『絶対発音力』の中で、私が間違っている箇所がありましたので訂正します。
ハレイの英語学習ブログのハレイさんの指摘で気づいたものです:
http://foreignlanguages.blog29.fc2.com/blog-entry-77.html
私は、ton の母音を、hot の母音と同じだと思ってそう書いた(p.169)のですが、これは誤りで、son の発音と同じです。
綴りが o だと、圧倒的に hotの母音が多く、また、カタカナ語としても「トン」なので、疑うことなくそう思っていたのですが、違いました。
(言い訳しておくと、ton は、中英語の tunne (酒樽)が、son は古英語 sunu (息子)が語源になっていて、いずれも u の文字がもとのようです。)
いずれにしても、指摘してくださったハレイさんには感謝しています。知るは一時の恥、知らぬは一生の恥。恥どころか我々の場合には誤った知識を何百人もの生徒たちに広げてしまうことになるので、むしろ罪となります。
50年目にして正しい知識が得られて嬉しいです。
以上、『絶対』の読者の方には、お詫びして訂正します。ton は、tun だと思って発音してください。
発音ザムライ、ジャパリッシュ英語教師を斬る! 寄るな触るな、触れなば斬らん! 斬り捨て御免で御意見無用! (Part of the Caption by Courtesy of Madame Satoh)
Total Pageviews
11/30/2010
英語は道徳じゃね-!
Mona Lisa さんのブログ
http://ameblo.jp/monalisa-eigo/entry-10700114844.html
で、私のことを:
靜先生は、英語は道徳じゃね-!英語をできるようにしてやってなんぼだー!!そもそも英語教師の英語が下手すぎる!!!という感じなので、先生たちの間では賛否分かれる、というか、「耳が痛い」的な感じもあって、敬遠する人も多いのではないかなと思います。
と書いていただいているのを発見しました。
で、私のことを:
靜先生は、英語は道徳じゃね-!英語をできるようにしてやってなんぼだー!!そもそも英語教師の英語が下手すぎる!!!という感じなので、先生たちの間では賛否分かれる、というか、「耳が痛い」的な感じもあって、敬遠する人も多いのではないかなと思います。
と書いていただいているのを発見しました。
まさにおっしゃる通りだと思います。英語授業の十五戒で言っていることを煎じ詰めるとこうなります。
学校英語教師ではないモナリザさんだからこそ、ずばりと的を射た描写・記述をしてくださっている、と感じました。大変嬉しいです。
11/23/2010
教科書本文ごときに縛られるな
教科書本文を金科玉条のごとく扱う教員が多い。本文から一歩も逸脱出来ないような人が。
教科書の本文は、編集の過程で、さまざまなeditingを経て、改変され、最終的にたどりついたものである。それは、全体の語数とか、文法事項の配列とか、語彙制限とか、さまざまな制約をうけて、「たまたま」たどりついたものであって、決して the one and only な文ではない。
つまり、単なる one of many ways of saying the same thing である。
ほかにいくらでも表現のしかたはある。
また、ひとつひとつの文はあくまでテキストのなかで意味を持つのであって、文脈から取り出したら意味がよくわからなくなることも多い。代名詞や接続詞など。
だからたとえばグルグルに使う時に、代名詞を名詞に戻したり、長さを調整するために2文を1文にしたり、逆に1文をふたつに切ったり、リズム調整のために単語を足したり引いたり、することは当然必要なことである。
ただ、そうやって本文を改変した時に、不自然な英文や誤った英文になっては話にならないわけで、いちいちAETなどに頼らなくても、「十分な程度に正しい」英文を書けるだけの力量と自信がここでもキーになるわけである。自作の文が不安で使えない、のではどうしょうもない。
やっぱり心技体では「体」が大切、という結論になる。「体」をつけて、教科書本文を「使い倒そう」。
Materials in textbooks are not something you should never deviate from. They are just examples of expressions that convey certain messages or ideas. You need to be confident and proficient enough to be able to modify them to suit your purposes and students' needs.
