私信だから公開しないでほしいと言っていた本人が公開したので、私信だという認識を変えたのだと判断し、以下に「タスク・ベース回答」を公開し、その後に、その内容の「イミフ」性を指摘する。
ただし、すでに指摘した「文法は広義だ」論、と「読み取れる信念だ」論についての批判は繰り返さず、「タスク・ベース回答」の本文を参照しないと理解が困難であったと思われる、2つの論点、「綴りや時制のことを言っているじゃないか」論、と、「タイプライターのことを言っているじゃないか」論 についてだけ、あらたに考察を記す。
2.タスク・ベース回答
以下が「タスク・ベース回答」の全文である。
靜哲人様
前路
拙著に対してのご意⾒どうもありがとうございました。以下のように返答申し上げます。
ご質問の中で言及されているのは,松村昌紀(編)『夕スク・ベースの英語指導--TBLTの理解と実践』の第2章,福⽥純也著「夕スク・ベースの⾔語指導と認知のメカニズム---第⼆⾔語の学習を促す心理的要因」43-44頁の以下に引用する箇所(以下,当該箇所)です。
基本的に,ドリル活動や文法問題ヘの解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正礎な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜,2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い、その後で流暢さを鍛えるような活動に移⾏するという⼿順が採⽤されることになる。しかし⼼⾔語表出の正確さが必ずしも流腸さより先に発達するとは言えないようである。
この簡所に関する貴殿のご異議の主旨は,靜(2009)すなわち『英語授業の心・技・体』研究社(以下,『心・技・体』)において正確性について論じている部分がすベて発⾳に関することであり,文法に関しては述ベていないにもかかわらず,福⽥(2017)において文法について⾔及する文脈で触れられているという点にあると理解いたしました。
ご異議の内容と,該当章の著者である福⽥の意図との齟齬に関して,重要なのは以下の2点であると考えます。
1.二者間で「文法」が指し示す意昧に相違がある
2.福⽥(2017)の当該箇所は「靜(2009)から読み取ることのできる信念(belief)」について言及したものである
これらの2点について説明を致します。
まず,1についてです。近年の⾔語指導⽅法論に関する議論では,「コミュニケーション」に対して,音声と形態統語的特性の両⽅を含めて「⾔語の形式的側面」という扱いをすることが少なくありません。このような文脈を踏まえ,本書では「文法」という語を広く「⾔語の体系」という意昧で⽤いています。したがいまして,当該箇所は「音声的側⾯,形態・統語的側面をともに含むものとしての⾔語体系の指導に関して,個別的なポイントに焦点を当てて明示的・意識的な理解を高めたうえで,それに基づいてその後のことを展開するベき」との主張全般に言及しているものとご理解ください。全体のコンセプトとしては,⾔語の形式・文法的側⾯の指導というときに本書は全体を通して「⾳形」の指導のことも対象として排除はしていないということです。
その上で,貴殿が当該箇所を「狭義の文法」(統語・形態的統語規則およびその意昧とのマツピング)に⾔及したものと理解され,ご⾃⾝の⾳声⾯の指導についての主張を逸脱した内容だとお感じになったとしたら,そして本書の読者層を鑑みて「文法」という⾔葉によって統語的・形態統語的規則のみを指すと理解されるだろうと懸念されるようでしたら,増刷の際,当該箇所を「形式」という,より⾳声を含む意昧で使用される語で置き換えることを検討したいと思います。さらに,⾳声指導と狭義の文法の指導をまとめて扱うことの妥当性については,学術的にさらに理解を深めていきたいと思っています。
しかしながら,『心・技・体』には,⾳声の正礁さに関する主張がほかの領域にも適応可能であると読める文章が少なからずあります(そうであるがゆえに福田(20l7)において引用をさせていただきました)。たとえば『心・技・体』12-l3⾴では「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単現は不要?」「冠詞は不要?」というセクションにおいて,発⾳に当てはまることが,綴りや形態統語的(狭義の文法)についても同様に言えることが述ベられております。さらに,ご質問文書中にも言及がありますが,正確さを向上させてから流暢さを求めることの理由として,『心・技・体』では18-19頁に,
話をわかりやすくするため、英語の発音ではなく、タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると、流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると、「タイピングの正確さを気にしすぎると、タイプス ピードが育たないから、正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり、いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。
とあるのをはじめ,「正確さ」をめぐっての⾳声以外の領域に関するアナロジー・による言及も再三なされています。このことから,今回の引用は,『⼼・技・体』から⼗分に読み取れる内容に従ったものであり,私たちにおきましては引⽤⾃体が不適切なものであったとは考えておりません。
続いて,2についてご説朋いた.します。当該箇所において,引用の「靜,2009など」は,その直前の名詞「考え」にかかっております。これは英語教育に関する⼀般的な指導信念(belief)について述ベているもので,そのことを読み取ることのできる公刊された文書の1つとして靜(2009)を拳げているものです。たとえそれが貴殿において「⾒間きしてきた範囲において真実であり」,「真理」(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)であるとお考えであるとしても,それは当該文脈上「信念」にカテゴライズされるものです。引⽤の際に『心・技・体』に含まれる文を直接引⽤しなかったのは,そうしたことが『心・技・体』の断片的な引⽤によって読者が理解できる範囲を超えており,『心・技・体』全体を読み解くことから理解できる,全編を貫く信念に関することであると判断したからです(なぜそう読み取れるかという埋由は1に関するお返事を参照してください)。これは学術的には極めて⼀般的な引⽤形態であり,本引⽤は決して横着に起困する杜撰なものではなく,⼀般的な形式に従った適切なものであると考えております。
