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3/11/2019

「アクティブ・ラーニング」の神話を一刀両断:イングランドからの警告

本日、大学で一冊の献本を受け取りました。

Seven Myths about Education
by Daisy Christodoulou

の訳書である

7つの神話との決別
21世紀の教育に向けたイングランドからの提言
(東海大学出版部)

です。



送ってくださったのは訳者のうちのおひとりです。その方からのお手紙が同封されており、それを読んで私は嬉しくなりました。

その方は私のこのブログである文面を見て「そうなの、そうなの。だから私はこの翻訳書を日本にて出したいと思ったのだ」と叫びたくなった、そうです。その記述とは「ホンモノに出会った喜び」の中の以下の部分です:

たとえば「心」に関しては、文科省主導の「アクティブ・ラーニング」やら「対話的でドウチャラコウチャラの学び」やらの騒ぎのせいで、英語と同様その教科でも、すべての基礎となるはずの知識を教師がきちんと教えることがまるで悪いことであるかのように扱われるようになり、思考の材料たる正しい知識がないまま生徒たちは「話し合い」「学びあい」を強制させられるために無知や勘違いや感情に基づくトンデモ話し合いがまかり通り、その結果を発表して授業が終わる、という教科教育の崩壊が起こっている惨憺たる現状を厳しく糾弾し、その教科における『授業道』を確立の必要性を叫んでいる。
そして、イングランドで起こっている同様の惨状を看破し、その誤りを説いているのが、この『7つの神話との決別』であるため、相通ずるものを感じて、急遽本書をご恵贈くださった、とのことです。

現在文科省が必死に旗を振っているような教育政策は根本的に誤っているからやめよ、という主張をイングランドの現状のデータに基づいて行っているのが本書だ、ということです。

帯にはこうあります。

イングランドで盲信されていた教育神話を打破する。

神話1 事実学習は理解を妨げる
神話2 教師主導の授業により生徒は受け身になる
神話3 21世紀はすべてを根本的に変えてしまう
神話4 調べようと思えばいつでも調べられる
神話5 転移可能なスキルを教えるべきである
神話6 プロジェクトとアクティビティが学びの最良の方法である
神話7 知識を教えることは洗脳である

つまりこれらすべてが誤っており、

  • 事実を学習することは大切で
  • 教師主導の授業こそ効果的で
  • 何世紀になろうが教育で大切なことは変わることはなく
  • 生徒任せの「調べ学習」は当てにならず
  • 将来役立つスキル云々ではなく、現在必要なスキルこそ教えるべきで
  • PBLなどは非効率的であり
  • 知識を教えることこそ教育の根幹だ

ということを述べている本であると推測します(まだちゃんと読んでませんので。)

そうだとすれば、すばらしい!

内輪話によればこの本は出版社を見つけるのに苦労したそうです。つまり「アクティブ・ラーニング」を批判するような内容の本は出版されたがらなかった、ということのようです。それ自体が恐ろしいことですね。

今日から私はじっくりこの本を読んでみたいと思います。調べてみてもこの訳書はアマゾンにはないようですが、東海大学出版部から直接購入できるようです。みなさんぜひ!この本をみんなで読んで、出版をためらった出版社を悔しがらせようではありませんか!

ご献本、ありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。

3/06/2019

発音指導の心・技・体がなぜ大切なのか

以下は、ある集まりでお話させていただく予定の内容です。

概要

日本語ネイティブの生徒の英語発音は不十分なことが多い。それは教師の側に発音指導の「心・技・体」のどれか、あるいはすべてが欠けているからだ。

ここで「心」があるとは、日本語ネイティブに英語を教えるときの発音指導の重要性をきちんと認識し、かつ目の前の生徒の発音を少しでも良くしてやりたいと心の底から思っていることを言う。自分で確信がないこと、本当はそれほど強くは思っていないことは、熱を込めて指導できるはずがない。この部分が足らない教師は多い。

