Total Pageviews

11/29/2015

『「天国への転職報告」を読んで』を(改めて自分で)読んで

10年たって読み返して、加筆修正したい箇所はないですね。

********************************************

「天国への転職報告」を読んで

靜 哲人

 標記はELECの『英語展望』2005年夏号に掲載された淡路佳昌氏による論考である。副題に「夢叶って大学から中学へ」とある。

 高専、大学と歩いてきた淡路氏は研究面ではCALLの専門家であるが、自らのキャリアの中で、中学校という「シビアな環境」で教授力を磨くチャンスがなかったことへの焦りを持ち続けていた。CALLに頼るのでなく、生身の教師として生徒の基礎力をしっかりと築く仕事に関わりたい、という願いがついに叶って国立中学の現場に立った。その喜びを氏のmentorだった故若林俊輔先生に報告する、という形をとって標記のタイトルになっている。
 教師が勤務する校種を変わるとき、百人いれば百人とも中学・高校→短大・高専→大学という方向で移動する中、大学から中学への転職は、淡路氏自身が書いているように給料激減、労働時間激増、研究環境悪化(もしくは消滅)の大変に「酔狂な」(p.8)選択である。大いに快哉を叫びエールを送りたい。(やるじゃん。公立中学ならもっと説得力があったけどね...)

 氏の転進を最初に耳にした瞬間感じたことは「あ、先にやられた!」である。実はここ数年、中学でまた教えたいという気持ちを強めていた矢先だったので、タイトルを「天国のような職場である中学に移れたことの報告」と誤読してしまったくらいだ。 

 それはともかく、この論考を本欄で紹介するのは、個人的な転職報告の形をとりながら、日本の英語教育にとって重要な指摘がいくつも読み取れたからである。

 (1)「CALLはレメディアルの手段としては効果的かもしれないが、そもそも「レメディ」が必要な状態を生み出さないための生身の授業こそ肝心だ。」CALLの専門家からこのような意見が出たことを重視したい。CALLはあくまで周辺なのだ。自分と学習者との生のやり取りに自信を持っている教員はCALL教室を好まない傾向にある。「CALLを入れたら教員が授業をしなくなったよ。あんな授業なら俺だってできらあ」とは、語学教師ではない友人(関大に非ず)の最近の言。

(2)「旧態依然たる大学教師は、学生の4技能がバランスのとれた状態に近づけるのではなく、精神鍛錬のような訳読作業のみを行うため、選ぶ教材が難しすぎる。」確かに我々は印刷された文字の部分を読む場合の難易度だけで教材を選んでしまう傾向にある。しかし例えばそのまま口頭英作文・要約や暗誦、さらに討論のネタに使うとすれば高校1年はもちろん、中学3年生レベルの教材でも、平均的な大学生には十分チャレンジングだ。この大学教員の態度が反映されたのがやたら難しい英語を和訳させるのを良しとする入試だろう。

(3)「大学の教員養成担当者の選考に、教育力や教育業績よりも研究業績や学位が重視されているのはおかしい。教員養成に対する熱意も勘案しないと中等教育を支える力のある教員は育たない。」まったくその通りで、さらに言えば熱意の有無だけでなく、中学高校での教職経験のない者が中学高校の教員を養成している体制自体がおかしい。経験がないことを教えられる道理がない。

 (4)「英語との最初の接点で基礎を築くという重要な仕事をする中学教師が大学教師より給料が下がるのはおかしい。」これまたその通りである。英語を教える難しさは大学→高校→中学(→小学)と上がってゆく。最もやりがいがあり、最も高度な技術と見識を要求されるのは入門期の授業である。それに見合った報酬と社会的地位を保障すべきだ。独断で言うと、実際、平均的教師の授業力は中学→高校→大学の順番に下がる(英語力はその逆のようだが)。

 以上の4点には大いに共感したが、「大学でやる気のない学生にまで英語を必修にする必要はない」という主張は、私には「取れないブドウは酸っぱいに決まっているから取る必要はない」にしか聞こえなかったことは付け加えておく。

