松村昌紀(2017)氏の編著の中の福田純也氏担当の章内での、拙著『心・技・体』の引用に関する私の異議については、あのブログポストをしたと同時に、そのコピーを添えて、編者および著者にお伝えいただきたいというメールを出版社に差し上げました(1月12日づけ)。
それに対して「なるべくていねいに確認させていただいてお返事をさしあげたいのでしばらく時間をいただきたい」旨のご返答を、担当の編集者の方を介して、いただいております(1月15日づけ)。
「ていねいに確認」していただけるということなので、ご回答をお待ちしたいと思います。『心・技・体』の著者として、
的はずれな紹介で貶められている『心・技・体』の名誉が、一日も早く回復されることを願ってやみません。(注:2018.02.07 下線部の表現を修正しました)
『心・技・体』での私の主張が、万人に受け入れられるほど「甘口」のものでないことはもとより承知しております。とくに中高の現場で教えたことのない「英語教育研究者」の方々、「英語教育」というものを、教壇での日々の生徒との格闘のなかにある泥臭い営みとしてでなく、「第二言語習得」という、一般化かつ抽象化した一種の「きれいなもの」としてとらえたい方々などには、たぶん受け入れられない内容であろうと、最初からわかっております。
反論・批判するならしていただいてもちろん構いません。受け入れられないと書くのもご自由です。「研究」とやらの知見と異なる、と書くのもご自由です。
しかしそれもこれも、当たり前のことですが、
『心・技・体』の内容を正しく理解し、適切にパラフレーズもしくは要約引用していただいた上での批評であるならば、という条件のもとでの話です。
200頁を超える書籍を、たった1〜2行のmisleading な表現で、的はずれな文脈で 「要約引用」して misrepresentし、あげくに
文法の指導と練習によって正確さが向上するのを待ち、その後になって流暢さを高めるための言語使用機会を提供するという指導モデルが学習者の発達プロセスを十分考慮できているとは言いがたい (福田 2017, p. 44)
つまり、「学習者の発達プロセスをちゃんと知らないからそういうモデルになっているのだ」的ななんとも condescending な表現で片付けるとは . . . . 言語道断です。
そしてこの「モデル」は、前のページで言及している、「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え」(p.43)を指している、としか読めません。そこに典拠として「靜 2007など」と引いているのですが、繰り返しますと、
靜(2007)すなわち『心・技・体』では、そんな文法指導モデルは一切打ち出しておりません。
このようなミスリーディングな引用は、許されることではありません。いやこの際、そういう気取った、他人事的な受け身表現はやめます。著者である
私は絶対に許せませんし、許しません。I can't and I won't.
これを読んでいる皆様は、どうぞ『心・技・体』に関してかような誤解なきよう、お願いいたします。
もっとも実際に『心・技・体』を読まれた方々にはそのような誤解をしている方はないと信じております。もともと、そんなことは書いてないのですから、誤解・誤読の余地はありません。懸念するのは『心・技・体』は読まず、福田(2017)の引用記述にだけ接する人です。
『心・技・体』を読まれていない方は、この機会にぜひ、ご自分の目で、ご一読くださいませ。
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念のためにClarifyしておきますと、『心・技・体』に書いてあるのは、
最終的に正確でかつ流暢な発音を身につけるのが目標であるならば、発音の流暢さは正確な発音ができようになった後で、徐々に求めてゆくのが、少なくとも日本のEFL環境においては、(王道であるどころか)唯一の正しい道である。正確に発音できない状態で、流暢さを求めてしまうと、永遠に発音の正確さは身につかない。
ということです。
そして、これは私が見聞きしてきた範囲において真実であり、(おそらく発音だけでなくmotor-skillが関わるおおくの身体的技能にも広く当てはまる)真理です。この真理を無視した結果、ひどい
発音で流暢に英語を操る大学英語教員すら(そして、あまっさえ、英語教員養成担当の大学英語教師にすら!)英語教育研究大会ではしばしば見られるのは、本ブログでも折々に心のそこから嘆きつつ指摘してきたとおりです。