次に「技」とは、自分の発音技能を40名の生徒たちに伝えるための指導技術を指す。いくら「心」があっても40名を相手にして、結果的に生徒の発音が改善しないのであれば「心」がないのと同じである。たとえば教科書の「発音コーナー」だけで発音練習をしたり、思い出したように時々発音について言及したりするだけでは、40名の発音技能は変わらない。また発音が焦点でないやりとり活動のときには発音には触れない、という態度であるならば、生徒たちの発音は決して変わらない。この部分が足らない教師はさらに多い。

最後に「体」とは教師自身の発音技能である。発音技能の低い教師は、生徒の発音技能の低さがそれほど気にならないはずだ。汚部屋に住む人は、他人の部屋の汚さにそもそも気づかないのである。自分の部屋が清潔ならば、そうでない他人の部屋に対して何かを感じないのは難しい。日本語ネイティブの英語教師には「体」が足らない場合も多い。しかし「体」だけは完璧でも「心」と「技」がなければ生徒の発音は全く変わらないのは、多くの英語ネイティブ英語教師の授業を受けても、生徒の発音はほとんど変化しないことからも明らかである。

3/03/2019

「ネイティブのお墨付き」という表現はアリ?(加筆しました)

ある英語学習の月間誌で『発音の教科書』を読者プレゼントとして紹介していただきました。 その紹介文の冒頭:

「その英語力で博士号まで取得した実力は本物!」

お。。。著者の私のことですか。それはどうもありがとうございます。ただ一般論として発音のスキルと博士号の相関はあまりないかもですね(笑 )。また博士号は英語力で取るものではないし。

加筆:ただ、著者はきちんとしたアカデミックなバックグラウンドがあるのだ、ということを言って下さっているのはありがたいです。ここだけの話、英語本のなかでもこと「英語発音本」というのは、文法だの語彙だのスピーキングだのに比べて、なんというか。。著者が音声学はあまりご存知なく、書いてあることもご自分の直感?直観?だけに頼っていてかなり眉唾、というケースの割合が高いというのを最近改めて感じているので、著者の credibilityについて言及してくださっているのは、感謝です。

「大学の英語教授の著者がネイティブお墨付きの発音を伝授。」

ん〜む。「大学の英語教授の著者が」の部分は上の理由でありがたいのですが、そのあとの「ネイティブ...」の下りは正直に言って、少々微妙ですね。おそらくこのPR文を考えて下さったのは英語学習参考書とかテスト対策とか英会話本とかを手がけるような「プロの方」だと思いますが、「ネイティブお墨付き」には引っかかります。やや時代錯誤的かと。今どき「ネイティブ」の認可は要りませんし、しかも「お墨付き」って。。。 「ネイティブ」をお上にたとえているみたいで、少々卑屈なイメージがあります。

加筆:いや、でもよく考えれば、「大学の英語教授」というと悪いイメージとしては自分の専門をボソボソ講義するだけで英語自体はかなりしょぼいというケースも残念ながらそう珍しくもないので、そうではなくこの教授は英語自体もうまいのだ、ということを印象づけようとしてくださった、ということですよね。そう考えればありがたいです。ただその accreditation, authorization にどうしても「ネイティブ」が出てきてしまう、ということですね。

現代においては、英語は我々ノンネイティブのもの「でも」あります。ノンネイティブは国際語としての英語 (English as an International Language) としてきちんとした発音をすることが必要かつ十分であると思います。そして自分の発音が「きちんと」しているのかどうかは、ノンネイティブ自身で十二分に確認かつ確信できるものです。

「日本語を母国語とする私たちの気づかぬ発音の癖、母音の区別の仕方、アクセントの種類などいろいろなことについて教えてくれる1冊。映画のナレーションや洋楽を素材としたトレーニングもあり読者が楽しみながら発音の練習できる作りになっている。」

はい、ありがとうございます。これはその通りです。ここで「母語」でなく「母国語」という我々の分野ではすでに死語になった表現を使っていることを見ても、このPR文の作者が英語教育関係の方ではないのは間違いないと思われます。

以上、すこしやや斜に構えたコメントをしてしまいましたが、拙著を取り上げてくださって大変ありがたいことには変わりありません。感謝しております。しかし英語学習の月間誌にこういう文言がフツーにのるということは、日本の英語学習市場とか、一般の英語学習者の間には、やはり昔と変わらぬネイティブ信仰が根強く存在していることを示していると考えられます。

ちょっと考えさせられました。

『発音の教科書』第二刷、できました!

