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11/11/2018

UpDATES 秋の会 2018 開催しました!

淡路先生 and/or 私に関わって英語教員になった&なる大東文化大学卒業生&卒業見込み学生の集まりであるUpDATES(Upgrated Daito Alumni Teachers of English Soceity)の秋の会を行いました。


卒業生10名、卒業見込み生3名と我々2名が集まり、初対面のメンバーもいるので自己紹介をし、近況報告をし、仕事のこと、プライベートのことなどいろいろ語り合いました。

長子誕生報告が約1名、婚約発表が約1名、婚約願望表明が約1名、まだ数年は働いてから結婚したいです表明が約1名、結婚しないけど付き合っています表明が約1名、付き合う人いません表明が約1名、などなど。。。若い彼らの未来に思いをはせて、私まで温かい気持ちになりました。

君たちの輝く未来に乾杯!!

AI では代われない HI になりましょう

私は、教職を夢見る学生を一人でも多く導きたい、と考えていますが、何がなんでも免許を取得する学生の数、教壇に立つ学生の数を伸ばしたいと思ってはいません。

なぜかというと、生徒は先生を選べないからです。素晴らしい先生に当たった子はそのことによってその後の人生の可能性を切り開くことができますが、 素晴らしくない先生に当たった子は、大げさに言うとその後の人生の可能性を減らしてしまうこともあるからです。

だから、子どものためなる、子どもを幸せにする力を持った先生(だけ)を一人でも多く送り出したい、それが私たちの目標です。

ではどういう先生が「子どものためになる」のでしょうか。その答えは簡単ではありません。しかしどういう先生が「子どものためにならない」のかという問いに対しては、ひとつの確信があります。

それは、「その時々の文科省、監督官庁の言うこと、学習指導要領などの教育行政の方針を忠実に守ることだけを考えている先生、は子供のためにはならない」ということです。

国の教育行政を動かす人々は、それなりに一生懸命に考えて、国の教育の方針を決め、教員をひとつの方向に向かせようとしますが、残念ながら、その方向が理にかなった方向ではないことがあります。

教養系のイベントとして今年の6月に、「語り継ぐ戦争体験、教育の立場から考える戦争と平和」という講演会を行いました。89歳になる小島民子さんが語った言葉の中で、印象に残ったことがあります。

それまで「天皇陛下が絶対だ」と教えていた校長が、敗戦の日を境に、手の平を返すように、「今日からは民主主義だ」と言い出した時、「どうしてそんなことができるのですか?」と問うた小島さんに校長が「昨日までは天皇陛下が、天皇陛下が絶対だ、とおっしゃっていたからそう教えていた。今日からは天皇陛下が、これからは民主主義だ、とおっしゃっているからそう教える。それだけだ。それをなんで小島さんが責任を感じる必要があるの?」と言い放った。

というものです。つまり内容の是非はどうでもいいから、とにかく上が言っていることに従っていればいいのだ、という思考停止処世術です。そういう教員ではいけないはずです。

小島さんが体験した激動とは比べるべくもありませんが、私が中学校の教壇に立ってから今日までの約35年に、文科省の言うことは、私の専門である英語教育に限ってみても、頻繁に変わってきました。海外から無批判に輸入した概念や新しい概念を流行り言葉として振り回し、無理難題を押し付け、そのたびに、現場の教員が振り回されてきた、ように見えます。

具体的に言うと、たとえばほんの何年か前までは「英語の授業は英語でするのが基本だ」と行っていました。「生徒のレベルにかかわらず」「文法を教えるのも英語でやるのですか?」という様々な疑問がでたものです。それがいまはこんどは「アクティブ・ラーニング」になって、「英語の授業は英語で」というのはあまり話題にならなくなっています。

activeな learning という本来の概念は大変に結構であり、どんな学習も activeであるべきです。しかし、そういう本質ではなく「主体的で対話的な深い学び」という文言自体を指導案に入れなければダメだ、とか、授業の形態として目に見える部分で対話的でなければダメだ、といった表面的な形式主義で押し付けてくることが多いので、まさに本末転倒です。

学校という組織の一員である以上、学校全体の方針に沿って動くことは必要です。また国全体としての教育を進める方針も必要です。しかしそれはあくまでガイドライン的なものであるべきで、実際の運用にあたっては、専門家である個々の教員の裁量が最大限に尊重されるべきものだと考えます。