教科書の本文は、編集の過程で、さまざまなeditingを経て、改変され、最終的にたどりついたものである。それは、全体の語数とか、文法事項の配列とか、語彙制限とか、さまざまな制約をうけて、「たまたま」たどりついたものであって、決して the one and only な文ではない。
つまり、単なる one of many ways of saying the same thing である。
ほかにいくらでも表現のしかたはある。
また、ひとつひとつの文はあくまでテキストのなかで意味を持つのであって、文脈から取り出したら意味がよくわからなくなることも多い。代名詞や接続詞など。
だからたとえばグルグルに使う時に、代名詞を名詞に戻したり、長さを調整するために2文を1文にしたり、逆に1文をふたつに切ったり、リズム調整のために単語を足したり引いたり、することは当然必要なことである。
ただ、そうやって本文を改変した時に、不自然な英文や誤った英文になっては話にならないわけで、いちいちAETなどに頼らなくても、「十分な程度に正しい」英文を書けるだけの力量と自信がここでもキーになるわけである。自作の文が不安で使えない、のではどうしょうもない。
やっぱり心技体では「体」が大切、という結論になる。「体」をつけて、教科書本文を「使い倒そう」。
Materials in textbooks are not something you should never deviate from. They are just examples of expressions that convey certain messages or ideas. You need to be confident and proficient enough to be able to modify them to suit your purposes and students' needs.
11/22/2010
授業は稽古で本番じゃない
ひとつの芝居が完成して公演にいたるまでには何週間、何ヶ月にもわたる厳しい稽古がある。
また本番が始まってからも、その日、その日の本番が終わってから、反省会のようなものがあって、微調整がなされる(のかも知れない)。
当然ながら英語の授業の本質はそういう「稽古」や「反省会」のようなものであって、最終的に「観客」に見せる「本番」ではない。
公開授業や研究授業というのは、授業を公開してみんなで研究するもだから、とうぜん、そういう「稽古」の公開のはずだ。
ところが、どういう勘違いだか、芝居の本番にあたる段階を見せているような公開授業が多くないだろうか。
生徒にディベートさせて、褒めて拍手して、はい終わり、みたいな。
稽古であるかぎり、ダメだしや、修正点の確認の繰り返しこそがその中心であるはず。演出家、監督からのダメ出しや注文付や演技指導がまったくない「稽古」って、何の意味がある?
授業もまったく一緒。昨日より今日、今日より明日、と向上させるための地道な努力を見せるのが公開授業であるはずだ。
A demonstration class is just that: a demonstration of a class, which is an activity to improve each student's performance until students measure up to the teacher's expectation, just like practice sessions of a play is an occasion where players are trained receiving feedback and directions by the director. Why do I have a feeling that I always see a demonstration class where there is no feedback or directions from the "director"?
また本番が始まってからも、その日、その日の本番が終わってから、反省会のようなものがあって、微調整がなされる(のかも知れない)。
当然ながら英語の授業の本質はそういう「稽古」や「反省会」のようなものであって、最終的に「観客」に見せる「本番」ではない。
公開授業や研究授業というのは、授業を公開してみんなで研究するもだから、とうぜん、そういう「稽古」の公開のはずだ。
ところが、どういう勘違いだか、芝居の本番にあたる段階を見せているような公開授業が多くないだろうか。
生徒にディベートさせて、褒めて拍手して、はい終わり、みたいな。
稽古であるかぎり、ダメだしや、修正点の確認の繰り返しこそがその中心であるはず。演出家、監督からのダメ出しや注文付や演技指導がまったくない「稽古」って、何の意味がある?
授業もまったく一緒。昨日より今日、今日より明日、と向上させるための地道な努力を見せるのが公開授業であるはずだ。
A demonstration class is just that: a demonstration of a class, which is an activity to improve each student's performance until students measure up to the teacher's expectation, just like practice sessions of a play is an occasion where players are trained receiving feedback and directions by the director. Why do I have a feeling that I always see a demonstration class where there is no feedback or directions from the "director"?
