文法も、語彙も、発音も、 なるべくよいものが使えるようにするよう導くのが授業という営み であって、なんとか意味が通じればよい、 というものではないのでは? 通じなければ話しにならないですが、なんとか通じればいい、 というのは違うと思います。
日本語をはなす英語ネイティブで、「 と思います」をいつも「とは思います」という人がいます。 わかってはいますが、 いつも頭のなかでニュアンスを変換させられるのは面倒なものです 。つまりこれは一瞬通じていない、のです。文脈から「この人の、『 とは思います』は、文脈にあわないから単なる『と思います』 の意味のはずだ」と、 聞き手である私が頭のなかで翻訳して初めて通じているのです。
また「挙動」を「きょうどう」というネイティブもいます。 共同では意味が通じない、あ、そうか、共同不信じゃなくて、 挙動不審か、といちいち翻訳しているわけです。
そういうのを、きょうどうでも通じますよ、と話し手側( の言語教師)に開き直られるのは、違うと思います。 挙動は挙動といってもらったほうが、ずっといいです。 挙動といえるように、きちんと教育しろよ、という話です。