昨日の段階では大学のスピコンと中高の部活について考えることがありました。うちのスピコンは、予選を通過して本選に出場することが決まった大学生10名に関しては、かなり手厚く指導します。
(本当は高校生の本選出場者も指導したい気持ちもあるのですが、地理的に遠方の高校生もいるので「全員同じ程度に指導」というのが現実的でないため、実現していません。)
具体的には淡路先生と手分けして、最低でもひとりの学生を3回、一回につき30分〜1時間くらい、つまりのべ2時間くらいは指導します。2時間×10名=20時間
もっともっと、と来る学生に対しては淡路先生はもっと指導しているかもしれません。
司会の学生の英語もかなり時間をかけて指導をしています。前日の練習も8時くらいまで続きました。
結果的には淡路先生も私も、スピコンの前はこの事前トレーニングにかなりの時間をかけることになっています。そして我々は英語教員としてこういう授業外の指導を、自らのしごとのかなりの中核的部分だと認識しているので、とても楽しいです。1年のうちでも最も充実感のある季節です。
しかし、仮に、このスピーチコンテスト委員という役割を、誰か別の先生に頼むことを考えたときには、潜在的な問題があることに気づきます。しなくてもよい仕事を喜んでする先生ばかりではありません。本選出場が決まった大学生はまったく指導しなくても文句は言われないでしょう。大学生なのだから自主自立にまかせ、自己責任でブラッシュアップさせるほうがむしろ大義名分にはかなうのかもしれません。
つまり、われわれのスピコン指導というのは、中高の「部活指導をやりたくてやっている(それを意気に感じて休日出勤して練習試合を引率している)一部のイケイケ顧問」と一脈通ずるものがあるのかな、ということです。好きでやっている人間にはいいのですが、それをそうでない人間に強制するのは間違っています。
だれがやってもできるような指導体制にして、担当教員が変わっても同じようなクオリティの結果がでる程度のものにしたほうがいいのか、あるいは、目の前の学生のクオリティを向上させるためには夜遅くなろうが休日出勤になろうが構わない!のままでいいのかは悩ましいところです。
と書きながら、心のなかでは、「今のやり方で続けるのが学生の幸せのためにはベストなのだから、それでいいに決っている」と思っている自分に気づきました。
前日、会場で自主リハーサルに励む学生たち