Total Pageviews

11/15/2011

「命がけの愛情」

このブログには今までは自分の書いた文章以外は載せたことはないが、最近、もと教え子の若い教師からもらったメールがあまりにも嬉しい内容だったので、初めて自分以外による文章を以下に転載させてもらう:

******************************************************

たくさんの授業を見てきました。その授業の数は教員歴の割りには多い方だと思っています。

最近見た「良い」と思う授業は、完全文法訳読の授業でした。昔ながらの、コテコテの授業です。ただ、「命がけの愛情」がそこには見えました。教師の強さが見えました。

オールイングリッシュの授業や、グルグルを利用した授業。発音指導をする授業。そういう授業も増えてきましたが、全然心に届きません。「生徒を伸ばしてやる!」という強い思いを感じなかったからです。

教師って、数学でも体育でも家庭科でも、その分野で「成長させる」ことが一番の仕事のはずです。ところが、目先のテクニックに目を奪われたり、オールイングリッシュに翻弄されたり、発音を教えれば良い授業だと勘違いしている。

「やり方」が大切で、その先の「結果」に目が行っていない。本当は「やり方」なんてどうでもよくて、「結果」の方が大事だと思うのです。

そのために必要なのは、「命がけの愛情」。

「命がけの愛情」が一番大事だと思うのです。何が何でも生徒を伸ばしてやる!という気持ち。それさえあれば、文法教えて、発音教えて、使わせて、ダメだしして、できるまで繰り返す。できたら「マルっ!」と心から言う。そして次に行く。

きっとそれだけですよね?いつか先生が「教員は5年たったら、むやみやたらに研究会に行くべきではない。」とおっしゃった意味が5年目の今、やっとわかりはじめました。

もちろん、文法訳読を肯定したり、発音指導を否定するものではありません。ただ、「指導方法の議論より大事なことってあるんじゃないですか?」と本当に思ってしまいます。

自分もそんな教員にならないようにしたいです。心からそう思います。

もう何年も前に靜先生が書かれた「命がけの愛情」という表現。何百と書かれたであろう文章のたった一つの表現。いい表現に出会えたと心から感謝しています。たくさんの授業を見せていただいて、自分の核が「命がけの愛情」であることに気づきました。


精進します。


*****************************


That is so very true. I am proud to have you as one of my "disciples," baby!


Zuke

11/13/2011

怖い話: ゴミ問題

One truly appalling and disheartening reality that I was only recently forced to face is that even those of us who are in charge of training prospective English teachers include some who speak English that is as bad as ... garbage.  I feel very very sorry for those teachers-to-be studying under those "professors," and for students who will be taught by those future teachers who are now being "trained" by those G-professors.   Something is very wrong with our system where garbage-English speakers can get positions as English teacher trainers at tertiary level.

11/12/2011

嬉しかったこと

今回、嬉しかったことのひとつは、ひどい授業をみて、わが教え子たちは、

「観ていたくありませんでした」

「先生が前に言われていた、『いたたまれない』という感覚がよくわかりました」

「反面教師にしようと思います」

「ほんとうにイライラしました」

「退出しようと思ったんですけど、横に人が詰まっていたので諦めて座っていました」

などと、異口同音に怒りの言葉を口にしていたことである。

確実に、授業を見る目、英語を聞き分ける耳が育っている。

Good news was is that all of my students and disciples who observed that horrendous class flatly dismissed it and deeply resented it.

助言をしない助言者・批評をしない合評会

フィードバックしてやるべきは、生徒だけの話ではない。

教員に対してもまったく同じである。

教員が授業をするのを見て、どうやったらもっといい授業になるかをアドバイスしない「指導助言者」というのは何なのか?!

指導助言というのは、英語に訳すと、teach, advise, instruct, train, supervise, comment  などの英語が当たると思うが、そのどれもしない「指導助言者」って何?