ありがとうございます。目指せ、第三刷!





語研のアラカルト講座「発音指導の心・技・体」、無事終了いたしました。

本日、語研のアラカルト講座「発音指導の心・技・体」を行いました。雨の中、中には東北や関西など遠方から来てくださった方もおり、熱意に頭が下がります。3時間ということで、やはり実際にグルグルを体験していただく時間はとれませんでしたが、書いていただいた感想を読む限り、まずます成功の部類だったと言ってよいようです。いくつか声を紹介させていただきます。参加者のみなさま、おつかれ様でした!


  • 理論を踏まえた上で実践をしていただき、非常にわかりやすかったです。
  • 靜先生がアドバイスして下さったとおりに発音してみると、ネイティブが発音したように聞こえるので嬉しかったです。(靜:ネイティブのように聞こえる必要は、ないですよ。ただ、リスニングには役立つと思います。)
  • 情報量が多くて素晴らしい授業でした!
  • 現在のトレンドがコミュニケーションを中心に取り扱うことになっており、基本となる文法や発音の扱いが雑になっていることを反省していました。
  • 先生のご本もとてもステキです。(靜:ありがとうございます!是非ご活用ください。)
  • 何度も確認とfeedbackしてもらえたのでありがたかった。
  • 学生に戻った気分を味わえて楽しかったです。
  • 端的に、しかし必要な情報は詳しく提供されていました。
  • 参加者自身の発音に対するフィードバックがあったこともよかったです。
  • 一斉指導の際の表情など、大変勉強になりました。
  • 発音は自分にとって大きな課題であり、日々生徒と向き合う中で頭を抱えるテーマでもあったので今回の講座をとても楽しみにしておりました。教員が一つ一つの音に意識していなければ生徒の指導は不可能であると改めて実感しました。ハートを大切に頑張ります!


あれから1年

同じ弥生でも昨年と今年の対比は信じられないほどである。

昨年の2月、3月と言えば例の『心・技・体』無責任トンデモ引用事件絡みの抗争もとい交渉の真っ只中で、私の中の不愉快度指数メーターは振り切れていた。

それが今年はどうだろう!同じ『心・技・体』絡みで、大げさに言えば「こういう読み方をしてくれる人が世の中に一人いただけでも、自分はこの本を世に出して良かった、出版の価値があった」と思えるほどの読者の存在を知った。

このままの良い年でずっと行ってもらいたい!

ホンモノに出会った喜び

それは、突然、やってきた。

英語以外の教科を専門とする、ある若い先生がレポート否、論文を送ってきてくれたのである。学期末で極めて忙しいはずのこの時期にまとめられた20ページにわたる長大な論考のテーマは、『英語授業の心・技・体』での私の主張が、いかに自分の教科にも当てはまるか、である。

たとえば「心」に関しては、文科省主導の「アクティブ・ラーニング」やら「対話的でドウチャラコウチャラの学び」やらの騒ぎのせいで、英語と同様その教科でも、すべての基礎となるはずの知識を教師がきちんと教えることがまるで悪いことであるかのように扱われるようになり、思考の材料たる正しい知識がないまま生徒たちは「話し合い」「学びあい」を強制させられるために無知や勘違いや感情に基づくトンデモ話し合いがまかり通り、その結果を発表して授業が終わる、という教科教育の崩壊が起こっている惨憺たる現状を厳しく糾弾し、その教科における『授業道』を確立の必要性を叫んでいる。

英語教師が職員室の机においておいた『心・技・体』の「十五戒」を他教科の教師が読んで、「これはすべての教科にもあてはまることだ」と言っていた、といったエピソードはこれまでも何度か聞いたことがあったが、これほどまでに包括的に自分の教科に『英語授業の心・技・体』を当てはめて論じる考察にであったのは初めてである。その論考は深く鋭く多岐にわたり、表現は巧みで、当該教科の内容には門外漢である私にとっても震えるほど刺激的なものである。

これほどの豊かなコンテンツを私だけが読んで終わるのではあまりにももったいない、と確信した。