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6/08/2019

「教師の肉声は似顔絵だ」論

実習生の授業をみていると、ネイティブ録音によるCD音源と自分の肉声による音読の使い分けというか棲み分けができていない、あるいはそもそもそんなこと考えたことないのかな? という印象を受けることが多い。

昨日見た授業でも、電子黒板で単語の音声を再生して生徒に後について言わせよう、という場面で、"Repeat after me, please." と言ったかとおもうと、再生ボタンをおして録音音源が流れると同時に自分でも発音し、その後に生徒に発音させ出した。つまり、


録音音源
(同時)   ------>  生徒がリピート
教師肉声

ということである。録音音源と自分の声をなんで同時に聞かせるんだよ、微妙にずれているしどっちもよく聞こえないだろう、と思っていると、何語か後には今度は、録音音源の時は黙っていて、その後に生徒がリピートするときにかぶせて自分も発音しだした。つまり、

                         教師肉声   
録音音源 -------> (同時)
         生徒リピート


ということである。今度は録音音源はよく聞こえるが、生徒の発音に自分の声をかぶせているから生徒の一斉の発音をよくモニターする、というのができない。

以前から言っているが、大原則として、生徒の声に教師の声をかぶせて発音してはいけない。(シャドウイングは別の話として。)自分が発音するときは生徒には黙って聞かせよ。生徒が発音するときは自分は黙ってよく聞け。これが大きな原則。

で、CD音源と教師肉声はどう使い分ければいいかというと、

教師肉声=似顔絵

ととらえるべきだと思う。いわゆる似顔絵というのは決して写真ではない。だから写実的ではない。写実的ではないのに「似ている」と思わせるのは、本人の顔のもっとも特徴的な部分を捉えて、その特徴を強調・誇張してデフォルメするからである。

同じようにCD音源の特徴をとらえて、それを日本人学習者用に誇張・強調してデフォルメして発音するのが、教師の肉声のひとつのおおきな役割だ、というのがこの「教師肉声は似顔絵だ」論、である。

CD音源だけを聞いてもその特徴を捉えられない学習者は多い。あるいは耳ではわかってもそれを再現できない学習者が多い。そこで、セグメンタル部分も、プロソディも教師肉声が誇張・強調してやって、そのデフォルメした「似顔絵」を真似させる、というフェイズがあると、最終的に生徒の音声もCD音源に「似て」来るのである。

具体的に言うと、セグメンタルに注意させるために摩擦音は場合によってはその音だけを1秒ほど伸ばしてみる。たとえば、

everything なら  evvvvvvvvvryththththththing   とデフォルメしてみる。

プロソディでも、文のピッチの上げ下げの幅を「そこまでやる?」というくらい大げさにやってみる、ストレスのある音節の長さと、ストレスのない音節の短さを大げさくらいに差をつけてやってみる。

そしてそれを生徒にもモノマネさせるのである。具体的な手順としては、

まず

教師肉声デフォルメ音声  →  生徒リピート

をやって、発音筋肉を十分に動かさせて、かつリズムなどのプロソディの特徴を大きくつかまえさせ、それができるようになったあとで

CD音源 → 生徒リピート

をさせる。この時は教師は黙って生徒音声をよく聞き、フィードバックする。

あるいは、

CD音源 → 教師肉声デフォルメ音声 → 生徒リピート

というやり方もあってよい。

こうすると、生徒は、ネイティブの目標音声のあとに、日本人学習者の先輩としての教師がネイティブ音声の特徴をとらえた「似顔絵音声」を聞くことになるので、自力でネイティブ音声を聞いて単にリピートするよりも、結果的にネイティブ音声により近い「近似値」が発音できるようになるのである。

あるいは、まずは聞かせる、特徴の捉え方をわからせる、という意味で生徒リピートなしで、単語ごと、あるいは文ごとに

CD音源 → 教師肉声デフォルメ音声 

だけを繰り返し、生徒にはじっと聞かせる、というフェイズがあってもいい。同じ文を2度ずつ聞いていくことになるので、リスニング練習としても有効なはず。

いずれにしても、「定義上、完璧な発音であるが、録音されているから固定されている音声であるCDネイティブ音源」と「ネイティブとまったく同じとは行かないかもしれないが、意識的にいろいろ誇張したりスピードを落としたり、また速くしたりできる、変幻自在な自分の肉声」をどう使い分けるのか、どう棲み分けるのか、をよく考えて、意識的に使い分けることが必要である。





6/07/2019

メールグルグル、いいね!

