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12/11/2020

目隠しリピーティング、いい感じです!

 英語の授業で、一応本文の理解が終わった段階で使えるだろう、シンプルでかつちょっとだけチャレンジングな活動を紹介します。名付けて「目隠しリピーティング」。対面授業でもZOOM授業でもできます。中学低学年でも使えるでしょうが、中3〜高校くらいの題材がやりやすいと思います。

やりかたは簡単。前提として生徒全員が手元に文章が見える(教科書として持っている、または投影したスクリーンが見える)とします。適当な1文を選びます。生徒をひとり指名します。指名された生徒は自分で自分の目隠しをします。単に目を閉じてもいいです。

教師がその1文を、なるべく自然な発音で、connected speechや linkingなども駆使しながら音読します。対象としている生徒にとって適切な長さのチャンクで切りながら読んでください。指名された生徒は目隠しをしたまま、教師のチャンクごとの音読をリピートします。

1文の最後までリピートができたら、生徒はその文の意味を日本語で言います。うまくできたら別の生徒を指名して別の文を使って同じことを繰り返します。

想像すればわかるように、指名されてリピーティングする生徒にとっては結構チャレンジングでしょう。一応意味や構造が分かっている文とはいえ、10語を超えるようなチャンクを一気に言うためには、ワーキングメモリに負荷がかかります。つまり、よい練習になるのです。ある題材の復習や仕上げ段階に最適ですね。

周囲の生徒は当該の文を見ながら先生の音読を聞き、目隠しして四苦八苦しながらリピートしている生徒の音声も聞き、「ああ、あそこができてないな」とか「自分だったら言えるかな」などと思いながら見ているわけで、退屈はしにくいのではないでしょうか。周囲の生徒には教師がどの部分を読んでいるかを視覚的に指し示しておくと良いでしょう。

なお、目隠しリピーティングの段階であまりにもヘロヘロなリピートしかできない場合には、すぐに「じゃあ見ながら言ってご覧」と言って、普通のリピーティングに切り替えてあげます。意味を言う段階でヘロヘロな訳しかでてこない場合にも、すぐ「見ながら」モードに切り替えてあげます。

またリピートさせるのは必ずしも1文である必要はなく、適当な長さのチャンクでもよいです。その場合は意味を言わせるのもそのチャンクの意味を言わせることになります。

ひとり(1文)にかける時間を短くして、ランダムに次々に多くの生徒を指名すれば、よい意味での緊張感を作りだせるでしょう。対面の授業であれば、目隠しの代わりに後ろをむいて立たせる、などのバリエーションも楽しいかもしれません。

明日からでもすぐにできる、授業内活動のシンプルなひとつのテクニックとして、いかがでしょうか?

11/13/2020

Intra-word chunk reading(単語内チャンク読み)とか、 Intra-word chunk dictation (単語内チャンクディクテーション)やってみては?

帯広の実習生は予想通りかなり頑張ってくれていた。Englishアイウエオもしっかりパワポにして、その結果 realize などのR/Lの切り替えがある単語なども、少なくとも単語のコーラスの段階ではかなりの生徒がしっかりと言えていたのは流石である。

反面、やはり単語の発音指導に際して、文字と音の結びつきを明示的に教えるという努力が足らないので、とくに下位の生徒には大げさにいうと、「単語はとにかくただひたすら真似して唱えて、ただひたすら英文字の組み合わせを暗記するのだ」という苦行になってしまっている。

その光景を見ながら考えたのだが、「単語内チャンク」というものを決めて、「単語内チャンク読み」や、「単語内チャンク・ディクテーション」をしたらどうだろうか。単語内チャンクとは、文字と音の結びつきを感じやすいようにな区切り、という意味である。音節の区切りとは必ずしも一致しなくてよい。

trans/por/ta/tion

のように黒板やスクリーン上に書いて、/で囲まれたチャンクごとに発音する。そして生徒に単語を「書きましょう」という時にも、/と/で囲まれた文字列の塊は少なくとも一気に短期記憶に入れて覚えて書き写しなさい、と指示するのである。塊の音をブツブツとつぶやきながら書かせるならなおよい。そして、単語内チャンクディクションは、例えば、「じゃあこれを書いてください。 / ʃən/ 」と問題を出して、tionを正解にするのである。こういうクイズを日頃からやっていけば、徐々に文字列と音の対応関係が把握されていくはずだ。


