誤解してほしくないが、
「いまや英語はネイティブだけの言語ではないのだから、国際語としてノンネイティブとして主体的に使いこなそう。多少、ネイティブバラエティと違っていても構わないので、それは自分たちのバラエティなのだ、として、気にせず使いこなそう。せっかく時間をかけて練習、習得した、現在のレベルのasset を持ち腐れにせず、どんどん使おう」
という論自体には賛成である。
とくに、英語ユーザーの側の心構えとしては、そうであるべきであるし、それでよいと考えている。
たとえば、日本の学会誌に投稿する論文の条件として、「英語は必ずネイティブチェックを受けること」などと書いてあると、ひっかかりを感ずる。これはやや時代錯誤ではないのか、と。英語圏のジャーナルにそう書いてあると、それはノンネイティブ差別ではないか、とまで感じることがある。
自分の英語はネイティブの英語ではないが、それこそ論文の趣旨は100%伝わると確信しているからであるし、自分の論文なのだから自分の英語でいいのではないか、というよりそうでなければならないのではないか。他人に直されたらそれはもう自分の英語ではないのではないか、という気持ちも多少あるからである。
(その一方で、ネイティブの英語をさらに吸収して、「自分の英語」の表現をさらに増やさねばならぬ、より的確な表現を取り入れねばならぬ、という気持ちはあり、その努力は続けている。そうすれば、それも「自分の英語」になるわけだ。)
ティーチャーの心構えは、ユーザーとは違うはずだ。ティーチャーは、自分のストゥーデントに対して、
(1)一歩でも二歩でも、今いるレベルから、ネイティブのレベルに、ネイティブのバラエティに近づく努力をさせ、
しかし
(2)今のレベルの英語をどんどん使わせ、
しかし
(3)その「今のレベル」をアップさせるために、生徒がつかった英語に対してつねにフィードバックする
存在でなければならないはずだ。