教科教育法を担当し始めてすでに約20年、毎年教育実習生の授業を何件も参観に行きビデオに収めてきたなかで、その場で「グォ〜これはいい!」という気持ちが湧き上がったのが2回だけあった。1回目が
「虎の目、龍の耳を持つどS女子」、2回めが
「サッカー大好き少年」である。そして早く3人め出てこ〜い!と願っていたのだが、ついに本日、3人めが出現した、と思える。
ちなみに今年の前期は10名の授業を見に行った。10名ははそれぞれ皆頑張り、それまでに伝授した技もいくつも取り入れた授業で、さすが!と思わせてくれる部分も多かった。それをまず強調しておきたい。その上で、だが、それぞれ50分のなかでどこかに本質的な部分で「むむ?!」というところが見え、前述のどS女子とサッカー少年のときのような、その場で身体の中から湧き上がる恍惚感を得るには至らなかったのである。こちらの見る目が厳しくなっている?ということもあるのかもしれないが、よし3人め!と認定する気持ちになるまでは至らなかった、というのが正直なところである。
こっちの気持ちが多くを求めすぎているからか。。。もう3人めはでないだろうかな、と半ば諦めていた矢先。それほど普段の接触は多くない教育学科学生ということで、自分のゼミ生の授業を見に行くときのような緊張感・期待感を持たず、比較的肩の力を抜いて参観に行ったのであった。
1時間目が8:15に始まります、というのでずいぶん早いなと思いつつ7:45に学校に着き、校長室に通されて学生本人が現れたと思ったらいきなり平謝り。なんと本当の授業開始は 8:50なのに、なぜかメールでつい8:15(職員の連絡会の時間)と書いてしまった、とのこと。おいおい。そのためにこっちは5時起きしたんだぞ。ずいぶん早いとは確かに思った。しかしまあ遅く間違えるよりはマシである。
というご愛嬌はあったのだが、校長先生の彼に対する評価を聞いてみると、これがもうべた褒め。昨日研究授業をみせてもらったが教育実習生としてはあれだけできれば十分である。即戦力である。(彼は小学校教員になるのが決まっているが)できれば中学校で欲しいくらいである。彼のような若くてはつらつとした男性教員は小学校では喉から手が出るほど欲しいはずだ。子どもたちが彼の周りにまとわりついてくるのが目に浮かぶようである、等々。。
まあ彼のキャラクター的に愛されるだろうなとは思ったが、ここまで絶賛されるとは想定外だったので、こちらとしても嬉しいことである。しかし英語的にはまだまだの部分もあるのは知っているので、時間があるのを幸い、これから授業で使う英語表現、英文をその場で校長先生の前で発音させて、リズムとイントネーションの調整をしばし。
そしてようやく開始になった授業の流れ(対象は中3)は以下のようである。
(1)あいさつ
(2)帯活動のスモールトーク:ドラえもんにお願いするとしたら何?
<ここから主たる題材(地下鉄路線の案内をする対話文)>
(3)オーラルイントロ
(4)CDの聴き取り
(5)音読練習
(6)ロールプレイ(スクリプトあり)
(7)ロールプレイ(ペアでスクリプトなしで、路線図のみ)
(8)ロールプレイのグループ内一斉テスト
(おまけ)仕上げにもう一度 教師対全員のロールプレイ
流れは「普通に」よい。
こういう「普通」がなかなか学生にはできないのである。(3)→(4)→(5)の「音声のみ→文字を見ながらの音声確認」という流れ、(5)→(6)→(7)の、「徐々に負荷を上げて、単なる音読からスピーキングへのステップアップ」、そして(8)の、「ゆるい形で全員が評価される授業内パフォーマンステスト」という「インフォーマルテスト」の仕掛け。
学生にはいつも、その日の授業で生徒にできるようになってほしい最終イメージを決め、そのイメージが達成できるようにすること、と言っている。きょうの授業の最終イメージは明らかで、「路線図のみを見ながら、教科書の対話文をちょっとだけ変えた対話がペアでできるようになること」であった。そしてそれは概ね達成されていた。生徒たちにとっても達成感がある授業だったはずだ。
(2)のスモールトーク(と称する活動)は、ドラえもんが自分の友だちだったら何をお願いする?それはなぜ?というトピックでペアで会話ができるようになる、というベタなものだったが、ドラえもんのもっている秘密の道具を生徒に問いかけて生徒とやりとりをしながら道具を列挙していくときの、彼の声色というか目つきというか表情というかが、普通ではない。身体と目でひとりひとりの生徒と、またクラス全体と「つながっている」感が張り詰める。彼のベースには小学校教員になるための訓練があるためだろうか、教師という役者としての役者ぶりがいい。開始5分のこの時点で、もう私は嬉しくなってしまった。手順がどうのこうの、という話を超えて、教師がひとりひとりの生徒と「つながって」授業を進めている感覚、というのは1対40名のクラスサイズにおいては、ある意味他の何よりも大切なものだろうと思う。
この「生徒とつながりながら」授業をすすめる感覚というのは当然ながら主たる題材である対話文に移ってからもそこに存在し続けた。文の音読をさせながらも生徒の音声を聞き取って、「ん?いやそういう音じゃなくてこういう音」という指導を即座に、しかも英語で加えるテンポの良さ、は私自身の授業のテンポにも引けをとらないものだ。発音指導を始めると本来の活動ができなくなる、などと誤解している教員は世の中に多いのだが、そんなことはまったくない。THやRがどういう調音なのかという宣言的知識をすでに与えてあれば、それをその瞬間手続的知識に変換させるためのフィードバックというのは、一回、ものの数秒でおわるのだから。
ペアにしてのにぎやかな活動も多かったが、ペアワークの間中、かれは教室じゅうを歩き回り、ペアの間に頭を突っ込んで音声を聞き取ってはフィードバックを繰り返す。的確にかつ瞬間的に。おそらくそのせいで、バズで聞こえてくる生徒同士のやり取りの発音もまずまずである。ペアワークの間はフィードバックの時間だ、という私が2年間口を酸っぱくしていっていたことをきちんと実践してくれている。
そして最も良かったのは、音読の最終形として、スクリプトなしで路線図を指し示しながら、お互いの目を見ながら対話を再現してみる、という活動を持ってきており、その発音やリズムのクオリティもまずまず高いレベルでやりきったことである。対話文にしろ説明文にしろ、授業の最後にはノンバーバルなキューをもとに再現するのはルーテイーンにせよ、と教えているが、これもなかなかきちんとした形では取り入れられていた記憶はないので、今日の授業は印象に残るものだった。
彼は英語のうまさ・自然さに関してはうちのゼミ生の平均レベルにはかなわないのだが、表情力、声の表情力、目のちから、生徒との「つながり力」、効率的フィードバック力、はげまし力、親しみやすいキャラクター力、などの点において極めて優れている。
ああいう教員を育てることができたのは私にとっても喜びである。まずは小学校でスタートしても、おそらく中学教員としてデビューする日も遠くないだろう。