象徴的な出来事:残り5分の時点で、「じゃあ時間が余ったからサブノート(?)をやってください」と言ったことがこの授業の本質を物語っている。この「時間が余ったから」発言に、授業者の意識の中に「この授業で生徒にできるようにならせたかったことが、実際にできるようになっているか」を問う意識がなく、「指導案で予定していた活動をこなせたかどうか」しか考えていないことが集約されていた。
その直前の活動は、4名の個人を指名してのロールプレイ的な音読をたった1組。おせじにも十分な音声レベルとは言えないものである。例によって一回やらせて「拍手」して終わり。心・技・体読まなかったか?
その前の活動は、起立させての「四方読み」のバズリーディング。もちろん不十分な読み方をしている生徒が多い。やらせながらの全体に対するフィードバックはなし。心・技・体よまなかったか?
だいたい英語の授業で「時間が余る」ことなどありえないのである。全員が本文を完全に理解したのか?全員が本文を完璧な発音と完璧なプロソディで完璧に情感を込めて読めるようになったのか?Read and look upができるようになったのか?スクリプトを見ないですばらしいペアでのロールプレイができるようになったのか?
それを、限られた時間のなかでどこまで達成するのが授業での勝負ではないのか。そう思えば、口が裂けても「時間が余った」などという言葉がでてこないはずである。授業終了間際に読ませてみてあのパフォーマンスであれば、「予定したゴールがまったく達成できていない!」とあせって、残り時間で少しでも上達させようと試みるはずである。
それを「時間が余った」とは何事か!?