メールで、合格するまでやりとりを繰り返す「メールグルグル」。(生徒は音声ファイルを送ってくる→私がテキストで返信。たとえば Rダメ/probLem など、ごく簡単に)。

その場で終わってしまうリアルグルグルと一長一短あるが、締切を過ぎるまで5回、6回と提出を繰り返してうまくなってゆく学生との「個別指導・添削」感は、リアルグルグルにはない醍醐味。

発音で落ちこぼれている生徒を「追い詰める」=「すくいあげる」=効果は、リアルグルグルよりもむしろ大きいかも知れない。


昼からワイン。。。こたえられません!

教育実習訪問キャラバンも中盤。今日の実習生授業は、まあポテンシャルを感じるものではあったので、気分がよくなって帰りのランチでついグラスワインを注文。店の雰囲気も目の前で生地から伸ばして焼き上げたマルゲリータも申し分なし。



キャサリンがヤバイことに。。。

ゼミの一部で、English Grammar in Use を使っている。分担を決めて、書いてあることを学生が基本的には読み上げながら英語で補足説明する、というミニ発表をしているが、先日、思いもよらぬところで笑いの神が降りてきた。

その笑いの神が降臨した例文は

Katherine was sitting in an armchair resting.

というものだった。別に面白くもおかしくもない例文なのだが、発表者の学生が、かならず一定の割合で存在する、[ si ] が発音できないタイプの学生だったからさあ大変。もうおわかりですね。彼が大真面目で

Katherine was shitting . . .

と読み始めた瞬間、神の降臨を察知した私が、すかさずタオル投入。「ちょっ、ちょっと待て!それはヤバイから、それはやめなさい、椅子に座ってやっちゃまずいから。。。」

本人だけはキョトンとしているが、すぐに事態を把握した周囲の学生は、失笑というか暖笑(という言葉はありませんが、決してニュアンス的に冷笑ではないので)というか爆笑と言うか、の渦がが広がったことは言うまでもない。

sixを shixと読んでもこういう笑いの神は降りないが、なんという稀有な「例文 x 音読者」のコンビネーションだったことか。彼が誰からも愛されているキャラクターだったこともプラスに働いた。

自動化までの道のりは遠そうだが、あの日以降、彼は 気づけた時は、頑張って [ si ] と発音しようとしているように見える。

しかし、彼が [ si ]を [ shi ]と発音したのはこの10年間で絶対に1回や2回じゃなかったはず。彼が中1、中2、中3、高1、高2、高3,そして大1、大2のときに教わった英語教師は何をやっていたんだろうか。

6/03/2019

どうしてタイガースなのにライオンズ?

タイガース
ライオンズ
イーグルス
ベイスターズ

プロ野球の球団名だが、いずれも英語で言うならすべて語尾は有声音の [ z ]であるのに、どうしてタイガースとイーグルスはタイガーズとイーグルズではないのだろうか、というのが先日話題になった。

その場では「ざっくりいうと関西 は濁音を嫌う傾向があるので、タイガースになったのかも。中島をなかしまと読むのも関西が多いらしいし。」ということになったのだが、真相やいかに。

タイガーズ、イーグルズ だって別に言いにくくはないと思うのだが。最後が濁音が言いにくい、嫌だ、というなら、ライオンス、ベイスタース にしたくなるのでは?

いずれにしても学生の中には tigers, ealglesはもちろん songsも本気で [ s ] で終わると思っている者がいて、困ったものである。

6/02/2019

通信簿をもらう教育実習訪問

教育実習の季節である。物理的に可能な限り実習校を訪問して学生の授業を参観し、ビデオに撮り、多くの場合直後に対面で、無理な場合はその夜メールで講評する。

実習生はそれぞれの流儀で授業では目一杯頑張る。頑張るのだが、たいていは「あちゃ〜!」という瞬間が訪れる。(なんじゃそりゃ?!)

