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12/20/2015

気持ちの悪い聖夜

さきほど歌番組でベテラン歌手が Silent Night を歌っていたが、

Silent, holy は、ちゃんとそう歌っているのに All is になると

Or is calm

Or is bright

と、また sleep in ... は

sreep in ..

と熱唱するので大変に気持ちが悪かった。

ある程度のレベルになると、

RをLで言うケースはほぼなく、

LをRで言うケースが圧倒的に多いような印象がある。

12/17/2015

ケビン・コスナーとカロリーナ・コストナーのスットコドッコイ

コストナーで思い出した。

そういえば、なぜ、Kevin Costner はケビン・コスナーなのに、フィギュアスケーターのCarolina Kostner をカロリーナ・コストナー と表記するのか。

 COSTCO を 「コストコ」と表記するようなものである。

もちろん社名表記を「コストコ」に決めたのは、コストコホールセールジャパン株式会社の方々でしょうが、「コストコ」では、本家本元の米 COSTCO社 の方に言っても通じないはず。そんな社名は如何なものなのでしょうか。

もちろん日本語は日本語の論理で表記するのは日本語の自由なのだが、そのまま発音しても非日本人にもわかるような表記に、できるかぎり最初からしておくほうがよいに決まっているだろう。

スットコドッコイ!

職業病に端を発する「両唇/唇歯 代替発音現象」に関する言語学的・社会文化学的一考察

Shizuka, T. (2015). Journal of Kyle's Kingdom (JKK), 1, 1-2.


職業病に端を発する「両唇/唇歯 代替発音現象」に関する言語学的・社会文化学的一考察
Considerations Triggered by an Occupational Disease on Bilabial/Labiodental Substitution Phenomenon from Linguistic and Sociocultural Perspectives



靜 哲人
SHIZUKA Tetsuhito


Abstract
Informal observation of  "nico-nico" L1-Japanese speakers indicates that they are significantly more likely to pronounce supposedly bilabial consonants using their upper teeth and lower lips than their non-"nico-nico" counterparts. Evidence is presented that this substitution is unproportionately common among L1-Japanese speakers when compared with speakers of European languages. Possible reasons for this tendency are discussed from linguistic and sociocultural perspectives.



1. はじめに

電車がある程度混んでくると、当然、自分の周囲1メートルから2メートルくらいにも人が立つことがある。そのくらいの距離でその人がこちらを向いて話していると、話の内容も聞きたくなくてもよく聞こえてしまう。

告白するが、そういう時、話している人が、ニコニコパースン(=定義:ほぼデフォルトでニコニコしており、かつ、口のつくりで、笑うと上の歯、場合によっては歯ぐきまでかなりの程度露出する人。例: テニスの錦織圭選手、フィギュアスケートのアシュリー・ワグナー選手など)だと、どうしてもその人の口の動きを目を追ってしまうのだ。

ほとんど病気、職業病であるが、I cannot help it. というやつである。

2. 調査の方法

正確には何を目で追うのかというと、その人の下唇と上前歯の動きと、発話する単語の連動を追ってしまい、次の仮説を検証してしまうのである。

仮説:ニコニコパースンは、ニコニコした状態で「ま・み・む・め・も、ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ、バ・ビ・ブ・ベ・ボ」、つまり /m/ /p/ /b/ を発音する時、両唇音でなく 唇歯音を使う確率が、そうでない人よりも有意に、かつ効果量大である程度に、高い。

(学生向け解説: 両唇音 bilabial バイレイビオゥ sounds  上下の唇を合わせて調音する音、 唇歯音 labio-dental レイビオデントゥ sounds  下唇と上前歯を接触させて調音する音、 [f] [v]など)

すなわち、いわば「両唇/唇歯代替発音現象」、の見られる率である。

これは口の動きだけ見えても確かめられず、その動きで発話している語も聞き取れなければ検証できないので、周囲1~2メートルの観察することになってしまうのである。

3. 結果

観察の結果はほぼ100%仮説が支持される。


4. あらたな疑問

しかし、ここで疑問がわく。これは日本人に特徴的な現象なのだろうか。

医学的?形態学的?顔学的?に、日本人が、たとえば Caucasian よりも、ニコニコパースンの比率が多いかどうかは私にはわからない。

だが、Caucasian にもニコニコパースンは確かにいると思う(例えば上の、ワグナー選手や、最近はあまり見ないが、カロリーナ・コストナー選手も、まちがいなくニコニコパースンである)。だから、ニコニコパースンの比率は彼我の違いはない、とも思える。

にもかかわらず、Caucasian のニコニコパースンが話すのを観察していて「両唇/唇歯代替発音現象」を認めた記憶はほとんどない。

これはなぜだろうか。

5. 考察

もしかすると、言語の違いによるのではないだろうか。英語をはじめとするヨーロッパ諸語では /b/ vs. /v/が音素対立になっているために、形態的にニコニコパーソンに生まれついた人でも、bet と vet を区別するために、両唇音と唇歯音をきちんとそれなりに発音しわける癖が、無意識につく(=社会的に強制される)と思われる。

一方、/b//v/の音素対立が存在しない日本語を母語とする話者はそのような社会的・言語的無意識強制・矯正は働かない。そのために、ニコニコパースンは、みずからの口の形状に適した、一種のものぐさ発音(=発音するためにエネルギーを節約する発音法)として、「両唇/唇歯で代替発音法」を習得し、それが自動化されている、と考えられる。

もうひとつはひょっとすると、社会文化的要因もある可能性も考えられる。伝統的に「男は度胸、女は愛嬌」といった価値観が根強い日本社会では、とにかくニコニコ笑っている女性、女子がそうでない女性、女子よりも、他の条件を等しくした場合には、「望ましい」と認識される程度が、他の文化においてよりも、高かった(ひょっとすると、いまでも高い?)のかもしれない。そのような社会文化的背景においては、ニコニコしながら、口を閉じずに子音を発音できることは、有利である、と考えられる。そのほうがより「望ましい」交際パートナーを獲得できる可能性が高くなるからである。

以上の2つの要因が相まって、日本語母語話者には、ヨーロッパ諸語母語話者よりも、「両唇/唇歯代替発音現象」が多く見られる、のではないだろうか。

6. おわりに

この解釈が的を射ているかどうかはともかく、英語教師である私の仕事の一つは、自分の生徒のなかに、(英語を話す時に)そのような「両唇/唇歯で代替発音法」を見つけたら、根気よく直してゆく、ことである。

そこ~! b はちゃんと口閉じろ! ほら! mで、歯が見えてるぞ!



12/14/2015

ノーテンキなクリスマスの懺悔

この時期の恒例で、ある授業で、全員なにかクリスマスの歌を歌うこと、と指示して迎えた今日だったが、ひとりの学生が、歌詞プリントとして、Can't take my eyes off of you を持ってきた。

ん? これクリスマス。。? と思った瞬間、

「先生すみません。わたしは宗教的にクリスマスの歌は歌えませんので、同じく愛の歌であるこれにしました。」

と。

あ~。。。そうだったか。そういえば、そうだっか。うかつだった。

「お父さんにもクリスマスの歌を歌っていいかと聞いてみたのですが、クリスマスの歌を歌うということはキリスト教を信仰するということになるので、ダメだということでした。」

そうだよね。そういえば。この学生はイスラム教徒だった。あまりにも普段は周囲に溶け込んでいるのでまったく意識しなかったが、そうだった。。。

ごめん、みんなきいてください。Merry Christmas というのは決まり文句のようですが、キリスト教徒以外のひとにとってはキリスト教を強制するような文句なので、最近は、Season's Greetingsとか、Happy Holidays ということばが多くなっています。

それと同じ理由で彼はクリスマスの歌は歌えないということで、このうたを歌うということです。

それなのに、何も考えず、全員なにかクリスマスの歌を選んで歌えなどという課題を出した私がうかつでした。申し訳ない。

クリスマスソングでもあまりにも Lord がどうの、という歌詞だと多少抵抗があるが、クリスマスツリーがどうした、恋人がどうした、サンタがとうした、という内容だと、単なるノーテンキで楽しい年中行事としての「クリスマス」という意識しかなかったのだが、考えてみれば、他の宗教をきちんと信仰している人からみれば、紛れも無くキリスト教の行事なのである。

イイ歳をした英語の教師として慙愧に堪えなかったできごとであった。

懺悔します。。。 ん、いや、懺悔自体がキリスト教の概念? いやいや仏教にももちろんある。

むつかしいですね。

明日はまた別の授業でマライアだが、一応信仰的に問題ないか確認してからやるか。。。

12/13/2015

ランジ

ランジというのは、lunge とつづる、下肢を鍛える筋トレ法である。

http://www.mayoclinic.org/healthy-lifestyle/fitness/multimedia/lunge/vid-20084662


腕立て70回のあとは、ランジを20回。ちょっと少ないが、身体が完全に目覚めるには十分な運動量である。

適性試験としての指導

たとえ入学試験の面接の中であっても、試験の一項目として音声指導をしてみることがあってもよいのではないだろうか。

音声指導をしてみてその場でどの程度音声が修正できるかどうかによって、入学後の英語学習適性のひとつがある程度わかると思われるからだ。

一般論として、音声は意外なほどすぐに修正されるものだ。(それがそのまま定着するかどうかは、その後の指導によるが、とりあえずその場では直ることは多い。) これほどたやすく修正されるものを、なぜ何年も放って置かれることが多いのか、と残念に思われるほどである。

12/11/2015

ハンバーガーに塵(ちり)を入れていいのだろうか?

先日行ったハンバーガーショップのメニューを眺めていると、

チリミートバーガー

ふむふむ、辛いのかな。。。と思って併記してある英文字を見ると、

Dust Meat Burger 

と。

ちょっと待ってください。

dust は、ちりはちりでも、チリでなく、塵ですが。

店長が、手作りメニューを作る時、「チリミートバーガー」の英語というか英訳がわからず、和英辞典で、「ちり」と引いたら、dust と出てきたので、Dust Meat Burger にしたのだろうか。

あるいは意図的なネタか? 真相は不明。

ただし、注文した ハンバーガーは大変に本格的で美味しかった。

70回

毎朝の腕立て伏せを、60回から70回に増やした。

鯉のごとく

通勤途中で多少時間に余裕があったので、公園に入り、Xaphoon で「赤鼻のトナカイ」、「サンタが街にやってくる」などを吹いていると、同公園で「お散歩」の時間を過ごしていた近所の保育園児たちが、あたかも池の鯉のごとく集まってきて、喜んでくれました。

こういう「場慣れ」を積み重ねることが、スキルの上達には欠かせないのでしょう。

大変に楽しかったです。

12/08/2015

ボディ・タッピング

本日も大変楽しく授業をしました。

その中で改めて気づいたことで、今まで書いていなかったことがあります。

グルグル中に音節数を間違っている学生には、そうじゃなくてこういう音節だよ、という意味を込めて、その学生の肩とか胸板(ということは当然、男子限定ですが)に、音節タッピングしながらモデルを示す、ということをよくやっています。

単に口でモデルを示すよりも、同時に相手の身体にビートを伝えることで、よりよく体感してもらえるのではないか、と思っているのだと思います。

12/07/2015

発音シンポジウムで

英語以外の方々との発音指導シンポジウムは初めての体験でしたので、面白かったです。

英語以外を教えている方々に対して、

「英語教育の分野では、今、発音指導は人気がなく、発音よりコミュニケーションだ、などという意味不明の言説が幅をきかせていて、ネイティブは『さまざまなノンネイティブ発音を許容する、今風の、心の広い、先進的な、politically correct なワタシ』がかっこいいと思っていることが多いので、そもそも発音を直そうとしないし、仮に直そうとしたとしても、いたずらにモデルを繰り返すことしかできない場合が多いのですよ」

と言うと、へぇ~、そうなんですか~ と呆れていたようです。

帯気音の指導に悩んでいたので、(帯気音と非帯気音の差によって異なる語になることがある)中国語の先生の指導法からは今後のヒントをいただくことができました。

12/06/2015

超すとことは、どこっすか?

COSTCO : コストコ : コスコ = Christmas : クリストマス : クリスマス

コストコ is to COSTCO what クリストマス is to Christmas

一般に、英語では破裂音が2つ以上続いた場合、その連続の最後の破裂音しか破裂せず、それ以前の破裂音は単に閉鎖するのみで開放しない(unreleased) のが自然です。

12/04/2015

私の授業がレストランなら

昨日、特別セミナーの説明会というものがあり、いわゆるゼミを開く教員がそれぞれ自分のゼミの内容や特徴を説明し、potential members を勧誘する、というイベントがあった。

その中で数名の教員が自分のゼミをレストランに例えるなら、という切り口で興味深い説明を行っていた。

私自身は来年度ゼミを持たないのだが、それらの説明を聞きながら、自分のゼミはどんなレストランだろうか、と考えた。

メニューは基本、店主が決める。食べる量も店主が決める。大盛り。食べ終わるまで客を帰さない。客の食べ方が悪いと店主が怒鳴る。

リピーターもいるが、一回で来なくなる客もいる、そんな店だ。

イマイチ映画監督とイマイチ英語教師

今朝のNHK あさイチで、山田洋次監督が出演してイノッチのインタビューに答えた中で、

イノッチ: 監督は、撮影が(時間的に)押していたとしても、俳優さんの演技に納得ができなければ何度も撮り直しをしますか?

