英語教師が自分の生徒を英語スピーチコンテストに出す場合に、最低限の音素の区別はできる状態にせず出すのはあり得ない、というかあってはならない。
が、現実には、LとRがごちゃごちゃなような状態でコンテストに出てくる生徒が少数ながら、いる。
いったいなぜだ。
生徒本人はおそらく自分がそういう状態だということがわからないのだから、それを指摘してやって直してやって、そうでない状態にしてやるのが指導教員の義務である。
イントネーションや、文ストレスは、我々非母語話者教員には微妙な部分があり、十分に指導できないのは、我が身に照らしても、あり得ると思う。
しかし、LとRや、BとVや、THとZのような、白か黒か、1か0か、舌とか唇が特定の箇所に接触しているのか接触していないのか、は、電流回路のスイッチのようなもので、微妙さはない。接触していれば電流は流れ、接触がなければ流れない。中間はないのだ。明かりがついているの、ついていないのか、のどっちかしかない。こういう微妙さのない部分は、非母語話者にも十分に指導ができるし、むしろ分析的・意識的に指導ができるのは非母語話者の強みであるとも言える。
スピーチコンテストの引率にALTが目立つのは良いことでもあるが、良くないことでもあるのかもしれない。スピーチの指導にALTに関わってもらっているのは良いことであるが、日本語母語話者教師がスピーチ指導の主導権をALTに渡している、ということの表れなのだとしたら、それはあまり良くないことであるし、そんなことはないと信じたいが、仮に「丸投げ」しているようなことがあれば、それは非常に良くない、情けないことである。
一般論として、ALTで発音を厳しく指導してくれる人は少数派ではないか、という印象を私は持っている。どうせノンネイティブだからそこまでは求め(られ)ない、と思っている人もいるだろうし、多少妙な発音でも許容するのがこの World Englishesのご時世には「正しい」態度なのだ、と思っている人もいるだろうし、音が変なのはわかっても、どういうメカニズムでそういう音が出てくるかはわからないから結局指導はできない、と諦めている人もいるのだろう。
原因がいずれであっても、現実に、(きちんと指導されていない、という意味で)「残念な」状態でステージに上ってくる生徒はいる。それは可愛そうなことである。
特にそのスピーチに何度も出てくるキーワードにLが含まれていて、それをいつでもコンスタントにRで発音するようなことがあれば、それはもう致命傷である。たった一語であれば大勢に影響しないようなミスも、ダメ押しのように何度も何度もミス発音を聞かされれば、印象は最大限に悪化する。
そもそも流音が1つしかないという点では世界的にもかなり珍しい日本語を母語にする者が、世界の多くの言語と同じく流音が2つある言語である英語を学習するときに、2つの流音をきちんとマスターしていない、というのは、基本のキができていないことであり、文法にたとえれば、一般動詞とBe動詞の区別がわかっていないか、それ以上にヒドイことである。私はテニスが好きですを、I am tennis like. と言っているのと同じくらいヒドイ。
英単語の子音のミニマル・ペアの中では、L/Rのペアが最も多い、と言われるのだ。日本人学習者には
絶対にできるようにしてやらねばならぬ区別なのだ。
よって、私の採点基準では、L/Rの区別ができないスピーカーは、「発音」コンポーネントの得点は、30点満点の0点である。
日本語母語話者英語教師には、責任を持って自分の生徒をもっときちんと教えてもらいたい。