Total Pageviews

7/14/2016

外国語でやる授業を増やし、外部テストを使用したほうがいいのだ、と誰がいつ決めたのか

大学というところはかなりの部分を国からの補助金に助けられて「生計」を立てている。

その補助金をえさに国は大学に、さまざまな要望を押し付けてくるのだが、そのやり方は、まさに

下衆の極み

だ。

毎年、お上から質問紙が来てそれに回答させられる。

たとえば

◆あなたの大学は、TOEICや英検などの外部テストを、英語の授業の評価に取り入れていますか?

A. 全学部でやっています → 10点

B.  一部の学部でやっています → 5点

C.  まったくやっていません → 0点

とか、

◆あなたの大学では、外国語で(コンテンツ科目を)教えるための方法に関するFDを、この1年以内にやりましたか?

A.  やりました  → 10点

B.  やっていません → 0点

みたいな一方的で単純な質問項目が数十もあって、これに回答させられ、その回答に対応した「合計獲得点数」によって、なんと!補助金の額が決められるのだ。

しかし、外部テストを授業の評価に取り入れているほうが、取り入れていないよりも無条件にエライのだ、などといつどこで誰がどういう根拠にもとづいて、決めたのだ?

(コースの内容に照らしてより妥当な自作テストをするほうがいいのではないのか?)

あらゆる学問分野のあらゆる科目において、外国語(たぶんメインは英語)で教えたほうが、日本語で教えるよりも無条件にベターなのだ、などといつどこで誰がどういう資格でどういう科学的根拠にもとづいて、決めたのだ?

(母語で大学教育までまかなえることのガラパゴス的幸運は大きいのではないのか?)

くそ腹立たしい。

(ほとんどの大学人はみな、こういうアンケートに憤り、また嘲笑していると思う。しかし背に腹はかえられないので、理不尽だと思いながら、何らかの方法で点数があがるような方向に工夫をして回答をしているのだと思う。たぶん。)

補助金のもとは我々が払っている税金である。

こういう一方的で恣意的な使い方は許せん。

もちろん個人的には、外部テストも使い道によってはいいと思うし、英語で教えてみるコンテンツを増やしてみるのも必要だとは思う。少なくとも英語教育者はもろもろの集まりにおける公用語を英語にすべきだ、という限定的英語公用語論を、自分でもささやかながら展開したこともある

しかし、一長一短あるようなふたつのオプション関して、あたかも、その片方が他方より無条件でベターであることが所与であり、自明であり、万人が認めているかのごとき前提にもとづく質問紙調査と補助金の連動は、許せない。

責任者、出てこいや!(高田風に)