いくつかのポストでも明らかなように、私は先日の語研の公開授業を参観し、質疑応答の際に意見を述べた。その様子を聞いていたある若い中学教師がそのときのやり取りについての感想を書き、それが今日私のもとに転送されてきた。
読んでみると、ああやって性懲りもなくまた敵を増やしながら(?笑)でも率直に意見を言ってみるのは、悪いことばかりではないな、と思える内容である。御本人の同意を得て、固有名詞を削除し(かつ、それに伴って生じる読みにくさを回避するために最小限のeditingをし、明らかな脱字は補い、ブログ上で読みやすいように原文よりも多くの段落に分け)た上で、以下に紹介する。
語研の研究大会に参加し、多くの刺激を受けた。その中でも公開授業は特別で、靜先生からの鋭い指摘が印象的だった。「生徒に発表活動をさせた後に発音指導をしているのですか」と。「今回の公開授業では英語自体に対するフィードバックがゼロである」と。
英語教師の仕事は生徒が少しでも流暢に英語が話せるように指導することである。子音、母音、リズムなど発音が少しでも良くなるように生徒に指導すべきであり、使っていればそのうち上手くなるというものではない。誤った発音をしたすぐその瞬間に間違いを指摘しなければ生徒の成長は止まる。その成長を止めてしまうかどうかはその場に立ち会った教師次第なのだと感じた。その教師の責任は大きい。
また、靜先生は若林俊輔先生の言葉を引用し「言語の習得は不完全なものからより完全なものへの過程」であると主張されていた。生徒に嫌われようが、より完全な英語が話せるように、厳しい指導をしていかなければならないと感じた。
自分の授業を振り返るととても恥ずかしい。今まで発表活動をしてきたが、発音やリズムについて指導してきたことはほとんど無かったのではないかと思われる。今回の靜先生の指摘がそのまま自分の胸にもつきささった。何より、正しい発音を指導できない自分へのもどかしさや、生徒への申し訳ない気持ちになった。自分の授業を変えなければならない、正確な発音を指導できるように自分が成長しなければならないと痛感した。
語研大会に参加してからは自分の授業に対する姿勢が変わった。次の日のうちに靜先生の『英語授業の心・技・体』を読んだ。また、ちょうど今週から生徒のスピーチの発表活動をする授業があり、生徒の発音ミスを一言も見逃すまいと真剣に生徒の口元を見つめ、耳を澄ますようになった。
発音の指摘をすると生徒たちは英語を苦手に感じるのではないかという不安もあったが、実際は違った。発音について指摘すると生徒たちは「こうするともっと綺麗な発音ができるのか!」と嬉しそうに自分の指導を聞いていた。中には授業が終わった後も「自分の発音はどこか変なところがありましたか?」と質問してくる生徒が数名いた。
要するに、生徒たちは自分の発音を良くしていきたいと思っているし、そうした教師からのフィードバックに飢えているのだと気づくことができた。今週の授業ではFの発音を指導し、できるようになったと喜ぶ生徒の顔が印象的だった。綺麗な発音で英語が話せたと喜ぶ生徒を一人でも多く育てたい。そんな教員に一日でも早く成長しなければならない。
これを読んだとき、このことに気づいてもらえてよかった、すぐに自分の授業を変えられる彼は今後どんどん教師として成長できるだろう、彼が教えている生徒たちのためにも私は発言して良かったなぁ、という嬉しい気持ちが半分と、一般的に「発表をさせたときには英語の指導はしない」という practiceがいかに強固に根を張っているのかを改めて感じ、なんでかな~、という呆れた気持ちが半分、の複雑な思いを抱いた。
「発表をさせたときには英語の指導はしない」というpracticeが生じている元凶は、大学での英語教員養成での刷り込みだろうか。教員として生徒に強く出る自信のなかった中高教員が大学教員になり、大学の教員養成課程でそういう刷り込みをして、また生徒に強く出る自信のない中高教員を再生産している、という構図か?
まあそんなことはいまさら嘆いてもしかたがない。すくなくともひとりの若い教師に転機が訪れたことを心から喜びたい。
研究室の窓から見る夕焼け