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9/10/2013

安倍首相のプレゼン

YouTube で聞き出したが、途中で、どうしてもいたたまれなくなり、止めてしまった。



とくに意味もなく、1語1語、区切って発話しているところがどうしても聞いていられない。

もちろん頑張ってはいるとは思うのだが、一国の首相、トップなのだから。。。 県のスピーチコンテストに出てくる中学生のほうがうまい、というのは如何なものか。

プレゼンの有名なプロのコーチがついて特訓した、との報道があったような気がしたが、どうしてこの程度にしかスキルを上げてやれないのか理解できない。私がコーチしたほうがよっぽど上手くしてあげられるが。。。

滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」の無声化

表記のシーンで一番印象に残ったのが、1モーラ1モーラ大切に言った

お・も・て・な・し

で、最後の「し」が、日本語らしく無声化していた、ということ。




べつに良いも悪いもないのだが、単に事実として印象に残った。彼女の日本語がネイティブレベルであることの証拠か、と思われる。

しかし、両手を胸の前で合わせお辞儀をする、あの所作は日本文化のおもてなしではないよね。

9/08/2013

祝! 東京オリンピック 2020 ! だが、プレゼンの英語は。。

とりあえず、めでたい!

(2020年は私にとっても年齢的に区切りのいい年ということもあり。)

東京チームの最終プレゼンは良かった、素晴らしかった、という報道一色だ。

が、スピーチの英語は、ワタシ的には、もうちょっと何とかなればなあ、という感じである。

特別な帰国子女とかではなく、猪瀬さんとか、安倍さんとか、太田くん、佐藤さんに代表されるような人たちの英語、つまり普通に日本で英語を学んだ人たちの英語の平均値が、もうすこしだけでもうまくなる、というのが我々日本人英語教師の願いだろう。

一生懸命原稿を読み込んで練習して、というのは伝わるのだが、同時に、普通には英語は話せないということがよく伝わるような発声、区切り、イントネーション。そして、Rの音。THの音。

9/05/2013

少なくとも5文型は要らない

「文法」について論ずる時、その用語の定義というか、何をイメージして話しているかを確認しないと、まったく話がかみ合っていないことがある。

ある人は、語彙を組み合わせる順番をイメージし、ある人は、文法用語をイメージし、あるひとは用法の分類をイメージし、ある人は、文法問題集をイメージし、ある人はマーフィ英文法をイメージする。

よって気をつけなければいけないとは思うが、とりあえずこれは間違いないだろう、と思われるのが、高校生にいわゆる5文型を教える必要は全く無い、という点である。

自分自身は学習者として一度も通って来ていない。教師になった今でも、いまだにどの文型が第3で第4か、よく知らない。あまり知ろうとも思わない。

まず番号はどうでもよい。第1が第3でも、第5が第4でもなんでもよい。

また、意味の違いを「文型」と捉える必要は必ずしもない。

Call me Pat. と、Call me a taxi. は、

前者は自分をパットと呼んでくれという意味で、後者はタクシーを呼んでくれという意味だということがわかれば必要かつ十分なのであって、2文の「文型」というものが違う、という意識は少なくとも一般の英語ユーザー、学習者には不要である。

ある文が第何文型に属するか、といったエクササイズは、分類の好きな人の趣味以上の意味はほとんど無いと私は考えている。


9/03/2013

生徒・学生の英語力を批判するのは良くない

自分の勤務する学校や大学の生徒・学生の英語力の現状を客観的に報告するのはよいが、ニュアンスとして「こんなことも知らない・できない」のように聞こえる発言は、同業者として聞いていて嫌なものである。

(知らないならあなたが教えればよい。できないならあなたができるようにしてやればよい。)

英語教育で名のある先生が、定年退職後に、それまでの職場より学生の学力の下限が低い大学に移り、その学生たちの学力の低さを嘆いている、というのを残念ながら時折耳にする。

言い換えれば、その学生たちには、その先生のそれまでの常識ややり方や実践が「通用しない」ということである。通用しないなら通用するように自分のほうで常識や手法を変える必要がある。

