに振ったところ、手が上がり、

「(言いたいことはわかったがお前が)実際にどういう指導をするのか見てみたいから、この場で、俺たち全員を生徒にみたてて、模擬授業をやってくれないか?」

というchallengeが来たので、

「じゃあ先生を生徒にに見たてて音読の指導をするので、舞台に上がってください」

と言って舞台に上がってもらい、中学教科書の本文を使って、Rの指導、語末のNの指導をしながら、強弱というか高低のプロソディの指導を、ステップを踏んだり、手で波乗りを表すジェスチャーメソッドで指導デモンストレーションをしたところ、まあまあ納得してくださったようでした。

その後、懇親会に移りましたが、懇談の中でさすが岩国というか、

「自分は中2の頃から米兵と付き合いがあり、ずっとコミュニケーションはとれてきたから、これでいいと思ってきた。しかし今日の話を聞いて、自分がコミュニケーションをとれていたのは、相手が母語話者だったからで、非母語話者同士のインタラクションになるとまた別問題なのかもしれないと思った。また、自分の英語は1ユーザーとしてはこれでいいだろうが、1ティーチャーとしてはまずかったのなあ、と思った。」

という告白をしてくださった方がいました。

なるほどねえ。

基地の街ならでは、の感想ですね。


11/20/2012

バカであった

(学生あての一斉送信メールの一部)

今日の授業にはがっかりした。自分に。

ここまできたらトーナメントをやれば、すぐれたパフォーマンスが勝ち上がってくるだろう、と予測していたのはバカであった。

どういうものが優れたパフォーマンスで、どういうものがダメダメなのか、もう十分教えられたと思っていたのはバカであった。

あれがよくある中高の授業であれば、最後の発表は「どうどうと乗ってやった」からOK!すばらしい!ぱちぱち! と終わる。

しかしあれは3つとも、ダメダメな質の低いパフォーマンスである。

あの3つに手を上げて勝ち進ませたすべての人間が、ダメダメ学生である。

恥を知れ。

11/18/2012

同じ文法でも軽重がある

2つ前の「アカン発言」に補足


英語とはどういう特徴のある言語か、を頭に入れて指導しよう。教科書にでてくる文法事項がすべて同じように重要なわけではない

言語的に言えば、3人称単数現在 など(意味伝達のためには)不要である。 実際 she don't なんていくらでも聞く。
代名詞の人称変化だって、ほぼ不要である。実際、教養のないネイティブ英語で、 their の代りに them をよく使っている。

そういう、語形の変化に関わるような「文法」というのは、相対的に、言語としての重要度が低いのである。

それに対して重要度が高い、これを間違えると意味が通じなくなる、というのは、語順に関わるような「文法」である。「てにをは」があるためにご順にそれほど頼っていない日本語と比べて、英語は語順が絶対だ。

Mary love(s) Tom. と Tom love(s) Mary.
では、単語はまったく同じでも意味が変わるのが英語なのだ。日本語は、「てひをは」さえあれば、語順はかなり自由が聞く。

だから、生徒の英語を見て、聞いたときに、「また間違えている」という単純発想ではなく、「また減点対象の間違えをしている」という減点教師根性だけではなくて、

「たぶん意味は通じるね、でも、教養がないと思われるよ」

なのか

「まったく意味が不明だよ、なぜなら。。。」

なのか

「意味は通じる。でも実は違う意味になっているよ。。」

なのか、

英語という言語としてどうなのか、一段上の、言語学的な、鳥瞰的な立場から切り分けてやるひつようがあるのだ。

上の Are you like tennis は、 are you と、like tennis という語順はそれぞれ定着しているのだから、そこから出発して、一歩上を目指せばいいではないか。

コップの半分の水にたいして、「半分しかはいっていない」という発想はやめよう。「半分は入っている」と発想をしよう。

11/16/2012

うまくなってきた

1年生がようやく少しうまくなってきた。

鱒寿司の竹へらメソッドがじわじわと効いてきたのだ。

2012年一のアカン発言 Are you like tennis?

「うちの生徒はレベルが低いです。be動詞と一般動詞の区別もつきません。Are you like tennis? なんて平気でいいます。ほとほと嫌気がさして、次の異動では行き先が◯◯工業と◯◯工業だったら、金の問題じゃなくて仕事を辞めます、と申し入れているんですよ。」

そういう気持ちでいるなら次の異動といわず今すぐ辞めたほうが生徒のためである。

だいたい、Are you like tennis? がどれだけ悪いのか。

Are you は身についている。 Are you a student? などが頭に残っているのだろう。

like tennisも身についている。 「テニスが好き」が、tennis like じゃなくて like tennis という VO になっているのだから大したものである。