11/08/2020

カナカナふるならもう少し工夫して

以下はある高校検定教科書の新出語欄である。苦手な生徒をターゲットとしているようですべてカタカナで発音を表記している。



 

どうせカタカナ表記するなら、もうすこしなんとかしたほうがよい。所詮カタカナでは正確な音は表せないのは承知の上であるが、tionを「ション」  cal を「カル」 filmを「フィルム」はダメでしょ。(ただし、magicalの  gi を  ジ でなく  ヂ にしているのはよいですね)

location   ロウケイション  →  ロウケイシュン

magical    マァヂカル   →  メァヂコウ

film     フィルム    →  フィオム


を提案します。

もとの表記には、すこしでもこの本を使う生徒たちに、英語らしい英語で読ませてあげたい、という愛情が感じられない。やる気がない、というか。

あとに母音が来ないLを、「ル」だと本気に思い込んでいる学習者は大学生になっても多い。教科書がこういう表記をしているようでは無理もない、ということになってしまう。

11/06/2020

不如帰と夜露死苦の関係 〜中学の先生は単語を読めるようになる指導をしていないのでは?〜

カタカナで単語にフリガナ

 中学で(ときには高校でも?)、特に下位の生徒のために、英文の要所要所に、カタカナで発音のふりがなをつけるという実践をしている場合がある。

発音をカタカナ表記するのは私は全く否定しないし、むしろ積極的使用論者だ。そういえば研究社から出してもらった『カタカナでやさしくできるリスニング』(1997)が私の初めての著書であった。

ただしよく見かける表記よりも、(1)一工夫してより英語音に近く、かつ(2)単独の単語より、複数語がリンキングしたときのイメージなどをカタカナで表すとよい、と思っている。たとえば、not at all (ナタトー もしくは ナラロー)とか、Can you (ケニュー)とか。

しかし今回の本題はカタカナ表記の巧拙ではない。表記の詳細はともかく、カタカナをふる必要を感じるというのは、その生徒たちが、英語表記+英語の音 だけでは、表記と音の結びつきが形成できず、「いつまでたっても英語が読めるようにならない」から、最後の手段としてカタカナをふる、ということなのだと思う。

しかし、「英単語が読めるようにならない」のは、その生徒たちだけの責任なのだろうか、というのが今回のテーマである。


読めるように指導していないのでは?

言うまでもなく英文字は表音文字である。それぞれの子音字とそれぞれの母音字が一定の音を表して、その集合体が単語の発音だ。  d が  ドゥ で、 oが オ で、g が グ だから、d + o + g = ドーグ となるわけである。もちろんこういう単純な音の足し算ができる単語ばかりではないが、こういう、一つ一つの文字、あるいは文字の固まりが、どういう音を表しているか、ということを常に意識しておくこと、生徒に意識させることはとても大切だ。

そういうフォニックス的な感覚をやしなっていかないといつまでたっても「英単語の発音は丸覚えしないといけないのだ」というとんでもない誤りから抜け出せない。100語、500語、1000語、2000語の英単語の読み方を「丸覚え」していける頭のある生徒はいいが、そうではない生徒には地獄が待っていて、落ちこぼれていく。つまり「読めない」。

そういう「読めない」生徒に出会ったときに、けっこう多くの先生がとる方略がなにかというと、「とにかく何度も読ませる」アプローチである。よく見かけるフラッシュカードの読み練習なども、大いにその匂いがする。(今回は、発音がよい、悪いという話は脇においておいても)とにかく何度も何度も、すばやく読ませる。「え?こんな単語まだ読めないの?じゃあ5回よみなさい!まだ覚えないの?じゃああと10回読みなさい!」とばかりに、むやみやたらとテンポよく読ませる、という光景を何度も目撃した。


「不如帰=ホトトギス」式の無駄

しかしそういう反復練習が必要になる、「弱い」生徒たちの頭のなかでは、おそらく英語のひとつひとつの文字と音の結びつきがそもそもないから、彼ら彼女らにとっては、そういう音読練習は、たとえてみれば

「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」

というような、とにかく「不如帰」という形の文字の固まりを見たら条件反射的に「ホトトギス」と読むのだ、という問答無用の丸暗記を強制される、というとっても可愛そうな状況なのだと思う。発展性がない。不如帰をが「ホトトギス」と読めるようになっても、無花果が「イチジク」と読めるようにはならない。


