昨日もらった質問:
「私は発音指導に凝っています。生徒に発音をさせるための補助としてカタカナで書かせたのですが、先輩教師からそれはやめろ、と言われてしまいました。先生は発音をカタカナで書かせることはどう思いますか?」
この問題は一概に言えない。
カタカナで書いてはダメだ、ということはないし、カタカナで書いた方がいい、ということもない。
(また敵を増やすのを承知で言うと、カタカナ絶対反対主義の教員は、実際に発音指導をしていないのだと思う)
実際、私の厳しく細かい発音実技指導を受ける生徒、学生(中学生、大学生)の中には、部分てきにカタカナでメモしている者はめずらしくない。さらに言うと、この夏やった教員免許更新講習でも、つまり現職教員でも、カタカナで発音イメージを書き取っていた人がいた。全然悪いことではない。
よいカタカナ表記と、ダメなカタカナ表記がある。
質問者が言ったのは、
she を シー sea を スィー
と書かせるような話らしく、これは害はほとんどない。厳密に英語の音とイコールではない、というレベルの話は当面クリアすべき目標とは無縁だし、ひつようなら、実際の実技指導で教えればいいことだ。
また、
level レヴォ
possible パッサボー
milk メオク
のような工夫した表記なら、やはりほとんど害はなく、益が大きい。
また、実技指導していて、どうしても視覚に引きずられて、まともにリンキングができないような時に、
when I was in Osaka
ウェナイワズィノサーカ
like it a lot
ライケタローt
again and again
アゲナナゲヌ
と書くと、はじめてまともに読めるようになる、という体験は何度もある。
ただ、これを、
ウェン アイ ワズ イン オーサカ
と書かせて放っておくのは害のほうが大きいだろうね。英語に聞こえないでしょ。
まとめると、
(1)発音のことをよく分かっている教師が、工夫したカタカナ表記を、ピンポイント的に使うのはとても効果的である。一律にカタカナを嫌悪する教師は、現実を見ていないのだ。学習者が音声を記憶するために表記する手段としては他に何がある?
(2)カタカナは英語ではなく日本語を表記するためのものだから、基本的にダメだ、という議論は、専門家向けのものであって、一般学習者には関係ない。100%正確な音を表すのでなく、あくまで教室で実際の音を実技練習したことを記憶にとどめるためのものとして使えば、非常に有効である。(ALTが嫌うのは放って置いてよい。彼らはカタカナの威力を知らないだけなのだ。)
(3)ただし、あくまで目標は、英語文字を直接読めるようにすることなので、カタカナは補助として、文字と音の関係を丁寧に指導する必要があるのはもちろんである。
It is definitely true that using Kakakana to represent English sounds CAN be quite effective in helping your students to learn to produce real or good-enough English sounds. No doubt about it.
発音ザムライ、ジャパリッシュ英語教師を斬る! 寄るな触るな、触れなば斬らん! 斬り捨て御免で御意見無用! (Part of the Caption by Courtesy of Madame Satoh)
Total Pageviews
11/07/2010
挨拶する心と Hello!
「挨拶する心のない生徒に、Hello! という表現だけ教えてもしょうがない。」
そうかな...?
それはそれ、これはこれ、じゃないかな。
挨拶する心、と言っても、いつでもどこでも誰にも挨拶しない、というよりも、teenagerとして、ある特定の状況下で挨拶をしないことを選択している、のではないだろうか。教師には挨拶しなくとも、部活の先輩には挨拶しているのではないだろうか。
ま、ともかく。挨拶に関する生徒指導は生徒指導としてきちんとすべきである。
しかしそれと英語授業を連動させるのは、逆におかしな事態を招くような気がするけど。
私なら、その時、その生徒に、その「アイサツスルココロ」があろうがなかろうが、Helloという言語形式はきちんと教える。発音を含めて。Lは決して日本語の「ロ」じゃないよ、というのも含めて。
その生徒がその挨拶をしたくなった時、きちんとした発音とイントネーションでそれを使えるように、自分の英語の授業では、道具としての英語自体をきちんと教える。その道具を使う日がくるかもしれないから。
英語の授業は道徳や倫理ではない。
「世界平和を願わない生徒に、英語の文法を教えてもしょうがない」
「イジメを卑劣なことだと思わない生徒に、発音を教えてもしょうがない」
とは全然思わない。
I disagree with the view that it is a pointless endeavor to teach how to pronounce "hello" to someone who does not feel like greeting in the first place, or put differently, that moral education should come before language skills education.
そうかな...?