山田監督: それはそうですよ~。まあこれでよいか、というレベルまではね。もちろんパーフェクトとかそういうことはいつでもあり得ないわけだけれども、ある程度の、自分でよい思えるレベルまではね、もちろん求めます。

といった趣旨(正確な言葉遣いは違ったかもしれないが)のやりとりがあった。

これを聞いた瞬間おもったのは、これはそのまま

「授業時間が、あるいは「進度」が押していたとしても、生徒の音声パフォーマンスに納得できなければ、何度でも練習させますか?」

「それはそうですよ~。まあこれでよいか、というレベルまではね。もちろんパーフェクトとかそういうことはいつでもあり得ないわけだけれども、ある程度の、自分でよい思えるレベルまではね、もちろん求めます。」

と英語授業にも置き換えられるな、ということである。

もちろん映画はあるシーンの撮影がOKになれば、そのシーンについては終わりだが、英語授業ではまた別のレッスンで、別の本文であらためて同じ生徒と向き合う機会があるわけなので、その場での完成度をもとめる要求水準は映画よりも落としてよいのだが、基本的に理念は共通だ、と強く感じた。

イマイチのシーンをどんどん撮って、撮影予定、完成予定に間に合わせて、イマイチ映画を作るようなイマイチ映画監督は、生徒のパフォーマンスがイマイチなのに、どんどん「進んで」予定進度を守り、最終的にイマイチ生徒を卒業させるようなイマイチ英語教師とよく似ている。

明日、発音指導のシンポジウムに登壇します

時間、場所、内容は次の通りです。

http://www.reitaku-u.ac.jp/2015/10/08/53628

麗澤大学言語研究センターシンポジウム
外国語教育における発音指導:普遍性と個別性

平成27年12月5日() 14:00 – 17:00
麗澤大学2508教室



英語担当の私の発表は:

こうすればうまくいく
英語発音指導


1.「世界の諸英語」時代の発音指導の意義についての確信
2.ノンネイティブ教員の価値についての確信
3.「いつでも発音指導」の覚悟と原則
4.日本語題材による対比
5.英語プロソディ・イメージの「見える化」
6.一斉音読時・個別音読時における聴き分けと具体的フィードバック
7.「グルグル・メソッド」による発音指導・評価の個別化とシステム化


よろしくお願いいたします。

12/02/2015

「たかが」教科書を過度に有難がらないこと

昨日、授業研究会の席上で、あらためて一般的な(?)高校の先生方の、教科書に対する意識に違和感を感じることがあった。

それは、たまたまその年度にたまたま自分の学校で採用している教科書をあたかも唯一絶対で改変すべできはない「聖書」のごとく感じる結果、その教科書の(おおげさにいえば)奴隷になっている、ということである。

教科書の本文は全部を「やる」必要があると思っている。そしてその「やる」の定義は、教室で、口頭で逐一解説し、訳を言ってやる、というものである。

これについてずいぶん前に書いた文章があり、いま読み返しても我ながらとても良いことを言っていると思うので、(HPには前からおいていたが)ここに改めて貼り付けておく。

この時点の筆者は教歴9年めの高校教員であった。



現代英語教育1993年4月号


リ ー デ ィ ン グ 教 材 の 扱 い 方


静 哲 人

高校段階では、やはり中心的な位置を占める活動はリーディングであろう。本稿では、筆者が日頃、特に検定教科書を使って授業を進める上で実践していることを紹介させて頂く。なお、以下の実践例は、すべて英語Ⅰ(4単位)あるいは英語Ⅱ(5単位)の枠内でのものである。

1.全課をやらない

検定教科書は、全国をマーケットとするその性質上、全課が自分の生徒達の好みやレベルに最適だということはまずない。筆者の勤務校は女子高だが、研究会等で、「この教材を使ってみたらとてもうまくいったから、是非試してみて下さい」などと、他校の先生方に勧めてみても「そりゃ女子高だから受けるんだよ」と片付けられてしまうことも多い。

また生徒の好みだけでなく、担当の先生の好みも重要である。文学性の強い作品が好きな先生もいれば、社会性の強い評論こそ読みの訓練に最適だと考える先生もいるだろう。教員の恣意的な趣味だけで教材を選択してしまうのは問題だが、その先生自身が情熱を持って教えたいと感じる教材を使うことは重要である。

そこで教科書の教材を、生徒と先生の好みとニーズに合わせて取捨選択することが、主体的に教科書を使いこなす第一歩になる。いくつかの課を捨てれば当然教材量としては不足するので、投げ込み教材で補ったり、あるいは可能であれば2冊の教科書を相補的に使うことが考えられる。実は筆者の場合はその両方を実行している。

東京書籍の What's New? と三省堂の Crown の2冊を採択しているのだが、前者は非常に新しく後者は非常に難しい教科書だと思う。年度始めに担当者間で話し合い、扱う課と、その組み合わせの順番を決める。この選択にあたっては、内容や形式などのバランスと同時に、授業担当者の個人的思い入れを良い意味で積極的に反映させる。我々の場合、What's New と Crown の比率は、課の数で2:1くらいになった。

2 2課の次に3課をやらない

高校の場合、編集された通りの順番に課を追う必要はないと思う。もちろん課は易から難への順番で配列されているので、それに沿っていればやり易いのかも知れない。しかし、以下の理由で、その配列からはずれることを恐れる必要はない。

まず単語の既習/未習の区別は個別生徒にとってはほとんど意味がない。全員の生徒に同じ語彙が定着していることはあり得ないのであって、それまで全く同じ授業を受けて来ていても、生徒Aにとっての既習語が生徒Bにとっては未習語同然である、という状態はむしろ当たり前である。よって、教科書の欄外に必ずある新出語のリストなど、もともと頼れるものでもないのであり、それほど義理立てする必要もないのである。

文法事項などでも、既習/未習の区別に関しては語彙と同様のことが言える。また、学習者が文型・文法事項と初めて出会うに当たって、唯一の理想の順序などはない。最初にどこでどのような形で出会ったかということよりも、その後どのような場所でどのようなデートを何回重ねたか、ということの方が、その人を理解し、つきあいを深めるのにはずっと大切だと思う。

よって、課の配列は、お仕着せのものにとらわれず、物語文と説明文のバランス、難易度のバランス(例えば難と易が交互に現れれば、易の部分で一息つける、という考えもある。)、季節や学校行事との関連、課同士の内容的関連、そして担当者の考える理想の文法事項提示順序等を考慮して、柔軟に考えた方が良い。もちろんその結果が教科書編集通りの配列と大差ないこともあるだろうが、要は、担当者の先生が話し合って、主体的に決定するものだということである。

決定した後は、1年間の英語授業で扱うレッスン名と順番を表にして生徒に配布しておく。今年の英語Ⅱを例に取ると、What's New 第13課 “Sharing a Laugh" とCrown 第10課 “The King of Comedy”は「笑い」という観点から、What's New の Further Reading Ⅳ “It's No Longer Just a Fireman'sWorld." と Crown 第8課 “He, She, or He or She?" は「フェミニズム」という観点からまとめて扱った。同様のテーマに別の角度から光をあてることになり、より深い題材理解が得られたと思う。

3 イントロからエクササイズまでやらない

前に述べたように、2冊の教科書を取捨選択してとは言え、同時に使えば、課の数はかなりにのぼる。今年の英語Ⅱでは結局What's New? から10の本課と4つのFurther Reading、Crownから8つの本課を取った。これに加えて小さな投げ込み教材は言うに及ばず、Roald Dahlの作品をふたつ読んだから、1年間ではかなりの教材量となった。冒頭に述べたように、すべて5単位の授業時間内の話である。

なぜこんなことが可能かと言うと、ひとつには筆者には「食卓に出されたものは、すべて戴かなければバチがあたる」という気持ちが、さらさらないからである。検定教科書は、おおむね、イントロ、本文、文法語法、そして最後にエクササイズ、といった構成になっているが、筆者の場合、これらをすべて、あるいはそのまま扱うことはまずない。だいたい「この題材での重要事項はこれだ」と押しつけられるのは、プロのプライドが許さない。その時の自分の生徒にとっての「重要」事項は、自分が決める。自分の生徒に最適な例文は自分だけが知っている。エクササイズにしても良いと思えるものはまれだ。だから教科書は頭から尻尾まできれいに戴くのではなく、本文を中心に食い散らかすことこそが、正しい食べ方であると信じる。たった一匹をきれいに食べて満腹してしまうより、多少消化不良を起こしても10匹食い散らかした方がよっぽど栄養になるというものだ。

誤解のないよう言っておくが、これは検定教科書自体の質が悪いとか、執筆者のセンスがないとか言っているわけでは決してない。現に筆者は某教科書の編集委員であり、編集会議の席上では自分(達)に作り得る最高の教科書を作ろうと努力しているつもりである。しかしどんなにすばらしい教科書であっても、そのマスプロ的宿命を考えれば、一現場教師の立場に戻った時は、自分の生徒のニーズに答えるのは自分でなければならないと思っている。

4 全課同じような授業をしない

人間は本来飽きっぽい。だから生徒も当然飽きっぽい。毎時間、そして全課、まず「スキーマ」とやらの活性化、次にオーラルイントロ、本文の内容理解、重要事項の説明、一斉音読、個別音読、コミュニケーション活動、そしてまとめ、という金太郎飴状態では、筆者が生徒だったらうんざりである。教材の特質と、その時期その時期の生徒の状態を見極め、限りなくバラエティーに富んだ授業を展開することが必要である。

例えば、すべての課を、あるいは一つの課の本文全体を音読する必要はない。内容的に音読するのにふさわしい教材とそうでない教材がある。表現豊かな音声化によってイメージをかきたてたくなる物語もあれば、音読する気にならない無機質な説明文もある。英語のStress-timed Rhythmを体得させるのに最適な一文もあれば、読みにくい語だけ発音練習すれば足りる一文もある。全文を音読しないと不安な向きもいるだろうが、オウム返しで音読しなければ音読が上達しないのであれば、生徒は永遠に自分の力では初見の文章を音読できないことになってしまう。この世のすべての英文を音読させることは不可能なのだから、必要なのはむしろ、限られた部分を徹底的に練習することで、個別音素を正確に調音する能力と、文強勢が来るべき音節を自分で決定できる知識・感覚を養うことであろう。

また、本文に手を加えてプリント化することも教科書の使用法のバラエティを増やしてくれる。例えば全体の構成がはっきりしている評論文などでは、授業の最初にいきなり本文のパラグラフの順番をバラバラにして印刷したものを配布し、トピックセンテンスのみを頼りに整序させる。実際にはさみでプリントを切らせて、机の上で並べ替えてみるとよい。この時、意味内容を把握する作業は必然的になされてくる。文構造や、特定の語の使われかたに焦点をあてたい本文の時は、特定の語を黒く塗りつぶたプリントを作り、復元作業をさせる。どちらの場合も、ある程度作業が進んだら、教科書を開いて確認させる。

この教科書本文プリント化には思わぬ副産物もある。本文だけをある程度縮小して印刷してみると、ほとんどの課の本文全体がB4におさまってしまうのだ。ひと目で全体が見渡せるので、教材全体の構成、展開を把握しやすいことに加えて、教科書本文の量がいかに少ないか、を実感することができるのだ。大抵の教科書は十数レッスンからなっているが、たったB4十数枚の量の英文を1年間かけて読むのでは、不十分も良いところだと感じるのは筆者だけだろうか。不思議なもので、本文をプリント化しておくだけで、例えば1時間で1課終えたりすることに対する心理的抵抗は、かなり違ってくるのである。

5 そしてなるべく「授」業をしない

どんなに頑張っても、限られた授業時間の中ですべての知識を伝達するのは不可能である。だとすれば、知識自体よりも、生徒が自分で学習できる方略を与えることの方が大切かも知れない。このことを2年程前に強く感じ、もうなるべく「授」業はやめようと決意して以来、筆者の授業はがらりと変わった。それ以前の50分オールイングリッシュ爆撃スタイルから一転して、今では10分以上継続して黒板の前にいることが、ほとんどなくなった。

今の授業のひとつのメインは、ワークシートを使ったグループワークである。ワークシートにはその教材に関してやらせたい作業(トピックセンテンスに線を引け/この語を英和で引き例文を確認せよ/この語を英英で引き、定義を書け/この語は辞書を引かず意味を推測せよ/この場面を絵に描け/この動詞の主語を指摘せよ/このitの指すものを指摘せよ/この文を自然な日本語に翻訳せよ、等)をすべて印刷しておき、その場で配布する。生徒はわいわい言いながら、作業をこなしていく。筆者は教室内を歩き回りながら、ヒントを出したり、質問を受けたり、時には雑談したりしながら、全体の状況を見る。

この形式の第1の利点は、教師も生徒もリラックスできるので、教師としてはその分ひとりひとりの生徒に目がいくし、生徒としては先生に質問がしやすくなることである。第2の利点は、生徒同士が相談することで、上位の生徒は知識をより確かなものにし、下位の生徒は理解を深め、全体に主体的学習態度が生まれることである。これらはすべて生徒に対するアンケート結果からも読みとれたことで、特に英語の苦手意識が強いクラスの方が、この学習形式を強く支持しているのは興味深い。しかし同時に、友達に頼るので他力本願になる、という落とし穴にも生徒自身気づいていて、グループワークの最中でも全員がまず自分の力でトライし終わるまでは話し合わない、という光景もよく見られる。難しい理屈は抜きにして、この形式はとにかく楽しい!

もうひとつのメインは、2年の後半から徐々に始めた、グループによるいわばマイクロティーチングである。グループ毎に前に出て、あらかじめ分担しておいた範囲(最初は1パラグラフくらいで充分である)についてミニ授業をするのだ。授業の内容は、音読、内容の説明、構文の解説、関連派生語の紹介、英語による要約、フロアの生徒に対する英語での質問、その場面のスキット等である。大筋の手順は決めておくが、後は各グループの創意を生かして構成する。最後はフロアからの質疑に答える。

もちろんプロの教師の授業とは比べものにならない(なったら困る!)し、筆者が助け舟をだすことも多い。しかし、慣れてくると、同じことを教師がひとりでやった場合に比べても、進度はそれほど変わらない。そして何よりも生徒だけの力で調べ、正しく理解し、友達に伝えることのできる部分の大きさに改めて驚くのである。以前のような一斉講義型の授業を自分は7年間以上続けてきたが、それによって、実はこれほどの可能性を秘めていた生徒の自学自習能力が開花する機会を奪ってきたのではないか、という罪の意識さえ感じることがある。自分たちの学習の成果を皆に発表し、質疑に答える、というプレゼンテーションの体験自体も貴重なものだと思われる。(マタ、ナニヨリモ、コノケイシキハ、イチド、キドウニノレバ、アトハ、トニカク、キョウシガ、ラクナノダ!)

(しずか・てつひと/大妻多摩高等学校)

12/01/2015

運指と発音

左手の指がうまく動かない。ラからシに、シからラに移動する運指がどうもぎこちない。自分の指なのに思うように動かない。

これは自分の唇なのに、舌なのに、うまく動かない、ぎこちない、と感じている英語学習者とパラレルである。

自分の左手の運指の情けなさを考えると、f / v を発音しようとしてどうしても連動して上唇が動く学生、r なのに舌を思い切り歯茎につける学生にたいして、sympathy が生まれる。

と同時に、発音も運指も、練習すれば上達すると信じたい。自分の身体なのだから、自分の意志で動かせるようになるはずだ。

オーラルイントロダクションやってみました

先日の小菅先生の模擬オーラルイントロダクションにインスパイアされて、きょうは高2相手に自分なりのイントロダクションをやってみました。以下が、その流れの事前作成メモ:

Txting Section 4    Oral Introduction Script

We have been learning about texting language.  Young people use special type of language when they send messages.   Texting language has several features.  What are they?  One of them is ... like these, USA, p.m., What do you call these?  Yes, acronyms.  You use initials for words.   Another feature is .... for example,  @ \ $  what do you call these?  what do you call using symbols for words?  Yes, logograms.  Another one?  like these,  math  exam ... what are they called?  They are called shortened words or abbreviations.  Say abbreviations.   Another one can be found in these words,  thanx, fone,   they are not normal spellings.  but I do not say they are strange spellings.  they are not strange because   thanks and thanx  have the same sounds.  phone and fone have the same sounds.  Only one of them is easier or simpler to spell.   Which one is easier?  Yes, thax is easier.  fone is easier, so let’s call them simpler spellings.   So, acronyms, logograms, abbreviations, and simpler spellings are four features of texting language.