 淡路氏がThere is構文の導入に奮闘しているビデオを語研大会で楽しく拝見した。氏を教師として得た中学生は幸運である。「安住の地」を得た氏の今後の活躍に期待すると同時に、中高大の英語教員の人事交流の実現・促進を望む。教授法担当教員が中学や高校で一定期間教えて修業する、中高の指導主事クラスが大学で教授法を担当する、中学英語教師の団体が大学教員対象に(逆ではない!)教授法ワークショップを行う、などはどうだろうか。

聖地ですね

確かに。

「聖地巡礼」
http://www.awajis.net/?p=1727

あの言葉は非常に印象深く覚えています。

学習指導要領を守ることしか考えないような思考停止の輩ではなく、自分の頭で考え、オレ流を作っていけるような力のある教員を育てたいな、と改めて思いました。

『「教わったように教えるな」をこいつは実践してやがる』(若林先生)と言われるような教員を。

なんにせよ、メーヤウはやっぱりグリーンカレーだな。

教育とは

ハラスメントと見つけたり!

武士道とは死ぬこととみつけたり!

ということはつまり、

教育 is to ハラスメント what 武士道 is to 死ぬこと.

という英文が成立する。

A is to B what C is to D. という構文ね。

念の為に学生向けに解説しておくと、

A is (what C is to D) to B.

つまり、AはBにとって、CがDにとってのものである、ということでう。

ちなみに

rエァsムンt

という表記がよいでしょう。

11/28/2015

瓢箪からティーム・ティーチング

ひょんなことからティーム・ティーチングをすることに。。。

後ろで静かに a fly on the wall のように参観している予定だったのが、我慢できずに絡んでしまい、気づいた時にはダイアローグを二人で提示したり、学生がわからない時に私がパラフレーズしたり、といった共同作業になってしまいました。

結構楽しかったです。たぶん絡まれた先生も。

また、やっぱりどんな学生も学びたいと思っているのだな、と感じました。

krank

相手は心の病気だと思えば腹も立たぬ。

認知症の親の言動に怒ってもしかたない(のと同じ)。


11/27/2015

オーラルイントロダクションの心地よさ

昨日、大東文化大学で、2015年度英語教員志望者特別講演会として、語学教育研究所所長・武蔵野大学教授の小菅和也先生に、「英語授業基本のキ」 としてご講演いただきました。

文法訳毒法もとい文法訳読法の限界を指摘したあと、ではどうするか、ということで実際に音声中心のミニ授業をデモンストレーションする、という流れでした。

実は小菅先生と淡路先生と私の3人は、東京外国語大学で故若林俊輔先生の薫陶を受けて育ったいわば同門の兄弟弟子です。(年齢的に、同時期に大学で授業を受けたわけではありませんが。)

若林先生が主として教え子で教員になった者を対象に毎月ご自宅で開いてくださっていた研究会 COFS では、小菅先生はいわば「師範代」であり、若林師匠が不在のときには会を取り仕切ってくださっていた頼もしい存在でした。

あれからずいぶん時が経ち、いまやかつて師匠が牽引していた語研を牽引する立場になった、そんな兄弟子を招いて私たちの教え子に対して話をしていただく機会を持てたことは感慨深いものがありました。

若林先生もきっと、まあいいんじゃない、と喜んでくださったと思います。

久しぶりに聞いた兄弟子の英語は耳に心地よく、学生とのやりとりもさすが職人芸、見事なテンポで、語研の代名詞であるザ(ジ?)・オーラルイントロダクション(あるいはインタラクション)を堪能することができました。

うちの学生にも、教師の role model としてインパクトは大きかったと思います。

この機会を持てたことを感謝しています。

狩りという名の殺戮

テレビコマーシャルを見ている限り、「狩り」をテーマにしたゲームが世の中には溢れているようだ。

狩りと言っても、狩った獲物を食物にして生き延びるための狩りではなく、ストレス発散のためのゲームとしての狩りである。

狩る相手は、なるべく良心の呵責を感じさせないような、醜い、あるいは恐ろしい、あるいは獰猛な、あるいは攻撃的な、モンスターである。

そして狩とは、取りも直さず、そのモンスターを残虐な方法で素手でもしくは武器を用いて派手に殺すことだ。

つまり、醜い、あるいは恐ろしい、あるいは獰猛な、あるいは攻撃的なモンスターであれば、殺すために殺してもまったく構わない、むしろ楽しいことである、痛快なことである、という前提の上にたっているのが、あの手のゲームのように思われる。

しかしモンスターとは、動物の一種である。ストレスを発散する人間の標的になるために生きているのではない。そういう存在としてゲームクリエイターがクリエイトしたからということはここでは無関係である。

ああいうゲームがここまで一般的になり、多くの老若男女が(?)、そういう行為を当たり前のように楽しんでいると思うと、いつも暗澹たる気持ちになる。

世の中おかしくないだろうか。

愚かなネイティブ教員

というのは、もちろん制限用法であって、非制限用法ではありません。

a stupid native-speaker teacher (= a native-speaker teacher who is stupid)

であって、

native-speaker teachers, who are stupid, (= all of whom are stupid)...