11/15/2010
ひっくり返して書け、書け、書け! Flip Writing
鹿児島高英研の研究大会で、久しぶりに、「ほ~! それいいじゃん」と感じる実践報告を聞いた。
その名は Flip Writing。
1枚の紙の表に、テキストの英文(スラッシュつき)を、裏におなじテキストの和訳(英文にあわせた語順でスラッシュつき)を印刷しておく。和訳のほうは、行間を広くとり、行間に書き込みができるようにレイアウトする。
これを生徒に渡し、「表の英文を見て、それを裏の和訳の行間に書写しなさい」と指示する。
生徒は、表の英文を少しずつ短期記憶に格納しながら紙をflipしながら書き進むのだが、flipするのは面倒くさいので、なるべく多く(1語より2語、2語より3語)覚えようとする、という。
なるほど。そうであろう。そして「なるべく頑張って、スラッシュごとに頭に入れて書くようにすると力がつくよ」と言うとさらにいいだろう。
Flip Writing がいいと思うのは、作業がシンプルであることと、英文をチャンクごとに覚えて書こうと努力するのが本質的に英語力(受容力と運用力)の向上に寄与すると思われるからだ。
その名は Flip Writing。
1枚の紙の表に、テキストの英文(スラッシュつき)を、裏におなじテキストの和訳(英文にあわせた語順でスラッシュつき)を印刷しておく。和訳のほうは、行間を広くとり、行間に書き込みができるようにレイアウトする。
これを生徒に渡し、「表の英文を見て、それを裏の和訳の行間に書写しなさい」と指示する。
生徒は、表の英文を少しずつ短期記憶に格納しながら紙をflipしながら書き進むのだが、flipするのは面倒くさいので、なるべく多く(1語より2語、2語より3語)覚えようとする、という。
なるほど。そうであろう。そして「なるべく頑張って、スラッシュごとに頭に入れて書くようにすると力がつくよ」と言うとさらにいいだろう。
Flip Writing がいいと思うのは、作業がシンプルであることと、英文をチャンクごとに覚えて書こうと努力するのが本質的に英語力(受容力と運用力)の向上に寄与すると思われるからだ。
授業内の最後の仕上げ、でもいいし、復習として家庭学習に課してもよいだろう。(生徒に趣旨を理解させておいて、ズルしないようにさせる必要はある。)
One task that I believe is quite useful and effective for enhancing students' proficiency is "flip writing," in which students try copying the English text printed on side A of a worksheet onto the reverse side of the same sheet.
11/13/2010
電子辞書で用例を見比べる
紙の辞書でできて電子辞書にできないことはなく、逆はたくさんあるので、もう紙辞書はいらない、というポストに関して友人から以下のご意見をもらいました:
(1)電子辞書では、1番の語義での用例と2番の語義での用例を見比べる、ということはできないのでは?
(1)電子辞書では、1番の語義での用例と2番の語義での用例を見比べる、ということはできないのでは?
(2)すくなくとも最初は紙の辞書を使わせて、辞書というものは語義、用例、成句などがこのように整理されているものだ、というのを理解させたほうがいいのでは?
これについて私の考えは:
(1)について:
要は、紙辞書は物理的に1枚の紙の上に、複数の語義に対応する用例が載っているが、電子辞書は同じスクリーン上には複数語義に対応する用例は載っていない、ということですね。
しかし厳密に言うと、紙辞書であっても、複数の用例を「同時に」見比べることは不可能です。
なぜかと言うと、人間の視野というのは実は驚くほど狭く、せいぜい10-15 character strokes
ひらたく言うと1~2語しか、ある瞬間に見る(見て読み取るほどきちんと見える、という意味)ことができないことが知られています。
すると、1文であっても全部を同時に見渡していることはなく、1~2語ずつ、順番に読み取っています。最初の1~2語を見てそれを短期記憶に格納し、その状態で次の1~2語に移り、それを短期記憶に格納しつつ、最初の1~2語と記憶の中で統合して意味を構築し、...という作業を瞬間的に次々に繰り返して読んでいるに過ぎません。
ということは、紙の上で上下に2~3センチ離れた箇所に印刷されている2つの例文を「見比べる」のも、同時に見ることはできず、上の例文と下の例文の間を秒単位で視線が行き来しながら、脳内で「見比べる」という意識が形成されるということです。
すると、これは電子辞書の2画面を行き来するのと本質的には変わらないことになります。そして今の電子辞書のレスポンスの良さを前提とすると、2画面を行き来して「見比べる」ことは十分可能だと感じます。
(1)について:
要は、紙辞書は物理的に1枚の紙の上に、複数の語義に対応する用例が載っているが、電子辞書は同じスクリーン上には複数語義に対応する用例は載っていない、ということですね。
しかし厳密に言うと、紙辞書であっても、複数の用例を「同時に」見比べることは不可能です。
なぜかと言うと、人間の視野というのは実は驚くほど狭く、せいぜい10-15 character strokes
ひらたく言うと1~2語しか、ある瞬間に見る(見て読み取るほどきちんと見える、という意味)ことができないことが知られています。
すると、1文であっても全部を同時に見渡していることはなく、1~2語ずつ、順番に読み取っています。最初の1~2語を見てそれを短期記憶に格納し、その状態で次の1~2語に移り、それを短期記憶に格納しつつ、最初の1~2語と記憶の中で統合して意味を構築し、...という作業を瞬間的に次々に繰り返して読んでいるに過ぎません。
