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11/30/2018

英国人研究者を迎えたラウンドテーブルセッション、大成功だった(そうです。。。)

本日は、大東文化大学の教職課程センター主催で、ケンブリッジ大学教育学部からクリスティ・クルツ博士を迎えて、

Teaching and Learning in Neoliberal Age

と題したラウンドテーブルセッションを開催しました。 私はセンター所長として冒頭にご挨拶をする。。。役目だったのですが、昨日の朝、ジョギングに行こうと玄関でシューズの紐をしめたと思ったら、あ! 「魔女の一突き」とも呼ばれる年中行事 Gikkury Goashy がキタ〜〜!

というわけで今朝も起きてみるとほぼ歩けず、最後まで葛藤の末、面目ないことに本日の出席は断念。で、以下の挨拶を音声ファイルに録音して送り、「声の出演」とさせていただきました。

It is a shame that I cannot be here with you in person due to a temporary health problem, but as the Director of The Center for Teacher Development and Educational Research, let me say a few words to start this wonderful event. It is our great pleasure to host this round-table session Teaching and Learning in Neoliberal age, with Dr. Christy Kulz as the main speaker.

一時的な健康上の理由のため、直接ご一緒できず残念ですが、教職課程センター所長として一言ご挨拶申し上げます。本日のラウンドテーブルにクリスティ・クルズ先生をお迎えすることは大変光栄なことです。

Dr. Kulz specializes in the sociology of education and has published a book, with a rather shocking title Factories for Learning, which is a reworked version of her award-winning Doctoral Thesis.

先生は教育に軸足をおいた社会学がご専門で、博士論文を「学びの工場」というショッキングなタイトルの単行本として出版されています。

According to the flyer prepared by my colleague Prof Nakata, since the late 1980s, educational reforms have been going on in England, with a strong emphasis on test results, which creates the dichotomy of winners and losers. The government has forced schools to ‘perform’ no matter what their social context is.

仲田先生がまとめてくださったこのフライヤーによりますと、イングランドでは1980年代後半からテスト結果を重視するような教育改革が進行し、勝ち組と負け組が明らかに色分けされ、それぞれの学校をとりまく文脈にかかわらず、テスト結果をあげるよう強制されている、とのことです。

Having read up to this point, I believe I am not alone in this room to be reminded of rather similar developments in Japan that have drawn attention and criticism in the educational circle.

とここまで聞いて、日本でも最近,教育関係者の耳目をあつめ批判を巻き起こした似たような動きがあったなあ、と思い出するのは私だけではないでしょう。

On Aug 2, Osaka Mayor Hirofumi Yoshimura said in a press conference that because he is very unhappy about the fact that city of Osaka has been at the very bottom in the nation-wide achievement test for years, he would try to raise the scores on next year’s exam by linking the test results to personnel evaluations and bonuses for school principals and teachers.

8月2日、大阪市長の吉村洋文氏が、記者会見を開き、全国学力テストで大阪市がずっと最下位に甘んじているのはけしからん、来年のテスト結果を教員と校長の人事考課やボーナスに連動させる、と言い出しました。

Upon hearing this, we cannot help but feel the City of Osaka may be at the bottom definitely not because teachers in Osaka are not trying hard enough. But most likely because unfavorable socio-economic backgrounds are working against the students in that area.

これを聞いて、大阪市が最下位なのは決して教員が怠けているわけではなく、おそらく社会経済的な背景が生徒たちの学習を困難にしているからではないのか、と感じざるを得ません。

Ignoring those complex factors and blaming only the teachers for the test results is very misguided to say the least and linking the test results with their bonuses is simply outrageous.

そういう複雑な要因を無視して教員だけを責めるのはすくなくとも誤っていますし、テスト結果を教員のボーナスに結びつけるなどはめちゃくちゃな話です。

Teachers not machines and students are not products. They are all humans.

教師は機械ではありませんし、生徒は製品ではありません。みな人間です。

Fortunately, as far as I know, such a movement is still an exception, not a rule, in Japan. So I hope today's round-table session will be a valuable occasion to learn a lot from Dr. Kulz about what is happening in England as well as to exchange ideas on the issue in order to reflect upon what we can and should do to prevent our schools from degenerating into Factories for Learning.

