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9/15/2010

実務家の英語、教育の総論と各論

補足:

実務家の英語

私が出した明石氏や小柴氏を例に対して、柳瀬さんは、「実務家は英語はある程度でいいから、それ以上は専門の本を読め」という論を出した。

もしかすると、私が明石氏や小柴氏ご本人たちが、これから英語発音の修業をすることをすすめている、と読んだのかもしれない。そうじゃないかもしれないが、もしそうだとすると、それは違う。

そうじゃなくて、私はどんな時でも英語教師の立場から話をしている。つまり、明石少年や小柴少年が中学生、高校生、大学生として英語の授業に出ていたなら、英語教師としてては、徹底的に鍛えてもっともっとうまくしてやれるのになあ、という話。

そうなった上で、両氏のコンテンツがあれば、いまよりさらにいいのは間違いない。誰がなんと言おうがこの点について疑問はないね。外国人だろうが宇宙人だろうがうまいほうがいいに決まっている。

日本語ネイティブの立場で言うが、どんなにコンテンツがよくても、聞きとるのにわずかでもエネルギーを消費しつづけれる日本語より、まったく消費しない日本語のほうを聞きたいから。コンテンツが同じなら。

コンテンツと英語

よく、発音がよくてコンテンツがない英語と、発音が悪くてコンテンツが豊かな英語を比較する論があるのだが、誰もそんな話はしていない。そしてコンテンツは決して英語教師の守備範囲ではない。英語教育に「英語」以外のコンテンツはいらない。英語は content subject ではない。

発音技能というのは、筋肉習慣というもっとも「低レベル」 lower-order のスキルなので、自動化することが可能だ。いったん自動化してしまえば、認知資源を一切消費しないので、貴重な認知資源を「専門」のコンテンツに100%振り向けることができる。

それを実現してやるための、トレーナーこそが「英語教師」だ。英語教師の仕事は、それぞれの学習者が自分の「専門」のコンテンツをすこしでもいい形で英語で表現できるためのツールを授けてやる、磨いてやる、ことに尽きる。

それを「言葉の教師」は「テニスのコーチ」や「自動車学校の教官」よりも、よりアカデミックで高級な職業、営みである、ように考えたがる英語教師、英語教育学者(?)は、いかがなものでしょうかね。八百屋や魚屋と同列に英語屋としておかれるのがどうしてそんなにイヤなんだろう。

法律や指導要領の抽象的な文言をこねくりまわすのは役人と学者の仕事。教員の仕事は目の前の生徒にとってもっとも必要なことを教えること。それが現場人の良心です。

我々の仕事は、practical business なのです。理屈をこねてないで世の中の役に立とうよ。

教育の総論と各論

よく「教育の目的は人格形成云々」ということを言い出す人がいるけど、それは総論であって、各論が必要ないという意味ではないでしょ。

世界史の年号も、化学式も、数学の公式も、体育の跳び箱も、英語の分詞構文も(そして発音も)、それぞれ、それ自体を理解して覚えることが望ましい必要な知識・技能だ(と考えられる)から学校でやっているのであって、それぞれがすぐ、直接、「人格形成」に関わる営みだからやっている、とするには無理がある。

社会も理科も国語も体育も書道も英語も、それぞれ別の分野の「各論」をうけもつことによって、全体として人間の「知、徳、体」を高めようとしているのであって、それぞれの分野が「各論」をないがしろにして一足飛びに直接「総論」の達成を求め出してはおかしい。

だから、英語力アップのために必ずしもベストではない、もしかすると弊害もかなり大きい、とわかっているのに、「思考力」に資するだろうから、と抽象的な英文を和訳だか翻訳(注:「和訳」と「翻訳」が違う、とかいうレベルのpedanticな話で現場の人間(英語教師=教育の実務家)の足をひっぱるのはやめてほしいなあ)だかさせて喜んでいるのもおかしい。

『心技体」にも書いたが、数学の先生が、定理の証明や微分積分をきちんと教えず、「人間としてのゆたかさ」云々を言い出すのはおかしい。物理の先生が力学の法則を中途半端にして「生徒の人間形成」を語るのはおかしい。それとまったくおなじ。英語の先生が「英語」自体をきちんと教えず、「生きる力」「人格形成」を論じるのは、自分の仕事をはき違えている。

学校の教師の本分

数学の授業、英語の授業で人格形成をしてもらおうとは誰も期待していない。期待されていると思うのは大きな勘違いです。それはあくまでボーナスであって、あるに超したことはないが、まずちゃんと数学を、英語を教えてよ!!というのが保護者の気持ちです。当たり前の話でしょ。(授業を成立させるために必要な生徒指導、というレベルの「人格形成」は期待されています。念のため。)

もちろん分野は何であっても情熱をもって教育にあたる教師から生徒がその分野以外で人間形成の上で薫陶を受けることは多いはずです。そうあってほしいと思います。が、それはあくまで incidental learning なのであって、それを教師の側が意図しだしたら、嫌らしいし、道を誤ると思います。


I was not proposing that Mr Akashi or Dr Koshiba should try to improve their English pronunciation themselves now.  No, I was not.   But IF I had been their English teacher when they were students, I would have surely made them better speakers of English, which no doubt would have made them even greater assets to the world.