小学校の先生ですからもともとピアノ伴奏や歌はお手のものですし、児童に対する英語の指導もずっと以前から実践していて、大学院で私の授業をとったことによって、さらにブラッシュアップされたと思います。
その彼女が男性ボーカリストとユニットを組んで敬老の日に慰問としてホームに行き、一時間のパフォーマンスの一部として、なんと Let It Be を教えた、というのが、上のタイトル。以下、ご本人の了解を得て、メールの一部を紹介します:
Let It Be だけホームのみなさんに歌っていただくために、概ね80代の方達相手に L の指導。
「今誤嚥性肺炎が問題になってますが、舌の体操や口の周りの筋肉を鍛えるのは大切、 英語は普段使わない舌の動きをするのでいいですよ~」といって、 前歯の裏に舌を押し付けて Lぅ~~
比較的元気な入居者が多かったのですが、30名近い方が一斉に、Let It Be .
個人にマイク向けてもちゃんと応えてくれて感動しました。おお、お年寄りたちが Let It Beを歌っている情景を想像するといいですね。確かに使わない口内筋肉を鍛えるのは誤嚥性肺炎の予防にいいかも。
少し話がはずれますが、10年ほど前、アイルランドでワーキングホリデー中の次女を訪ねて、 コークからダブリン行きの列車の切符を買おうとしたら、駅員が、 カードを持ってるならそこのコンピュータから予約すると安い、 とすぐそばのコンピュータを指差しました。
それが半端な割引じゃなくて、 ほとんど窓口で買う料金の半額だったんです。英語ができて、 コンピュータが使えて、カードが持てる人間は、 そうじゃない人間の半額の値段で列車に乗れる。 アイルランドは移民も多いし、 全ての人がパソコンを扱えるわけでもないのに、 こんなことはおかしい、間違ってると思いましたが現実でした。
帰ってから教室でこの話を子どもたちにしました。自分は、 里山にこもって、 土地を耕して一生外国に行かないし英語を使わないというのは、 それはそれで素晴らしいし立派な生き方だけど、 自分でそれを選ぶ、というのとそれしかない、というのとは違う。 なんになるかわからないから、可能性は広げおけ、と言いました。
人生の選択肢を広げるために、英語はやる価値がある。説得力がありますね。
小学校で本格的に英語教育が始まるにあたって、いわゆるリベラルといわれる知識人のなかにも、 英語は全ての人が身につける必要はない、 というのを聞くことがあります。 英語は楽器や絵画とは違うと思うし、 少なくとも現職の英語教師がこれを口にするのは許せない思いです 。
もちろん、すべての人が通訳者や、音声学者になる必要はないというならわかります。でも、 小学校3年から始めて、5年から教科として、4年間、 中学校で3年間、高校で3年間。まともな英語教育が、 10年間行われて、 全員2級レベルがそんなに難しいことでしょうか。 目標がそこに置かれたなら、 全員そのレベルに達するように奮闘するのが、 英語教師の仕事でしょう。
それがその子に大きな意味をもたらすか、 誤嚥性肺炎の予防程度に役に立つかはその人の人生であって、 英語教師の仕事ではないと思います。 小学校英語教科化を機にまともな英語教育が進みますように。
実際に小学校で音声面を中心にしたかなりの英語教育を長年実践してきた彼女の「目標がそこに置かれたなら、全員がそのレベルに達するよう奮闘するのが、英語教師の仕事でしょう」という言葉に、現場教員としての私は強く共感するものがありましたので、ここで紹介させていただきました。
「シニア歌会」ますますの発展を祈っています。