幸いなことに、私の知る限り、こういう動きは日本ではまだ例外的です。本日はクルズ先生からイングランドで何が起こっているのかを学び、われわれの学校を「工場」に堕落させないために我々には何ができるのか、何をなすべきなのか、を考える機会といたしたいと思います。

Thank you.

後で聞けばなんと50名を超える参加者があり議論も盛り上がって大成功だった、とのこと。オーガナイズしてくださった専担教員各位、サポートしてくださった事務職員各位、そして参加者の皆様、お疲れ様でした。イテテテ。。。




11/27/2018

入試広報の動画、大学のHPで正式に公開となりました。

あらためて、よろしくお願いいたします。

高校生にご紹介ください。


11/25/2018

子ども英語教室の先生方、パワー全開!

今日は、74名の、「アルク Kiddy Cat 英語教室」で子どもに英語を教えている先生がたを対象に、

英語の歌をきちんと歌うとなぜ発音が良くなるの?
- グルグルメソッドで体感する音節感覚 –

というタイトルのセミナーをやらせていただきました。

会場に一歩足を踏み入れたとたんに感じる華やぎ。予想はしていましたが、74名中95%以上が「オトナ女子」の方々ですね。ちょうどお昼休みで談笑中だったタイミングだったこともあり、中高の先生方対象の研修会からはあまり感じたことのない空気中のカラフルなバイブレーションのようなものが伝わってきました。

90分の最初の30分ほどは音節と音符の話をし、残りの50分ほどを All I Want for Christmas Is You を大学でやっているような4人グループ・グルグルをやりました。

グルグルは初めてだったらしく、動きというか動線を飲み込むまでは戸惑っている場面がありましたが、いざ軌道に乗ると、いやぁ凄い。。。

ノリノリで身体を揺らしながら、ぴょんぴょん跳ねながら、あるいはステップを踏みながら、さらには踊りながら歌うひと数知れず。例によって4人グループのひとりでも歌詞をミスったり、記憶が飛んだりするとその瞬間ペケにして容赦なく次のグループに行く、というグルグルの鉄則は適用したので、そのドS方式が新鮮だったのか、大げさに悔しがるオトナ女子、続出。

(なお、発音をミスる人は驚くほど少なかったです。中高の先生がたよりも、ふだんから発音にこだわっている方が多いからか、と思います。)

All I want for Christmas is YOU!! の部分では YOU!!で4人で一斉に私を指さして一歩踏み出してグイグイ迫ってくるグループまで出て、会場全体がけっこうな大騒ぎに!

最後はマライアのビデオを見ながら会場に3本のマイクを回して少しずつ歌うという、大学でもたまにやる手法をとったのですが、マイクが回ってくるとみなさん、臆せず歌う歌う。。。

シンプルに最高に楽しかったです。

またやりたいな。。。





11/23/2018

ある若手教師の気づき:「生徒は発音指導に飢えていたのだ!」

いくつかのポストでも明らかなように、私は先日の語研の公開授業を参観し、質疑応答の際に意見を述べた。その様子を聞いていたある若い中学教師がそのときのやり取りについての感想を書き、それが今日私のもとに転送されてきた。

読んでみると、ああやって性懲りもなくまた敵を増やしながら(?笑)でも率直に意見を言ってみるのは、悪いことばかりではないな、と思える内容である。御本人の同意を得て、固有名詞を削除し(かつ、それに伴って生じる読みにくさを回避するために最小限のeditingをし、明らかな脱字は補い、ブログ上で読みやすいように原文よりも多くの段落に分け)た上で、以下に紹介する。

