Total Pageviews

11/19/2018

発音にユルイ語研など語研ではない。

若林俊輔先生は発音に非常に厳しかった。研究員の発音に何度も何度もダメ出しをされていたのをよく覚えている。

当時研究員として約一回り先輩だった新里眞男先生のクリアな英語は、そのハスキーな声質とも相まってとにかく耳に心地よかった。偉大な先輩の背中を追いかけて自分も負けずに精進しよう、と思ったのを覚えている。当時公開授業をやっていたその他の方々もおしなべて英語がうまかった。

あれから30年。今の語研は大多数のメンバーの中に「言いたいことが伝わるなら、多少発音がおかしくても許容したほうがいい」という雰囲気があるのだろうか。

まさかそうではないと思いたいが、もしそうだとすれば、大いに情けないことだ。

「多少発音がおかしくても」の「発音」は「教師である自分の」発音を指す場合と、「教えている生徒の」発音を指す場合があり、このふたつは峻別する必要がある。

(1)言いたいことは伝わるけれど、多少発音がおかしい教師

これは英語を教えて対価を取る資格がない。教壇で英語を口から出す資格はない。一刻も早く「発音がおかしい」という状態を脱する努力をする職業倫理上の義務を負う。

(2)言いたいことは伝わるけれど、多少発音がおかしい生徒

学習者とは、徐々にあまりおかしくない発音ができるように指導してもらう権利をもった存在である。指導の方法、アプローチにはいろいろあってよい。いろいろあってよいが、その授業時間中に何も言ってやらない、のはナイ。拍手するだけなら猿でもできる。

「きょうの力点はそこじゃなかったから」などというみっともない言い訳をするな。ひとつでいいから、その生徒の最も伸びしろの大きい点をピンポイントで指摘して、その場で一回でも練習させろ。それをまた全体で言わせてみろ。3秒もかからない。またそういう「指導」を欲しがり、また歓迎するような生徒を育てろ。

3人でのグループ発表をさせたら、(よほどひどくない限り拍手をした上で)、そのグループ の発表の英語面でもっとも伸びしろが大きい部分、つまり「そこをひとつだけ直せば一番英語としての質が大きく改善するだろう部分を指摘(「ここを〜するともっといいよ」)し、必要に応じて1回だけ、言わせるなどがよい。別に音声面に限らず、文法・ご方面に最も大きい伸びしろがある場合もあるだろう。

小学生でも大学生でも自分が徐々にうまくなっていると実感するのが最も嬉しいことであり、自己肯定感も高まり、さらなる上達に対する動機づけにもなる。

これを読んでいるわが教え子たちよ、肝に銘ぜよ。拍手して終わり、の授業をやったとき、教師としての君も終わり、である。指導しない指導者はもやは指導者ではないからだ。