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3/17/2018

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)における『英語授業の心・技・体』の誤引用は、増刷時には削除されます。

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)(以下、『タスク・ベース』による誤引用事件が決着しましたので、その顛末を時系列を追って改めて説明します。

結論

『タスク・ベース』のp. 43, l.29「(靜, 2009)」および、p.245, l. 9 「靜哲人(2009).『英語授業の心・技・体』東京:研究社」という記述は、同書の増刷時には削除される。

発端

2018.1.9

教職志望学生対象のセミナ−の教材としてあつかっていた教員採用試験の過去問題の中に focus on form という用語が出てきたので、この概念について簡潔な日本語による説明のある文献がないかと思って何冊かブラウズしている時、次の書籍を手に取った。

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)

その pp.37-62 は、

福田純也(2017)「第2章 タスク・ベースの言語指導と認知のメカニズム -- 第二言語の学習を促す心理的要因」

である。

その p. 43に、次のようにあるのを発見し、目を疑った(下線は私が付した)。

基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる。しかし,第二言語習得の実証研究の結果が示すところでは,言語表出の正確さが必ずしも流暢さより先に発達するとは言えないようである。
ちなみに、「靜,2009」とは拙著、『英語授業の心・技・体』(研究社)(以下、『心・技・体』)のことである。

『心・技・体』では、「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考えはどこにも書いていないし、著者である私にもそのような考えはもともとない。明らかな誤引用である。

異議申し立て

2018.1.12

このような誤引用に基づく批判(『心・技・体』および著者である靜に対する批判)が、すでに書籍として公刊され市場に流通しているという状態は看過できなかった。靜は大東文化大学英語学科の「教科教育法(英語)基礎AB」で、さらに遡れば前任校の埼玉大学の「英語科指導法」で、『心・技・体』を教科書に指定し、これまで授業を展開している。今後もそうするつもりでいる。

上のごとき誤引用を放置しておくのは、「大東文化大学また埼玉大学では時代遅れで誤った考えに基づいた書籍を教材として学生に購入させて授業を行っていた/いる/これからも行う」ということが世間に喧伝されているのを認めることと等しい。

過去、現在、今後の私の授業の学生に対する責任としても、また『心・技・体』の著者として、一刻も早く異議を申し立て、それが誤引用であることを広く一般に知らしめることが必要だと考え、その旨、本ブログにポストした

その上で、そのポストを添えて、それについての著者の見解を伺いたい旨を大修館書店にメールした。

出版社からの受信連絡

2018.1.15

なるべくていねいに確認させていただいてお返事をさしあげたいのでしばらく時間をいただきたい」と著者が言っているので、回答には時間的猶予をお願いします、という旨のメールが大修館書店の担当編集者からあった。

「ていねいに確認」してくれるということだから、先方が『心・技・体』を改めて読み直した上で、上の引用が確かに明らかに誤っていた、あるいは不正確であったことを認識してくれることを靜は期待し、待った。

ブログポストその2掲載

2018.1.20


著者の方、ていねいに確認してくださっているそうです


タスク・ベース回答来る

2018.1.31

大修館書店を通じて紙に印刷された回答が郵送/転送されてきた。編者である松村昌紀氏と当該章の著者である福田純也氏の連名による、A4用紙3ページの回答である(以下「タスク・ベース回答」)。

本来は、ここでその全文を公開すべきだと考えている

発端は、すでに公刊された著書(『タスク・ベース』)による、公刊されている著書(『心・技・体』)に対する、誤引用に基づく批判である。それに対する異議を私はブログで公開し、その公開しているという事実を明らかにした上で、『タスク・ベース』の著者に見解を問うた。それに対して半月以上の時間をかけて紙ベースで郵送されてきたのが「タスク・ベース回答」である。

当然、『心・技・体』『タスク・ベース』双方の読者にも見えるように、受け取った私がそれを公開し、それについて公開で考察・反論する、ことができる性質のはずの「公開可能な公式回答」である。