「夜露死苦=夜+露+死+苦」だと教えよう

そうではなくて、夜は「よ」だよ、「露」は「ろ」だよ、死は「し」だよ、苦は「く」だよ、だから、夜露死苦は、「よろしく」なんだよ、ということがわかった上で、

「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」

と連呼するなら多少の意味はある。死が「シ」と読めるようになることは、愛死天流を「アイシテル」と読めるようになることにつながってゆく。


カタカナをふるだけでなく

魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよう、という格言がある。むやみにカタカナを振っている先生は、ただ単に魚を与えているのではないだろうか。もちろんカタカナを振ってやれば、(発音の巧拙はおいておいて)とりあえずその場でその単語を読めるようにはなるだろう。しかし、それは実はその英単語ではなくカタカナを読んでいるに過ぎないのでは?つまり、その単語のカタカナを与えることによって、別の新しい単語に遭遇したときに自力で読めるようになる方向に1ミリでも2ミリでも近づいているか、というとまったくそんなことはない、場合もあるのではないか、ということは考えて見る必要がある。

カタカナを補助として与えるのはいいが、プラスして、一文字、あるいはひとかたまりの文字の連続の読み方、音を教えよう。それが「魚のとり方を教える」ということだ。徐々に魚のとり方がわかれば、人から魚を恵んで貰う必要はなくなるのだから。


ホトトギス先生、猛省せよ

textbookを、tekistubook 的に発音する英語の先生が実際にいる。自身が中学生だったときから英語教員になった今日まで、text = t + e + x + t  という、夜露死苦方式を意識したことがなかったのだろう。  そうではなく、 text =「テキスト」(というカタカナ語)で、ホトトギス方式で生きてきた、そのツケなのだ。英語教師となった今は大いに反省し、ゆめゆめそういう学習者を自分の教室で再生産しないよう、肝に銘じていただきたい。

10/27/2020

コロナ禍のなかでも、きっちり対面グルグルをやってくれました!

今シーズンはじめてとなった教育実習訪問。100キロを少し超えるくらいだが、1時間目が研究授業となるため前泊。下調べが悪く、乗り換えの駅で30分以上も待つことになり、ホテルについたのは9時を回ってしまった。遅い夕食のため唯一の選択肢であったホテル前の居酒屋チェーン店に入ると中は閑古鳥。外食業界の苦境を思う。

翌朝、奇しくも大東外英の卒業生であるという指導教員の先生がわざわざホテルまで迎えに来てくださる。今年還暦の私よりもさらに歳上の方だという情報から勝手に想像していたイメージとは全く異なり、スポーツタイプの車を乗りこなす若々しいバリッとした精悍な風貌にプチびっくり。伺うところによると30代の頃には日本人学校に通算4年ほども勤務されていた国際派であると判明。再任用であるが若い同僚を指導する役割を担っていらっしゃる力のある先生であることが明らかで、うちの実習生にとっての幸運を感謝した。

1時間目にまず授業を見せてもらい、2〜3時間目に講評、それを生かして同じ範囲の授業を別クラスに対して6時間目に再度行うという、1日のなかでビフォア/アフターができる理想的なスケジュールになるように、時間割を調整してくださっていた。この点も感謝である。

■ビフォア授業

そうして肝心の1時間目の授業であるが、期待通り「かなりの」出来であった。おおよその手順は次の通り:

1)パプリカの英語版をさらりと歌う
2)前の授業で提出された生徒の作文をピックアップして紹介&フィードバック
3)単語の導入
4)CDを一度聞かせる(プリント見ながら)
5)チャンク単位で音読練習
6)文単位で音読練習
7)内容理解のQ&A を3つ
8)グルグル

■講評

私がした主なアドバイスは以下の通り(番号は上の手順と対応しない)。

(1)音声CDを一度だけ流しただけで、その後はすべて肉声でやった件:

音声CDと教師の肉声の使い分け・棲み分けを意識すべきである。音声CDはかなり自然で速かったので、それを最終目標として、あれと同じように言えるようになるために、教師が肉声で様々なテクニックによって生徒の音声を鍛え、最終的には音声CDと同じようなリズムとスピードで言えるようになるのを「目指す」のがよい。

(2)音声CDのプロソディの聞き込みが甘い件:

文脈や特定の意味をプロソディに込めているのを聞き取れておらず、したがって生徒にも指導できていなかった。CDでは 'I think .... . → What do 'YOU think? となっているのを、i 'THINK ....., → What do you 'THINK? と指導してしまっていた。聞き込み、読み込みの不足。