Now look at this. (図を描く)    ...
Today it seems acronyms are used a lot.  So you can say 
Acronyms seem to be used today.
Logograms seem to be used today.
Abbreviations seem to be used today.
Simpler spellings seem to be used today.
But actually, it’s not only today.  They were used last year, five years ago, ten years ago, or maybe thirty years ago.  So it seems they have been used for many years.(図を描く)
So you can say
Acronyms seem to have been used for many years.
Logograms seem to have been used for many years.
Abbreviations seem to have been used for many years.
Simpler spellings seem to have been used for many years
So, each feature is not new at all. They are very old. Then what IS new about texting language.  What is truly new about texting is that they combine these features.  They combine acronyms and logograms, or they combine logograms and simpler spellings.  So what is new is the combination of features like this:  i12cu ASAP
This is a combination of a simpler spelling, i, c, u, and logograms 1 and 2 and an acronym ASAP.  A combination of three features.
(図を描く)

But there is one thing that is important.  You should be careful about who you are writing to.  It may be okay to use this type of texting language when you are texting to your friends.  But how about when you are texting to your teacher?  to your uncle?  I say it’s a bad idea.   They may not understand you or they may feel you are rude (shitsureida)。 So you must learn when you can use texting language and when you should not use texting language.   People who are reading your message are called your audience.  You must be aware of your audience and you must change how you write your messages for different people.

seem to have been pp が「重要構文」です。 seem to be との違いを図解することで理解さえようとしました。 音声面では

SEEM to be USED
SEEM to have been USED

を同じ2ビートで言わせるために

SEEM to a been USED

という奥の手スペリングも一瞬提示したりしました。

10分の予定が15分かかってしまい、その後の音読やペアワークや歌が押せ押せになってしまいましたが、まあまずまずのできであったかと思います。

最後の2分で マライアの恋人たちのクリスマスも歌えましたし、楽しかったです。生徒のみなさん、おつかれさん。

セミハードの「こんにちは」

きょうはいかついのが数名楽しそうに談笑していたので

アプローチをややハードにして、

こんにちはー(怒)!煙いんだよ!!

にしてみました。

「煙いんだよ!」という表現はある方から聞いてさっそく自分も取り入れたものです。

確かにここは禁煙だのヘチマだのというルール頼み(=他力本願)で言うよりも、俺は煙いんだよコノヤロウ、という気持ちをぶつけたほうがより強いように思われます。

「老成」の境地と思ったのはやはり錯覚だったようで。

悪パラグラフ

高校の「コミュニケーション」教科書も、やっぱり、その気になって読むとひどいパラグラフがありますな。第1文のトピックセンテンスの次の文から話題転換になったり。

言っている内容はなんとなく追えても、すくなくともライティングのお手本とはお世辞にも言えないようなレベルの文章(ディスコース)は多いですね。

悪文では?

明日、高校生相手に実演授業をやるので、その教科書本文を見ていて、え? 

double take というやつですね。

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The use of p.m. for the Latin words post meridiem (after noon) is known to have been used in English as early as 1666,

---

これはアリですか。

The use .. is known to have been used 

つまり、骨は

The use was used 

ですが。。。


Hi, I'm back.

本日、年会費の払込を済ませ、一般財団法人語学教育研究所(通称語研)の会員になりました。

こう見えても(って、どう見える?)昔は会員でかつ研究員でもあったので、久方ぶりに「古巣」に戻ったような形になります。

若い頃所属していた研究グループが『英語教育』やいまはない『現代英語教育』に連載ページを持っていて、毎月の記事を研究員が順番で原稿を書き、それをグループで叩いて推敲して、というのを繰り返していました。私も何度か原稿を書かせていただきましたが、そのような過程で、文章の書き方などが少しは覚えたと思います。

そうやってほぼ初めて名前入りで世の中に文章が公刊されたのが

「文法用語再検討:受動態」『英語教育』大修館, 35, 4, (1986)

でした。改めてみるとなんとほぼ30年前ではないですか。

あれからまさに one generation。以前とは年齢も、業界での立場もかなり変わり、今度は自分が若い教員を育てねばならぬ側かもしれません。

語研のみなさま、微力ですが、会員として貢献していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

煙たがらないでね。。。 m(_ _)m

11/29/2015

『「天国への転職報告」を読んで』を(改めて自分で)読んで

10年たって読み返して、加筆修正したい箇所はないですね。

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「天国への転職報告」を読んで

靜 哲人

 標記はELECの『英語展望』2005年夏号に掲載された淡路佳昌氏による論考である。副題に「夢叶って大学から中学へ」とある。

 高専、大学と歩いてきた淡路氏は研究面ではCALLの専門家であるが、自らのキャリアの中で、中学校という「シビアな環境」で教授力を磨くチャンスがなかったことへの焦りを持ち続けていた。CALLに頼るのでなく、生身の教師として生徒の基礎力をしっかりと築く仕事に関わりたい、という願いがついに叶って国立中学の現場に立った。その喜びを氏のmentorだった故若林俊輔先生に報告する、という形をとって標記のタイトルになっている。
 教師が勤務する校種を変わるとき、百人いれば百人とも中学・高校→短大・高専→大学という方向で移動する中、大学から中学への転職は、淡路氏自身が書いているように給料激減、労働時間激増、研究環境悪化(もしくは消滅)の大変に「酔狂な」(p.8)選択である。大いに快哉を叫びエールを送りたい。(やるじゃん。公立中学ならもっと説得力があったけどね...)

 氏の転進を最初に耳にした瞬間感じたことは「あ、先にやられた!」である。実はここ数年、中学でまた教えたいという気持ちを強めていた矢先だったので、タイトルを「天国のような職場である中学に移れたことの報告」と誤読してしまったくらいだ。 

 それはともかく、この論考を本欄で紹介するのは、個人的な転職報告の形をとりながら、日本の英語教育にとって重要な指摘がいくつも読み取れたからである。

 (1)「CALLはレメディアルの手段としては効果的かもしれないが、そもそも「レメディ」が必要な状態を生み出さないための生身の授業こそ肝心だ。」CALLの専門家からこのような意見が出たことを重視したい。CALLはあくまで周辺なのだ。自分と学習者との生のやり取りに自信を持っている教員はCALL教室を好まない傾向にある。「CALLを入れたら教員が授業をしなくなったよ。あんな授業なら俺だってできらあ」とは、語学教師ではない友人(関大に非ず)の最近の言。

(2)「旧態依然たる大学教師は、学生の4技能がバランスのとれた状態に近づけるのではなく、精神鍛錬のような訳読作業のみを行うため、選ぶ教材が難しすぎる。」確かに我々は印刷された文字の部分を読む場合の難易度だけで教材を選んでしまう傾向にある。しかし例えばそのまま口頭英作文・要約や暗誦、さらに討論のネタに使うとすれば高校1年はもちろん、中学3年生レベルの教材でも、平均的な大学生には十分チャレンジングだ。この大学教員の態度が反映されたのがやたら難しい英語を和訳させるのを良しとする入試だろう。

(3)「大学の教員養成担当者の選考に、教育力や教育業績よりも研究業績や学位が重視されているのはおかしい。教員養成に対する熱意も勘案しないと中等教育を支える力のある教員は育たない。」まったくその通りで、さらに言えば熱意の有無だけでなく、中学高校での教職経験のない者が中学高校の教員を養成している体制自体がおかしい。経験がないことを教えられる道理がない。

 (4)「英語との最初の接点で基礎を築くという重要な仕事をする中学教師が大学教師より給料が下がるのはおかしい。」これまたその通りである。英語を教える難しさは大学→高校→中学(→小学)と上がってゆく。最もやりがいがあり、最も高度な技術と見識を要求されるのは入門期の授業である。それに見合った報酬と社会的地位を保障すべきだ。独断で言うと、実際、平均的教師の授業力は中学→高校→大学の順番に下がる(英語力はその逆のようだが)。

 以上の4点には大いに共感したが、「大学でやる気のない学生にまで英語を必修にする必要はない」という主張は、私には「取れないブドウは酸っぱいに決まっているから取る必要はない」にしか聞こえなかったことは付け加えておく。

 淡路氏がThere is構文の導入に奮闘しているビデオを語研大会で楽しく拝見した。氏を教師として得た中学生は幸運である。「安住の地」を得た氏の今後の活躍に期待すると同時に、中高大の英語教員の人事交流の実現・促進を望む。教授法担当教員が中学や高校で一定期間教えて修業する、中高の指導主事クラスが大学で教授法を担当する、中学英語教師の団体が大学教員対象に(逆ではない!)教授法ワークショップを行う、などはどうだろうか。

聖地ですね

確かに。

「聖地巡礼」
http://www.awajis.net/?p=1727

あの言葉は非常に印象深く覚えています。

学習指導要領を守ることしか考えないような思考停止の輩ではなく、自分の頭で考え、オレ流を作っていけるような力のある教員を育てたいな、と改めて思いました。

『「教わったように教えるな」をこいつは実践してやがる』(若林先生)と言われるような教員を。

なんにせよ、メーヤウはやっぱりグリーンカレーだな。

教育とは

ハラスメントと見つけたり!

武士道とは死ぬこととみつけたり!

ということはつまり、

教育 is to ハラスメント what 武士道 is to 死ぬこと.

という英文が成立する。

A is to B what C is to D. という構文ね。

念の為に学生向けに解説しておくと、

A is (what C is to D) to B.

つまり、AはBにとって、CがDにとってのものである、ということでう。

ちなみに

rエァsムンt

という表記がよいでしょう。

11/28/2015

瓢箪からティーム・ティーチング

ひょんなことからティーム・ティーチングをすることに。。。

後ろで静かに a fly on the wall のように参観している予定だったのが、我慢できずに絡んでしまい、気づいた時にはダイアローグを二人で提示したり、学生がわからない時に私がパラフレーズしたり、といった共同作業になってしまいました。

結構楽しかったです。たぶん絡まれた先生も。

また、やっぱりどんな学生も学びたいと思っているのだな、と感じました。

krank

相手は心の病気だと思えば腹も立たぬ。

認知症の親の言動に怒ってもしかたない(のと同じ)。


11/27/2015

オーラルイントロダクションの心地よさ

昨日、大東文化大学で、2015年度英語教員志望者特別講演会として、語学教育研究所所長・武蔵野大学教授の小菅和也先生に、「英語授業基本のキ」 としてご講演いただきました。

文法訳毒法もとい文法訳読法の限界を指摘したあと、ではどうするか、ということで実際に音声中心のミニ授業をデモンストレーションする、という流れでした。

実は小菅先生と淡路先生と私の3人は、東京外国語大学で故若林俊輔先生の薫陶を受けて育ったいわば同門の兄弟弟子です。(年齢的に、同時期に大学で授業を受けたわけではありませんが。)

若林先生が主として教え子で教員になった者を対象に毎月ご自宅で開いてくださっていた研究会 COFS では、小菅先生はいわば「師範代」であり、若林師匠が不在のときには会を取り仕切ってくださっていた頼もしい存在でした。

あれからずいぶん時が経ち、いまやかつて師匠が牽引していた語研を牽引する立場になった、そんな兄弟子を招いて私たちの教え子に対して話をしていただく機会を持てたことは感慨深いものがありました。

若林先生もきっと、まあいいんじゃない、と喜んでくださったと思います。

久しぶりに聞いた兄弟子の英語は耳に心地よく、学生とのやりとりもさすが職人芸、見事なテンポで、語研の代名詞であるザ(ジ?)・オーラルイントロダクション(あるいはインタラクション)を堪能することができました。

うちの学生にも、教師の role model としてインパクトは大きかったと思います。

この機会を持てたことを感謝しています。

狩りという名の殺戮

テレビコマーシャルを見ている限り、「狩り」をテーマにしたゲームが世の中には溢れているようだ。

狩りと言っても、狩った獲物を食物にして生き延びるための狩りではなく、ストレス発散のためのゲームとしての狩りである。

狩る相手は、なるべく良心の呵責を感じさせないような、醜い、あるいは恐ろしい、あるいは獰猛な、あるいは攻撃的な、モンスターである。

そして狩とは、取りも直さず、そのモンスターを残虐な方法で素手でもしくは武器を用いて派手に殺すことだ。

つまり、醜い、あるいは恐ろしい、あるいは獰猛な、あるいは攻撃的なモンスターであれば、殺すために殺してもまったく構わない、むしろ楽しいことである、痛快なことである、という前提の上にたっているのが、あの手のゲームのように思われる。

しかしモンスターとは、動物の一種である。ストレスを発散する人間の標的になるために生きているのではない。そういう存在としてゲームクリエイターがクリエイトしたからということはここでは無関係である。

ああいうゲームがここまで一般的になり、多くの老若男女が(?)、そういう行為を当たり前のように楽しんでいると思うと、いつも暗澹たる気持ちになる。

世の中おかしくないだろうか。

愚かなネイティブ教員

というのは、もちろん制限用法であって、非制限用法ではありません。

a stupid native-speaker teacher (= a native-speaker teacher who is stupid)

であって、

native-speaker teachers, who are stupid, (= all of whom are stupid)...

ではありません。

また、私の勤務校の教員ではありません。念のため。

で、その方が言うことには、

自分の学生はエッセイのなかであり得ないスペリングをしてキマス。LとRの取り違え、VとBの取り違えのあらゆる組み合わせがあって、頭がおかしくなりそうデシタ。

(なるほど。それはあるある。だから?)