ところが、大修館書店を介した伝聞によれば、松村氏・福田氏は、「タスク・ベース回答」の公開はやめてもらいたい、と考えているそうである。なぜかと言うと「タスク・ベース回答」は「私信だから」とのことである。

私は、一面識もない松村氏・福田氏からの「私信」を受け取ったのではない。プライバシーに関わることも、私事も一切書いていない、全編が靜の異議申し立てに対する回答である。私信などではなく、刊行物である『心・技・体』の著者として、刊行物である『タスク・ベース』の著者に正式の回答を求め、その結果、出版社を介して送られてきたものが「タスク・ベース回答」である。

それを「私信だから」と言って公開を拒む理由は、私にはひとつしか考えつかない。すなわち、書いた松村氏・福田氏自身が、公開に耐えうる回答内容ではないことを、感じているからだ、としか考えられない。公開されるのが嫌なら、刊行物の著者として、正々堂々と公開してよい回答を送ってくるべきである。

このように考えるが、とりあえず、武士の情け(?)で、ここでの全文公開はしないこととし、以下では、『タスク・ベース回答』を部分的に引用、また全体的に要約して、論を進める。

『タスク・ベース回答』についての考察

1 全体から受けた印象

この回答を読んで「盗人猛々しい」ということわざを想起しないのは私には不可能であった。要旨は、「貴殿の批判はまったくあたらない。逆に貴殿のブログの表現は遺憾なので修正されたし」というものだったからである。2週間以上『心・技・体』を「ていねいに確認」していたのではなく、どうやったら自分たちの非を認めずに済むかの理屈をこねくり回していたのだろうと推測された。

2「タスク・ベース回答」の要点

先方の誤引用に抗議している側として、私のほうが誤引用をしないよう気をつけたうえで、要点を記してみると、以下のふたつになる(わかりやすいように、端的なタイトルをつけてみる)。

(1)「文法は広義だ論」
自分たちは「文法」という用語を広義で用いている、すなわち「音声も統語もふくむ言語の体系」という意味で用いている。だから「文法指導は論じていない『心・技・体』を、ここで引用しているのは不適切だ」という靜の抗議はあたらない。

(2)「読み取れる信念だ論」
『心・技・体』には「言語形式の正確さの獲得は、流暢さの獲得に先行すべきだ」とは書いていないが、そういう信念を本全体から読み取ることができる。だから靜の抗議はあたらない。


3 2つの要点に関する考察
3.1 「文法は広義だ論」について

「文法は広義だ論」にはかなりの無理がある。『タスク・ベース』では「文法」という用語をひろく「言語の体系」という意味で用いている、というのだが、『タスク・ベース』の200ページ以上の中で、何度となくでてくる「文法」という用語をすべて「音声も含めた言語の体系」という意味で読んでくれ、というのは控えめにいって読者にかなり無理を求めているといえる。実際に読んでみればそれが無理であることがわかる。

ただ読む側にとってどんなに無理であっても、自著で用語をどのような意味で用いても筆者の自由ではあるので、「自分たちはAという用語をBという意味で用いているのだ。だからAとあってもBと読んでもらいたい」といわれれば、基本的には「はあ、そうですか」と言う以外にはない。

そこでその要望にしたがって、当該箇所を書き直してみる。「文法」を「言語の体系」と置き換えると次のようになる(置換は下線部)。

基本的に,ドリル活動や言語の体系問題ヘの解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に言語の体系のトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。しかし,第二言語習得の実証研究の結果が示すところでは,⾔語表出の正確さが必ずしも流腸さより先に発達するとは言えないようである。

単に置換してしまうとさすがに日本語表現としてはおかしいので、私が異議を申し立てている第2文を、言葉を補いながらパラフレーズすると以下のようになる。(言葉を補ったのは下線部)

発音面、統語面などすべてを含む言語形式一般に関して流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に発音面でも統語面でも正確さを高める、あるいは獲得するためのトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。

こうしてみても、これは明らかに誤った引用である。『心・技・体』が言っているのは「発音面の正確さは流暢さに先行すべきだ」ということである。それを「言語の形式面一般の正確さは流暢さに先行すべきだ」という「考え」の例として『心・技・体』を引いているので、「すべての面での正確さは流暢さに先行すべきだ」と『心・技・体』が言っていることになってしまうからである。(事実は図1であるのに、図2だと言っている)。