(3)カタカナ語になっている単語の日英対比の発音指導が不足している件:

カタカナ語として日本語に入っている語が新出語になっている場合、まさに絶好の発音指導のチャンスなのである。

cup と「カップ」を対比して、cuppuじゃなくて、cup!
pin と 「ピン」を対比して、 piん じゃなくて、ピンヌ みたいに小さなヌを言うといいよ。
yo-yo と「ヨーヨー」を対比して、英語は ヨーじゃなくて「ヨウ」だよ!
adultと 「アダルト」と対比して、tと「ト」に加えて、 lと「ル」の対比にも触れ、「アダウt」みたいだよ!

のような指導が必要だ。

(4)Buzzリーディングに入るのが早すぎる件:

チャンクごとに一斉音読→センテンスごとに一斉音読のあと、Buzzに入ったのだが、一斉音読時の音声面の指導が不足(量的というよりも質的に)していたために、Buzzの質が今ひとつ上がらなかった。より効果的な一斉音読指導が必要。

(5)押さえるべきツボがずれた(あるいは不足だった)件:

典型的なJapanese learners of Englishのツボを押さえた指導が必要だった。キーセンテンスである、I think playing with a kendama is more difficult than playing with a yo-yo.で、thanの THに焦点を当てて発音指導してが、何と言ってもここは日本人にとっての最重要項目でもあり、かつ内容語の playにもある、Lを最重点にすべきであった。thanをzanといってもそういう単語はないが、playには pray, prey というミニマル・ペアがあるのである。

(6)生徒の発音へのフィードバックが、やっぱり足りない点

やろうとはしているがやっぱり足らない。生徒に個人の作文を発表させたときに、「いいね!」と褒めた上で「ワンポイントアドバイスです」といって、RでもTHでも、ひとつだけでもフィードバックして、当該生徒ではなくて全員に一回言わせてみる、といった地道な指導がほしい。生徒だけで一斉に読ませておいて、最初から最後までなにもいわず「結構読めるようになったね!」で終わっては、せっかく読ませてみて絶好の指導の機会を無にしたことになってしまう。やりすぎるとうるさいが、なにか言わせたらかならず1箇所はアドバイスをする、というのを原則にしてみるといいと思う。

(7)内容理解が不十分なまま音読に入った件:

プリントの裏には日本語訳があったが、ほとんど確認せず音読に入ってしまった。またその訳は普通の1文ずつの日本語訳なので、英語と日本語の対応関係が特に下位の生徒には必ずしも明確ではなかったと思われる。日本語訳は、英語の語順に応じたスラッシュ訳がよい。

また、チャンクごとにモデルなしで生徒たちだけで一斉音読させる際、全員のタイミングをあわせるキューとしてカスタネットを使用していたが、その代わりに次の瞬間に言わせたいチャンクの簡潔日本語訳をすばやく言う、のを提案した。つまり、

I think / playing with a kendama / is more difficult / than playing with a yo-yo.

を、

[思うな] I think / [けん玉で遊ぶのは] playing with a kendama / [より難しい] is more difficult / [ヨーヨーより] than playing with a yo-yo.

と言わせてはどうか、と提案したのである。これにより意味を意識させながら音読させることができ、「空読み」を防げるだろう。

(8)教科書の本文をそのまま音読するのみだった件:

実習生なのでしかたないのだが、本文はそのまま、せいぜいチャンクに区切るくらいで、音読させるのみだった。しかし、たとえば、

A kendama, like a yo-yo, is a toy enjoyed by both children and adults.

という文ならば、

A yo-yo is a toy enjoyed by children.
A yo-yo is a toy enjoyed by adults, too.
A yo-yo is a toy enjoyed by children and adults.
A yo-yo is a toy enjoyed by both children and adults.

A kendama is a toy enjoyed by children.
A kendama is a toy enjoyed by adults, too.
A kendama is a toy enjoyed by children and adults.
A kendama is a toy enjoyed by both children and adults.

と言う練習を、適宜日本語で意味をすばやく言いながら言わせ、その総仕上げとしてはじめて

A kendama, like a yo-yo, is a toy enjoyed by both children and adults.

