本日の実習生の授業を巡って感じたことのひとつは、例のなんとか省が言っている「主体的で対話的で深いナンチャラ。。。」という空虚な文言が独り歩きして、すくなくとも英語という教科は結構迷惑を被っているな、ということである。
どういうことかと言うと、今日の実習生授業はかなり忠実に指導教員の授業を模倣しており、その授業がどちらかというとトラディショナルであったのだが、それを見た管理職が「(文科省がめざしている方向に照らして)いかがなものか」という批判的な姿勢だった、という構図だったということだ。
学習の一般論として、受け身よりは主体的、一方的よりは対話的、浅いよりは深いほうがいいのは当たり前である。が、それを一律にすべての教科や科目に押し付けるという発想がおかしい。
「主体的」に学ぶのはお題目としてはいい。が、それが教師主導のトレーニングを否定的にとらえるためのお題目になるならば、有害だ。生徒に達成感をもたせれば、もっともっと上達したい、と主体的になる。教師が「引いて」しまっては意味がない。
「対話的」もべつに授業が対話的である必要はまったくない。とくに英語や体育や音楽のような実技的、スキル養成的要素がつよい教科では、内容的な対話、問答は出る幕がないことも多い。教師のほうが100倍スキルが上である(はずな)なのだから、思い切り上から一方的に効率的に知識と技能を伝授するのがよいのである。
「深い」学びもなにも、現代社会や母語である国語とはわけが違う。外国語である英語はまず単語を増やして文法を覚えて使い方に慣れて、というような読み書きそろばん的な問答無用のトレーニングが大切であり、理屈をこねる前に腕立て腹筋100回やれ、という話が重要なのである。そうでない、という英語教員がいたら、たぶんその人は腕立て腹筋100回ができない人だろう。
私の教え子教員たちには、自信と確信をもって、指導者主導で、一方的に、とりあえずの表面的な知識でもいいから単語の意味や文法事項の使い方を、ガンガン問答無用で注入してほしい。