それはそれ、これはこれ、じゃないかな。
挨拶する心、と言っても、いつでもどこでも誰にも挨拶しない、というよりも、teenagerとして、ある特定の状況下で挨拶をしないことを選択している、のではないだろうか。教師には挨拶しなくとも、部活の先輩には挨拶しているのではないだろうか。
ま、ともかく。挨拶に関する生徒指導は生徒指導としてきちんとすべきである。
しかしそれと英語授業を連動させるのは、逆におかしな事態を招くような気がするけど。
私なら、その時、その生徒に、その「アイサツスルココロ」があろうがなかろうが、Helloという言語形式はきちんと教える。発音を含めて。Lは決して日本語の「ロ」じゃないよ、というのも含めて。
その生徒がその挨拶をしたくなった時、きちんとした発音とイントネーションでそれを使えるように、自分の英語の授業では、道具としての英語自体をきちんと教える。その道具を使う日がくるかもしれないから。
英語の授業は道徳や倫理ではない。
「世界平和を願わない生徒に、英語の文法を教えてもしょうがない」
「イジメを卑劣なことだと思わない生徒に、発音を教えてもしょうがない」
とは全然思わない。
I disagree with the view that it is a pointless endeavor to teach how to pronounce "hello" to someone who does not feel like greeting in the first place, or put differently, that moral education should come before language skills education.
嫌いな歌 No. 1: 世界に一つだけの花
花屋の店先のいろいろな花をみて、どれもそれぞれ綺麗だ、と言って、それを人間に当てはめて、一番にならなくてもいい、というが、それはマッタクオカシイ。
それぞれ綺麗だ、といっているのは、いろいろに異なる花の種類の話で、バラのなかの一本一本ではない。
赤いバラを買うときには、すこしでも生きの良さそうな、発色のいい、きれいなものを選んで買うだろう。
競争しなくてもいいよ、自分は世界に一つだけの花だよ、などという歌詞の歌が、これだけ支持を集めていること自体が、日本が駄目になっていることの原因であり、結果だ。
You are OK as you are (without making any more effort to get better).
なんていうメッセージを、生徒に言ってどうする?
OKじゃないから、学校に来て、教育を受ける必要があるんじゃないの?
The very fact that Sekainihitotsudakenohana is so popular today is evidence that something is very wrong with our society.
それぞれ綺麗だ、といっているのは、いろいろに異なる花の種類の話で、バラのなかの一本一本ではない。
赤いバラを買うときには、すこしでも生きの良さそうな、発色のいい、きれいなものを選んで買うだろう。
競争しなくてもいいよ、自分は世界に一つだけの花だよ、などという歌詞の歌が、これだけ支持を集めていること自体が、日本が駄目になっていることの原因であり、結果だ。
You are OK as you are (without making any more effort to get better).
なんていうメッセージを、生徒に言ってどうする?
OKじゃないから、学校に来て、教育を受ける必要があるんじゃないの?
The very fact that Sekainihitotsudakenohana is so popular today is evidence that something is very wrong with our society.
好きだ、嫌いだ、ばかり何で気にするの?
フタコトメには、「~の結果、英語が好きだ、という率が増えた・減った」ということを言いたがる教員の気持ちがわからん。
いや、わかる。だから情けない。
~では「好きだ、楽しい」が~%になった。それが、~では、~%になった...云々。
そういうことばかり気にしている・言ってるから駄目なんだよ。
好きだ、嫌いだ、楽しい、つまらない、じゃないんだよ。
学校は勉強するところで、勉強とは、強いて勉めるものであり、べつに
♫楽しい楽しい楽しい♫
ものであるわけはないし、そんな必要はまったくない。
必要だからやるんだよ。
教師が生徒に迎合する必要はまったくない、というか、そういうことをしているからダメなんだよ。
大人が子供に迎合する必要はないし、そんなことをしているから、今の日本になっているんだよ。
もっと毅然として、「教師」として「大人」として、自分のやっていることに自信を持とうよ!
「支援者」などという生ぬるいものに成り下がるな。
授業の本質は、強制と矯正だ。
Being obsessed with how much your students "like English" and/or "feel that English classes are enjoyable"is actually doing them disservice. Like it or hate it, they need to do what they need to do.
いや、わかる。だから情けない。
~では「好きだ、楽しい」が~%になった。それが、~では、~%になった...云々。
そういうことばかり気にしている・言ってるから駄目なんだよ。
好きだ、嫌いだ、楽しい、つまらない、じゃないんだよ。
学校は勉強するところで、勉強とは、強いて勉めるものであり、べつに
♫楽しい楽しい楽しい♫
ものであるわけはないし、そんな必要はまったくない。
必要だからやるんだよ。
教師が生徒に迎合する必要はまったくない、というか、そういうことをしているからダメなんだよ。
大人が子供に迎合する必要はないし、そんなことをしているから、今の日本になっているんだよ。
もっと毅然として、「教師」として「大人」として、自分のやっていることに自信を持とうよ!