ではありません。

また、私の勤務校の教員ではありません。念のため。

で、その方が言うことには、

自分の学生はエッセイのなかであり得ないスペリングをしてキマス。LとRの取り違え、VとBの取り違えのあらゆる組み合わせがあって、頭がおかしくなりそうデシタ。

(なるほど。それはあるある。だから?)

で、彼らに言ったのは、

「自分のカタカナ発音のイメージで適当にスペリングをしないでください。自分の感覚を信じてはいけない。必ず、いつも、辞書を確認して、LかRか、VかBか、SかTHかを確かめてから書きなさい」

トイウコトデシタ。。

(いや、でもそれではいつまでたっても解決にならないでしょ。まずはきちんと音をおさえて、きちんと発音できるようになってから、その通りに綴りなさい、という指導をしないとまずいと思うよ)

イイエ、それは無理です。彼らにはLもRもVもBも区別はデキマセン。だから自分を信用せず、辞書でチェックシタホウガイイデス。

---

ということでした、ので、それ以上反駁する(反駁してやる)気にもなれませんでしたが、ノンネイティブ教員に愚か者がいるのと同じように、ネイティブ教員にも愚か者がいる、という考えてみれば当たり前の事実を確認することになりました。


11/26/2015

私の授業サンプルビデオを公開しました

金星堂より 2016年度用に刊行される Reading in Action Basic の使い方の例として、Unit 1 を私が実際に使っている様子を撮影したサンプルビデオが公開されました。

どうぞご覧ください。

http://www.kinsei-do.co.jp/4023

Reading in Action in Basic のご採用、どうぞご検討ください。

そのまま使うだけで、アクティブな授業になりますよ♪

11/25/2015

「バカ」だったゼミ会

それぞれにとてもカワイイゼミ生たち。。。


ですが、「バカ盛りコース」はさすがに二十代向けでした。皿のサイズに注目。

t/d は無くなってはいない

昨日、英語教育学入門の学生たちに送ったメール:


こんばんは。

発音について補足しておきます。

英語では t や dは、舌を歯茎につけるだけで、その後に離さない場合があります。離さないので トゥ とか ドゥ のようには、耳には聞こえません。

たとえば、

Good-bye の、 dは、聞こえませんね。

しかし、グッバイ と聞こえるからと言って、dがないわけではありません。

舌を歯茎につけてから、そのままbye に移っているのです。

つまり、 グッdバイ  のような感じです。

同じような現象が、きょうやった born this way にもたくさんありました。

told me の d

rolled my ...  の d

put my ... の t

God makes の d


これらの箇所は、舌を歯茎につけただけで、音を飲み込むように発音するとうまくいきます。

試してみてください。

ポケットサックス :真実の瞬間

本日、あるパーティがあり、我慢できず、ポケットサックスでデビューしてしまいました。

鉄板の L-O-V-E だったのですが、初めて(自分の授業の学生以外の)ヒトサマの前で演奏するという状況にテンパッてしまい、ひとつふたつミスがありました。

学生の発音と同じで、テンパった時のパフォーマンスがその人の実力なのですね。

だからグルグルでプレッシャーをかけているときが、

the moment of truth 

なのですね。

11/24/2015

「こんにちは」という老成?

