最近、「受験読解用」「受験対策用」と教員が銘打った高校の授業をふたつほど観察する機会があり、考えた(悩んだ)ことがあります。
ふたつの授業の共通点は、教師が音読をせず、生徒も音読をしない、ことでした。
英語音声なしでなにをするかというと:
授業Aでは、生徒が黙読しながら、プリントしてある TF 問題に解答し、しばらくしてから教員主導で答え合わせをし、最後に1回だけ音声CDをかける (これは授業の1部分なので、全部で10分くらいでした)
授業Bでは、1時間かけて2パラグラフの1文、1文を、精読してゆく(精読のしかたは後述します)
というものでした。
授業Aで引っかかったのが、最後に音声CDを1回だけかける、というところです。どうしてかけたのですかと尋ねると、「発音の確認をさせたかった」とのことです。確認しなければならないとすると音声があやふやな英文を黙読していたことを承知していた、ということになります。
もちろん受験でも実生活でも、知らない単語を含む英文を読むことはあるでしょう。しかし、文字をみて読めない(音声化できない)単語があるような状態で黙読することにどれだけ意味があるか疑問です。
そのような不安がある状態ならば、黙読で問題を解かせる前に聞かせなければならないのではないでしょうか。
授業Bで引っかかったのが、教師からの発問および生徒同士のペアワークの内容が、私の基準では過度に分析的、分類的、明示的な文法観、構文観、リーディング観にもとづいているように思えたことです。
of の意味にはいくつあったっけ?
等位接続詞にはいくつあったっけ?
-ingが現在分詞か動名詞か見分ける基準はなんだっけ?
makeが、(1)つくる、のか(2)変える、のかを見分ける基準はなんだっけ?
と言った発問が主体です。
彼の発問の8割は、私には答えられないものでした。
そういういわば予備校授業的な発問を主体に授業は進み、それに生徒はよく答え、またテンポよく進められるペアワークでも、AさんがBさんに言う内容は、そういった文法的用法の分類名ラベルを列挙する、といったもの、あるいは、指定された文、フレーズをうまい日本語に直した訳文を言う、といったものです。
どうなのでしょうか。私は自分自身がそういう明示的分類的文法分析を学習者としても通って来ておらず、いまだに第◯文型とは何なのか知らないというか覚えていないし、SだVだOだCだと言われると蕁麻疹がでる(のは盛ってますが)くらいなので、そういう宣言的知識を増やすことがどれだけ、読解スキルという手続き的知識につながるのか確信が持てません、というのは控えめな言い方で、懐疑的である、というのが正直なところです。
50分間をつかって2パラグラフの解読および日本語訳練習が終わっただけ、というのも、50分間の使い方、バランス、コスパとしてどうなのだろうか、という気がします。
英文の修飾関係、構文を自力でつかむ訓練は大切と思いますが、それは時間の5割に押さえて、のこりの5割は、意味と構造のわかった英文を読み込み、そのフレーズ感覚、構文感覚、左から右感覚を少しでも身体に染み込ませるように、血肉化するように、繰り返し鍛錬するほうが、総体的に、次の新しい英文に立ち向かう自力はつくのではないでしょうか。
そして黙読と音読の比較ですが、音読すれば意味と構造が見事に音声的(セグメンタルも、ポーズも、フォーカスの位置も、強弱も、ピッチの抑揚もすべて)に表現できる学習者なら、黙読だけでよいと思いますが、それができない学習者が、脳内に適切な音声イメージが再生できないような状態で視覚にたよった、つまり脳内音声化がまともになされない黙読だけをくりかえしても、それがどれだけ言語獲得に資するのか、疑問です。
「コミュニケーション英語」の授業と、「受験対策読解」の授業と、方法を変えるということ自体が、どうも腑に落ちません。コミュニケーション英語にもっとも有効な授業方法、学習方法が、読解すなわちリーディングにも有効であり、読解に有効な方法はそのままコミュニケーション英語にの有効だと思います。リーディングというのは、紙に書かれた英文から、書き手の意図、意味をつかみとるという、コミュニケーションそのものだからです。
「本番」のテストでは、ひとりで、辞書もつかわず、黙って、問題を解く、から、それに熟達するためのもっともよい方法は、その条件を再現して、ひとりで、辞書も使わず、黙って、問題を解く、ことではないでしょう。
ひとりで、でないことは異論がないでしょう。でなければ、授業しないで自習が一番となります。
辞書も使わず、でないことにも異論はないでしょう。辞書をつかわず推測する訓練、あるいは読み飛ばす訓練も多少の価値はあるであろうものの、より重要なのは辞書などを使って語彙のサイズ、深さを拡充し、また語彙認識の速度を増すことのほうが圧倒的に重要なのは火を見るより明らかです。
黙って、はどうでしょうか。「本番」では黙って読むから、黙って読めるようになるためには、黙ってよむことを繰り返すほうがよいのでしょうか。わたしにはどうもそうとは思えません。いまだにへっぽこドイツ語を頑張っているのですが、スラスラ、正しい発音で、構造をとらえた読み方で音読できない私が、字面だけを目でおってドイツ語文章を読むことが、ドイツ語読解力を向上させるとは思えません。黙読する資格がある、言い換えれば黙読から利益を得られるのは、音読に十分熟達している学習者、あるいは、その文に関しては十分に適切な音読ができる学習者だけ、なのではないでしょうか。
You need to be good enough at oral reading to be able to benefit from silent reading practice. If you want to be good at silent reading, be good at oral reading first.
問題を解く、のも、それがよくできるようになるための近道は、問題を「解く」ことである、はずはありません。本文とそれについての質問文によく答えられるようになる方法は、本文と質問文をきちんと理解することであって、べつに「問題を解く」訓練はいらないはずです。数学の問題とはわけが違うのですから。「解法」などはありません。書いてあること、聞こえてくることの意味がきちんとわかることが出発点であり到達点であり、必要にして十分なことではないかと思います。
いつの日か、正しく parsing できて、効率的に意味処理ができるようになる近道が、ごてごてした文法用語と用法ラベルを引き出しに貯めこむことことだ、というのは myth なのではないでしょうか。
ただ授業者の名誉のために言っておくと、授業Bの先生の授業テンポはすばらしいものでした。発問も、個人指名した生徒がうまく答えられないとすかさず、「ペアで相談!」と指示し、「◯◯を15秒で。15,14,13、、、、3,2,1、終了!」と 盛り上げ、「これはまず個人で考えて!」10秒後に「じゃあ、ペアで相談!」など、非常にキビキビと指示の通る、めまぐるしく展開が変わる授業は見ていて気持ちの良いものでした。ただその発問の中身、ペアワークの中身が、私には違和感が大きすぎるものだ、というだけです。
さすが、我が教え子。今日の授業は「受験用読解」だということでしたが、「普通」の授業では新作の技をいくつも開発したということで、見せてもらうのが楽しみです。