ということは、紙の上で上下に2~3センチ離れた箇所に印刷されている2つの例文を「見比べる」のも、同時に見ることはできず、上の例文と下の例文の間を秒単位で視線が行き来しながら、脳内で「見比べる」という意識が形成されるということです。
すると、これは電子辞書の2画面を行き来するのと本質的には変わらないことになります。そして今の電子辞書のレスポンスの良さを前提とすると、2画面を行き来して「見比べる」ことは十分可能だと感じます。
(2)について:
「最初は紙の辞書を使うべき」という論点ですが、これも「べき」とまでは思いません。辞書の構造を理解させるのは、電子辞書でもできますし、どうしても紙で一度説明したければ、ある見出し語に関わる全記述を1枚の紙に印刷して見せて、一度解説し、あとは電子辞書を使わせても問題ないのではないかと思います。
ただ現実問題として、最低でも数万円はする電子辞書を最初から全員に揃えさせることは無理ですから、現状としては、最初は紙の辞書を持っている生徒が多いことは間違いないとは思います。でも仮定の話で、今の性能と機能の電子辞書が、3000円で買えるならば、最初の段階から全員に電子辞書を使わせてもまったく問題ないと思います。
-----------------
「最初は紙の辞書を使うべき」という論点ですが、これも「べき」とまでは思いません。辞書の構造を理解させるのは、電子辞書でもできますし、どうしても紙で一度説明したければ、ある見出し語に関わる全記述を1枚の紙に印刷して見せて、一度解説し、あとは電子辞書を使わせても問題ないのではないかと思います。
ただ現実問題として、最低でも数万円はする電子辞書を最初から全員に揃えさせることは無理ですから、現状としては、最初は紙の辞書を持っている生徒が多いことは間違いないとは思います。でも仮定の話で、今の性能と機能の電子辞書が、3000円で買えるならば、最初の段階から全員に電子辞書を使わせてもまったく問題ないと思います。
-----------------
すくなくとも私に関しては、紙の辞書に手を触れることは過去10年間ゼロになりました。
I am not really convinced by the argument that usage samples can be better viewed (and compared if necessary) on paper dictionaries than on electronic counterparts, nor do I buy the idea that beginners should get used to paper ones to get an idea about what a dictionary is like before beginning to use e-dictionaries.
I am not really convinced by the argument that usage samples can be better viewed (and compared if necessary) on paper dictionaries than on electronic counterparts, nor do I buy the idea that beginners should get used to paper ones to get an idea about what a dictionary is like before beginning to use e-dictionaries.
11/10/2010
カタカナ読みと化石化
もうひとつ、先日もらった質問:
「先生は英語読みとカタカナ読みを両方言わせて対比させるエクササイズを提唱していますが、敢えてカタカナ読みをさせることで、その良くない読み方を化石化することになりませんか?」
回答:
なりませんん。カタカナ読みは化石化どころか、日本人の中に日本語として確固として存在しています。
日本語としては、例えば「ブログ」(burogu)という発音が「正しい」のです。それを、blogと対比させて、
burogu / blog / burogu / blog
とし、日本語と英語の違いを体感させることが大切なのです。
大切なのは code switching です。
日本語を話しているときは日本語の音韻ですべてを話し、英語を話している時は英語の音韻ですべてを話すように、「スイッチ」を整備することが大事なのです。
カタカナ読みをこの夜から駆逐することは不可能ですし、まったくそんな必要はありません。
日本語なんですから。
「先生は英語読みとカタカナ読みを両方言わせて対比させるエクササイズを提唱していますが、敢えてカタカナ読みをさせることで、その良くない読み方を化石化することになりませんか?」
回答:
なりませんん。カタカナ読みは化石化どころか、日本人の中に日本語として確固として存在しています。
日本語としては、例えば「ブログ」(burogu)という発音が「正しい」のです。それを、blogと対比させて、
burogu / blog / burogu / blog
とし、日本語と英語の違いを体感させることが大切なのです。
大切なのは code switching です。
日本語を話しているときは日本語の音韻ですべてを話し、英語を話している時は英語の音韻ですべてを話すように、「スイッチ」を整備することが大事なのです。
カタカナ読みをこの夜から駆逐することは不可能ですし、まったくそんな必要はありません。
日本語なんですから。
Subscribe to:
Posts (Atom)