最近、キャンパス内(+すぐ外)で、面識のない学生に何か(おもに吸ってはいけない場所での喫煙ですが。。。)を注意する時、いきなり本題に入らず、

「こんにちは~」

という枕詞をおくようになった。

98年に大学教師になってからでも18年目、84年に教師になってから数えれば34年目の今、なぜか初めてそういう心境になった。どうしてか自分でもよくわからない。

一種の「老成」なのだろうか、あるいは単なる老化か。。。

いずれにしてもにこやかにアプローチしたほうがトラブルにはなりにくいのは確かだろう。

気がつくのが遅い、か。

授業が始まっている時間帯に教室の外の廊下で友人と大声でバカ話をし続けていたところ、その教室の先生が顔を出して、「君たち他所で話してもらえないかな!!」とちょっときつく言われただけで、プライド?が傷ついたようなバツの悪い思いをしたのは、他ならぬ38年前のバカ大学生であった私である。あのときあの先生がにこやかに「こんにちは~」と始めていたら38年間ずっと覚えているほどの苦い思い出にはならなかったのだろう(か?)

11/22/2015

電車内での ブツブツ音読

電車内でドイツ語のブツブツ音読+read and look up をする時は、マスクをかけて声を落としてやる。

look up してどこを見るかというと、窓とかドアの上のスクリーンなどである。

幸い周りにはヘッドホンをした人も多いので、マスクは別に必要ではないが、顔を出してやる勇気は(まだ)ない。

日本の電車内は基本的にシーンとしていることが多いのだ。

電車が満員でぎゅう詰めの時は、ブツブツ言うのもいい迷惑なので、さらに音量を落として「ささやく」レベルにする。

しかしそうすると、かえってやたらと歯擦音や無声子音が響き、誰かの耳元に意味不明のことをささやいているような体になる。

しかし最近は外国人も増え、いろいろな言語での会話も聞こえてくるから、べつに意味不明の言葉で独り言を言っているように見える日本人がいても、いいではないか?

そんな状況のとき、車内放送が流れてくると、安心して普通の声で「ひとりごと」が言える、というのも最近改めて感じたことである。車内放送が流れている10数秒の間に、いくつ文がいえるか、何度文を繰り返せるか、も小さなチャレンジなのだ。

11/20/2015

アmヴェtベヴェアp って言えますか?

Taylor Swift の Blank Space のサビに、

It's gonna be forever

というフレーズがあるのだが、be forever の部分で苦戦する学生が続出した。

be の b で両唇を閉じ、forever の f と vで、下唇のみを歯にあてる、たったそれだけ(と、英語に慣れきった私には思えてしまう)の筋肉動作がうまくできないのである。

forever で両唇閉じるな~!と言えば、be から下唇のみになって、 ve forever と発音し、

be はちゃんと唇閉じろ~!と言えば、こんどは、be foreber と発音する、

という調子。

たしかにそれだけの動作だが、f/v に慣れていない初学者には難しいのだな、と改めて納得した次第である。残念なのは、彼らは英語の初学者ではなく大学1年生であり、その初学者の状態で、中高6年間ずっと放置されてきたことである。彼らを教えた中学、高校教師のことを思うと大変に嘆かわしい。

have you ever been to .. などの表現で中学からさんざん出てきているはずなのだが唇の動きなど指摘されたこともないのだろう。

それはさておき、自分自身は b / v の切り替えなど自動的にできる、というのはまったくの思い上がりであると思い知らされることがある。

苦戦中のドイツ語である。

「競技会」という意味で、 Wettbeverb  という語がある。ドイツ語はwは/v/を表すので、

ヴェtベヴェアp

という発音だ。前置詞と定冠詞が一緒になった am が前にくると、

am Wettbeverb  

なので、このフレーズはアmヴェtベヴェアp

という(私にとっては)「あり得ない」発音になる。

スペリングを見ながらゆっくり言えば /m/ /v/ /b/  の切り替えはできることはできるが、顔を上げて速く言おうとすると、もういけない。こんがらがってしまって、どこが /v/ でどこが/b/だかわからなくなる。。。。

上の、be forever で苦労する学生たちと大して変わらないではないか。。。

しかし、これとても、ドイツ語上級者になれば、「なにができないのかわからない」ような、簡単な動作なのであろう(と推測する)。

ということで、何事も初心者というものはそのようなものである、という認識を新たにしよう。

かりに /b/ 自体、 /v/ 自体は慣れていても、その出現する順番や音声的環境が慣れないものになると、うまくできないこともあるということだろう。

そして、そのような初心者が、いつか中級者に、そして上級者になってゆくためにはもちろん本人の努力が一番だが、指導者の存在も大変に大きいものである、という認識を新たにしよう。