  
そしてこれは「タスク・ベース回答」の「自分たちは『タスク・ベース』では「文法」という用語を広義で用いている」という、誰がどうみても苦しい主張を認めた場合の話であって、そんなことは知らず虚心で『タスクベース』を読む普通の読者には、『心・技・体』には図3のようなことが書いてある、と誤解されるはずだ。



「文法は広義だ論」についてのまとめ

「文法は広義だ論」は強弁である。通常の読者はそのような読み方はしない。よって通常の読者には『心・技・体』の内容が誤解される。仮に「文法は広義だ論」にそった読み方をする読者がいたとしても、やはり『心・技・体』の内容は誤解される。すなわち『タスク・ベース』でもちいている「文法」が広義であろうが狭義であろうがは、そこに『心・技・体』を引いているのは明らかに誤りであり、不適切である。

3.2 「読み取れる信念だ論」

「読み取れる信念だ論」はあたらない。第一に、『心・技・体』にはそのようなことはどこにも書いていない。第二に、『心・技・体』の著者すなわち靜にはそういう信念はもともとない。だから、ないものを「読み取れる」はずはない。もしそう「読み取れた」のなら、その者の読み方が誤っている。

『心・技・体』の読者なら誰でも知っているように、筆者である私の信念を端的にまとめたものが、巻末にまとめた「靜流英語授業道 心・技・体 十五戒」である(pp. 202-203)。当然であるが「十五戒」には、「英語全般の指導において、まず正確さを獲得させてから、その後に使うトレーニングをすべし」などという戒律は存在しない。今回の件に多少なりとも関連するのは以下の4つである。

六. 「通じる」ことは必要条件であって十分条件ではない。意味が通じる英語をさらに良いものにブラッシュアップしてやれる場所は教室しかない。「通じればよい」という世間の基準に合わせていては、コーチングの専門家たる教師の存在価値がない。

七. 生徒のパフォーマンスは常に評価してそれを伝えよ。どんな場合にも足らない点を見つけてダメを出せ。ダメ出しとはすなわち向上のためのヒントでありアドバイスである。評価のない発表は時間の無駄遣いと心得よ。

十一. 生徒に音読させる時は、耳を澄まして音を聞き、目をこらして唇の動きを見よ。自分では気づかないダメな点、足らない点を発見してやり、もっと上手くなるためのアドバイスをしてやるために音読はさせるのだ。

十二.  発音や文法など、英語の形式面で改善すべき点は日本語できちんと指摘してやれ。内容本意のやりとりを続ける中でさりげなく正しい形を聞かせるようなESL式では、EFLの日本で生徒に伝わるまで100年はかかる。

要するに『心・技・体』から読み取るべき私の指導信念の肝は、「発音でも文法でも、生徒のパフォーマンスをやらせっぱなしにしないで、きちんとフィードバックせよ」ということである。『タスク・ベース』や「タスク・ベース回答」が言うような、「パフォーマンスは正確さが育ってからにしろ=正確さが育つまではパフォーマンスはさせるな」という信念などではない。

「読み取れる信念だ論」のまとめ

「読み取れる信念だ論」は滑稽である。著者が書いていないこと、そして信じてもいないことを著作の行間から「読み取れる」と強弁するほど滑稽なことがあろうか?