と言わせれば、(1)構文や修飾関係などがよりより理解されやすく、かつ(2)このユニットの文法的なキーである、【名詞+過去分詞での後置修飾】を単純なリピートでなく形を変えながら9回も言わせることに繋がる。

また、

I think playing with a kendama is more difficult than playing with a yo-yo.

ならば、

I think playing with a kendama is difficult.
I think playing with a yo-yo is difficult, too.
But I think playing with a kendama is more difficult than playing with a yo-yo.

というのを、右手にケンダマ、左手にヨーヨーを持ち、右手のケンダマの高さを左手のヨーヨーよりも高く持ち上げて言うことで、 more difficult のイメージを現すことができただろう。

■アフター授業

以上のアドバイスをしたうえで、再チャレンジの6時間目に向けては、(3) 〜(8)についてはなんとか改善することを目指し、(1)と(2)については、いっそのこと音声CDを使用することをやめ、代わりに実習生自身がスクリプトをほぼ覚えて、そのままケンダマとヨーヨーを手に実演することを提案した。つまり、ちょっとしたオーラルイントロダクションからはじめて、教師が教科書本文を act outして、ロールモデルにすることを提案したのである。早すぎる音声CDを1回だけさらりと聞かせるなら、その時間を使って、教師の肉声によるプレゼンをさせるほうがずっとよいだろうと判断したのである。

急遽の変更になったわけなので、空き時間にしていただいた5時間目をつかって十分に練習させ、そして迎えた6時間目... 果たして...?

1時間目が50分授業だったのに対して6時間目は45分だったのだが、1時間目とおなじくなんとかグルグルまでやりきった! 冒頭の実演はまずまず成功である。1時間目と比べて生徒の食いつきが違うし、意味内容についても「うんうん」とうなずいて聞いている生徒が目立った。やっぱり噛み砕いたオーラルイントロダクションや、教師肉声による実演は極めて重要なのだ。(3)〜(8)についても、1点を除いてはすべて十分に改善されていた。

では改善が不十分だった1点とはなにかというと、(6)、つまり生徒へのフィードバックの不足だ。やはりもう一歩踏み込むハードルというのはこちらが考えるよりも高いものなのだろう。指名して作文を発表させた生徒の発音する "read"が思いっきり リーd であっても、そこは「いいね!」でスルーしてしまった。う〜ん。実習生の立場としてはこれが限界か。これ以上の踏み込みは、彼女が来春から実際に教壇にたち、「本物の」自分の生徒を担当するようになってからのお楽しみにとっておこう(か?)。(本音を言えば、あと数日間ある実習中に達成して欲しいけれど(^^)。

いずれにしても、ビフォア授業→講評→アフター授業 という理想的なサンドイッチができるようにご配慮くださった指導教員の先生には感謝してもしきれない。朝早くから放課後まで、本当にいろいろお世話になり、心より御礼申し上げます。あと数日間ですが、引き続きどうぞよろしくご指導のほどお願いいたします!

10/24/2020

4年前のサッカー大好き少年が、いまや子ども大好きパパに

 教育実習生の授業を見に行って95点をつけたのが、2016年6月。あれから4年と4ヶ月。あの時のサッカー大好き少年は、いまや故郷の青森に戻って専任教員をしている。

きょうその彼に、Zoom越しにではあったが再会することができた。大東文化大学の教職課程センター主催「教員養成コロキアム」の卒業生登壇者として迎えたのである。

打ち合わせでは1〜2度話はしていたのだが、いざパブリックな場で彼が話し始めると、声のトーンや態度だけでなく、話の内容があまりにも大人びたものに成長しているのに驚いた。

学生時代のワチャワチャした感じが影を潜め、そこにいるのは自信に満ち、しかし日々試行錯誤しながら子どものために努力する、授業に軸足を据え、自分のアイデンティティ=武器は音声面の指導だと言い切る、愛情に満ちた若きプロ英語教師だった。

オーストラリアでの2年間の「自分探し」の中で様々な経験をし、たとえるならば360度回った末に、やっぱりもともとの出発点であった「子どもたちのスピーキング力をつけたい」という気持ちを実現できる仕事についたのだ、と解釈する。

あれだけさまざまな経験をつんだ教師に教われる生徒は幸せだ。曰く、自分の生徒は自分のこどものように思っています。ごく最近リアルでも父親になったばかりの彼の言葉は説得力がある。

当時のサッカー大好き少年が、サッカー&子どもたち大好き青年教師となったのを確認し、じんわりとした嬉しさをかみしめた秋の一日。