英語教育の大会が、単にやればよい、という「イベント」ならば、進歩はまったくないだろう。


もし授業自体がひどかったなら、なにがどうひどかったかを、フロアを交えて時間をかけて批評しあい、では次はどうすればいいのかを皆で議論しあって初めて意味がある。授業自体は、その議論のための材料を提供するに過ぎない、とも言える。


「合評会」という名前をつけて、授業者7分、助言者7分だけ話して終わり、というスケジュールを組むこと自体がナンセンスではないだろうか。

数年以上に渡る準備に大変な労力をかけて大掛かりなイベントを開催しても、それがたんなる「日本式シャンシャンシャンイベント」であるならば、日本の英語教育のプラスには、まったくならないだろう。

もっと実質的な、現状改善のための催しにすべし。

英語教育研究大会の司会者の英語にダメだしした私

最近立て続けに英語教育研究大会に呼んでいただく機会があった。

どちらも基本的には(=簡単な部分は...)英語で行うという大会で、司会者は、若手もしくは中堅に見える英語教員が担当していた。

私は壇上でその英語を聞いているのだが、LをRで言われたり、THをZで言われたりするたびに、

アイタタタ!!

という思いを顔に出さないようにするのが一苦労である。

恥ずかしく無いのだろうか。

まあ、自分ではわからないから本人は恥ずかしくないのだろう。

事前に練習はしないのだろうか。

事前に練習して、お互いにチェックしあう、ようなことはないのだろか。

あれも、結局、

ダメ出しをしてやらないと、英語の質は変わって行かない

という生徒相手の英語授業の真実が真実であることの、悲しくも如実な証拠である。

彼ら彼女らは、生徒の時にダメ出しをされず、そのまま長じて教員となり、教員となっても誰にもダメ出しをされず、英語教育大会の司会をすることになり、大きなホールで、何百人もの聴衆に対して

とても人前(=日本以外の場面)には出せないレベルの英語を話す

ということになっているのである。

負の連環 vicious circle である。

ダメ出しをされない生徒が教師になり、また同じレベルの生徒を育て、また....と連環は続いてゆく。

先日の大会では、最後の最後に英語のアナウンスをしていた司会者の英語発音は、本当にかなりひどかった。ZAの嵐。

これが物理学研究大会かなんかだったら話は別なのだが、他ならぬ「英語教育研究大会」の司会者であるから、笑えるというか、泣けてくる。

今回の大会で、私の基調講演(というより公演?)の質疑の司会を担当していた若い教師が大ホール聴衆に向かって

Prease raise your hand ..

と言った次の瞬間、私は

「今のも、プリーズ の発音がダメなんですよ。Please ときちんと言わないと。プロの英語教員同士の集まりですから、そういうことを直しあうことができないですかね。そういう英語をお客さんである生徒の前でしゃべっていてはダメです」

と、1000人の前でコメントすることになった。

前代未聞のコメントであろう。

単に顔をツブされた、公衆の面前で恥ずかしい思いをさせられた、で終わることなく、若い彼女にはこれを機会に是非自分の英語をプロとして恥ずかしくないレベルに向上させてもらいたい、と心から願う。

それは彼女がこの先、30年以上にわたって担当する、1000人以上の生徒たちのためなのである。

11/11/2011

どうしたらもっと巧くなれるかアドバイスせよ

グルグルをしようがしまいが、

ペアワークをしようがしまいが、

cooperative learning をしようがしまいが、

ITを使おうが使うまいが、

歌をしようがしまいが、

スピーチを使おうが使うまいが、

タスクをしようがしまいが、

ダメ出しというフィードバックして、どうやればもっと巧くなれるかアドバイスしない授業なら、何をやってもやらなくても同じだ。

英語そのものに対するフィードバックをすることこそが最もs大切なのであって、

"Everything else is secondary." (by Steve Jobs)

最も大切な部分がない授業は、なにをやっても単なる時間のムダだ。

生徒は一生懸命指示にしたがってやっているのに、その時間と努力を限りなく無にする犯罪的行為だ。

教員自身の英語が改善の余地があるのは、100歩譲って、まあしかたないとする。しかし、すくなくとも生徒の英語よりはずいぶんうまいはずだ。ならば、なぜせめてそのレベルまでは自分の生徒を引き上げてやろう、としないのか?