これまで2年、場合によっては3年以上教えてきた自分の無力を感じるときだ。実習生がダメだということは、自分の教え方がダメだったということだ。実習生の授業が40点だということは自分の教科教育法が40点だということだ。

自分のこれまで2年間の授業の価値に対する通信簿をもらうための行脚はもうしばらく続く。

いい通信簿欲しいな。。。

英語教育における学習評価のあり方を考える:真に学習者が伸びる評価を目指して

2019年8月10日(土)に横浜国立大学で行われる関東甲信越英語教育学会第43回神奈川研究大会にて標記のタイトルでシンポジウムが開催されますが、そのパネリストの一人として登壇します。以下、私の発表の要旨です:

その場で評価して本人に伝えることこそ先ず必要ではないですか?
―「グルグル」メソッドの本質

靜 哲人 (大東文化大学)

キーワード:指導と評価の一体化、グルグル、即時評価


「評価」を広辞苑で引くと「①品物の価格を定めること。また評定した価格。②善悪・美醜・優劣などの価値を判じ定めること。特に高く価値を定めること。」とあります。evaluateLDOCEで引くと to judge how good, useful, or successful something isとあります。
これを英語教育そしてその日々の営みであるところの英語の授業に落とし込むならば、英語を生徒が聞いた時のプロセスおよびプロダクト、読んだ時のプロセスおよびプロダクト、話した時のプロダクト、書いた時のプロダクトについて、その質が非常に良いのか、かなり良いのか、まあまあなのか、いまひとつダメなのか、全然ダメなのかを、その場で判断することこそが評価の基本である、となるでしょう。そしてせっかくしたその判断はその場ですぐに当の生徒に伝えなくてはなりません。なぜならそれをしなければ時々刻々の評価は教師自身もすぐに忘れてしまい、生徒もその位置から向上するための手がかりがまったく得られないことになるからです。
たとえば生徒にコーラスであるいは個人で音読させた時、その音声の質がどの程度いいのか悪いのかについての教師としての「評価」を最低限でも瞬間的に伝達しなければならないはずです。その分節要素の発音に対して、あるいは文ストレスに対して、イントネーションに対して、声のトーンに対して、教師がどの程度ハッピーなのか、アンハッピーなのかを、たとえば表情によって、ジェスチャーによって、ある時は言葉によってまずは伝えなければならないはずです。生徒の一斉音読を聞いた瞬間に大げさに顔を歪めてみせる、「おいおい、勘弁してよ」という表情を見せる、質の悪い「音」がどの方向から飛んできているのかを見極める(=犯人探し)ために、それとおぼしき方向を睨んでみせる、そしてアドバイスの結果改善したならば「そうそう!そういうこと!」と嬉しそうにしてみせ、その良い方向を reinforce してやる、そういうことこそが評価の第一歩であり、指導者としての最重要任務であるはずです。
コーラスリーディングでは何もアドバイスせず、質の低い英語を「四方読み」でやみくもに繰り返させ、個人読みをさせてどんなに下手くそでもスルーし、授業の最後のロールプレイの発表がどんなにボソボソだろうが、どんなに母音挿入満載だろうが "Good job!" と拍手しかせず、最後の「振り返り」では「積極的にできた」などの非本質的なことしか記入させない . . . そういう授業を繰り返していて、生徒の英語がうまくなりますか? 心の中では誰でもわかっているはずです。外国語として教室でだけ英語を学習している日本の環境で、下手くそな英語を何度も「やりとり」しているうちに、魔法のようにいつのまにか自然にうまくなってゆくことはありません。可愛いい自分の生徒の英語を上達させてあげたい、と思いませんか?指導者として「指導」をしようではありませんか。指導すると生徒を英語嫌いにするのが怖いから、自分の前は目をつぶって下手くそなまま通過させますか? どこがどのように下手くそなのかも多くの生徒は気づかないまま卒業しますよ。それが the right thing to do ですか?
A teacher's gotta do what a teacher's gotta do. 日々の授業の中で本質的な意味で生徒を時々刻々「評価」しなければ、指導していることにはならず、結果的に、生徒の英語が上達することはない、と私は考えています。そういう教室での即時的な評価をシステマティックに行う、というのがグルグルメソッド, 2009)の本質です。本発表では、評価の意味を原点から考え直した上で、グルグルメソッドを効果的に取り入れるためのヒントをお伝えしたいと思います。

引用文献
靜哲人. (2009).『英語授業の心・技・体』東京: 研究社.