また,「(靜,2009など)」という言及のしかたに関しては,初稿において当該部分は「(e.g.靜,2009)と表記されていました。しかし,1つの特定的な研究を取り上げて批判/糾弾しようとの意図は私たちにはなく,本書の読者層に鑑みてそのように受け取られることを最大限回避したいとの思いから,編者および他章執筆者との検討の中で全章の表記を統⼀した際に置き換えられたものです(したがって,ご指摘にあるように貴殿による複数の著作を指しているというわけではありません)。増刷時には,靜(2009)とともに,狭義の<文法>について同穣の主張をしている研究を併記することを検討致します。
最後に,今回ご指摘を受けた点だけでなく,本書には読者のあり得る解釈を⼗分考盧し,改めて表現を吟味すベき箇所があろうかと思いまず。ご指摘によってそのような意識を高めていただいたことに感謝申し上げます。しかしながら,ここまで述ベてきましたように,著述に学術的な倫理に背くような根本的な誤りがあるとは,私たちとしては考えておりません。ご質間書と同じ内容が掲裁された貴殿のブログに2018年1⽉20⽇付で新たに掲載された記事(http://cherryshusband.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)にあります「棄損された名誉」といった,本書執筆者が法を犯す⾏為を行つたかのような記述に関しては誠に遺憾に存じます。近年の学術界において研究不正に対する厳しいまなざしがある中,社会的な影響も考盧され,当骸記事を修正または削除していただくことを希望致します。
草々
2018年1月31日
松村昌紀・福⽥純也
(タスク・ベース回答 おわり)3 「タスク・ベース回答」に関する考察(一部)
3.1 綴りや時制のことを言っているじゃないか論
「タスク・ベース回答」は次のように言う:
しかしながら,『心・技・体』には,⾳声の正確さに関する主張がほかの領域にも適応可能であると読める文章が少なからずあります(中略)たとえば『心・技・体』12-l3⾴では「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単現は不要?」「冠詞は不要?」というセクションにおいて,発⾳に当てはまることが,綴りや形態統語的(狭義の文法)についても同様に言えることが述ベられております。意味不明な論理である。「正確な綴りは不要?」「時制は不要?」「3単現は不要?」「冠詞は不要?」というセクションで私が平易なことばで言っているのは、読んでもらえば分かる通り、
「文脈があるから発音など不正確でよい、と言う人は、文脈があるから綴りなど不正確でもいい、時制や動詞の変化形など不正確でもいい、冠詞など不正確でいい、と言うのでしょうか?言いませんよね。だったら発音にだってそんなことを言うのはおかしいでしょう?文脈があるから発音など不正確でよい、とはなりません。」
ということである。それをもってして、
「『心・技・体』は、発音も(狭義の)文法も、まずは正確性を身につけさせてから、その後に流暢さの指導に行くべきだと言っている」
と思う人がいたら、その人は控えめに言って日本語の読解力が人並み外れて低い、と言わざるを得ない。綴りや文法の正確性を気にするなら同じように発音の正確性を気にせよ、と言っているのを、発音も綴も文法も、正確性を身につけさせてからその後で流暢に使う練習をさせよ、という「順番」の話にすり替えてしまうのだ。言ってることがまったく違う。
しかし『タスク・ベース』の著者は大学の教員であって、日本語の読解力が人並み外れて低い、ということは考えにくい。ではなぜ、「タスク・ベース回答」には、「文法を含む言語指導全般においては、正確さを担保してから、そののちに流暢さを養成する活動に移る、という順序は守らねばならない」などという、『心・技・体』には存在しない信念が、
「『心・技・体』全体を読み解くことから理解できる,全編を貫く信念に関することであると判断した」
などと言うのであろうか。
率直に言って、私にはわからない。全編はきちんと読んでいないからだろうか、あるいは先入観をもって眺めたのでそう思えてしまったのだろうか、またはその両方だろうか、等々と、推測することしかできない。
3.2 タイプライターのことを言っているじゃないか論
『心・技・体』には次のように書いた。
話をわかりやすくするため、英語の発音ではなく、タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると、流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると、「タイピングの正確さを気にしすぎると、タイプスピードが育たないから、正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり、いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。
この記述をとりあげて、「タスク・ベース回答」は、
「「正確さ」をめぐっての⾳声以外の領域に関するアナロジーによる言及も再三なされて」いるから『心・技・体』は、音声も文法も正確さを身につけさせてからその後にスピードを身につけさせるトレーニングに移るべきだと言っているとするのである。
大変失礼ながら、本当に大丈夫だろうか? 誰でも見ればわかるように、私が言っているのは、
「タイピングの練習ではまず正確にキーをタイプできるようにして徐々にスピードを上げるのと同じように、発音の練習でもまず正確に調音できるようにして、徐々にスピードを上げてください」
ということである。タイピングのアナロジーを出したのが、どうして文法(狭義)に関して私が何か言っていることになるのか?どうして、『心・技・体』は発音だけでなく文法なども正確さを担保したのちに、スピード訓練にいくべきだ、と言っていることになるのか?誰も(狭義の)文法の指導にあたっての順番の話などしていない。タイピングというモータースキルに当てはまることは、発音というモータースキルにも当てはまる、と言っているだけである。
以上