で、彼らに言ったのは、

「自分のカタカナ発音のイメージで適当にスペリングをしないでください。自分の感覚を信じてはいけない。必ず、いつも、辞書を確認して、LかRか、VかBか、SかTHかを確かめてから書きなさい」

トイウコトデシタ。。

(いや、でもそれではいつまでたっても解決にならないでしょ。まずはきちんと音をおさえて、きちんと発音できるようになってから、その通りに綴りなさい、という指導をしないとまずいと思うよ)

イイエ、それは無理です。彼らにはLもRもVもBも区別はデキマセン。だから自分を信用せず、辞書でチェックシタホウガイイデス。

---

ということでした、ので、それ以上反駁する(反駁してやる)気にもなれませんでしたが、ノンネイティブ教員に愚か者がいるのと同じように、ネイティブ教員にも愚か者がいる、という考えてみれば当たり前の事実を確認することになりました。


11/26/2015

私の授業サンプルビデオを公開しました

金星堂より 2016年度用に刊行される Reading in Action Basic の使い方の例として、Unit 1 を私が実際に使っている様子を撮影したサンプルビデオが公開されました。

どうぞご覧ください。

http://www.kinsei-do.co.jp/4023

Reading in Action in Basic のご採用、どうぞご検討ください。

そのまま使うだけで、アクティブな授業になりますよ♪

11/25/2015

「バカ」だったゼミ会

それぞれにとてもカワイイゼミ生たち。。。


ですが、「バカ盛りコース」はさすがに二十代向けでした。皿のサイズに注目。

t/d は無くなってはいない

昨日、英語教育学入門の学生たちに送ったメール:


こんばんは。

発音について補足しておきます。

英語では t や dは、舌を歯茎につけるだけで、その後に離さない場合があります。離さないので トゥ とか ドゥ のようには、耳には聞こえません。

たとえば、

Good-bye の、 dは、聞こえませんね。

しかし、グッバイ と聞こえるからと言って、dがないわけではありません。

舌を歯茎につけてから、そのままbye に移っているのです。

つまり、 グッdバイ  のような感じです。

同じような現象が、きょうやった born this way にもたくさんありました。

told me の d

rolled my ...  の d

put my ... の t

God makes の d


これらの箇所は、舌を歯茎につけただけで、音を飲み込むように発音するとうまくいきます。

試してみてください。

ポケットサックス :真実の瞬間

本日、あるパーティがあり、我慢できず、ポケットサックスでデビューしてしまいました。

鉄板の L-O-V-E だったのですが、初めて(自分の授業の学生以外の)ヒトサマの前で演奏するという状況にテンパッてしまい、ひとつふたつミスがありました。

学生の発音と同じで、テンパった時のパフォーマンスがその人の実力なのですね。

だからグルグルでプレッシャーをかけているときが、

the moment of truth 

なのですね。

11/24/2015

「こんにちは」という老成?

最近、キャンパス内(+すぐ外)で、面識のない学生に何か(おもに吸ってはいけない場所での喫煙ですが。。。)を注意する時、いきなり本題に入らず、

「こんにちは~」

という枕詞をおくようになった。

98年に大学教師になってからでも18年目、84年に教師になってから数えれば34年目の今、なぜか初めてそういう心境になった。どうしてか自分でもよくわからない。

一種の「老成」なのだろうか、あるいは単なる老化か。。。

いずれにしてもにこやかにアプローチしたほうがトラブルにはなりにくいのは確かだろう。

気がつくのが遅い、か。

授業が始まっている時間帯に教室の外の廊下で友人と大声でバカ話をし続けていたところ、その教室の先生が顔を出して、「君たち他所で話してもらえないかな!!」とちょっときつく言われただけで、プライド?が傷ついたようなバツの悪い思いをしたのは、他ならぬ38年前のバカ大学生であった私である。あのときあの先生がにこやかに「こんにちは~」と始めていたら38年間ずっと覚えているほどの苦い思い出にはならなかったのだろう(か?)

11/22/2015

電車内での ブツブツ音読

電車内でドイツ語のブツブツ音読+read and look up をする時は、マスクをかけて声を落としてやる。

look up してどこを見るかというと、窓とかドアの上のスクリーンなどである。

幸い周りにはヘッドホンをした人も多いので、マスクは別に必要ではないが、顔を出してやる勇気は(まだ)ない。

日本の電車内は基本的にシーンとしていることが多いのだ。

電車が満員でぎゅう詰めの時は、ブツブツ言うのもいい迷惑なので、さらに音量を落として「ささやく」レベルにする。

しかしそうすると、かえってやたらと歯擦音や無声子音が響き、誰かの耳元に意味不明のことをささやいているような体になる。

しかし最近は外国人も増え、いろいろな言語での会話も聞こえてくるから、べつに意味不明の言葉で独り言を言っているように見える日本人がいても、いいではないか?

そんな状況のとき、車内放送が流れてくると、安心して普通の声で「ひとりごと」が言える、というのも最近改めて感じたことである。車内放送が流れている10数秒の間に、いくつ文がいえるか、何度文を繰り返せるか、も小さなチャレンジなのだ。

11/20/2015

アmヴェtベヴェアp って言えますか?

Taylor Swift の Blank Space のサビに、

It's gonna be forever

というフレーズがあるのだが、be forever の部分で苦戦する学生が続出した。

be の b で両唇を閉じ、forever の f と vで、下唇のみを歯にあてる、たったそれだけ(と、英語に慣れきった私には思えてしまう)の筋肉動作がうまくできないのである。

forever で両唇閉じるな~!と言えば、be から下唇のみになって、 ve forever と発音し、

be はちゃんと唇閉じろ~!と言えば、こんどは、be foreber と発音する、

という調子。

たしかにそれだけの動作だが、f/v に慣れていない初学者には難しいのだな、と改めて納得した次第である。残念なのは、彼らは英語の初学者ではなく大学1年生であり、その初学者の状態で、中高6年間ずっと放置されてきたことである。彼らを教えた中学、高校教師のことを思うと大変に嘆かわしい。

have you ever been to .. などの表現で中学からさんざん出てきているはずなのだが唇の動きなど指摘されたこともないのだろう。

それはさておき、自分自身は b / v の切り替えなど自動的にできる、というのはまったくの思い上がりであると思い知らされることがある。

苦戦中のドイツ語である。

「競技会」という意味で、 Wettbeverb  という語がある。ドイツ語はwは/v/を表すので、

ヴェtベヴェアp

という発音だ。前置詞と定冠詞が一緒になった am が前にくると、

am Wettbeverb  

なので、このフレーズはアmヴェtベヴェアp

という(私にとっては)「あり得ない」発音になる。

スペリングを見ながらゆっくり言えば /m/ /v/ /b/  の切り替えはできることはできるが、顔を上げて速く言おうとすると、もういけない。こんがらがってしまって、どこが /v/ でどこが/b/だかわからなくなる。。。。

上の、be forever で苦労する学生たちと大して変わらないではないか。。。

しかし、これとても、ドイツ語上級者になれば、「なにができないのかわからない」ような、簡単な動作なのであろう(と推測する)。

ということで、何事も初心者というものはそのようなものである、という認識を新たにしよう。

かりに /b/ 自体、 /v/ 自体は慣れていても、その出現する順番や音声的環境が慣れないものになると、うまくできないこともあるということだろう。

そして、そのような初心者が、いつか中級者に、そして上級者になってゆくためにはもちろん本人の努力が一番だが、指導者の存在も大変に大きいものである、という認識を新たにしよう。




11/19/2015

エスカレーターでのチャレンジ

朝の通勤時の一つのチャレンジは、ある駅の下りのエスカレータの上から下までの間(は何秒であろうか、測ったことはないが)に、今取り組んでいるドイツ語例文集の任意のページの8つの例文の音読が終わるか、である。

エスカレーターの左側に立って、空読みにならないように意味を想起しながら、しかしなるべく速く声に出して音読する。右側を歩いて降りてゆく多くの通勤客のことはまったく気にならない。自分と同じ側の下と上の人のことも気にならない。

音読にいたずらにスピード要素を求めてはならない、と英語教育に関しては言い続けているが、それは学習者自身が「きちんとした発音をしながら fluent に言える最高スピードを上げてゆくことが大切だ」ということをわかっていない場合である。私はそれを言っている本人であって、当然それをよくわかっていながらの努力なのであるから、もちろん問題ない。

けさは残念ながら、1文余っているのに、下まで着いてしまった。

次こそ。

11/18/2015

本音を言うと

来春に立ち上がる大東文化大学の教職課程センター関連で、写真撮影があり、PRコピーを書いてくれるライターの方にインタビューを受けました。(学生とともに映っているポスターになるようです。)

その中で、「ここだけの話ですが、力のある英語教員になりたいならば他のどの大学よりもうちの大学に来て、そして私たちのもとで学んでもらうのが一番よいと思っています」という本音の部分を答える機会がありました。

まあそのままポスターになるわけはありませんが、本当の気持ちです。

パワーアップしたい現職の方も、是非、大学院のほうにどうぞ。淡路佳昌先生とともに、実践的にきっちりおシゴキします。

自分で言いますが、<靜・淡路>にシゴカれるのと同じレベルの体験は、全国を探しても、たぶん無いでしょ。


11/17/2015

LGBT

久しぶりに授業で Born This Way をやるのでふと気づいたのだが、この曲でもテーマになっているLGBTという用語・概念が、渋谷区や世田谷区の同性パートナーシップのendorsement などもあり、この1~2年で日本でも急速に知られるようになったように思われる。

ビデオの映像はやや悪趣味にも感じられるが、歌詞の内容は障害の有無や肌の色なども扱い、深く、広く、inspiring であると思う。

11/16/2015

発音指導はネズミ捕りの如く

学生: どうして先生はコーラスリーディングで thの音がおかしいとか、即座に聴き分けられるのですか?

私: それは th がおかしくないか、きっとおかしいはずだ、という性悪説に立って聞いているから。日本人なら放っておけばどういう発音をするかをわかっていて、狙いを絞って聞いているからだよ。

交通違反を取り締まるネズミ捕りが、ドライバーがスピードを出しそうな場所を狙っているのと似ている(か?)


しょぼい

英語教師の英語がしょぼければ話にならない。

エライ先生なら尚更。

11/15/2015

声が小さい生徒をどうしたらいいですか?

昨日、もらった質問:

「個人を指名して答えさせると、声が小さいので、Sorry? とか言ってもう一度言わせようとすると、もっと小さくなってしまうのですが、どうしたらいいでしょうか?」

声が小さいのは、自分の英語に自信がないからだろうと思います。その状態で、声だけもっと大きくさせようとするのは的はずれです。

音痴だと思っているから小さい声でしか歌わない人に、大きい声で歌ってくれといっても無理な相談です。

声がどうのではなく、まず自信をもった英語を言えるようにしてあげる、という意識が先決です。

たとえ自信がある人でも、全員の前で指名されて、全員が聞いている状況で答える、というのはかなりのプレッシャーを感じるシチュエーションです。自信がない生徒がその状況で声がでるほうがおかしいでしょう。

全員の前で発表させるまえに、隣同士のペアとかグループのなかでやらせてみましょう。

文字を読まない学習者たちと音符を読まない楽器演奏者のパラレル性

最近、仲間と、多くの生徒たちは英単語のひとつひとの文字を読まず、全体を見て「漢字的」に読んでいる(から、いつまでも自力で新出語が読めるようにならない)、という現象が話題になった。

と思ったら、その後、effect  を effort と読み違える学習者に遭遇した。

以前にも、difficult を different とかdelicious と読み違える小学校の先生にも会ったのを思い出した。

考えてみると、おそらくすべての中学教科書の副教材として教科書会社が作っているフラッシュカードというものは、極論すれば百害あって一利なしなのではないだろうか。(教科書会社が悪いのではなく、それを求める消費者たる教員がおかしい。)

もちろん使い方だとは思うが、今のほとんどの授業での使い方は、いつまでも英単語を読めない学習者を作る使い方だと思う。

黒板に単語を書くのが時間がかかるからカードを貼る、とか見せる、というが、一文字一文字書きながら、その文字に対応する発音をやってみせながらゆっくり単語を提示するほうがよほどよい。

この分野の第一人者の手島良さんが、語研ジャーナル第14号のなかでそのような「書き足し法」を提唱している。

went であれば、

en

ent

went

文字を書き足しながら、それぞれ、

エン

エンt

ウェンt

と読ませる、という方法である。

(手島良(2015). 「もっと単語の読み方の指導を!」 語研ジャーナル No. 14. pp. 35- 40.)

うん、すばらしい。

この際、単語カードは使わない、というのを常識にしてはどうか。

いつまでも文字を読まずに単語を全体として覚える英語学習者は、いつまでも楽譜が読めない楽器吹き、とパラレル性があるのかも。ひとつひとつの音符が音を作るのではなく、楽譜全体がメロディだと思う楽器吹きは、知らない曲の楽譜を見て、その曲を吹くことが永遠にできない。人からメロディを教えてもらったり、聞いたことのある曲ではないと吹けない。

この件についてはこのブログにも以前にも書いた。読み返しても、我ながらなかなかいいことを書いている。

フラッシュカードやめろ
http://cherryshusband.blogspot.jp/2010/06/blog-post_29.html

もっと文字をきちんと指導せよ
http://cherryshusband.blogspot.jp/2010/09/blog-post.html

「フォニックス」をやるのやらないの、という大げさな話ではなく、もっと当たり前の話として、中学で単語を導入するときに、ひとつひとつの文字は音を表しているのだ、ということが実感できる導入をせよ、という話である。


11/14/2015

ルールの解説から褒め殺しへ

昔の(および今も一部の)英語授業は、スポーツに例えると、選手をグラウンドに集めてルールの解説ばかりをやっていたようなものである。プレーはほとんどさせない。

それが今は、ルールの解説だけではいけない、実際にプレーさせなければ、ということになったのはいいのだが、こんどは、選手にプレーをどんどんさせるだけで、そのプレーを改善するための技術指導は一切しない。

プレーを止めて技術指導をするのはなんだかタブーであるような妙な風潮だ。

どんなプレーをしても、Thank you!  あるいは Good!

本当に「いい」のなら、英語の授業にいる必要はないのでは? ダメだから授業が必要なのでは?

指導者は指導しないといけないのでは?

笛を吹いてプレーを止める勇気を持つべし。

運動の部活では当たり前にやっていることが、英語の授業になるとまったくなされないという不可思議。

気をつけよう

please の L

earlier の ear  口開き過ぎ

yesterday の er 口開き過ぎ

sentence の、ふたつ目の e  曖昧母音に

three の th    できたりできなかったり

volunteers  の L きちんと

learn の ear   上のearly と同じだね

pension の ふたつ目のN   きちんと言うと、penchon のようになるはず
 
quality の L  きちんと

premium の e  エではなくイー です

relationship の L   また N    relationchip のようになるはず

commitment の  e  曖昧母音に

page の g  破擦音をきちっと。

また、自分の生徒を、本人のいる前で、she と言ってはいけない。名前で言うのがルール。

また、r-coloring が不必要を強く、あるいは不必要な部分にもやってしまうと、よくある「Rを響かせるのが英語っぽさなんだ」という誤解を助長する可能性あり。


帯気音の実例

先日学生に「帯気音はネイティブにはどの程度多いのですか」と質問されたので、クイーンの曲からピックアップしてみました。

実際に聞いて、実感し、次回からは自分のスピーキングでも無意識にできるようになってください。


Bohemian Rhapsody
https://www.youtube.com/watch?v=XWE7boPU6kI

fanTasy   realiTy   ..look up To ..