4 まとめ

以上で明らかなように、『タスク・ベース』の中の、以下の下線部で『心・技・体』を引用したことは誤りであり不適切である。『心・技・体』に書いていないこと、著者の靜がそう考えていないことを、「靜2009の考え」としているからである。

基本的に,ドリル活動や文法問題ヘの解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。
私はこの『タスク・ベース』の記述が「学術的な倫理に背く」とまでは考えない。おそらくなんらかの誤解によって生じた残念なヒューマン・エラーであると考える。誤りを認め訂正すればよいのだ。しかしながら「タスク・ベース回答」のように、その誤りを指摘されながら、それは誤りではないと強弁し続けることは、これは教育的かつ学術的な倫理に背くものだと考える。引用された著作物を世間に誤解させつづけ、その著作物の著者の名誉を貶めたままにする行為だからである。


交渉および決裂

2018.2.1 〜 2018.3.14

この期間に靜は、もっぱら大修館書店を介して、以下の4つのことが実現されるよう努力した。

(大修館書店ご担当者からは、ある時点で「いつまでも我々を通さないで、直接やりとりをされたほうが誤解も解けるのではないでしょうか?」との示唆があり、私も同意して『タスク・ベース』編著者との直接のやりとりを望んだのだが、残念ながら先方からは拒否されため、最初から最後まで、大修館書店を通じたもどかしい「伝言ゲーム」をせざるを得なかった。)

(1)編著者が、当該の引用が不適切/不正確であったことを認めること。
(2)増刷時には当該箇所から『心・技・体』の引用を削除すること、を確約すること。
(3)増刷はいつになるのか不明であるため、それまでの救済措置として大修館書店のHPなどで、「増刷時には削除する」ことを公表・明示すること。
(4)上記(2)および(3)が実現された場合には、靜は1月12日および1月20日のブログポストを削除し、簡潔に「誤引用があったが増刷時には削除されます」ことだけを伝えるブログポストを改めて行うこと。

詳細を省略して結論だけを記すと、

(1)は編著者に拒否された。
(2)は編著者と大修館書店の合意で決定された。
(3)に関しては編著者より、次の文言の大修館書店HP掲載を逆提案された:

「靜哲人氏からの要望により、p.43, l.29 「(靜,2009)」および, p.245, l.9 「靜哲人 (2009).『英語授業の心・技・体』東京:研究社」は本書増刷時に削除することとします。」

靜はこの提案を拒否した。理由は「靜哲人氏からの要望により」という文言は、「自分たち編著者に責任はなく、自分たちは当該引用が不適切とは認めないが、靜氏が要望してきたから、致し方なくそれに応じてやる」というニュアンスがある、責任転嫁のための表現だからである。このような文言を掲載されるくらいなら、掲載の要望自体を取り下げ、本ブログでその「削除される」という事実を公表し、それに至った経緯を自ら説明したほうがよい、と判断したからである。

当然、(4)は、(3)で合意できなかったため、行わないこととした。


結語

以上の顛末を経て、冒頭にも記した次の結論となった:

『タスク・ベース』のp. 43, l.29「(靜, 2009)」および、p.245, l. 9 「靜哲人(2009).『英語授業の心・技・体』東京:研究社」という記述は、同書の増刷時には削除される。

増刷時には誤引用は削除されるという最低限の措置は(推測するに大修館書店担当者の説得もあって)実現することとなったが、増刷が実現されるまでの年月に市場に出回る『タスク・ベース』一冊一冊によって、『心・技・体』が誤解され、著書と著者の名誉が毀損され続ける、という事実には変わりない。それが大変遺憾である。

最後の最後まで非を認めずに強弁する姿勢を崩さず、しかしその強弁を公開されることは拒み、かつ私と直接やりとりをすることから逃げ回ったとしか思えない『タスク・ベース』の編著者に対しては、今は軽蔑と憐れみしか感じない。

(もし「そうではない、逃げてなどいない」と言うならば、今からでも改めて主張を送ってこられたし。ただしそれらはすべてこのブログで公開した上で当方の考えも公開するので、それを前提に、世間に知られて恥ないものだけを送ってくるべし。)

一方で、最後の最後まで著者同士でのより円満な解決を模索してくださり、良識と誠意を持って対応してくださった大修館書店のご担当者諸氏には、心より感謝しています。ありがとうございました。

以上

※「タスク・ベース回答」の全文を希望されるかたは、メールでご希望をお知らせいただければお分けいたします。

※なお、この誤引用事件の顛末をより詳しく記述して研究論文に仕上げ、学内ジャーナルに投稿し、掲載されたものをCiNiiに公刊すべく鋭意準備中です。