われわれはAIではありません。またAIであってはなりません。HI Human Intelligence でなければなりません。プログラムされた通りに効率的に動くロボットではなく、上から降りてくるガイドラインを教育の専門家としての高いスキルと知見をもって、一度自分の頭のフィルターを通した上で、消化し、是々非々の判断にもとづいて、取捨選択した上で、自分の眼の前の生徒に与えていく、そういうことができるだけの自信と能力をプライドを備えていたいと思います。

AIには代わりのできない教員になりましょう。学習指導要領に書いてあること、時のオーソリティが言うことに無批判に従うのではなく、指導要領に書いてあろうがなかろうが、眼の前の生徒のためになると自分が信ずることをする、そういう教員になりましょう。

11/09/2018

11/07/2018

なんと! フランスでは蠅(ハエ)を食べるのだ。。。

たった今見ていたTV番組

クローズアップ現代+「英会話時代が到来!メイドも救急隊員も!どう乗り切る?」
2018年11月7日(水) 22時00分~22時25分

で、公立小学校でALTや専科教員が英語を指導している場面があったのだが、レストランでの注文のロールプレイをしていて、ウェイター役の専科教員が What would you like to have? と言うと、客役のALTが答えたのだが、同時に画面の下に出たキャプションを見て絶句した。

I would like to have French flies.

ものの1〜2秒で消えたが、間違いない。fries ではなく、 flies である。

当たり前だが、英語ネイティブのALTが flies と言ったわけではもちろんない。この番組を制作した会社の(たぶん有名大学卒の)担当者が書き、それを(別の有名大学卒の上司が)チェックしたのかしないのか、このとんでもキャプションが(有名大学卒業生ばかりであろう)天下のNHKの看板番組で全国に放映されてしまったのである。

その辺の民法のバラエティではない。我々から受信料を徴収して成り立っている国営放送のNHKだぞ。

受信料返せ!!


つまりこれが日本人の英語力の現実なのである。泣けてくる。

NHKオンデマンドで見られるそうなので、お疑いの向きはご自分の目でご確認を。

11/05/2018

授業で「時間が余った」などと口が裂けても言うべからず。

本日の研究授業を見て

象徴的な出来事:残り5分の時点で、「じゃあ時間が余ったからサブノート(?)をやってください」と言ったことがこの授業の本質を物語っている。この「時間が余ったから」発言に、授業者の意識の中に「この授業で生徒にできるようにならせたかったことが、実際にできるようになっているか」を問う意識がなく、「指導案で予定していた活動をこなせたかどうか」しか考えていないことが集約されていた。

その直前の活動は、4名の個人を指名してのロールプレイ的な音読をたった1組。おせじにも十分な音声レベルとは言えないものである。例によって一回やらせて「拍手」して終わり。心・技・体読まなかったか?

その前の活動は、起立させての「四方読み」のバズリーディング。もちろん不十分な読み方をしている生徒が多い。やらせながらの全体に対するフィードバックはなし。心・技・体よまなかったか?

だいたい英語の授業で「時間が余る」ことなどありえないのである。全員が本文を完全に理解したのか?全員が本文を完璧な発音と完璧なプロソディで完璧に情感を込めて読めるようになったのか?Read and look upができるようになったのか?スクリプトを見ないですばらしいペアでのロールプレイができるようになったのか?

それを、限られた時間のなかでどこまで達成するのが授業での勝負ではないのか。そう思えば、口が裂けても「時間が余った」などという言葉がでてこないはずである。授業終了間際に読ませてみてあのパフォーマンスであれば、「予定したゴールがまったく達成できていない!」とあせって、残り時間で少しでも上達させようと試みるはずである。

それを「時間が余った」とは何事か!?

11/03/2018

スピーチコンテスト大成功!