Fat Bottomed Girls
https://www.youtube.com/watch?v=OUwauaE0zEE

  ..gonna Take me home...  Tonight

Bicyle Race
https://www.youtube.com/watch?v=gWJ8_B9BVxo

 want To ride ..

Don't Stop Me Now
https://www.youtube.com/watch?v=OPx-nUqLMtc

  ... a real good Time , ..Turn it inside out....  having a good Time

11/13/2015

ブラック教師だ!

毎週毎週、時間をかけて作成する課題を出すよう強要する。

目標を勝手に決め、その達成を強要する。

ひとりひとりに対する評価を、クラス全員の前ではっきり言い、つらい思いをさせる。

ダメなものはダメだと斬り捨てて、容赦しない。

授業はきちんとした姿勢で受けることを強要する。

教室内で帽子をかぶっていることを許さず、直ちに脱ぐことを強要する。

教師を「先生」と呼ぶことを強要する。

欠席する時は理由を添えて連絡することを強要する。

発音がダメだとその瞬間にダメだと言って、発表の腰を折る。

5回でも10回でもできるまで言い直すことを強要する。

いつでも、全力を尽くすことを強要する。

そんなブラック教師に、私はなりたい

というか、もうずっと前からなってますので、いつまでもそうであり続けられるよう、筋力と体力の維持に努めます。





11/12/2015

恥を知れ RepubRic

世界野球プレミア12で、日本対ドミニカ共和国戦を生中継で見ているのですが、

一瞬映った国名キャプションに、

Dominican Repubric

と。

え? もう一度見ても、確かに

Dominican Repubric


ああ、一国のメジャーなテレビ局として大変に恥ずかしいことである。

しっかりしてくださいよ、TBS!

単なるキーボードの打ち間違い(いわゆるtypo タイポ)ではなく、こういう音の混同というか未分化によるスペリングミスは、単純ミスではなく、教養のレベルが疑われるミスです。私は疑います。

恥を知れ (←私の教員キャリアの原点、大妻学院の校訓)

まず発音をきちんとしないから、LだかRだか覚えられないのだよ!

こういうことをしているから、日本の奴らは Engrish をしゃべる、などとEnglish speakers に見下されるのである。


11/11/2015

大学生も高校生も楽しい

きょうは、英語教育学概論では、100語ほどの暗写英文の音読指導を気がつけば50分以上やっていた。グルグルではなく、ひとり1チャンクずつ読ませて、ダメを出して繰り返させて、まあまあ向上するまでやる、というのを全員に聞かせる形。バランスとして長過ぎるとも思ったが、長かろうが短かろうが、できるようにせねばならんことは、できるようにせねばならん。

つぎの英語教育学入門では、Taylor の Blank Space の1回め。結構難しい歌なのだが、まあまあみんなうまくなってきたのではないだろうか。指導すればしただけうまくなるのである。当たり前の話だが。

その後は、出張して高校2年生相手に30分のモデル授業をやる機会があった。これもまた極めて楽しかった。生徒が初々しくてやりがいがある。来月は50分の授業をさせてもらえるようなので、今から楽しみである。

11/08/2015

RよりもLのほうができていない場合が多い

Kondo, M., Tsubaki, H. & Sagisaka, Y. (2015). Segmental variation of Japanese speakers’ English: Analysis of “the North Wind and the Sun” in AESOP corpus. Journal of the Phonetic Society of Japan, 19 (1), 3-17.


のデータによると、日本人英語学習者の音読を分析したところ、(母音に関わる問題が子音に関わる問題の倍以上多く、)子音のなかでは /l/ に関わる問題が、/r/に関わる問題の3倍以上多かった、という。


/ l / がダメな場合が多いという自分の日頃の実感と一致しており、やはりそうなのであると再確認したが、次の記述には、ひっかかる。

". . . This indicates that pronunciation teaching should pay more attention to /l/ rather than the pronunciation of /r/, . . . " (p. 12)

音読のデータで、/r/の問題よりも、/l/の問題が多かった、という事実から、/r/よりむしろ/l/に注意したほうがよい、と結論づけるのは必ずしも論理的でない。なぜならこの結果は、/r/ にばかり指導上の注意が集まっている結果であると考えられるからである。 /r/にばかり注意しないで、もっと/l/にも注意しましょう、ならよいのだが、「r よりも l に注意させたほうがよい」という表現をしてしまうと、まるで r に対する指導努力をやめて、そのエネルギーを l に振り向けたほうが得策だ、と読めてしまう。

r に対する指導努力を今よりも減らしてしまうと r のパフォーマンスは落ちる。そしてそれは求める結果ではない。

彼らの結果から導くべき結論は、This indicates that pronunciation teaching should pay more attention to /l/ (than it does now). であると考える。



渡辺謙さんの英語と日本人英語教師

立命館大学の杉森直樹先生が、LET関西支部通信 No. 51 の巻頭言におおよそ次のように書いているのを発見しました。(7月づけの記事なのでもう遅かったですが。。。)

--

渡辺氏がミュージカル「王様と私」の稽古で、発音やプロソディについて、演出家などからセリフの指導を受けているテレビ番組を見た。

大変な努力をされている、という印象を持ったのだが、残念ながら初演後、現地メディアからは、渡辺氏の英語は聞き取りにくいという厳しい評価もあった。

番組を見て思ったのは、日本人である渡辺氏に(的確なアドバイスのできる)日本人の英語教師がついていればよりスムーズにセリフの英語をマスターできたのではないか、ということである。

日本の英語教育に置き換えてみると、「これこそが日本人の英語教師が果たす役割の一つではないか」と改めて認識した。

ネイティブからの指導を希望する学生が多いが、「英語学習上の困難点を知っている日本人の先生からの指導もまた重要であるということを理解してもらいたい」

--

まったくその通りだと思います。

11/04/2015

シンポジウム 12月5日 外国語教育における発音指導:普遍性と個別性

12月5日に、麗澤大学で行われる下記のシンポジウムに呼んでいただいております:

http://www.reitaku-u.ac.jp/2015/10/08/53628

テーマ: 外国語教育における発音指導:普遍性と個別性

日時: 麗澤大学校舎あすなろ5階 2508教室


私に与えられたお題は:「こうすればうまくいく英語発音指導」

この他に、ドイツ語教育、中国語教育の立場からの同様のご提案があります。

英語以外の言語の教育での発音指導の考え方や実態を是非伺ってみたいと思っています。

言語によってはタブーではないらしい?

学習者役の発音を直すのがタブーだ、と書いたが、テレビで中国語ではちゃんと学習者役の壇蜜さんの発音を直しているのを発見。嬉しくなった。個々の音や音調を大切だと認識するカルチャーが中国語教育にはあるのだろうか。

奇しくも、実は12月には麗澤大学でのシンポジウムで、発音教育をテーマに、中国語教育の先生と一緒に登壇することになっている。

お互いの発音教育についてのカルチャーについて情報・意見交換ができればと思う。

11/03/2015

語学番組のタブー

最近、数ヶ国語の語学番組を見ていて思ったことなのだが、語学の授業において生徒の発音を修正しようとすることは一種のタブーなのかもしれない。

その言語の素人あるいは初学者をスタジオに配して、学習者役として参加させるというのは、どの語学番組でもやっている。そしてその学習者役に問題を出して、文法的・語法的・語彙的に不完全な答えが出た時には、惜しいですね、正解はこうですよ、とネガティブフィードバックすることは、ひとつのルーティーンとして定着している

しかしその学習者役の出した答えが発音的に不完全だったときに、惜しいですね、正解の音はこうですよ、とフィードバックするのは見たことがない。(あったら教えてもらえますか。)

発音については別枠で発音コーナーを設けて、モデルを示して視聴者であるわれわれに発音するよう促し、それに対して表情で、グッド、などと肯定するといった演出は有るが、実際に発音コーナーとしてスタジオにいる学習者役にダメ出しをして向上させる営みを見せる、という場面はあるのだろうか。おそらくないのでは。

テレビの語学番組というのは、現実の語学授業の一種の象徴というか、ファンタジーというか、カッコいいところだけ取り出した抽象物というか、不純物を取り除いた架空のエッセンスみたいなものだと思うが、そういう場に、文法矯正はあっても、発音矯正がない、というのは、語学授業についてのわれわれ(=といってもは私は少なくとも除く)が抱いているイメージについて、ある重要な、いや重大なことがらを語っているのかもしれない。


11/01/2015

学習者の現状

目の前の学習者の現状がよくない時、どうして放っておくことができるのか。

その現状がきちんと認識できないのか、愛情がないのか、あるいはその両方か。

10/31/2015

ただ左から右に、ではなく

先日、教育実習生の授業で、

Where's my pen?  -- It's on your desk.

という文を導入・提示するのに、単語ごとにカードを用意して、黒板に

It's

It's on

It's on your

It's on your desk.

という順番で左から(解説しながら)貼っていったのだが、かなり違和感を覚えた。

貼るなら中心的な部分から

        desk
     
        on     desk
       
     on your desk

It's on your desk


でないとおかしいのではないだろうか。

まずは、ざっくり

Where ... pen?     -- on . . .desk.

というやり取りができるのが意味のやり取りのための基礎で、つなぎのbe動詞だの、代名詞だのは、そのあとから身につけるべき「細かい」ことのように思われる。

こういう軽重の感覚は生徒にも教えないといけないのでは。

10/29/2015

グルグルの名を汚すな

グルグルの真似事をして、グルグルの名を汚さないでもらいたい。

まず一斉にきちんと指導するのが前提である。一斉指導でも、ひとりひとりの生徒・学生と「目をつないで」きっちりフィードバックを繰り返し、全体のレベルを可能な限り上げておいたうえで、それでも上げきれない個人個人のレベルを上げてゆくためのローラー作戦がグルグルである。

グルグルでなくペアワークでもグループワークでも、その前にきっちりと一斉形式で指導を尽くしておくのが絶対必要条件である。

一斉指導できちんと教えることなく、ただペアワークをさせたり、グルグルに入ったりするのでは、やらないほうがましだ。

きちんと一斉に指導せよ。

まずはそこから。

10/25/2015

11月1日(日) 英語スピーチコンテストにおいでく下さい

来週の日曜日、11月1日(日) 午後、大東文化大学主催 第16回 英語スピーチコンテストを行います。

共通テーマは、Lesson from History. アトラクションとしてネイティブスピーカーによる英語落語もあります。

どなたでもご覧になれますので、どうぞいらしてください。

私が責任を持って発音指導した学生たちも出場します。


時間: 11月1日(日) 12:30開場 13:00開始

場所: 大東文化会館ホール (東武東上線 東武練馬駅3分)

内容: 

(1) 高校生の部 10名のスピーチ

(2) 大学生の部  9名のスピーチ

(3) アトラクションとして英語落語

祝! 全日本大学女子駅伝 大東文化大学準優勝!

本日行われた杜の都駅伝で、大東文化大学陸上競技部が準優勝しました。優勝の立命館には一歩及びませんでしたが、3年連続の2位は大変立派な成績です。選手の皆さん、おめでとうございます。清々しい興奮をありがとうございました。

英語学科教員としては、走者のなかで唯一の英語学科だった、キャプテン福内櫻子選手に特別な拍手を送りたいと思います。力走お疲れ様。

(また関西大学が8位でシード権内に入りました。こちらも元関大教員として嬉しいことです。)

10/20/2015

英語の授業しました

久しぶりに「英語」の授業をする機会があった。

金星堂から来年度用に出版される Reading in Action Basic の使い勝手の紹介として、著者自身のモデル(サンプル)授業ビデオを制作しましょうという企画があり、そのビデオ撮りのために、ふだんは英語教育学概論、あるいは英語教育学入門という名前で英語教員養成をにらんで授業しているクラスに協力してもらい、1時間だけ、Reading in Action の Unit 1 を使ったモデル(サンプル)授業をやったのである。

もちろん普段も英語スキルには関わる授業をしているだが、それらはリーディングとかリスニングとか銘打った英語自体の授業ではないので、今回やった「英語」の授業は久びさ感があった。

普段のルーティーンとは関係ない段取りでビデオ撮影1発勝負でやるのには多少不安もあったのだが、結論から言うと、1年生も2年生も(そして3年生も)大変良く頑張ってくれ、やっているこちらとしてもとても楽しいものになった。

諸般の事情で、自分の持ちコマに、(いわゆる「専門」の「英語教育」の授業ばかりになり)ふつうの「英語」の授業がなくなりつつあるのだが、やっぱり英語の教員は「英語」の授業が基本であってバックボーンであって第1であるなあ、ということと今更ながらに実感する1日となった。

英語教育を教える人間が英語を教えなくなったら、たぶんダメなのではないだろうか。




10/18/2015

the right thing done

I feel I did the right thing.

10/16/2015

the right thing

I'll do the right thing, but what IS the right thing to do?

10/15/2015

スピーチコンテストの審査員コメント

スピーチコンテストの審査では、ジャッジがジャッジペーパーにコメントを書く場合があるが、そのコメントに良いことしか書かないという審査員がいた場合、そのコメントからスピーカーが実質的に得るものは限りなく少ないだろう。

次の機会にむけて自分をさらに高めるためにはどうしたらよいか、というヒントをあげなければまったく意味がないのではないか。

当然、授業も同じ。

そもそも、どうして良いことばかり書く、という発想になるのか、私は理解できない。

限られた時間なのだから、悪いことばかり書きたいものだ。そうすればすべてが改善の手がかり、足がかりになる。

玉に瑕

先日、ある大学の系列附属小中高の先生方の英語授業研修会の講師をさせていただきました。タイトルは「英語リズムの教え方」。

感想は . . . う~む、先生方のレベルがかなり高い。さすが、と言うべきか。恐るべし。

それでも個人個人を細かく見ると、ある人は /l/がイマイチ, ある人は シュワの口が開きすぎ、ある人は破擦音が摩擦音、といった「玉に瑕」は見つかるもので、その疵を磨いて玉をピカピカにするお手伝いは多少はできたように思います。


リーディング教科書の新刊、できました!

