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2/23/2011

授業の手順が大切だと思っていた頃


以前に書いた文章(現代英語教育97年12月号. 「しらける授業をしていた私」 )の中で、教案について書いた箇所「授業の手順が大切だと思っていた頃」を、ここに再掲する:

英語教師になって数年は、授業内の活動の手順というか順番を大変気にしていた。当時おもに勉強していたオーラルアプローチの解説書が、「かくかくしかじかの理由により、活動Aは活動Bの後にこなければならない」などと、"teaching procedure"をたいへん重要視していたためである。まず、Review。次にOral Introduction。そして次にReading for Comprehension...等々。これらにまた細かい下位区分があった。これらの手順を頭に入れておくだけでも、新米教師にとっては大変なことだった。教案というほどのものではないが、おおまかな授業の手順を書いた紙をいつも教室に持って行ったが、授業中、おうおうにしてひとつの活動が終わると「えーと次は何だっけ?」という感じで教卓に置いた教案の紙をのぞき込んでいた。その間当然生徒の顔は見ていない。しかも教案通りに進まないとその日は一日気分が晴れなかった。

 これは生徒にしてみればしらける状況だったろうと思う。なんといってもこの先生は、自分たちにとっていい授業ではなく、先生の考える良い授業をしようとしていたのである。きょう何気なくテレビをつけてみると、医院を舞台にしたホームドラマをやっていた。この医院では患者のカルテの整理等にまだコンピュータを導入せず、手作業でやっている。時流に乗ったコンピュータシステムの導入を説かれて、経営者が一喝する:「あんたが言っていることは医者にとって便利なだけで、患者さんにとってはまったく便利なことじゃない。医者は効率よく診断を済ませて短時間で終わらせるのが便利や。けど患者にしてみたら時間をかけて話を聞いて欲しいのや。患者は医者の不便を望んでいるんや。」

この台詞を「生徒は教師の不便を望んでいるんや」と読み代えれば、機器を使って教師の手間を省く工夫が花盛りのこのご時世に、何とも心に響くではないか。当たり前の話だが、英語授業は本来生徒のためにあるべきで、教師の自己満足、英語教育業界内での自己顕示のためであってはならない。授業手順の話に戻ると、つぎに何をするべきかは生徒の表情が教えてくれる、と思えるようになるまでずいぶんかかった。