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11/29/2015

『「天国への転職報告」を読んで』を(改めて自分で)読んで

10年たって読み返して、加筆修正したい箇所はないですね。

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「天国への転職報告」を読んで

靜 哲人

 標記はELECの『英語展望』2005年夏号に掲載された淡路佳昌氏による論考である。副題に「夢叶って大学から中学へ」とある。

 高専、大学と歩いてきた淡路氏は研究面ではCALLの専門家であるが、自らのキャリアの中で、中学校という「シビアな環境」で教授力を磨くチャンスがなかったことへの焦りを持ち続けていた。CALLに頼るのでなく、生身の教師として生徒の基礎力をしっかりと築く仕事に関わりたい、という願いがついに叶って国立中学の現場に立った。その喜びを氏のmentorだった故若林俊輔先生に報告する、という形をとって標記のタイトルになっている。
 教師が勤務する校種を変わるとき、百人いれば百人とも中学・高校→短大・高専→大学という方向で移動する中、大学から中学への転職は、淡路氏自身が書いているように給料激減、労働時間激増、研究環境悪化(もしくは消滅)の大変に「酔狂な」(p.8)選択である。大いに快哉を叫びエールを送りたい。(やるじゃん。公立中学ならもっと説得力があったけどね...)

 氏の転進を最初に耳にした瞬間感じたことは「あ、先にやられた!」である。実はここ数年、中学でまた教えたいという気持ちを強めていた矢先だったので、タイトルを「天国のような職場である中学に移れたことの報告」と誤読してしまったくらいだ。 

 それはともかく、この論考を本欄で紹介するのは、個人的な転職報告の形をとりながら、日本の英語教育にとって重要な指摘がいくつも読み取れたからである。

 (1)「CALLはレメディアルの手段としては効果的かもしれないが、そもそも「レメディ」が必要な状態を生み出さないための生身の授業こそ肝心だ。」CALLの専門家からこのような意見が出たことを重視したい。CALLはあくまで周辺なのだ。自分と学習者との生のやり取りに自信を持っている教員はCALL教室を好まない傾向にある。「CALLを入れたら教員が授業をしなくなったよ。あんな授業なら俺だってできらあ」とは、語学教師ではない友人(関大に非ず)の最近の言。

(2)「旧態依然たる大学教師は、学生の4技能がバランスのとれた状態に近づけるのではなく、精神鍛錬のような訳読作業のみを行うため、選ぶ教材が難しすぎる。」確かに我々は印刷された文字の部分を読む場合の難易度だけで教材を選んでしまう傾向にある。しかし例えばそのまま口頭英作文・要約や暗誦、さらに討論のネタに使うとすれば高校1年はもちろん、中学3年生レベルの教材でも、平均的な大学生には十分チャレンジングだ。この大学教員の態度が反映されたのがやたら難しい英語を和訳させるのを良しとする入試だろう。

(3)「大学の教員養成担当者の選考に、教育力や教育業績よりも研究業績や学位が重視されているのはおかしい。教員養成に対する熱意も勘案しないと中等教育を支える力のある教員は育たない。」まったくその通りで、さらに言えば熱意の有無だけでなく、中学高校での教職経験のない者が中学高校の教員を養成している体制自体がおかしい。経験がないことを教えられる道理がない。

 (4)「英語との最初の接点で基礎を築くという重要な仕事をする中学教師が大学教師より給料が下がるのはおかしい。」これまたその通りである。英語を教える難しさは大学→高校→中学(→小学)と上がってゆく。最もやりがいがあり、最も高度な技術と見識を要求されるのは入門期の授業である。それに見合った報酬と社会的地位を保障すべきだ。独断で言うと、実際、平均的教師の授業力は中学→高校→大学の順番に下がる(英語力はその逆のようだが)。

 以上の4点には大いに共感したが、「大学でやる気のない学生にまで英語を必修にする必要はない」という主張は、私には「取れないブドウは酸っぱいに決まっているから取る必要はない」にしか聞こえなかったことは付け加えておく。

 淡路氏がThere is構文の導入に奮闘しているビデオを語研大会で楽しく拝見した。氏を教師として得た中学生は幸運である。「安住の地」を得た氏の今後の活躍に期待すると同時に、中高大の英語教員の人事交流の実現・促進を望む。教授法担当教員が中学や高校で一定期間教えて修業する、中高の指導主事クラスが大学で教授法を担当する、中学英語教師の団体が大学教員対象に(逆ではない!)教授法ワークショップを行う、などはどうだろうか。

聖地ですね

確かに。

「聖地巡礼」
http://www.awajis.net/?p=1727

あの言葉は非常に印象深く覚えています。

学習指導要領を守ることしか考えないような思考停止の輩ではなく、自分の頭で考え、オレ流を作っていけるような力のある教員を育てたいな、と改めて思いました。

『「教わったように教えるな」をこいつは実践してやがる』(若林先生)と言われるような教員を。

なんにせよ、メーヤウはやっぱりグリーンカレーだな。

教育とは

ハラスメントと見つけたり!