新たな大学に移ったならば、その大学の学生たちの学力に資するのがその先生の仕事なのである。「こんなことも知らない・できない」という「第3者的な」あるいは「評論家的な」嘆きではなく、最初はそういうレベルだった学生たちを、「知っている・できる」状態に持って行くにはこうすれば良い、こうすればうまくいくはずだ、こうすればうまく行った、という「当事者的な」話を聞きたい。

偏差値というのを受験産業が本来の意味で計算しているならば、という仮定の上でだが、偏差値50とは、(任意の年度の)全受験生の平均的な学力である。偏差値は平均が50で標準偏差が10だから、正規分布の式から、

偏差値40と60の間には、全受験生の中心的な68.3%、およそ7割が分布する。
偏差値43と57の間には、全受験生の中心的な51.6%、およそ5割が分布する。
偏差値45と55の間には、38.3%つまりおよそ4割が分布する。















つまり偏差値が45から55くらいの大学には、現在の日本で最も普通の、代表的なレベルの受験生層が集まっている。現在の中学・高校英語教育のもっとも代表的な成果・結果が形になっているとも言える。

だからそのバンドにある大学の学生に対して機能しないような英語教育理論や実践というのは、現在の日本の文脈においては、いわば絵に描いた餅であり、空理空論といわれても仕方がない。

高層マンションの最上階からしているような論評には説得力がない。


9/02/2013

英語教師の英語を批判するのは良くない、か?

昨日の大学英語教育学会国際大会のシンポジウムで、筑波大学の卯城祐司先生が全国英語教育学会会長という立場で登壇し、(おそらく個人の考えとして)次のようなことをおっしゃいました。(表現は多少違うかもしれませんが、趣旨はこうであったと記憶しています。)

「英語の先生が話す英語を聞いて、あそこがダメだ、ここがマズイ、ようなことばかりを言うのは良くない。そういう先生でも頑張って英語を使っているということを評価し、励ますべきだ。そうでないと、自分よりうまい人がいる場では誰も英語を話さなくなる。明日はもっとうまくなろうと思うのは大切だが、今日は今の状態で臆せず使う、というのが大切だ。」

卯城先生の温かい人柄がしのばれる言葉だなあと感じたと同時に、表面的に「耳ざわり」のよい言葉だからこそ、これに同意していては、英語教育の前進はないだろうな、とも感じました。

今日の状態で臆せず使う、というのは大切ですが、もし本当に明日はもっとうまくなるのいうのを目指すのであれば、単にお互いに認め合って 励ましあうというのを超えて、今日の状態の何が悪いのか、足らないのかを、最低限指摘し、できれば改善のためのヒントを出してあげなければ、「明日」はいつまでたっても来ません。

忘れてはならないのは、ここで話題にしているのは、生徒ではなく、一般の英語ユーザーでもなく、英語教師だということです。英語の教師は英語を教えて対価を得る職業ですから、一定レベル以下の英語を話していても頑張っているから認めよう、というのは、その教師に日々授業を受け持たれている生徒の存在を無視した単なる「同業者かばい合い」の議論です。

あそこがダメだ、ここがマズイ、ということばかりでは、確かに相手が萎縮するのかもしれません。(しかし、これとても、自分の売っている商品の質の悪さを指摘されて萎縮するくらいなら、そもそもその商売を始めるだけのレベルに達していない、とも言えます。が、まあ100歩譲って、ネガティブなフィードバックもポジティブなフィードバックも両方必要だ、とします。)しかし、あそこがダメだ、ここば良くないというのをまったく言わないのでは、それもまったく良くないことです。

そして私の知る限り、英語教育の学会や、英語教員の研修や、英語教員のあつまる研究会において、英語教員が同僚の、あるいは先輩の、あるいは後輩の「英語の教え方」について議論することはあっても、その人の「英語」自体の質について話題にし、お互いにフィードバックしあう、ということは、ほぼ皆無だといって大きな間違いはないはずです。「ほぼ」というのは私はするからですが、ほかの人がした、している、というのを聞いたことがありません。あったとしても非常に少ないのだと思います。

英語教師が話す質の低い英語を、同業者の英語教師が見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしているのは、生徒たちに対する裏切りです。

今日の英語で臆さず使うのは大賛成です。しかし、そこで終わっているのでは状況の改善はありません。その「今日の英語」を誰かがきちんと評価し、改善点を見つけ、指摘しあって切磋琢磨する、あるいは技術が上のものが技術が下のものを指導する、という営みが無い限りは、上達はありません。その先生が使う質の悪い英語は、退職までずっと質の悪い英語で、毎年毎年100人を超える生徒たちがその先生に授業をもたれつづけ、質の悪い英語に晒され続けます。