I tennis like. じゃなくて、 I like tennis. と言えたら、英語の根本はクリアしていると思わねばならない。

高校で教えていて、中学レベルの事項があやふやな生徒がいたら、ラッキーと思えないのだろうか。

高校にいながらにして、バーチャルに中学でも教えるような体験ができるのである。楽しいではないか。

中学の初期というのは英語教育においてもっともエキサイティングで、もっともクリティカルな時期なのである。そのような時期に、高校にいながらにして立ち会えるのだ。

ABCから教えるのは楽しいではないか。文字と音の結びつきの最も大切な部分を教えられるのだ。

「うちの生徒はとても英語で英語を教えるなんてことができるレベルではない」と、できないのを生徒のせいにするのは発想が腐っている。それは生徒のレベルではなくて、そう言っている教員のレベルの問題である。

大学から高校、中学、小学校と降りていくにしたがって、「英語で」授業をするのはより易しいのである。限られた語彙だけ使えばイイのだから。

(もちろん英語で授業するというのは英語をたくさん生徒に言わせるということであって、コーチングは日本語でやったほうがずっとよいのはいうまでもない)

できる生徒には先生はいらないのである。先生はできない生徒のためにこそいるのである。

できない生徒がいるから、我々の商売が成り立つのであって、大変ありがたいことである。そんなにすぐみんな英語ができるようになってしまったら、英語教師はいらなくなってしまって、我々は商売上がったりだ。なんどもなんども繰り返しが必要だから、われわれの出番があるのである。ありがたいことだ。

できないのが当たり前なのだ。やる気がないのが当たり前なのだ。やる気があってできる生徒なんか、いま時、ネットでもなんでも教材を探して自分でどんどん勉強できるのだから、先生なんかいらないのである。やる気がなくてできない生徒のためにこそ教員は存在しているのである。

やる気がなくて出来ない生徒を、やる気があって出来る生徒に変えることこそが我々のしごとのコアなのである。


11/15/2012

「国際関係」と「国際◯◯関係」の大きな違い

今日勉強になったことがありました。

国際関係学部は、Faculty of International Relations であって、決して ... International Relationship ではない、と。

ふうん、なるほどなあ。でも、その場合、relations と relationship って、どう違うの、と尋ねたところ、

I'm majoring in international relationship.

と言うと、いろいろな国の異性とつきあっているように聞こえるよ、アハハ。。。

と、いうことでした。

11/11/2012

音読の悩みとプロソディ

大修館書店『英語教育』の12月号に、2本文章を書かせてもらいました。


音読指導の実践Q&Aの一部として


Q9 音読が上手く行かないときは、どうすればよいでしょうか?

(回答要旨: 音読がうまい教師がきちんどダメだしすれば必ずうまくいきます。)


Q14 音読のなかでどのようにリズム(プロソディ)を指導すればよいでしょうか?

(回答要旨: 先生自身がリズムを体現して歌って踊って下さい。)


他の回答者とはテイストが違った回答だと思いますが、是非書店で手にとって御覧ください。

音読特集

あさましきもの

音読についての記事を、聞くに耐えない音読をする教師が書くこと

11/09/2012

スピーキング指導とライティング指導のパラレル性

ライティングをさせても書かせっぱなしで、「よく出来ました」というハンコウを押すだけとか、Well written.という内容のないコメントをするだけとか、あるいは、英語自体には触れずに、内容に対するフィードバックをするだけ、というのは、スピーキングに直せば、発表やプレゼンをさせても言わせっぱなしで、"Wonderful!"  "Great!" という空疎な褒め言葉を発するだけ、とか、英語の発音や表現や文法にはいっさい触れずに、内容に対してコメントをするだけとか、内容どころか、「積極的に話そうとする態度が良かった」などのコドモダマシのフィードバックをするだけ、というのとちょうどパラレルだ。

また、スピーキングで発音や語法など英語自体にコメントしても、コメントするだけでそれを incorporateして再度言い直させないのは、ライティングに置き換えれば、添削しても添削しっぱなして、その添削を反映した書き直しをさせない、のとパラレルだ。

添削されたらそれをすべて学生が咀嚼して自主的に肝に銘じて書きなおしてパフォーマンスを向上させるなどというのが多くの場合は期待できないのと同様、スピーキングでも、これこれこうしたほうがよかった、と後から言われただけで次からそのようなパフォーマンスができるようになることは期待できない。