2016年度新刊の大学生用リーディング教科書

Reading in Action Basic (金星堂) の見本が届きました!



ご好評をいただいている Reading in Action のタスクを基本的には踏襲しながら、より題材を短くし、語彙レベルもおさえたベーシック版です。

1コマの授業で十分にこなせる分量になっていますので、90分のうち3分の2を学生がなにかを話しているような活発な授業が展開できます。

是非、ご覧ください。

10/13/2015

ネイティブとノンネイティブの視点の違い

各種面接の委員やコンテストの審査員として、同じ学習者の英語をネイティブとノンネイティブが査定・評価する、という状況を何回かノンネイティブ側として経験した後、最近思ったこと:

ノンネイティブのほうが、英語自体の見方が厳しいのではないか、ネイティブのほうが英語自体には甘いのではないだろうか。

一見 counterintuitive な結論なのだが、どうもそんな気がする。

我々ノンネイティブは、意識的に自分が学習、習得した事項がわかっているので、それをまだ習得していない被評価者の「足らない」部分を明確に感じる結果、いわば減点法的に評価し、これに対してネイティブは、もともとノンネイティブの被評価者に対する期待水準が低いので、「言っていることは十分通じる」「頑張っているじゃないか」という、いわば加点法的に評価する

のではないだろうか。その結果ノンネイティブは、「あれもできていない、これもできていない」という辛口評価になり、ネイティブは「あれもできている、これもできている」という甘口評価になる。

別の切り口で言うと、ノンネイティブは分析的に、ネイティブは感覚的に評価する、という傾向があるような気がする

のだが、これは一般的にそうなのか、私の場合だけなのか?

違いの分かる発音を

『英語教育』11月号に

「違いのわかる発音を 母音編、子音編」

という記事を書かせていただきました。

是非、お読み下さい。

教師向け発音向上のための本

11月号の『英語教育』(大修館)誌上で、手島良さんが、「教師向け発音向上のための本」として、一番に拙著

『絶対発音力』(ジャパンタイムズ)

を挙げてくださいました。

どうもありがとうございます!


10/08/2015

下手

たまたまつけたNHK英語番組の講師の発音、(講師としては)拙い。

学習者役の素人出演者の話す「ザ・日本人発音」を全く直そうとしないのも、いかがなものか(=ダメ教師の典型だ)。


10/04/2015

シンビン

昨日は、ラグビーワールドカップの、日本対サモア戦を見て、全くの素人ながら興奮した。完勝、すばらしい!

なかで、サモアの選手が反則をして10分間プレーできないという状況が何度か起こった時に、解説者がしきりに「シンビン」というような言葉を繰り返していた。

文脈からなんとなく意味はわかったが、しびんではないし、新瓶でもないし。。と思っていたが、その後、副音声の英語解説に切り替えてやっと納得。

sin bin

だったのか。

私のなかでは、「シン」と sin の心理的・音声的な距離がかなり遠いから連想できなかったようである。

si を shiと言われるとものすごく抵抗と違和感がある。

10/02/2015

授業評価が全校トップに

高校で教える、ある matureな 「教え子」から、生徒による授業評価が英語科ではもちろん全教科を通じて全校トップでした、という嬉しい便りが飛び込んできた。

そして、それは「靜イズム」の賜物です、とも。

そう言って貰えるのはもちろんとても光栄であり、嬉しい。

しかし本当は、それは靜イズムなどではなく、ご本人の○○イズムなのだ。

ますますの活躍を祈る。

9/14/2015

『音読指導アイディアBOOK』 いいですね。

正式のタイトルは(長いけど)

5つの分類 x 8の原則で英語力がぐーんと伸びる!
クラスが集中する
音読指導アイデアBOOK

です。



正頭英和著

明治図書


教室における具体的な「音読」のやりかたを紹介する本です。ただし「音読」といっても 狭い意味の音読だけではなく、read and look upはもちろん、キーワードだけを見て本文を復元するとか、絵だけを見て本文を再現する活動など、本文を元にした音声タスクを幅広く紹介しています。

単なる音読テクニックの列挙ではなく、生徒の頭のなかに英語を残そう、という目的が一本通っているので、音読を超えて英語授業全般に対する考え方という点でも大変参考になる本です。

これだけ具体的に音読ベース活動のみを扱った本は今までほとんどないでしょう。音声チェック型、意味思考型、文法確認型、などの分類も、教師が「この音読はなんのためにやっているのだろう」と意識する助けになると思います。

私の1オシ箇所は、(授業は表面的な華やかさを追求するのはmisguidedであるが)「音読をしている生徒の頭の中は華やかな状態にしたいものです」(p. 45) という1文です。その通り。

技的にも、「Highway reading」とか、[Hospital reading」などというものもあり、おおなるほどね~ とうならされます。え、それ何?と思った人は、書店で手にとってご覧ください。

それぞれの音読法の手順ががひと目でわかるように、4コマ漫画風のビジュアルをつけたのもとてもよいアイデアですね。

教員志望の学生、若い先生、こころは若い先生、に是非読んで欲しい一冊です。


9/13/2015

自分の授業の一般性

今日、もっとも共感したコトバ:

「なにか発表したのに対して、『その実践は一般化できない云々』という人がいるが、自分は一般化などにはまったく興味がない。自分の今の仕事は今の目の前にいる学生たちをどうしたらベストの状態にもっていけるかなので。それ以外はまったく考えていない。それじゃあ研究にならないよと言われるのなら、じゃあそんな『研究』なんかシタクネエヨ。」

9/08/2015

大人のサックス教室と、楽しい英語授業

tata (takashi nakasone) さんの、

サックス上達における7つの神話 http://d3h0rwjhl76y46.cloudfront.net/mythofseven.pdf
より:

大手のサックス教室は、あなたを上達させるという事にフォーカスしているのではなく、あなたがサックス教室を辞めないという事にフォーカスしています。 (p. 5)

大手のサックス教室では、サックスの「上達」を目指すのではなく、サックスを吹く時間を「楽しむ」という事を目指しています。(p. 5)

大手のサックス教室が使う「楽しい」の意味は、苦痛を伴わないということです。面倒くさいことは嫌。練習するのも嫌。(p.5)

苦痛を伴わないわけですから、楽譜を体系的に理解することや出来ない事を反復練習するという面倒くさい事はしないでしょう。出来ないことがあるとその課題は飛ばして、出来る課題へ置き換えたり、とにかくストレスを与えないという事をやっていると思います。そして、発表会などの本番がある曲のみを形にしていくスタイルだと思います。(p. 5)

リズムを読める様にするというよりかは、リズムを覚える。音符を読める様にするというよりは、音符と運指を覚える。その曲のみは完成するがなかなか次の曲へは繋がらない。その結果、いつまで経っても楽譜が読めない。正しい奏法も身に付かない。指も動かない。その時期に練習している曲はなんとか吹ける様になりますが、サックスが上手くなったとは言えない。万年、初心者レベル。つまり、いつまで経っても上達しないのです。(p.6)


練習してもできないのはストレスになります。心が折れる時もあるでしょう。しかし、正しい方法論で練習を継続すれば、必ずできる様になります。できる様になるからサックスが楽しい。楽しいからでける。できる様になれば、周りの人が自分の音楽を聞いて喜んでくれる。周りの人が喜んでくれるから楽しい。楽しいから続ける。 これが、僕の提案する楽しいサックスライフです。(pp. 7-8)

--

「楽しい」英語の授業もパラレルだろう。

できるから楽しい、それが私の提案する楽しい英語授業です。





9/06/2015

音符のルビと、英単語のカタカナルビ

楽譜には極力、ドレミなどのカタカナふりがな(?)をつけないように、というアドバイスを、ネット上の複数のサックス講師がしているのに出くわした。

「Gentle山本」先生曰く、どうしても不安であれば、楽譜をコピーしてそれにふりがなを付け、しかし演奏のときはふりがななしの本来の音符のみのバージョンを見て演奏し、どうしてもわからない時だけ、あんちょことしてふりがなバージョンを見た方がよい、とのこと。

なるほど。。。 

このアドバイスを聞いた直前に、 Summer time の楽譜に ミ ド ミ ... とフリガナをつけたばかりだったので、恥ずかしくなり、あわてて消した(フリクションなので。)

そして思ったのは、英語とのアナロジーである。

楽譜にドレミを書き込むのと、英語にカタカナルビをふるのと、共通点があるのかもしれない。

初心者はルビが必要である(というか、欲しがる)。しかし、いつまでもルビそのものを見ていては、上達しない。徐々に、ルビを助けとしつつ、英単語自体、さらに言えば、つづり自体を見て、そのつづり自体が表す音を想起できるようになることが、上達の意味である。

楽譜でもおそらくしかりであって、最初はルビを見つつも、徐々にオタマジャクシだけを見ながら 瞬間的に音を想起できるよになることが、上達なのであろう(おそらく)。


8/28/2015

良い指導者とは目から鱗を落としてくれる

ポケットサックス Xaphoon の上達に限界を感じていたのだが、マイナーな楽器のせいで教室などは見つからないのでほとんどあきらめていた。。。

ところにサックス奏者がポケットサックスも教えてくれる教室を発見!

早速、無料体験レッスンに申し込み、本日、行ってきた。

結論から言うと、行って大正解。こういうのをまさにブレークスルーというのであろう。

あきらめていたところに、光明が射し、大袈裟に言うと未来が見えた。

いくつものヒントをもらい、帰ってきて吹いてみると昨日までとは大違いの演奏である(と自分では感じる)

正式の次回のレッスンも申し込んだ。

生徒が自分ではどうしようもない、気づかない、気づけないことを、一瞬で見抜いて教えてくれるのが、いい先生なのである。

指導者とはかくありたい。


8/27/2015

9月12日にVELC研究会を開催します

下記、どうぞふるってご参加下さい。
パネルディスカッションは論客の柳瀬先生、実践家の久保野先生をお迎えし、いろいろ面白いお話が聞けるのでは、と期待しています。

お申し込みは、VELCのサイトからお願いします 
→ http://www.velctest.org/misc/150912_lecture/

日時: 9月12日(土)13:30〜16:30 (開場・受付13:00〜)
場所:  研究社英語センター大会議室

1. 基調講演「VELC Testの概要とよくある質問」
靜 哲人(VELC研究会会長・大東文化大学教授)
水本 篤(VELC研究会・関西大学准教授)
熊澤 孝昭(VELC研究会・関東学院大学准教授)
2. 基調講演「VELC Testの導入とその活用法:立命館大学・法学部」
吉岡 公美子(立命館大学教授)
3. パネル・ディスカッション
テーマ「気づきを促す英語の授業とは?」
パネリスト:柳瀬 陽介(広島大学教授)
      久保野 雅史(神奈川大学准教授)
      靜 哲人
コーディネーター:望月 正道(VELC研究会副会長・麗澤大学教授)

8/24/2015

『心・技・体』を熟読する高校生

昨日は大東文化大学ではオープンキャンパスを実施しましたが、昨年の同時期を上回る方々にご来場いただきました。

いらしてくださった方、ありがとうございます。

私は学科個別相談と体験授業を行ったのですが、体験授業のあとで、長野県からわざわざこのために来ました、と言ってくれた高校生が話しかけてくれたのにはびっくりしました。そしてカバンの中にはなんと読み込んだ感じの『心・技・体』が!

どうして高校生が『心・技・体』を読むようになったのかは聞き忘れましたが、必ず大東に入学して先生の授業を受けます、と力強く言ってくれたので楽しみに待つことにします。

8/15/2015

ニコニコガール エヴァちゃんの「ヘーベルハウス」

以前から私は、普段から笑顔が絶えず、歯が見えているのがデフォルトの表情になっている、つまり「笑顔の多い明るい」人の間に頻繁に見られる、もともと日本語の発音時もバ行もマ行も、両唇を合わせず上の歯と下唇で発音するという現象に気づいていた。

もちろんそういう表情は概して笑顔として好感度が高いので、そういう癖は(日本語を話している限り)人としては好ましいことだと思う。

しかしそのこととは関係なく、そういうグループは、意識しないと、英語発音の時にもそのくせが抜けない。英語は b と v は別音素なので、それは困るのである。

なぜか女性に多いので、「ニコニコガール」という呼称で、折にふれ、授業や、セミナーで注意を喚起してきた。

最近、まさにそのようなニコニコガールの典型的な例がテレビCMに出演している。しかも口元がかなりはっきり見える。





う~ん、たしかにかわいい! 

しかし、まさにこの「エヴァちゃん」の話し方が、私の言うニコニコガール現象なのです。

「ヘーベルハウス」が、明らかに 「ヘーヴェルハウス」になっている。(聞こえる音はそこまではっきりした摩擦音にはなっていないが、口使いは明らかに唇歯音である。)

ちなみに、ヘーベルハウスというのは、HEBEL HAUS (ドイツ語) が語源とのことなので、「べ」の部分はBでなければならないはず。

もしこれが英語の授業だったら、ほらそこ!と指導するべきタイミングを逃してはならない。笑顔の好感度に負けていてはいけないのです。

8/14/2015

郷ひろみさんの英語 いいね!

郷ひろみさんが、初の英語メッセージを公開したとして、その「流暢な」英語が話題になっています。

ビデオメッセージを見て、英語教師として、最初の帯気をしっかりした Tom! から、大変好感を持ちました。

流暢というよりも、プロとして意識的に訓練した発音で、(おそらく)スクリプトを書いて何度かリハーサルし、アイコンタクトを保って演じきった、きちんとした英語だと思います。

発音オタクからみると、year が ear になっているとか、message の破擦音がちょっと甘いとか、ピッキーなことは言えますが、全体としては、学生がお手本にしてほしい、立派なモデルだと思います。

(いまだにスリムな体形を維持していらっしゃるのも、ほぼ同世代の者として、目標にせねば。。。)


グランピング の L/R

手軽でかつ贅沢なキャンプ、といった趣の、「グランピング」が(富裕層の間で)人気を集めている、というテレビレポートがあった。

手ぶらでいってアウトドアっぽい時間と空間を買う、のだそうで。

グランピングとは、グラマラス と キャンピング を合わせた造語です、という説明の後に画面に流れているのは、

GRAMPING

という文字。

ん?

ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん。

GLAMOROUS と CAMPING を合わせたなら GLAMPING でしょ。

ネットで確認してみても、もちろん GLAMPING が正しい。

のですが、なんと GRAMPING もありました。

ど、どゆこと?

http://aerogardgrampout.com.au/whats-gramping/

What is gramping?  It's camping with your grandparents. だそうです。

笑ってしまいました。こちらはまともなキャンピングですね。なんだかほっこりします。

8/10/2015

子どものゲーム機の音

最近、電車内などで、母親が連れている子どもがゲーム機をイヤホンなどはしないでやっていて、大きな音ではないが確かに気になるレベルの音を周囲にまき散らしているのに母親は知らん顔をしている、というシチュエーションに立て続けに遭遇してしまった。

一回目は新幹線の車内。しばらく我慢していたがこれから3時間以上我慢するのも嫌なので、ようやく音源を特定して近づき母親に、「それ音でてますよね?」。 母親はすぐ子どもに向かって「やめなさい」と言ったもののこちらにむかっては不満そうに無言で睨んでいるのみ。目的は達したので席に戻ったが、愉快ではなかった。

二回目は中央線の車内。母親二人づれがそれぞれ子どもを連れており、そのうちの1人がプラットフォームにいるときからやっていたゲームを、乗車してからもずっと続けていた。これも特別快速だったのでこの状態で5分以上いるのも嫌だと思い、近づいて音を止めさせてくれるよう頼んだ。今回はすぐやめさせただけでなく、通り一遍のすみません的な言動も一応あった。

良し悪しの判断がつかない子どもは仕方ないが、そういう判断を子どもに教えない母親が増え、さらにそういうシチュエーションにモノ言う周囲の大人が減った、ということだろう。

(いつか刺されるか。)

8/08/2015

プリクラ2回め

初プリクラから2年半

今の機械はほとんど誰だかわからないくらい盛るね





学会の口頭発表では、発表者は時間枠を守り、質疑がなければさっさと終わって欲しい

これは、ずいぶんまえに『英語教育』に書いたことなのだが、今回も感じた。

まず発表20分、質疑10分となっていたら、発表者は自分の発表は、開始後 20分00秒までに終わらせることは最優先にすべきだと思う。

またある学会では、司会者の役割として、質疑応答を活性化させてくださいというインストラクションをもらったのだが、やや子どもじみているように感じた。

小学生の学級会ではなく、大人の研究者同士の集まりなのだから時間のあるかぎり質問したい人は質問し、コメントしたい人はコメントすればよいのであって、質問もコメントもなければ、ないのだから司会者がことさら質問をひねり出して時間を埋める必要はまったくない。さっさとセッションを終わらせるのが潔いし、誰にとってもハッピーな結果になる。

もちろん司会者が質問したければすればよい。

8/05/2015

ヘルキャンプ 1996 その後

しかし、実は、そのままでは終わらず、一旦成績を出して数ヶ月たってから、大問題となったのである。

要は、80名の合宿授業で全員不可とは何事か、と。

それが教官会議で大問題になった時には私自身は国外にいたし、当時はいまほどeメールが簡単ではなかったのでやりとりはもどかしいものがあったが、精一杯、正論を展開して判断の正しさを主張はした。

しかし、最終的には「評価を修正せよ」という校長命令が出て、割り切れないと思いつつ評価を修正するという結末となった。

しかしあいつらはあの時納得していたはず。納得できない。

帰国した後に学生たちにひとりひとり確かめて回った。

あれはお前たちが文句を言ったのか?

いや、私たちは不可に納得していました。約束を破ったのは自分が悪かったし、あのキャンプはとてもためになったので、不可でもいいと思っていました。

騒いだのは周りの大人だった。親であり、教員だった。あいつらは納得していたという自分の判断は間違っていなかった、とわかっただけで気持ちが収まった。

その時の同僚と先日呑む機会があり、熱く20年前を振り返った。

あの時はひどかったよね。。。 全員不可ってさぁ。。

あはは、まぁねぇ。。

とはその場では答えたが、むむむ。どうかな。

あのときは36歳のペーペーだったから暴走したのか、「責任ある」立場になった55歳の今、もし同じ状況があったら別のように行動するのか。

たぶんしない。

That is not something I would have done differently even if I had a chance to do so. Rather, that is one of the things I look back upon most proudly and dearly, thinking of my students then.

ヘルキャンプ 1996

そういえば、Hell Camp という言い方は 1995年、1996年頃 使っていたのだった。

約80人を二泊三日で英語合宿に引率。誰が呼んだか、体重ヘルヘル、へるキャンプ。

参加の条件は、一切日本語を使わないこと。一言でも日本語を使った時には自分の費用で即刻帰宅します、という一筆を書かせ署名までとって集まった自主参加の16~17歳、80人。

青年の家で朝から晩まで英語特訓また特訓。

しかし1日、2日とたつうちに、当然といえば当然ながら、入浴中や部屋では日本語を使っている、という噂が。

それはアカン! アメリカには Honor systemがあるんだよ、と一緒に行っていたRonが。そうだ、それはアカン。

というわけで迎えた修了式。

お前たちは日本語を使わないという条件で自主的に参加した。しかし、君たちの中には日本語を使っていた者がいる、という噂を聞いた。それは事実か?

それではこの場で聞く。お前たちのなかで、この3日間、日本語を一言も使わなった者がいれば立て。

ひとことでも日本語を使ったのなら、ルール違反をしたということなので、約束通り、単位は与えない。

それを確認した上で、もういちど聞く。

日本語を使わなかったものがいたか。いたなら立て。

(当然ながら、誰も立たない。)

よし。じゃあ全員使ったということだな。わかった。では全員不可とする。

以上、修了式を終了する。

かくして参加者全員、不可、となった。。。

のが、ヘルキャンプ 1996の夏。




ヘルキャンプ 2015

「合宿」、今年も終わりました。合宿じゃないけれど、毎日6時間半も顔を突き合わせているとバーチャル合宿みたいな気持ちになります。

4日前には初対面だった人たちと別れがたい気持ちになれるのはこういう形式ならではの醍醐味だと思います。

今回もバラエティに富んだメンバーでしたが、きっとそれぞれ感じとってくれたものがあると信じます。これからが楽しみな若者もいれば、さらにバージョンアップしそうなベテランも。

今日は、ヒートアップした気持ちのクールダウンとなまった身体のシェイプアップを兼ねて、A川沿いを北上し、最終的にはなんと懐かしのS峡まで行きました。さすがに36度の炎天下のジョギングは bad idea だったようで、夜になった今、腕やら首の後やらが真っ赤になってヒリヒリ。

(これぞ夏というような空に浮かんでいた白い雲の間にKKNがいないかと探したら、見えたような気がした。)

さあ明日はやっと帰れる。。。。

7/26/2015

教員の価値はどれだけいじめるか

20年前の同僚達と確認したこと:

我々の仕事の成果は数値にはなかなか表せないねぇ

卒業生からどれだけ連絡があるか、がひとつのバロメータじゃないかねぇ

そのために在学中はできる限りいじめようねぇ

生徒・学生との30センチ50センチの価値観がない輩が、肩書とか地位を(代償機制として)求めるねぇ

7/23/2015

生徒指導と教科指導は違うのか。違わない。

大学生なので「学生」指導と言いたいところだが、そういう表現はあまりないので、中高用語の生徒指導と書いた。教科指導も中高用語だが、要は授業という意味である。


【自分】が勤務する大学のキャンパスの喫煙が禁じられている場所で喫煙している【自分の】大学の学生を見て見ぬふりする教員は、そのまま、【自分】が担当してる授業で、【自分】の授業を聞いていない学生、寝ている学生を見て見ぬふりをする、職務怠慢教員であるのだろう、と私は思う。

学生の教室外の behavior を指導できない教員が、学生の学習・学修のほうだけはバリバリ効果的に指導できる、などということがあり得るのだろうか。 

あり得ないと思う。目の前の相手にどのようにコミットするかという点では同じだからである。


7/21/2015

おっかない

ここまでストレートに書いてもらうと、ストレートに嬉しい。


僕は、一年生の時に、英語学科の先輩に、靜先生の授業の様子を聞いていました。そして、その時から、この授業を受けることを、とても楽しみにしていました。どの先輩も、口をそろえて、靜先生の授業は、とても大変だと、言っていましたが、本当にその通りだった、と思います。靜先生は、本当に厳しく、おっかない先生です。しかし、同時に、やさしく、生徒に対する姿勢も、とても真摯なもので、授業を受ける側の生徒としても、その身が引き締まりました。本当に、僕が一年生の時に、期待していた通りの、とても楽しい授業でした。後期も、精一杯楽しんでいきます。

シラミは潰せばいなくなる。いなくならないのは潰す気がないから。

授業の関係で、ある特定の曜日の特定の時間帯(昼休み)にキャンパスの特定の場所を通る。

それは、キャンパス内でちょっと奥まっており、昨年以前はタバコを吸う学生で溢れていたので、大学として禁煙とし、横に密閉型の喫煙ボックス(プレハブ)を設けた場所である。

その場所を通る時に数名の学生が食後の一服を楽しんでいる現場に出くわす、ということが前期を通じて2~3度あったので、その都度、ここは禁煙だから、喫煙するならボックスに入るように言ってきた。いつも彼らは素直に従う。

その成果か、最近は外で喫煙している学生を見かけることはほぼなくなり、感心なことに皆ボックスに入って吸うようになった。(この場所はうるさい奴が通るから別の場所に行こう、となった要素もあるのかもしれないが。)

が、きょう通りかかると、いままさに一人の学生が、タバコを一本口にくわえた瞬間ではないか! なんという美味しいタイミング。

彼がライターを右手に持ったか持たないかの瞬間、

「ここでは吸わないよね!?」

と声かけ。

ギョ、この人誰?のとまどいが、0.01秒ほどあった後、

「は、はい。」

とタバコはしまわれた。

このような喫煙指導をして、反抗的態度を取られたことはかつて一度もない。

そこはキャンパスであって、こちらが教員もしくは職員だということはひと目で分かるのであるから、その状況で反抗するようなレベルの学生はうちにはひとりもいないのである。

我々大人がきちんとシラミを潰す気になれば、シラミはいなくなる。

シラミがいなくならないのは大人がシラミ潰しをしないからである。

シラミ潰しをしない理由は、シラミを潰すのが怖いのか、潰す気がないのか、あるいはその両方だ、ろう。

いずれにしても私には理解できない。







7/17/2015

松屋と松屋

本日、焼き鳥屋のマスターに聞いた話:

松屋デパートの重役がタクシーに乗り、

「松屋デパートまで。」

と言ったら、タクシー運転手が、

「松屋ですね?」

と確認した。

その瞬間、件の重役は、

「牛丼屋じゃないよ!」

とムッとして訂正した、という。

ポイントは、「マツヤ」のアクセント。

牛丼の「松屋」は、マ↑ツ↓ヤ。

対して、「松屋デパート」は、「松屋」、「デパート」が独立している時は、マ↑ツ↓ヤ デ↑パ↓アト だ(と少なくとも私は思うのだ)が、「松屋デパート」になると、連読変調が働き、 マツヤデ↑パ↓アト となるのである。

つまりその重役は、マツヤ をフラットに発音されないと気に入らなかった、というわけである。

逆に私の場合は、シズカ は、シ↓ズカ なので、「先生」とか「さん」がついても、シ↓ズカ と言ってもらいたいのだが、60%くらいの割合で、連読変調が起こり、シズカセ↑ンセ↓イ と、シズカ部分をフラットに言われてしまい、気持ち悪い。


7/06/2015

「歌う授業」の感想

(KHcoderを利用しています)


抽出語 出現回数
授業 167
発音 148
思う 90
英語 78
歌う 68
洋楽 68
47
受ける 46
楽しい 43
自分 37
35
先生 35
聴く 33
歌詞 30
28
聞く 25
学ぶ 23
知る 21
歌える 19
感じる 18
好き 18
17
17
毎回 17
教育 16
最初 16
単語 16
難しい 16
意識 14
受講 14
14
リズム 13
一番 13
楽しむ 13
履修 13
13
違い 12
音節 12
苦手 12
少し 12
正しい 12
入門 12
学べる 11
勉強 11
理解 11
良い 11
意味 10
違う 10
確認 10
覚える 10

7/04/2015

L/R のミニマルペアが最も多く、全体の25%を占める

だから、最も大切な区別であると言えるのだ。

An analysis of the most frequent 10,000 words in spoken English (BNC) revealed that of all the minimal pairs involving a consonant pair, r-l pairs were the largest type in proportion, accounting for 24.8%, followed by t-d pairs (Gilner & Morales, 2010).

>> Gilner, L. & Morales, F. (2010). Functional load: Transcription and analysis of the 10,000 most frequent words in spoken English. The Buckingham Journal of Language and Linguistics, 3, pp. 135-162.

GILNER, Leah; MORALES, Frank. FUNCTIONAL LOAD: TRANSCRIPTION AND ANALYSIS OF THE 10,000 MOST FREQUENT WORDS IN SPOKEN ENGLISH. The Buckingham Journal of Language and Linguistics, [S.l.], v. 3, p. 135-162, sep. 2010. ISSN 19579821. Available at: <http://www.bjll.org/index.php/bjll/article/view/27/47>. doi:http://dx.doi.org/10.5750/bjll.v3i0.27.