武士道とは死ぬこととみつけたり!

ということはつまり、

教育 is to ハラスメント what 武士道 is to 死ぬこと.

という英文が成立する。

A is to B what C is to D. という構文ね。

念の為に学生向けに解説しておくと、

A is (what C is to D) to B.

つまり、AはBにとって、CがDにとってのものである、ということでう。

ちなみに

rエァsムンt

という表記がよいでしょう。

11/28/2015

瓢箪からティーム・ティーチング

ひょんなことからティーム・ティーチングをすることに。。。

後ろで静かに a fly on the wall のように参観している予定だったのが、我慢できずに絡んでしまい、気づいた時にはダイアローグを二人で提示したり、学生がわからない時に私がパラフレーズしたり、といった共同作業になってしまいました。

結構楽しかったです。たぶん絡まれた先生も。

また、やっぱりどんな学生も学びたいと思っているのだな、と感じました。

krank

相手は心の病気だと思えば腹も立たぬ。

認知症の親の言動に怒ってもしかたない(のと同じ)。


11/27/2015

オーラルイントロダクションの心地よさ

昨日、大東文化大学で、2015年度英語教員志望者特別講演会として、語学教育研究所所長・武蔵野大学教授の小菅和也先生に、「英語授業基本のキ」 としてご講演いただきました。

文法訳毒法もとい文法訳読法の限界を指摘したあと、ではどうするか、ということで実際に音声中心のミニ授業をデモンストレーションする、という流れでした。

実は小菅先生と淡路先生と私の3人は、東京外国語大学で故若林俊輔先生の薫陶を受けて育ったいわば同門の兄弟弟子です。(年齢的に、同時期に大学で授業を受けたわけではありませんが。)

若林先生が主として教え子で教員になった者を対象に毎月ご自宅で開いてくださっていた研究会 COFS では、小菅先生はいわば「師範代」であり、若林師匠が不在のときには会を取り仕切ってくださっていた頼もしい存在でした。

あれからずいぶん時が経ち、いまやかつて師匠が牽引していた語研を牽引する立場になった、そんな兄弟子を招いて私たちの教え子に対して話をしていただく機会を持てたことは感慨深いものがありました。

若林先生もきっと、まあいいんじゃない、と喜んでくださったと思います。

久しぶりに聞いた兄弟子の英語は耳に心地よく、学生とのやりとりもさすが職人芸、見事なテンポで、語研の代名詞であるザ(ジ?)・オーラルイントロダクション(あるいはインタラクション)を堪能することができました。

うちの学生にも、教師の role model としてインパクトは大きかったと思います。

この機会を持てたことを感謝しています。

狩りという名の殺戮

テレビコマーシャルを見ている限り、「狩り」をテーマにしたゲームが世の中には溢れているようだ。

狩りと言っても、狩った獲物を食物にして生き延びるための狩りではなく、ストレス発散のためのゲームとしての狩りである。

狩る相手は、なるべく良心の呵責を感じさせないような、醜い、あるいは恐ろしい、あるいは獰猛な、あるいは攻撃的な、モンスターである。

そして狩とは、取りも直さず、そのモンスターを残虐な方法で素手でもしくは武器を用いて派手に殺すことだ。

つまり、醜い、あるいは恐ろしい、あるいは獰猛な、あるいは攻撃的なモンスターであれば、殺すために殺してもまったく構わない、むしろ楽しいことである、痛快なことである、という前提の上にたっているのが、あの手のゲームのように思われる。

しかしモンスターとは、動物の一種である。ストレスを発散する人間の標的になるために生きているのではない。そういう存在としてゲームクリエイターがクリエイトしたからということはここでは無関係である。

ああいうゲームがここまで一般的になり、多くの老若男女が(?)、そういう行為を当たり前のように楽しんでいると思うと、いつも暗澹たる気持ちになる。

世の中おかしくないだろうか。