11/19/2015

エスカレーターでのチャレンジ

朝の通勤時の一つのチャレンジは、ある駅の下りのエスカレータの上から下までの間(は何秒であろうか、測ったことはないが)に、今取り組んでいるドイツ語例文集の任意のページの8つの例文の音読が終わるか、である。

エスカレーターの左側に立って、空読みにならないように意味を想起しながら、しかしなるべく速く声に出して音読する。右側を歩いて降りてゆく多くの通勤客のことはまったく気にならない。自分と同じ側の下と上の人のことも気にならない。

音読にいたずらにスピード要素を求めてはならない、と英語教育に関しては言い続けているが、それは学習者自身が「きちんとした発音をしながら fluent に言える最高スピードを上げてゆくことが大切だ」ということをわかっていない場合である。私はそれを言っている本人であって、当然それをよくわかっていながらの努力なのであるから、もちろん問題ない。

けさは残念ながら、1文余っているのに、下まで着いてしまった。

次こそ。

11/18/2015

本音を言うと

来春に立ち上がる大東文化大学の教職課程センター関連で、写真撮影があり、PRコピーを書いてくれるライターの方にインタビューを受けました。(学生とともに映っているポスターになるようです。)

その中で、「ここだけの話ですが、力のある英語教員になりたいならば他のどの大学よりもうちの大学に来て、そして私たちのもとで学んでもらうのが一番よいと思っています」という本音の部分を答える機会がありました。

まあそのままポスターになるわけはありませんが、本当の気持ちです。

パワーアップしたい現職の方も、是非、大学院のほうにどうぞ。淡路佳昌先生とともに、実践的にきっちりおシゴキします。

自分で言いますが、<靜・淡路>にシゴカれるのと同じレベルの体験は、全国を探しても、たぶん無いでしょ。


11/17/2015

LGBT

久しぶりに授業で Born This Way をやるのでふと気づいたのだが、この曲でもテーマになっているLGBTという用語・概念が、渋谷区や世田谷区の同性パートナーシップのendorsement などもあり、この1~2年で日本でも急速に知られるようになったように思われる。

ビデオの映像はやや悪趣味にも感じられるが、歌詞の内容は障害の有無や肌の色なども扱い、深く、広く、inspiring であると思う。

11/16/2015

発音指導はネズミ捕りの如く

学生: どうして先生はコーラスリーディングで thの音がおかしいとか、即座に聴き分けられるのですか?

私: それは th がおかしくないか、きっとおかしいはずだ、という性悪説に立って聞いているから。日本人なら放っておけばどういう発音をするかをわかっていて、狙いを絞って聞いているからだよ。

交通違反を取り締まるネズミ捕りが、ドライバーがスピードを出しそうな場所を狙っているのと似ている(か?)


しょぼい

英語教師の英語がしょぼければ話にならない。

エライ先生なら尚更。

11/15/2015

声が小さい生徒をどうしたらいいですか?

昨日、もらった質問:

「個人を指名して答えさせると、声が小さいので、Sorry? とか言ってもう一度言わせようとすると、もっと小さくなってしまうのですが、どうしたらいいでしょうか?」

声が小さいのは、自分の英語に自信がないからだろうと思います。その状態で、声だけもっと大きくさせようとするのは的はずれです。

音痴だと思っているから小さい声でしか歌わない人に、大きい声で歌ってくれといっても無理な相談です。

声がどうのではなく、まず自信をもった英語を言えるようにしてあげる、という意識が先決です。

たとえ自信がある人でも、全員の前で指名されて、全員が聞いている状況で答える、というのはかなりのプレッシャーを感じるシチュエーションです。自信がない生徒がその状況で声がでるほうがおかしいでしょう。

全員の前で発表させるまえに、隣同士のペアとかグループのなかでやらせてみましょう。

文字を読まない学習者たちと音符を読まない楽器演奏者のパラレル性

最近、仲間と、多くの生徒たちは英単語のひとつひとの文字を読まず、全体を見て「漢字的」に読んでいる(から、いつまでも自力で新出語が読めるようにならない)、という現象が話題になった。