「支援者」などという生ぬるいものに成り下がるな。
授業の本質は、強制と矯正だ。
Being obsessed with how much your students "like English" and/or "feel that English classes are enjoyable"is actually doing them disservice. Like it or hate it, they need to do what they need to do.
英語の授業は日本語でやれ
昨日、今日と、初めて全英連の大会というものに行ってきた。
昨日は公開授業(小、中、高)、 今日はそれについての討論等があったのだが、
昨日の授業(中学・高校)に関して
「高校は日本語が多かった while 中学はすべて英語で(教師が)パフォーマンスしていた」
というコメントを聞き、ちょっとこれは書いておかねば、と思い、 書く。
見ていない人のために解説しておくと、 高校は私が助言者として関わった授業で、授業内タスクとしては、 私が心・技・体で提唱しているものや、Reading in Action (金星堂)として教材化しているものにかなりの部分はそった形で、「 絶対発音力」等も取り入れた授業で、 いわゆるクラスルームイングリッシュはほとんどなく指示は日本語 、また、生徒に対する発音面、 文法面のフィードバックもすべて日本語であった。 ただし生徒の発言はすべて英語。
一方中学は、すべて教師は英語で、しかし発音やリズム、 語法はかなりヨタヨタ、something を somesing 、That's right を Zats right というレベルの「クラスルームイングリッシュ」。 生徒に対する発音面、文法面の明示的フィードバックはゼロ。 いわゆる recast (生徒が間違ったことを言った時、それをさりげなく、 正しい形を言ってやる。生徒がそれに気づくことはほぼない。) をやっていた。
生徒の英語はとんでも発音が多い。「プレゼン」 と称して、生徒に写真を説明する発表をさせていたが、 かなりのとんでも英語。それを指摘して直そうとはしない。しかしそのあとで、「 発表の良かった点を話しあってみよう。Japanese, OK」というpidginみたいな指示も。
まあ、 最近はやりの典型的な勘違い授業である。
今日は分科会で、私は高校の授業について「助言」をしたが、 その中で、開口一番、「昨日の高校の授業で一番よかったことは、 日本語をたくさん使ったことです」と言った。
詳しくは
https://sites.google.com/site/ zukeshomepage/publications/ practical-papers/eigode_ okonau_yori
を(もういちど)読んで欲しいが、要は、「生徒の英語の形式面(発音、 リズム、語法、文法)の質を向上させる気があるなら、 絶対に日本語を使え、ということである。
意味のやりとりは英語で、形式についてのやりとりは日本語で。
なお、今日の討議会は、私は英語でやったが、 他の方々の様子を見るとやっぱり、ほとんどの英語教師には、 英語の授業について英語で討論するのはかなりハードルが高いよう である。
ま、気持ちはわかるが、 それではいつまで立っても上達はしない。 日本の中ではそれでも普通なのだが、世界水準でみると、 情けない話である。たぶん韓国にも水をあけられつつあるだろう。
この業界で全国に名前が知られているような人にも、 英語で話してくださいと言われるとなんとなく逃げたり、 実際に話してみると、かなり情けない英語だったり、 という例はたくさんある。
だからダメなんだろう。まあ、 日本の英語教育がダメであることの、結果であり原因である。
これを読んでいる特に若手のみなさんは、是非、 少なくとも自分の毎日やっている仕事に関わる事柄については、 いつでも、どこでも、誰が相手でも、自由に英語でも日本語でも、 構えず、語れるようになって欲しいと思う。
なんといっても、here and nowの話題である。何も哲学について語れとか、 世界の経済情勢を論じろ、という話ではない。 自分が毎日やっている、一番よく知っている事柄である。 そのもっとも話やすい話題について、comfortableに英語で語れないのは、 プロとして絶対的に運用力が不足している。
で、どうして不足しているかというと、 練習量が足らないからである。で、 どうして練習量が足らないかというと、 英語の授業について実践報告したり、協議したり、 という絶好の機会に、英語の練習をしないからである。
要は、悪循環:
自信がない→練習しない→自信がつかない→練習しない→ いつまでもダメダメ
ちなみに、そういう fluency は、CNNを「シャドウイング」しても身につかない、 のは分かるよね?