生徒に対する愛情がないのか?

自分に自信がないのか?

その両方か?

11/10/2011

5%のヒントで、95%の自主練習を引き出す

昨日の、実習生のグルグルを見ての感想の続きです。

一般に私以外のグルグルを見ると、

一人にかける時間が長すぎる

= 一周にかかる時間が長すぎる

= 回ってくるまで他の生徒が暇そうだ

と感じることが多いです。昨日も、生徒はたった20人なのに、1周に5分もかけている場合がありました。

「もっと早く回れ」とは言うのですが、よくよく考えてみると、根本的な考えが伝わっていないかもしれませんので、書いてみます。

相手が20人で、一周にN分かかるとすると、生徒にとっては、先生が自分の前にいる時間はたったの N × 1/20 です。

それいがいの、N × 19/20  つまり、95%の時間は先生がいないのです。

ということは、5%の時間でもらった刺激によって、95%の「自学自習」が促進される、というシステムになっていないと、うまく機能しません。

私がグルグルで心がけていることはいくつもありますが、最も大切なことのひとつは、

緊張感をもたせること

一人練習のときに必死に練習していないと、どんどんおいて行かれる、という感覚を持たせること

です。

たとえば、グルグルを15分、と決めたなら、いきなり歩き出して、一人目からすぐトライすることを促します。

「もう時間始まってるぞ! パスするならしてもいいけど、どんどん自分のトライできる回数が減るだけだぞ!」

私が前に来た瞬間によそ見していたり、それから紙を見よう、とするような生徒は、棄権とみなして、さっと通り過ぎます。

「え~先生!先生! オレオレ!!」

とあとから追いすがってきても、「基本的には」相手にしません。

「もう一回やらせてください」

というのも、「基本的には」相手にしません。

それを何度かすることで、先生が来たときにすぐ先生に向かって一発で言えないとマルをもらえない、から、その「本番」にそなえて「練習」に必死になろう、という気持ちが生まれます。

同じ考え方で、生徒の発話は、必ずしも最後まで聞きません。

7語の文で、最初の単語にRが含まれていて、その単語をミスったなら、その瞬間に

「R!」 とか、その単語の正しい発音を2度ほど強調して発音してやりながら、もう足は次の生徒に向けて動かします。

こうすることで、修正のための「ヒント」だけを5%の時間であたえ、それを達成する「訓練」「自動化」は、のこりの95%の自学自習の間に達成させる、ことを目指しています。

こうやって初めて、20人の集団が緊張感をもって、練習に取り組むことができます。

自分が目の前にいるときに直してやりたい、という気持ちはよいことなのですが、我々は一対一の塾をやっているのではなく、あくまで20人、40人のクラスを相手に授業をしています。

だから、一人に向かっている時も常に、他の19人のことを、20人グルグルを相手にしているときも、つねに裏番組のライティンググループのことを考えていないと、授業としてはダラけてしまうのです。

グルグルをやるときの気持ちをもう一度、確認してください。

「95%の時間をつかって自分で一生懸命練習していないから、5%で先生が前に来たときにできないんだよ! 」

というメッセージを出すような、「ヒント」だけを短時間でテキパキと与えてゆく緊張感のあるグルグルができるようになってください。

目安としては、足は、つねに動き出す準備をしておき、できれば足を止めない。最短の場合はスルーする。

生徒が、「え~、もう次のラウンドが来ちゃったの! やばい、練習が間に合わない!」

という気持ちを持つように。

私は以前は英語科指導法で階段教室で、65名を相手に一度にグルグルをしていました。さすがに重かったですが、それでも何とか機能はしていたと思います。

20人や30人でできないはずはありません。とにかく早く歩いてください。