と思ったら、その後、effect  を effort と読み違える学習者に遭遇した。

以前にも、difficult を different とかdelicious と読み違える小学校の先生にも会ったのを思い出した。

考えてみると、おそらくすべての中学教科書の副教材として教科書会社が作っているフラッシュカードというものは、極論すれば百害あって一利なしなのではないだろうか。(教科書会社が悪いのではなく、それを求める消費者たる教員がおかしい。)

もちろん使い方だとは思うが、今のほとんどの授業での使い方は、いつまでも英単語を読めない学習者を作る使い方だと思う。

黒板に単語を書くのが時間がかかるからカードを貼る、とか見せる、というが、一文字一文字書きながら、その文字に対応する発音をやってみせながらゆっくり単語を提示するほうがよほどよい。

この分野の第一人者の手島良さんが、語研ジャーナル第14号のなかでそのような「書き足し法」を提唱している。

went であれば、

en

ent

went

文字を書き足しながら、それぞれ、

エン

エンt

ウェンt

と読ませる、という方法である。

(手島良(2015). 「もっと単語の読み方の指導を!」 語研ジャーナル No. 14. pp. 35- 40.)

うん、すばらしい。

この際、単語カードは使わない、というのを常識にしてはどうか。

いつまでも文字を読まずに単語を全体として覚える英語学習者は、いつまでも楽譜が読めない楽器吹き、とパラレル性があるのかも。ひとつひとつの音符が音を作るのではなく、楽譜全体がメロディだと思う楽器吹きは、知らない曲の楽譜を見て、その曲を吹くことが永遠にできない。人からメロディを教えてもらったり、聞いたことのある曲ではないと吹けない。

この件についてはこのブログにも以前にも書いた。読み返しても、我ながらなかなかいいことを書いている。

フラッシュカードやめろ
http://cherryshusband.blogspot.jp/2010/06/blog-post_29.html

もっと文字をきちんと指導せよ
http://cherryshusband.blogspot.jp/2010/09/blog-post.html

「フォニックス」をやるのやらないの、という大げさな話ではなく、もっと当たり前の話として、中学で単語を導入するときに、ひとつひとつの文字は音を表しているのだ、ということが実感できる導入をせよ、という話である。


11/14/2015

ルールの解説から褒め殺しへ

昔の(および今も一部の)英語授業は、スポーツに例えると、選手をグラウンドに集めてルールの解説ばかりをやっていたようなものである。プレーはほとんどさせない。

それが今は、ルールの解説だけではいけない、実際にプレーさせなければ、ということになったのはいいのだが、こんどは、選手にプレーをどんどんさせるだけで、そのプレーを改善するための技術指導は一切しない。

プレーを止めて技術指導をするのはなんだかタブーであるような妙な風潮だ。

どんなプレーをしても、Thank you!  あるいは Good!

本当に「いい」のなら、英語の授業にいる必要はないのでは? ダメだから授業が必要なのでは?

指導者は指導しないといけないのでは?

笛を吹いてプレーを止める勇気を持つべし。

運動の部活では当たり前にやっていることが、英語の授業になるとまったくなされないという不可思議。

気をつけよう

please の L

earlier の ear  口開き過ぎ

yesterday の er 口開き過ぎ

sentence の、ふたつ目の e  曖昧母音に

three の th    できたりできなかったり

volunteers  の L きちんと

learn の ear   上のearly と同じだね

pension の ふたつ目のN   きちんと言うと、penchon のようになるはず
 
quality の L  きちんと

premium の e  エではなくイー です

relationship の L   また N    relationchip のようになるはず

commitment の  e  曖昧母音に

page の g  破擦音をきちっと。

また、自分の生徒を、本人のいる前で、she と言ってはいけない。名前で言うのがルール。

また、r-coloring が不必要を強く、あるいは不必要な部分にもやってしまうと、よくある「Rを響かせるのが英語っぽさなんだ」という誤解を助長する可能性あり。


帯気音の実例

先日学生に「帯気音はネイティブにはどの程度多いのですか」と質問されたので、クイーンの曲からピックアップしてみました。

実際に聞いて、実感し、次回からは自分のスピーキングでも無意識にできるようになってください。


Bohemian Rhapsody
https://www.youtube.com/watch?v=XWE7boPU6kI

fanTasy   realiTy   ..look up To ..

Fat Bottomed Girls
https://www.youtube.com/watch?v=OUwauaE0zEE

  ..gonna Take me home...  Tonight

Bicyle Race
https://www.youtube.com/watch?v=gWJ8_B9BVxo

 want To ride ..

