の pp.37-62 は、
福田純也(2017)「第2章 タスク・ベースの言語指導と認知のメカニズム -- 第二言語の学習を促す心理的要因」
であるが、その p. 43に、次のようにある(赤字および下線は私が付した)。
基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる。しかし,言語表出の正確さが必ずしも流暢さより先に発達するとは言えないようである。
この一節がどういう文脈の中かを示しておくと、以下のようである(pp.43-44):
(この文章を「福田(2017)」とする。)
ちなみに、「靜,2009」とは引用文献によれば、拙著、『英語授業の心・技・体』(研究社)(以下、『心・技・体』)のことである。
(1)『心・技・体』は、言語学習、言語指導の一般原則として「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え」を打ち出している、が
(2)そのような「考え」は、当たらない、
と読める。それ以外には読めないだろう。
しかし(1)は、事実と異なる。少なくとも不正確、場合によっては不適切な引用であり、引用された側として大変遺憾である。
(また「(靜,2009など)」とあるが、この「など」はどういう意味だろうか。靜の著作で、2009年の『心・技・体』以外の著作、という意味だろうか?もしそうであればどの著作か示されたい。どの著作でもそういうことを言った記憶はないので、教えてもらいたい。それとも、この「など」は、「2009など」ではなく、「「靜 2009」など」、つまり、他の著者の著作を指しているのだろうか。そういう用法の「など」はあまり見たことがないが。)
福田(2017)が、『心・技・体』のどこをどう読んでこのような引用をするに至ったかは推測するしかないが、もっとも該当する可能性が高いと思われる、
第1章
3,音声指導に関する8つの誤り
3)流暢さが大切だ
から、部分的に引用してみる。私が「よくあるmyths 」だと考える言説を取り上げて、その誤りを指摘する、という一節である。
--以下、『心技体』より引用--
(3) 流暢さが大切だ
個々の発音の正確さ(accuracy)を気にしすぎると、流暢さ(fluency)が身につかない。 だから正確さを気にしすぎないほうがよい。
これは完全な考え違いである。まず前提として、我々の目標は(ネイティブと同じでなくともよいが、音素の区別はできているような)「きちんとした」発音で、(早口のネイティブと同じほどペラペラとでなくともよいが、聞き手がいらいらしない程度には)「スラスラと」ある程度のスピードをもって話せる生徒を育てることだ、とする。つまり「正確さ」も「流暢さ」も両方必要だ、ということである。正確さのない流暢さ(ペラペラと何かしゃべっているが、まったく意味がわからない)には意味がないし、流暢さのない正確さ(非常にはっきりとわかるが、1文を言い終えるのに30秒かかる)には実用性がないので、この前提は妥当なものだろう
その前提に立って言うならば、最終的に正確さと流暢さの両方兼ね備えた状態に到達するには、まず正確さを手に入れ、その状態を維持しながら徐々に流暢さを手に入れてゆく、のが上策だと思われる。同時は無理だし、ましてや、流暢さを手に入れてから、その状態を維持しつつ徐々に正確になることはあり得ない。
(中略)
正確でない英語の行き着く先
これに対して、最初に正確さをきちんと担保せず中途半端な状態のまま、流暢さに重点を置いた練習を始めてしまうと、いつまでたっても正確さが身につかない。当然である。最初は意識をそれだけに集中してゆっくり大げさに舌や唇を動かしてようやく発せられるような「外国語の音」が、せかされるようにしゃべっている状況で身につく道理がないのである。何年たってもきちんとした英語が身につかない。せいぜい、カタカナ発音(=非英語)で聞きづらい英語が速くしゃべれるようになるだけである。(悪くすると、アブハチ取らずになる恐れだってある。)
(中略)
話をわかりやすくするため、英語の発音ではなく、タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると、流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると、「タイピングの正確さを気にしすぎると、タイプスピードが育たないから、正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり、いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。
(中略)
正確さのない音読やシャドウイングは百害あって一利なし
最近、「音読」や「シャドウイング」がブームである。文法訳読しかやっていなかったことの反省として「音」を出させようという姿勢自体はよいことだが、問題なのはその「音」の中身だ。個々の音はカタカナ発音のままで、やみくもに大きな声を出させたり、何度も読ませたり、速く読ませたりする場合が多い。そういう授業を「活気がある」といって歓迎するのは誤りだ。「正確でかつ流暢な」英語を目指す上では、まったく意味がない。大きな声で何度もすらすら読んでいるうちに、徐々に発音が良くなることは200%あり得ない。
-- 『心技体』より引用終わり --
章のタイトルが「音声指導に望む心」であり、節のタイトルが「音声指導に関する8つの誤り」であることから明らかなように、ここで論じている accuracy はすべて発音に関することである。
それを、
基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる。
という、文法指導に関する記述でサンドイッチするような文脈で引用されては、福田(2017)の読者は、
「『心・技・体』は、文法が正確に使用できるようになった後で初めて、流暢さを求める鍛える活動に移行べきだ、と提唱しているのか。。」
と誤解するだろう。このミスリーディングな記述は意図的なものだろうか、あるいは単なる杜撰さの結果なのだろうか?
「『心・技・体』は、文法が正確に使用できるようになった後で初めて、流暢さを求める鍛える活動に移行べきだ、と提唱しているのか。。」
と誤解するだろう。このミスリーディングな記述は意図的なものだろうか、あるいは単なる杜撰さの結果なのだろうか?
上で明らかなように、そのようなことは私は『心・技・体』で一言も言っていない。『心・技・体』で論じているのは、いかに学習者の発する音声の質を向上させることが大切であるのか、そして、いかにしてそれを実現することができるか、ということに関する私の考えである。
ということで、福田(2017)の上の記述は、控えめに言って不正確、場合によっては不適切である。
編者および著者の見解を問いたい。