語研の研究大会に参加し、多くの刺激を受けた。その中でも公開授業は特別で、靜先生からの鋭い指摘が印象的だった。「生徒に発表活動をさせた後に発音指導をしているのですか」と。「今回の公開授業では英語自体に対するフィードバックがゼロである」と。 
英語教師の仕事は生徒が少しでも流暢に英語が話せるように指導することである。子音、母音、リズムなど発音が少しでも良くなるように生徒に指導すべきであり、使っていればそのうち上手くなるというものではない。誤った発音をしたすぐその瞬間に間違いを指摘しなければ生徒の成長は止まる。その成長を止めてしまうかどうかはその場に立ち会った教師次第なのだと感じた。その教師の責任は大きい。 
また、靜先生は若林俊輔先生の言葉を引用し「言語の習得は不完全なものからより完全なものへの過程」であると主張されていた。生徒に嫌われようが、より完全な英語が話せるように、厳しい指導をしていかなければならないと感じた。 
自分の授業を振り返るととても恥ずかしい。今まで発表活動をしてきたが、発音やリズムについて指導してきたことはほとんど無かったのではないかと思われる。今回の靜先生の指摘がそのまま自分の胸にもつきささった。何より、正しい発音を指導できない自分へのもどかしさや、生徒への申し訳ない気持ちになった。自分の授業を変えなければならない、正確な発音を指導できるように自分が成長しなければならないと痛感した。 
語研大会に参加してからは自分の授業に対する姿勢が変わった。次の日のうちに靜先生の『英語授業の心・技・体』を読んだ。また、ちょうど今週から生徒のスピーチの発表活動をする授業があり、生徒の発音ミスを一言も見逃すまいと真剣に生徒の口元を見つめ、耳を澄ますようになった。 
発音の指摘をすると生徒たちは英語を苦手に感じるのではないかという不安もあったが、実際は違った。発音について指摘すると生徒たちは「こうするともっと綺麗な発音ができるのか!」と嬉しそうに自分の指導を聞いていた。中には授業が終わった後も「自分の発音はどこか変なところがありましたか?」と質問してくる生徒が数名いた。 
要するに、生徒たちは自分の発音を良くしていきたいと思っているし、そうした教師からのフィードバックに飢えているのだと気づくことができた。今週の授業ではFの発音を指導し、できるようになったと喜ぶ生徒の顔が印象的だった。綺麗な発音で英語が話せたと喜ぶ生徒を一人でも多く育てたい。そんな教員に一日でも早く成長しなければならない。

これを読んだとき、このことに気づいてもらえてよかった、すぐに自分の授業を変えられる彼は今後どんどん教師として成長できるだろう、彼が教えている生徒たちのためにも私は発言して良かったなぁ、という嬉しい気持ちが半分と、一般的に「発表をさせたときには英語の指導はしない」という practiceがいかに強固に根を張っているのかを改めて感じ、なんでかな~、という呆れた気持ちが半分、の複雑な思いを抱いた。

「発表をさせたときには英語の指導はしない」というpracticeが生じている元凶は、大学での英語教員養成での刷り込みだろうか。教員として生徒に強く出る自信のなかった中高教員が大学教員になり、大学の教員養成課程でそういう刷り込みをして、また生徒に強く出る自信のない中高教員を再生産している、という構図か?

まあそんなことはいまさら嘆いてもしかたがない。すくなくともひとりの若い教師に転機が訪れたことを心から喜びたい。

研究室の窓から見る夕焼け

サプリって SUPRE じゃないんだけどね。。。

池袋の東武ホープセンター内で見かけてしまった気持ち悪い看板。


(いつかの「ベリー・ベリー・スープ」の一件を思い出す。)

店名だからどういうスペリングをつけても勝手なのだが、商品ラインナップから考えて、supplements という意味の「サプリ」だと思ってこういう看板を作った可能性が極めて高い。

そうではなくあえてモジッたのだ、という強弁されるかもしれないが、こういう「もじり」(とは私は信じないが)は、今後英語話者が多く日本を訪れるようになったときに、日本人全体が「バカに」されるネタになる Engrish のひとつになる、ことは指摘しておきたい。


11/20/2018

学生に対する「特別解説」の責任

研究大会に参加し、公開授業を見る教員は、peerの立場で参加しているのであり、その場で意見があればそれを表明することができ、他のpeerの意見を聞き、場合によっては意見を戦わせ、議論することができる。