Don't Stop Me Now
https://www.youtube.com/watch?v=OPx-nUqLMtc

  ... a real good Time , ..Turn it inside out....  having a good Time

11/13/2015

ブラック教師だ!

毎週毎週、時間をかけて作成する課題を出すよう強要する。

目標を勝手に決め、その達成を強要する。

ひとりひとりに対する評価を、クラス全員の前ではっきり言い、つらい思いをさせる。

ダメなものはダメだと斬り捨てて、容赦しない。

授業はきちんとした姿勢で受けることを強要する。

教室内で帽子をかぶっていることを許さず、直ちに脱ぐことを強要する。

教師を「先生」と呼ぶことを強要する。

欠席する時は理由を添えて連絡することを強要する。

発音がダメだとその瞬間にダメだと言って、発表の腰を折る。

5回でも10回でもできるまで言い直すことを強要する。

いつでも、全力を尽くすことを強要する。

そんなブラック教師に、私はなりたい

というか、もうずっと前からなってますので、いつまでもそうであり続けられるよう、筋力と体力の維持に努めます。





11/12/2015

恥を知れ RepubRic

世界野球プレミア12で、日本対ドミニカ共和国戦を生中継で見ているのですが、

一瞬映った国名キャプションに、

Dominican Repubric

と。

え? もう一度見ても、確かに

Dominican Repubric


ああ、一国のメジャーなテレビ局として大変に恥ずかしいことである。

しっかりしてくださいよ、TBS!

単なるキーボードの打ち間違い(いわゆるtypo タイポ)ではなく、こういう音の混同というか未分化によるスペリングミスは、単純ミスではなく、教養のレベルが疑われるミスです。私は疑います。

恥を知れ (←私の教員キャリアの原点、大妻学院の校訓)

まず発音をきちんとしないから、LだかRだか覚えられないのだよ!

こういうことをしているから、日本の奴らは Engrish をしゃべる、などとEnglish speakers に見下されるのである。


11/11/2015

大学生も高校生も楽しい

きょうは、英語教育学概論では、100語ほどの暗写英文の音読指導を気がつけば50分以上やっていた。グルグルではなく、ひとり1チャンクずつ読ませて、ダメを出して繰り返させて、まあまあ向上するまでやる、というのを全員に聞かせる形。バランスとして長過ぎるとも思ったが、長かろうが短かろうが、できるようにせねばならんことは、できるようにせねばならん。

つぎの英語教育学入門では、Taylor の Blank Space の1回め。結構難しい歌なのだが、まあまあみんなうまくなってきたのではないだろうか。指導すればしただけうまくなるのである。当たり前の話だが。

その後は、出張して高校2年生相手に30分のモデル授業をやる機会があった。これもまた極めて楽しかった。生徒が初々しくてやりがいがある。来月は50分の授業をさせてもらえるようなので、今から楽しみである。

11/08/2015

RよりもLのほうができていない場合が多い

Kondo, M., Tsubaki, H. & Sagisaka, Y. (2015). Segmental variation of Japanese speakers’ English: Analysis of “the North Wind and the Sun” in AESOP corpus. Journal of the Phonetic Society of Japan, 19 (1), 3-17.


のデータによると、日本人英語学習者の音読を分析したところ、(母音に関わる問題が子音に関わる問題の倍以上多く、)子音のなかでは /l/ に関わる問題が、/r/に関わる問題の3倍以上多かった、という。


/ l / がダメな場合が多いという自分の日頃の実感と一致しており、やはりそうなのであると再確認したが、次の記述には、ひっかかる。

". . . This indicates that pronunciation teaching should pay more attention to /l/ rather than the pronunciation of /r/, . . . " (p. 12)

音読のデータで、/r/の問題よりも、/l/の問題が多かった、という事実から、/r/よりむしろ/l/に注意したほうがよい、と結論づけるのは必ずしも論理的でない。なぜならこの結果は、/r/ にばかり指導上の注意が集まっている結果であると考えられるからである。 /r/にばかり注意しないで、もっと/l/にも注意しましょう、ならよいのだが、「r よりも l に注意させたほうがよい」という表現をしてしまうと、まるで r に対する指導努力をやめて、そのエネルギーを l に振り向けたほうが得策だ、と読めてしまう。

r に対する指導努力を今よりも減らしてしまうと r のパフォーマンスは落ちる。そしてそれは求める結果ではない。

彼らの結果から導くべき結論は、This indicates that pronunciation teaching should pay more attention to /l/ (than it does now). であると考える。