スピーキングでもライティングでも、まず、必ず英語自体の添削をしよう。そして添削したらそれを取り入れた望ましい形にして、言い直させよう、書きなおさせよう。

よく出来ましたマル、のハンコウを押し続ければライティング力が伸びると思う人はおとぎの国に生きている。

Wonderful! と言い続ければスピーキング力が伸びると思う人は、どうかしてる。

内容についてコメントしていれば書く英語も向上すると思う方がおかしい。

話す英語についてもまったく同じ。

誤りを指摘しただけで終わってはいけない。かならず言い直させなければ。

そうすると英語が嫌いになるのでは、という発想自体が腐っている。生徒をバカにしてるんじゃないかね。

生徒はうまくなりたいんだよ。

自分の英語が下手なことはわかっているんだよ。下手な英語をほめられても嘘っぽすぎてうれしくないよ。

下手な英語をほめていないで、下手は下手だ、何が下手の原因か、どうすれば上手になるか教えてやり、実際に上手くしてやって、上手くなったらほめようよ。

11/04/2012

圧倒的だった

今日の授業はざっくり言って、素晴らしかった。

バスケットボール、車椅子などの実物を使って生徒を巻き込んだ実演パフォーマンスは圧巻だった。もちろんその実演が確かな英語に裏打ちされていることは言うまでもない。

また新語の導入、新教材の音読練習でも、個々の音素、"basketball" の、tの非開放、can の強形、弱形の区別、文アクセントの中で弱く発音すべきところ、強く発音すべきところ、など、非常に大切なのに、中学高校ではまったくといっていいほど指導されていない、指導されていないどころか、たぶん多くの教師が知識としても知らないようなレベルの事柄にまで、まさに痒い所に手が届くような音声指導がなされていた。

オレのこの口の形を見よ、舌を見よ、ほらこうやって発音するんだよ、というメッセージを発しながら自分の顔に注目させる教師は、自分以外ではほぼ初めて観た。

ペアワークもよかった。Aをペアからもらえたら座って良い、というのを厳しく判定しているパートナーも多かったようだ。

自分ならこうするだろう、と思ったのは read and look up で、生徒のコーラスがまわりにあわせてリズムがゆっくり平板になってしまった時である。私なら「まわりにあわせなくともいいからきちんとリズムをとって」というか、またはきちんとリズムを取ったモデルをもう一度提示してリピートさせるかしたと思う。

いずれにせよ、観ていて幸せな気分になったのは、彼が自分の指導で子どもたちの英語がうまくなっていくのを心から喜んでいるのが伝わってきたからである。

(自分の子どもよりも若い世代というのは、いわば「孫」感覚に近くなってきて、一段とかわいくなる、というのも有るのかもしれない。)

あれだけきめ細やかに中1から指導されればあの子たちはうまくなる。彼に担当されたあの子どもたちは本当にラッキーである。 

They are lucky to have him as their teacher.

11/03/2012

いいところを見つけよう、って?

お友達の発表を聞いて、いいところを見つけてコメントしよう!

というメンタリティが私にはわからない。

いいところを言っても向上はないでしょ。そのままでいいんだから。

ダメだったところ、こうしたほうが良くなるところを言わなければ向上はないでしょ。

その場で止めて、やり直させよ

授業をふたつ観た。

学年は違うが両方とも授業の最後のほうに「発表」があった。3人(3ペア)とか5人(5ペア)とかピックアップして発表させていた。

5つ発表があったならば、一つ目より2つ目、2つ目より3つ目、とパフォーマンスの質が徐々に上がらなければならないと思う。

つまり、一つ目の発表に対して具体的なフィードバックをして、2つ目の発表に生かさせなければならない、という意味である。もし2つ目の発表が一つ目の発表と同じ「誤り」「不十分さ」を伴っていたら、

「さっき言ったのを聞いていなかったのか!?」

という叱責(実際の言い方や厳しさはいろいろであっていいが)があってしかるべきで、またそういうつもりで、一人目に対するフィードバックを全員が受け止める雰囲気、態度を育成する必要がある。

一人目<二人目<3人目<4人目

ならよいが、

一人目=二人目=3人め=4人め

へたすると 3人め>4人め

では、時間の無駄であろう。これでは仮に40人「発表」させてもパフォーマンスが変わらない。あてればあてるだけ、時間の無駄だろう。お手本にすべきレベルでない友達のパフォーマンスを見ているのなら、お手本にすべきパフォーマンスを繰り返し見せるほうがよいであろう。

そして、

一人目=二人目=3人め

であれば、その延長線上にあるのは、

今日のレベル=明日のレベル=明後日のレベル

であろう。

つまり、いくら授業を繰り返してもうまくならない、ということだ。

しかし、すこしであっても、

一人目<二人目<3人め

であれば、あるいはそれを教師も生徒も目指しているならば、

今日のレベル<明日のレベル<明後日のレベル

になるであろう。

世の中の英語教師は、クラス内の「発表」について根本的に考えなおしたほうがよい。

何分かの発表が終わってから、「少し文法もいい加減になっていたから、気をつけようね」と言うだけでは、何も言わないのと同じである。そのコメントを聞いてその生徒はなにも変わりようがないからだ。

やっぱり Freeze Coaching である。その瞬間、その場で笛を吹いてプレーを止めなければ。

あとから言う場合でも、最低限、具体的に指摘して、それを望ましいレベルになるように「やり直させる」のでなければ、「言うだけ、形だけのフィードバック」だ。