今日のまとめ:
(1)英語の授業中は、自分は大いに日本語を活用して、 生徒の英語のレベルを上げようとせよ。
(2)英語教師同士が集まって公的に語る時(協議会とか)は、 場の空気がどうであろうが、自分だけは、意地でも英語を使う、 くらいの気持ちをもて。それで、うまく語れなかったら、 家にかえって辞書を使って、 どう言えばよかったか調べて次回に備えよ。
comfortable じゃないから、つぎは少しでも less uncomfortable になるために練習が必要なのだ。
昨日は公開授業(小、中、高)、
昨日の授業(中学・高校)に関して
「高校は日本語が多かった while 中学はすべて英語で(教師が)パフォーマンスしていた」
というコメントを聞き、ちょっとこれは書いておかねば、と思い、
見ていない人のために解説しておくと、
一方中学は、すべて教師は英語で、しかし発音やリズム、
生徒の英語はとんでも発音が多い。「プレゼン」
まあ、
今日は分科会で、私は高校の授業について「助言」をしたが、
詳しくは
https://sites.google.com/site/
を(もういちど)読んで欲しいが、要は、「生徒の英語の形式面(発音、
意味のやりとりは英語で、形式についてのやりとりは日本語で。
なお、今日の討議会は、私は英語でやったが、
ま、気持ちはわかるが、
この業界で全国に名前が知られているような人にも、
だからダメなんだろう。まあ、
これを読んでいる特に若手のみなさんは、是非、
なんといっても、here and nowの話題である。何も哲学について語れとか、
で、どうして不足しているかというと、
要は、悪循環:
自信がない→練習しない→自信がつかない→練習しない→
ちなみに、そういう fluency は、CNNを「シャドウイング」しても身につかない、
今日のまとめ:
(1)英語の授業中は、自分は大いに日本語を活用して、
(2)英語教師同士が集まって公的に語る時(協議会とか)は、
comfortable じゃないから、つぎは少しでも less uncomfortable になるために練習が必要なのだ。
11/05/2010
全英連: ダメ出しのないダメダメ授業
小、中、高の授業を見た。
小と中はいずれも、
七. 「通じる」ことは必要条件であって十分条件ではない。意味が通じる英語をさらに良いものにブラッシュアップしてやれる場所は教室しかない。「通じればよい」という世間の基準に合わせていては、コーチングの専門家たる教師の存在価値がない。
八. 生徒のパフォーマンスは常に評価してそれを伝えよ。どんな場合にも足らない点を見つけてダメを出せ。ダメ出しとはすなわち向上のためのヒントでありアドバイスである。評価のない発表は時間の無駄遣いと心得よ。
という点においては、「教師の存在価値のない」「時間の無駄遣い」とも言える、ダメ授業だった。
I regret that I was made to observe another two classes that wasted everyone's time by neglecting to explicitly correct students' less-than-satisfactory English.
小と中はいずれも、
七. 「通じる」ことは必要条件であって十分条件ではない。意味が通じる英語をさらに良いものにブラッシュアップしてやれる場所は教室しかない。「通じればよい」という世間の基準に合わせていては、コーチングの専門家たる教師の存在価値がない。
八. 生徒のパフォーマンスは常に評価してそれを伝えよ。どんな場合にも足らない点を見つけてダメを出せ。ダメ出しとはすなわち向上のためのヒントでありアドバイスである。評価のない発表は時間の無駄遣いと心得よ。
という点においては、「教師の存在価値のない」「時間の無駄遣い」とも言える、ダメ授業だった。
中は教師の英語発音もかなりしんどいものがあった。
プレゼンと称して、とんでも発音での発表を続けさせ、それを褒めちぎっていた。誤解ないように書くと、生徒は一生懸命であり、それは尊いことである。しかし、あれでは駄目なのだ、別の言い方をしないと英語ではないのだ、ということをきちんと教えてやらないのは、彼らの頑張りに対して、不当なことである。
やっぱり、
■英語教師が英語を話し続けるのがいい授業である
■発表の態度とか中身でよい点を発見して無理にでもホメるのがいい授業である
■発音とか文法のミスをあからさまに生徒に知らせないのがいい授業である
という根本的な思い込みがある限り、他の何をどうしようが、この国の英語授業はほとんど時間の無駄であり続けるだろう。
この点、高はまったく違う授業だった。
「この生徒たちに、もっとうまく、まともに英語をしゃべらせてやろう」という当たり前の姿勢があり、そのためには、日本語を使って、「○○を直して、もう一度!」と何度も言わせる、という、当たり前の「授業」の姿があった。
I regret that I was made to observe another two classes that wasted everyone's time by neglecting to explicitly correct students' less-than-satisfactory English.
Subscribe to:
Posts (Atom)