しかし学生用の別室での「特別解説」を聴く学生は全く異なる。「解説者」に対して気分的に対等な立場にあるとは言い難い。目上の方から「解説」していただく、というone down な立場にある。解説者の側から言うならば「解説」とは、one up な位置からの上から目線の行為である。上から目線であるからには、その内容は概ね議論の余地なく「正しい」とされる、certifiedな autheticated なものである必要がある。その「解説」を聞くために学生が何がしかの料金を支払っているのであればなおさら、である。

先日の語研大会の「特別解説」を聴講したうちの学生の多くが強い違和感を抱いたのは、「このようなジャパニーズイングリッシュでもこんな素晴らしい授業ができる」という趣旨の「解説」だった。(しかも質問の時間は設けられなかったという。)これは「概ね議論の余地なく「正しい」とされる、certifiedな autheticated な」見解か?すくなくとも、それが語研のendorseする見解か?

そういう残念な個人的見解もあるのだろう。しかし私は全く同意しないし、もしそれが語研の公式見解なのだとすれば元・研究員、現・評議員として大変に遺憾である。少なくとも、参加料金を払って聞きに来ている学生にする「解説」の中で言ってよいことではない。

教科教育法の担当者は、語研を信じ、語研大会ならば学ぶことがたくさんあると信じているから、自分の授業を履修している学生に対して参加を指示したり、推奨したりしているのである。もし上の一言が語研の見解であるのならば、自分の教え子に語研大会への参加を呼びかけるのはやめる。







11/19/2018

発音にユルイ語研など語研ではない。

若林俊輔先生は発音に非常に厳しかった。研究員の発音に何度も何度もダメ出しをされていたのをよく覚えている。

当時研究員として約一回り先輩だった新里眞男先生のクリアな英語は、そのハスキーな声質とも相まってとにかく耳に心地よかった。偉大な先輩の背中を追いかけて自分も負けずに精進しよう、と思ったのを覚えている。当時公開授業をやっていたその他の方々もおしなべて英語がうまかった。

あれから30年。今の語研は大多数のメンバーの中に「言いたいことが伝わるなら、多少発音がおかしくても許容したほうがいい」という雰囲気があるのだろうか。

まさかそうではないと思いたいが、もしそうだとすれば、大いに情けないことだ。

「多少発音がおかしくても」の「発音」は「教師である自分の」発音を指す場合と、「教えている生徒の」発音を指す場合があり、このふたつは峻別する必要がある。

(1)言いたいことは伝わるけれど、多少発音がおかしい教師

これは英語を教えて対価を取る資格がない。教壇で英語を口から出す資格はない。一刻も早く「発音がおかしい」という状態を脱する努力をする職業倫理上の義務を負う。

(2)言いたいことは伝わるけれど、多少発音がおかしい生徒

学習者とは、徐々にあまりおかしくない発音ができるように指導してもらう権利をもった存在である。指導の方法、アプローチにはいろいろあってよい。いろいろあってよいが、その授業時間中に何も言ってやらない、のはナイ。拍手するだけなら猿でもできる。

「きょうの力点はそこじゃなかったから」などというみっともない言い訳をするな。ひとつでいいから、その生徒の最も伸びしろの大きい点をピンポイントで指摘して、その場で一回でも練習させろ。それをまた全体で言わせてみろ。3秒もかからない。またそういう「指導」を欲しがり、また歓迎するような生徒を育てろ。

3人でのグループ発表をさせたら、(よほどひどくない限り拍手をした上で)、そのグループ の発表の英語面でもっとも伸びしろが大きい部分、つまり「そこをひとつだけ直せば一番英語としての質が大きく改善するだろう部分を指摘(「ここを〜するともっといいよ」)し、必要に応じて1回だけ、言わせるなどがよい。別に音声面に限らず、文法・ご方面に最も大きい伸びしろがある場合もあるだろう。

小学生でも大学生でも自分が徐々にうまくなっていると実感するのが最も嬉しいことであり、自己肯定感も高まり、さらなる上達に対する動機づけにもなる。

これを読んでいるわが教え子たちよ、肝に銘ぜよ。拍手して終わり、の授業をやったとき、教師としての君も終わり、である。指導しない指導者はもやは指導者ではないからだ。