そして本日のコンテストは大成功でした。英語スピーチコンテストの成功の度合いは、一にも二にも、出場者のスピーチのクオリティによると思います。

その意味で、本日の大学生10名のスピーチは最高のクオリティでした。我々は、基本的に日本国内で英語を学習し、日本国内でトレーニングを積んで、「きちんとした」英語を喋れるようになった(なろうとしている)学生を応援したいと思っています。

5年も10年も英語圏で過ごしてきた人はもちろん英語は達者ですが、英語が達者でない聴衆にわかろうがわかるまいが構わない、といった調子でまくしたてることも多く、個人的には???と感じます。

聞いている人間(の多くに)わからない英語スピーチでは意味がない、と私は思います。ノンネイティブの聴衆が多いなら、その人達に自分のメッセージが伝わるように話すのが筋なのではないか、と考えます。その意味をこめて、今回のスピコンの審査基準に、 audience awareness を新たに加えました。

その観点から言うと、今日のスピコンで、大学生のスピーチと高校生のスピーチの間には明らかなレベルの差がありました。それは高校生も痛感したはずです。それは大学生のほうが高級な英語を使っているとか、レベルの高い表現を使っているとか、そういうことではありません。大学生のほうが聞いていて圧倒的に「わかりやすかった」ということです。

高校生のスピーチも内容的には素晴らしいものでした。diversityのテーマにふさわしく様々な観点からアプローチしており、聞いていて思わず胸が熱くなるものもありました。しかし残念ながら、多くの場合発音の不明瞭さが原因で、せっかくのその内容の素晴らしさが十分には伝わりきらないものでした。絶対におさえねばならない、L/Rも怪しい場合、絶対にやめさせねばならない不要な母音挿入 epenthesisがある場合、日本人が絶対に意識せねばならない arと er の違いも押さえていない場合、などがありました。

それに対して大学生のスピーチは、10人が10人とも素晴らしいものでした。全員が、わかりやすくきちんとした英語を心がけ、きょうの本番でのパフォーマンスが今までで最高のできでした。大学生のスピーチがあそこまで良くなったのは、彼らが本学に入学し、淡路先生と私が担当する授業を履修し、淡路先生と私の事前トレーニングを受け、ダメ出しを受け、それを踏まえて自分で何度も何度も努力したからです。

彼らのパフォーマンスを心から誇らしく思います。

全員スピーチを終え、結果発表の前に、はい!ポーズ!
と思ったら、リキト君がいない。。。

高校生のみなさん、英語がうまくなりたいなら、どうぞ本学に来てください。

スピーチコンテストの指導と中高の部活の間の共通点?

本日、第19回スピーチコンテストを開催し、大成功に終わりました。

昨日の段階では大学のスピコンと中高の部活について考えることがありました。うちのスピコンは、予選を通過して本選に出場することが決まった大学生10名に関しては、かなり手厚く指導します。

(本当は高校生の本選出場者も指導したい気持ちもあるのですが、地理的に遠方の高校生もいるので「全員同じ程度に指導」というのが現実的でないため、実現していません。)

具体的には淡路先生と手分けして、最低でもひとりの学生を3回、一回につき30分〜1時間くらい、つまりのべ2時間くらいは指導します。2時間×10名=20時間
もっともっと、と来る学生に対しては淡路先生はもっと指導しているかもしれません。

司会の学生の英語もかなり時間をかけて指導をしています。前日の練習も8時くらいまで続きました。

結果的には淡路先生も私も、スピコンの前はこの事前トレーニングにかなりの時間をかけることになっています。そして我々は英語教員としてこういう授業外の指導を、自らのしごとのかなりの中核的部分だと認識しているので、とても楽しいです。1年のうちでも最も充実感のある季節です。

しかし、仮に、このスピーチコンテスト委員という役割を、誰か別の先生に頼むことを考えたときには、潜在的な問題があることに気づきます。しなくてもよい仕事を喜んでする先生ばかりではありません。本選出場が決まった大学生はまったく指導しなくても文句は言われないでしょう。大学生なのだから自主自立にまかせ、自己責任でブラッシュアップさせるほうがむしろ大義名分にはかなうのかもしれません。

つまり、われわれのスピコン指導というのは、中高の「部活指導をやりたくてやっている(それを意気に感じて休日出勤して練習試合を引率している)一部のイケイケ顧問」と一脈通ずるものがあるのかな、ということです。好きでやっている人間にはいいのですが、それをそうでない人間に強制するのは間違っています。

だれがやってもできるような指導体制にして、担当教員が変わっても同じようなクオリティの結果がでる程度のものにしたほうがいいのか、あるいは、目の前の学生のクオリティを向上させるためには夜遅くなろうが休日出勤になろうが構わない!のままでいいのかは悩ましいところです。

と書きながら、心のなかでは、「今のやり方で続けるのが学生の幸せのためにはベストなのだから、それでいいに決っている」と思っている自分に気づきました。

前日、会場で自主リハーサルに励む学生たち