我々はすでにプロですし、大人です。かなりの程度英語がうまいのは当たり前です。ですから生徒や学生のように、いまさら「ここがいいですね」「ここがうまいですね」などという指摘は、私の考えでは、基本的に不要です。いいところがある、うまいところがあるのは知っているし、あって当たり前なのです。そうではなくて、「ここがダメです」「ここが足らないです」というネガティブで具体的な指摘こそ、とくに時間の限られた研究会の席上などでは大切なのです。

今日の英語を臆さず使いましょう。そしてその今日の英語について臆さず批判的に論評し合いましょう。そうして一歩ずつ向上してゆきましょう。それをしないのは英語教師という profession 全体としての不誠実だと私は考えます。








9/01/2013

追加: Please stop saying "prease"

また、Please! も 例によって、Prease! が多い。

しかも、相手に何かを促す(やってくれないので、なんとかお願いします、という文脈を除いて)という機能で、Please! と言うのはおかしい、というか言わないでしょ?

「どうぞ」を直訳した和製英語だと思いますが。

「気持ち悪い」の意味

気持ち悪い、と言うと、なんだか子どもの言う「キモ!」みたいに聞こえるかもしれず、いらぬ誤解をされても嫌なので、補足します。

絶対音感のある人だと、外れた音を聞かされると「気持ち悪くてしかたない」と友人から聞きました。

それと似ていると思いますが、私はLなのにRとか、RなのにLとか、どっちでもないとか、摩擦音なのに破擦音とか、破擦音なのに摩擦音とか、いいかげんな音、「外れた」音を聞くと、本当にイライラして純粋に「気持ち悪くてしかたない」のです。

職業病ですね。

ネイティブの英語もノンネイティブの英語も、内容だけ追いかけることがほぼいつもできず、つねに音声面や文法面も評価してしまうのです。自動的に。

しかしこれは私の定義する「英語教師」としては必要不可欠な「病気」だと思います。

生徒の英語を聞いて、あるいは読んで、内容だけ追いかけていたのでは、仕事にならないのですから。内容的に論理がおかしいとかと同時に、つねに発音、語彙の選択、文法がおかしくないか、おかしいならどう直せばいいか、という意識でいて、必要におうじてリアルタイムでどんどん返してやれないと、英語教師の仕事はできません。

そのへんのただの英語のわかる・できるオジサン、オバサンと同じになってしまいます。

ただ褒めていればいいのであれば、Good!  Great! という音声を録音しておいてスイッチを押してやっても同じです。

発表者の発音が気持ち悪い語、思い出すまま

順不同ですが:

correlation

reliability

vocabulary

このあたりはL/Rの切り替えですね。research など、語頭にrがあってそこにストレスが来る語は、「よしrを言うぞ」という気合があるのでOKな人でも、語中にあったりストレスがないとグジャグジャな場合が多いですね。

page

strategy

stage

language

これらは例外なく、破擦音であるべき g の部分が摩擦音ですね。これはかなり上級者でもダメなのでまあ勘弁できる範囲ですが、次のは隠れ情けないエラーです。

positive

これは摩擦音の si の部分を、 jiあるいはgi つまりヂという破擦音で言ってしまう人がたまにいます。摩擦音は摩擦音でも measure の摩擦音にしてしまう人もいます。

thousand

これもスペルアウトしてあるとできるのかも知れませんが、2013のように算用数字のなかに隠れてしまうと th が発音できない人多し。

maximum

これはデータのテストの満点などを説明するときに多用する語ですが、 makshimum のような発音をする人が結構多し。

participant

これも、partishipant と行っている人あり。

text

これは、母音挿入して、tekust あるいは、tekist という発音多し。

たとえば国際物理学会の研究発表ならまあ話は別なのでしょうが、英語教育学会というのは、研究対象事態が「英語」の教育なんですから、もうちょっっときちんとした英語を話しましょうよ。母音挿入をいかに学生にさせないか、という発表を、自分で母音挿入した英語で発表する人などがいると、コミカルにさえなってしまうので。