アクティブ・スキッピング

この間の授業では、文アクセントを体感するために、恒例のスキップグルグルを実施した。英語のいわゆる強い音節が、強いだけでなくピッチが高く、長さも長い、ということを身体で表現するにはスキップが最適なのである。

どうして大学2年生がひとりずつ、男子も女子も、みんなの前でスキップをするか(恥ずかしがらずにやるか、いやたぶん恥ずかしいと思っているが、とりあえずやるか)というと、それはまず最初に55歳のおじさんが自分でスキップしながら英文を唱えてみせるからである。

教授がピョンピョン跳ねて、「さあやってみよ」と言われたら、やらないわけにはいくまい。

うん、これはじゅうぶんいろんな意味で アクティブ でしょ。

次は縄跳びを計画中。

7/02/2015

こだわっていること: 高い声を出せ

たまたま立ち読みしたビジネスハウツー本の一節に、「ドレミファソラシド」の「ファ」のピッチでしゃべれ、というのがあった。営業用には高過ぎるくらいのピッチでしゃべれ、という意味である。

我が意を得たり。

飲食店従業員の「いらっしゃいませ~」「ありがとうございました~」のトーンが低ければ、偉そうで感じが悪い(と普通の日本人は感じる)。

教員も当然接客業である。よって営業用のトーンで(英語を)しゃべる職業的な義務があるのである。もちろん終始ピッチを高くという意味ではなく、最低ピッチと最高ピッチの差を大きくせよ、という意味である。それが日本語英語から脱却する道でもある。

最近、教員養成授業でこだわっていることの1つに、学生が低い声でぼそぼそ音読するのを絶対に許さない、というのがある。

暗いボソボソ学生には、「いらっしゃいませ~」を言わせたり、お笑い芸人がステージに出てくる時の最初の一声「は~い、ど~も~!」をやらせてみたり、ということをしている。

自分の本来の話し方にかかわらず、低いトーンでぼそぼそ暗くしゃべって生徒を暗くする権利は教師にはないのだから。

4月に「は~い、ど~も~!」トレーニングをやらせた彼は、教育実習では「思い切ってはじけたパフォーマンスをした」とのことで、指導の先生からも生徒からも好評を得て、笑顔で帰って来た。


足らないもの:「アクティブ・ティーチング」

「アクティブ・ラーニング」などの前に、教師がしっかりとガンガン詰め込んで教える、ぎりぎり学生を追い込んで教える、いわばアクティブ・ティーチング、アグレッシブ・ティーチングがもっともっと必要だ。

やるもやらぬも学生任せのやわな教員ばかり多すぎるのではないだろうか。

7/01/2015

うっとおしいもの:「アクティブ・ラーニング」

私の個人としての意見であるが、最近、猫も杓子も「アクティブ・ラーニング」「アクティブ・ラーニング」と言い立てるのが、鬱陶しくて仕方がない。

「授業のなかでどのくらいの割合がアクティブ・ラーニングを採用していますか」といったアンケートがよくあるが、まるでそれ以外は「アクティブでないラーニングだ」と決めつける枠組みを肯定させられたうえで回答するようで大変に不本意である。

learning は passive より active であるのがいいのに決まっているが、バズワードになった 「アクティブ・ラーニング」はいただけない。

グループワークだのディベートだのフィールドワークだのプレゼンテーションだのを指すことが多いようだが、そういう目に見える「派手な」活動だけが、学習として active であるはずがない。

本を読みながらいろいろ考えるのも大変に 脳内active な活動であるし、アイディアを練って黙ってPCに向かってエッセイを書くのも大変に 脳内active な活動である。

すくなくともツール学習である英語学習、語学学習に、いまの「アクティブ・ラーニング騒ぎ」は、いい迷惑である。なんといっても、教師主導の一斉授業が大切である。

見かけが teacher-fronted の一斉授業は passive で、学生が前に立ってなにかやっていれば active だ、とは全く思わない。

6/30/2015

ヴァ~ヴァヴァヴァ~ヴァヴァ~ヴァ

生まれて初めての試み。

歌のメロディと音符の数(=音節の数)を確認しながら、同時に英語の発音も練習する、

ヴァーヴァーメソッド(仮)

要は、鼻歌の変形ですが、

Smile (Chaplin)の、冒頭、

Smile, though your heart is aching

のメロディで、/v/ を使いながら、

♪ va va va va va va va

と歌いました。


Smile はメロディがとりにくいので思いつきました。

メロディが取りにくい
 → 歌詞の発音どころではない 
 → ではメロディに集中できるように鼻歌にしようか 
 → しかし音楽の授業ではないので、それに時間をとるのは本末転倒だ 
 → それなら英語発音をひとつだけ練習しながら、メロディの確認をすれば時間の有効な使い方と言える。


以下同様に、 /f / / l / /r / TH もやりましたが、なかなかいい感じ。

とくに、

♪ LA LA LA LA LA LA ...

は、

♪ ラ ラ ラ ラ ラ ラ

との違いを実感させるのに効果があったように思いましたね。

歌の料理法の引き出しとしてこれはアリでしょう。

いわゆる「音痴」な生徒はどうするのですか?

「音痴」と「音痴でない」に二分しないというか、あまり気にしない(特別視しない)ことではないかと思います。

歌っていて多少音程が外れる子は確かにいますが、発音を修正するのと同様に、音程も「もうちょっと上」とか、身振りも使ってさりげなく修正します。

それから音楽の授業ではないので、あくまでメインは英語音声だよ、という姿勢を見せていれば良いのではないでしょうか。

6/28/2015

歌が嫌な子はどうしたらいいでしょうか?

これは、きょうの教員対象セミナーでいただいた質問なのですが、私の回答は:

歌が嫌な子というのはいません。かっこよく英語の歌が歌えている自分、というのは100人いれば100人が(なれるものなら)なりたいと思っているはずです。 
歌が嫌なのではなくて、うまく歌えない自分、かっこよくない自分が嫌なのです。ですから、丁寧に教えてやることで、うまく歌えるようにしてやれば解決するのです。 
もちろん単にモデル音源を提示して「さあ歌ってご覧」だけでは、そういう子が歌えるようになるはずはありません。 
先生が、ゆっくり少しずつ、手取り足取り、リンキングはこうなっている、この部分の発音はこうするからこう聞こえる、などなど、目的地まで手を引いて連れて行ってやることが必要です。

6/26/2015

健康診断の判定は、エイズ






少し前に受けた健康診断の結果が来ました。

一昨年はCがひとつあり、昨年はBがひとつあったのですが、今年はなんと、全部の項目において、オールA判定。

やりました。\(^o^)/


節制(。。。はあまりしていませんが)とランニングの賜物でしょうか。


すなわち、

This year, I got "A"s in all the tests!  





ちなみに "A"s と、AIDS は発音が違います。

"A"s は、 [eiz]  AIDS は、 [eidz ]

カタカナであえて表記しわけるなら、"A"s は 「エイズ」、AIDS は 「エイヅ」 ですね。

摩擦音と破擦音の違いです。



以下、同様の区別が必要です。


bees -- beads

rose -- roads

cars -- cards


ほとんどの日本人は皆、左の発音だけしています。(つまり、bees も beads も bees と言っている)




6/24/2015

連帯責任4人組の歌ステップグルグルで教室は蒸し風呂に

今日の授業も天国のように楽しかった。

今日は65人授業でのはじめての試みとして、4人一組にして、4人全員が合格しないとマルにしない、という設定にしてみた。たとえば、グループのメンバーA,B,C,Dの担当を


A. I used to bite my tongue and hold my breath

B. Scared to rock the boat and make a mess

C. So I sat quietly

D. Agreed politely


のようにする。

合わせて、ABCDそれぞれを歌う時に、メロディに合わせて左右にステップを踏まないといけない、
という縛りをかけてみた。

全部で40分くらいグルグルをやったが、設定は大当たりで、教室の中は大騒ぎになり、ほどなく蒸し風呂状態に。

せ~の!の掛け声とともに4人がステップを踏み出し。。。バツでは笑い、叫声、悲鳴、マルでは歓声、嬌声、ガッツポーズ。

4人グループにして、一人でもダメであれば全員がダメ、という設定にしたのは、ダメをくらったひとりを他のメンバーがコーチすることを期待し、それによって the weakest link の強化、底上げを狙ったからである。

何度も同じ学生がダメをくらった場合、ある程度改善されたら「おまけだけど」と断ってマルにする、といったさじ加減の調整は必要ではあったが、完全に改善された例も多く、なんどかバツをくらったあとのマルは喜びもひとしおであったと思う。



6/22/2015

出張授業に行ってきました

今日は、新潟商業高校におじゃまして、東欧からの留学生を含む48人の2年生に対して、大東文化大学の紹介を兼ねて、出張模擬授業をさせていただきました。

ALT、また(おそらく英語科の)先生方も数名、聞いていていてくださいました。私のことを知ってくださっているとおっしゃる先生もいて、恐縮です。

このような機会には毎回思いますが、地方都市のまじめな高校生というのは、やる気がみなぎっていて、とてもいい感じですね。

話をよく聞き、また楽しく活動してくれていたように思います。男子は2割程度でしたが、臆することなく頑張っていました。

参加してくれた生徒のみなさん、お疲れ様でした。

スピーチコンテストにも是非、エントリーしてください。

また大東文化大学にも来て下さいね。


6/20/2015

r の文字があれば r だと思っている

LだRだと言うと、つづり字として l や r があれば、すべて同じlやrで同じように重要なのだ誤解している学生が意外に多いようで、注意が必要のようだ。

park などの r を グルグルでのチェックポイントにするのは、まったくの的外れである。

park などの母音の後の r は イギリス音では通常発音されないのだから、あってもなくてもよいのである。

むしろ変にr を入れてしまって、 perk のような発音をしてしまっているケースが非常に多い。

Lに関しても、all right や milk などの l は必ずしも舌先は歯茎に接触しない場合もあるし、音色も暗いから「オ」や「ウ」で事実上問題ないのだ。こういうLに関して、「舌をしっかり歯茎につけて!」と力説するのも、勘違いの産物である。

とりあえず、次に母音(字)が続く、音声的文脈、すなわち

RA RI RU RE RO

LA LI LU LE LO

のRとLに関してのみ、それぞれ、「舌を絶対つけるな!」「舌をしっかり長めにつけろ!」と力説したい。

なお、That's all. と、Lで終わって次が空白のようなときは、Lは「ウ」のような音で構わないが、同じ all でも次に母音が続く、All is .... のような文脈になると、はっきりとした LI の音が必要だ。

6/19/2015

現場の、やらされCan Do

Can Do 騒ぎが現場に降りていき、無理無理 Can Do 表現をさせられてる感、がいっぱい。

かと言って実質的に変わっているかと言えば、とくに何も変わっていないのではないだろうか。

流行りとしての、バズワードとしての can do などではなく、授業の到達目標として、1時間1時間の最後に何が出来るようになっている 

(たとえば、このフレーズが read and look up できちんと言える、とか、この文を理解したうえできちんと書ける、とか、このやりとりが流暢に性格にできる、とかピンポイントに具体的なもの)

ことを目指すのか、ということを皆が意識しながら授業をするようになれば、授業は変わるのではないかと思う。

Can Do リストの文言の作成に血道をあげている、いやあげさせられていながら、すこしも can do をめざした授業にならないのは、文書としての指導案の作成に時間をかけながら、すこしも良い指導にならないのに似ている。

6/18/2015

ハッピーバースデー事件 再び

きょう、うちのゼミ生が誕生日だったらしく、突然教室に入ってきた友人たちがハッピーバースデーを歌いながらクラッカーを鳴らし、プレゼントの贈呈を行っていた。

いいねぇ~ 。。。 しかしこれはなんとなくいつか何処かで見たような。。。

ちょうど10年前、大学院のクラスの教え子たちが、そのクラスのひとりが誕生日だったので、授業内(というか厳密には授業が終わったタイミングで教室内)で

ハッピーバースデー to ◯◯!

と歌ったので、ブチ切れて 激怒してその夜出したメールが下↓。

今回、怒りを覚えなかったのは、その歌を歌っていたのがうちのゼミ生ではなかったからだ。ゼミ生があんなふうに歌っていたら、また10年の時を経て再びブチ切れたか、あるいはもう歳なので、笑って済ませたかは自分でもよくわからない。

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Do you have shame?

(E-mail addressed to the class of 外国語教授方法論 2005) July 2, 2005

Dear all,

In case you don't know, I am quite tolerant of my students irrespective of their abilities as long as I see them making due efforts. However, it blows my mind to see someone in the teaching profession behaving substandardly.

What I cannot tolerate is that many of you are not even TRYING to improve your English. If I mention "th" or "r" and if you are UNABLE to produce those sounds even when you are being careful, that will not infuriate me, though it is a problem. But if you do not produce "th"s or "r"s, which you are ABLE to produce when you pay due attention, you are just being lazy and negligent of your professional responsibilities. That's what angers me.

Seriously, you should be ashamed of that "HUppy BARSday" song, if you are seriously considering becoming an English teacher. Don't even try to make an excuse by saying that you were deliberately singing in katakana, or were just trying to have some fun in class.

If one needs to choose between two teachers, one who reads English properly but only does grammar translation, and the other who speaks katakana-English but tries some fancy teaching methods based on some pedantic SLA theories, the first one will be the less evil.

I am happy, and sad, to tell you that many of the undergraduate students in my English class can and will speak English much more like English than many of you. If you think it's a problem, now is the time to get serious. If not, don't bother; but please do not harm your prospective students by becoming a teacher.

You are in a vicious circle: katakana teachers produce katakana students, some of whom, like you, become katakana teachers themselves. Thus, the system perpetuates itself... but should it?



ばめんかんもく

教え子からの相談で、グルグルをやりたいのですが場面寡黙の子がいるのでどうしたらよいでしょうか、と。

特別な事情のあるひとりのために、その他の全員からグルグルを受ける機会を奪うのはおかしいし、その生徒の心のケアも必要だし、と。

どうしたらよいか答える前に指摘したのはもちろん、場面「寡黙」じゃなくて場面緘黙(かんもく)だよ、ということです。

バメンカンモク という音を聞いて、いつのまにか 場面によって物を言わない →場面+寡黙 だ、という理解をしてしまったのでしょうか。

で、肝心の「どうしたらよいか」に関する私の素人考えですが、あまり気にせずにその子の前にいって3秒待って何も出てこなかったら解答を教師のほうが言ってしまい、「普通に」次の生徒に移ったらどうか、というものです。特別扱いせず、「普通に」が逆によいのではないか、と。

パターンはちょっとだけ違いますが、サイショクケンビが才色兼備ではなくて、野菜を食べているから健康で美しいのだという意味の菜食健美だと思っていた教え子のエピソードがちょっと頭をかすめました。


6/17/2015

ようやく出来ました

きょうちょっと嬉しかったことは、4月から指導していた学生が、ついに / l / が発音できるようになったことです。いままでどんなに説明しても L らしい L が発音できなかったのですが、正式に側音についての説明を教科書で読んだ今日、LA LI LU LE LO を言わせてみると、LU のみがダメで、他はできていました。そこで、今のは LA LI LE LO はLになっていたけれど、LU だけがダメだったよ、と言ってみると。。。 できました。LU。

私もですが、本人も嬉しかったようで、「そうだったのか~!」感いっぱいの表情をしていました。

小さな、しかし確かな達成感が私の側にもありました。

あとは彼女の課題は / f / です。


6/13/2015

「グルグル=吊り橋」仮説

過去に書いてもらった学生の授業感想を整理していると出て来た一節:

グルグルのあの緊張感と焦りの中で先生にピンポイントで「だめ!」といわれるあの切迫された精神状態、あれは身につきます。あの空間はもはや吊り橋実験状態でした。

なるほどね。

6/12/2015

もりあげ役

教員の授業での仕事の半分以上は、声とパフォーマンスでその場を盛り上げることである。

疲れている生徒、やるきがいまいちない生徒、かったりーなあと思っている生徒でも、その教員の声を聞くと、なんとなく巻き込まれて元気が出てしまう、そういうことをするのが教員なのだ。

教職志望者よ、聞いている人間のほうが暗くなるような音読をしていてどうする!