渡辺謙さんの英語と日本人英語教師

立命館大学の杉森直樹先生が、LET関西支部通信 No. 51 の巻頭言におおよそ次のように書いているのを発見しました。(7月づけの記事なのでもう遅かったですが。。。)

--

渡辺氏がミュージカル「王様と私」の稽古で、発音やプロソディについて、演出家などからセリフの指導を受けているテレビ番組を見た。

大変な努力をされている、という印象を持ったのだが、残念ながら初演後、現地メディアからは、渡辺氏の英語は聞き取りにくいという厳しい評価もあった。

番組を見て思ったのは、日本人である渡辺氏に(的確なアドバイスのできる)日本人の英語教師がついていればよりスムーズにセリフの英語をマスターできたのではないか、ということである。

日本の英語教育に置き換えてみると、「これこそが日本人の英語教師が果たす役割の一つではないか」と改めて認識した。

ネイティブからの指導を希望する学生が多いが、「英語学習上の困難点を知っている日本人の先生からの指導もまた重要であるということを理解してもらいたい」

--

まったくその通りだと思います。

11/04/2015

シンポジウム 12月5日 外国語教育における発音指導:普遍性と個別性

12月5日に、麗澤大学で行われる下記のシンポジウムに呼んでいただいております:

http://www.reitaku-u.ac.jp/2015/10/08/53628

テーマ: 外国語教育における発音指導:普遍性と個別性

日時: 麗澤大学校舎あすなろ5階 2508教室


私に与えられたお題は:「こうすればうまくいく英語発音指導」

この他に、ドイツ語教育、中国語教育の立場からの同様のご提案があります。

英語以外の言語の教育での発音指導の考え方や実態を是非伺ってみたいと思っています。

言語によってはタブーではないらしい?

学習者役の発音を直すのがタブーだ、と書いたが、テレビで中国語ではちゃんと学習者役の壇蜜さんの発音を直しているのを発見。嬉しくなった。個々の音や音調を大切だと認識するカルチャーが中国語教育にはあるのだろうか。

奇しくも、実は12月には麗澤大学でのシンポジウムで、発音教育をテーマに、中国語教育の先生と一緒に登壇することになっている。

お互いの発音教育についてのカルチャーについて情報・意見交換ができればと思う。

11/03/2015

語学番組のタブー

最近、数ヶ国語の語学番組を見ていて思ったことなのだが、語学の授業において生徒の発音を修正しようとすることは一種のタブーなのかもしれない。

その言語の素人あるいは初学者をスタジオに配して、学習者役として参加させるというのは、どの語学番組でもやっている。そしてその学習者役に問題を出して、文法的・語法的・語彙的に不完全な答えが出た時には、惜しいですね、正解はこうですよ、とネガティブフィードバックすることは、ひとつのルーティーンとして定着している

しかしその学習者役の出した答えが発音的に不完全だったときに、惜しいですね、正解の音はこうですよ、とフィードバックするのは見たことがない。(あったら教えてもらえますか。)

発音については別枠で発音コーナーを設けて、モデルを示して視聴者であるわれわれに発音するよう促し、それに対して表情で、グッド、などと肯定するといった演出は有るが、実際に発音コーナーとしてスタジオにいる学習者役にダメ出しをして向上させる営みを見せる、という場面はあるのだろうか。おそらくないのでは。

テレビの語学番組というのは、現実の語学授業の一種の象徴というか、ファンタジーというか、カッコいいところだけ取り出した抽象物というか、不純物を取り除いた架空のエッセンスみたいなものだと思うが、そういう場に、文法矯正はあっても、発音矯正がない、というのは、語学授業についてのわれわれ(=といってもは私は少なくとも除く)が抱いているイメージについて、ある重要な、いや重大なことがらを語っているのかもしれない。


11/01/2015

学習者の現状

目の前の学習者の現状がよくない時、どうして放っておくことができるのか。

その現状がきちんと認識できないのか、愛情がないのか、あるいはその両方か。