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6/29/2014

吸わないのはいいけど。。。

こんばんは。

みなさんの、レポートやメールに散見される表現、「すいません」について指摘しておきます。

言うまでもなく、正しい表現「すみません」とは、「済みません」であり、「このまま何もつぐないをしないのでは済まないほどのことを私はやってしまいました。」という意味の、軽い謝罪のことばです。

しかし sumimasen (すみません)は、mの部分で両唇をつづけて2回、合わせる必要があるため、比較的面倒くさい発音であり、その省力化として、mをひとつにしてしまう、suimasen (すいません)が、日常の、ぞんざいな発音としては普通になっています。

耳で聞いているぶんには許容範囲ですが、それを書面、メールで、

「すいません」

と表記されると、非常に奇異な感じがあり、率直にいって、「この書き手はおバカである。お利口でない。教養がない。」という印象を受けます。

まるで、(たばこを)「吸いません」と言っているようですし、「ありがとうございます」 の代わりに、「あざーす」 と書いているのと同じようなものです。

ということで、これからは、すくなくとも書き言葉のときは必ず、(また、改まった席では、口で言うときも) 

すみません

とすることを強く勧めます。

泣いた

マダム・イン・ニューヨーク (原題 English Vinglish)

ムダのない授業

「靜先生の授業は1秒もムダがありませんでした。」

あはは。。。 やっぱりこっちの考えていることは伝わるんだね。

日本人は発音指導できないからネイティブに頼もう

「日本人の教師が発音を指導するのはなかなか難しいと思います。そこで私が提案するのはALTの人に発音してもらう、ということです。」

質問:ALTの人に発音してもらうと、生徒の発音は良くなるのですか?正しい音を聞かせていれば生徒の発音が良くなるのですか?じゃあどうして「日本人の先生」の発音は良くならないのですか?正しい音を聞く機会がないからですか?

6/28/2014

SLAの知見。。。当たり前じゃん

中高教師として7年経験を積んでから初めて修士でSLA関係の文献をたくさん読んだ時の率直な感想は、

当たり前じゃん。生徒見てれば分かるじゃん。

当たり前のことを難しく書いているだけじゃん。

There is nothing new under the sun.

だったのだが、そう思わない人も大変多いのがなぜなのか、私には本当に理解できない。




6/27/2014

アメとムチ

今まで私が受けてきた授業は、たしかに英語の授業でしたが、それは名ばかりのものだったと思い知らされました。先生の授業では、発音に対してまったく譲歩がありません。うまくできていたら合格、できなかったら不合格でやり直し、一見厳しくて、生徒のやる気がそがれていくかのように思えますが、そんなことは全くなくて、むしろがんばって正しい発音を目指す生徒はとても楽しそうですし、実際私も大学での授業で、何回も直されながらうまく発音できるようになったとき、本当の充実感が得られました。それは、先生が普段発音に厳しく、うまくできたらきちんとほめる、という飴と鞭がうまくできているからだと思いました。

メリハリのある授業、叱るところはきちんと叱り、ほめるところは褒める。なによりもまず正しい発音。これらに重点を置いた先生の授業を、これからの教育実習に生かせていけたらいいなと思います

見極める

高校生のときに自分が受けていた授業を否定されるような授業でした。正しくできてなくても、英語っぽい発音をすれば上手いと言われ、CDや先生が読んだ本文を意味もわからないまま、ただ読んでいました。自分では発音できているかわからないし、そもそも直されることなんてなかったから気にしていなかったと思います。最初に正しい発音を教えていかないといつまでたってもできないまま。しかも本人は自覚していない。生徒にはちゃんとできていないところを指摘し、直させるべきだと思いました。それにはまず教師がきちんと発音できることが前提で、よく口の動きを見て、生徒の発音をよく聞く、教師は本文を見なくても生徒に向かって言えるくらいに準備をしておかなければならない。また、大事なところは色を塗っておいて、発音させるときにも言いながら、強調してゆっくり発音すると、生徒に注意させることができていいと思いました。あとは、生徒がどれだけできているかを見極めて授業をしていくことが必要なのだと感じました。

王様は裸だ、と言う勇気

指導主事に対して、王様は裸じゃないですか! と「噛みつく」教師がいるならば、まだまだ捨てたもんじゃない。

応援します

裸は裸なんだから。

6/25/2014

授業に遅刻する/授業を早く切り上げる「泥棒」

Sticking to the designated class schedule alone does not make you a good teacher, but NOT sticking to the schedule, starting late and/or finishing early ALONE is enough to make you a bad teacher who is being paid more than you are teaching, which constitutes stealing.

個人的には、1時限とか、昼休み後の3時限とか、その教室は前の時間空きであるなど、教室環境が物理的に許せば、30分以上は早く教室に行っていないと気が済みません。学生が来る前に自分が行っていないと落ち着きません。巌流島の佐々木小次郎派です。

PCをセットアップして、返却物をセットして、その日の授業手順をメンタルリハーサルして、座席表を睨みながら学生が入ってくるたびに顔と名前を再確認し指名が滞りなくできるように様々な「予習」をしていると30分はすぐ経ちます。

早く終わることもまずあり得ません。あと5分になったからあれができる、あと2分になってしまったがあれならできる、と休み時間になるぎりぎりまで詰め込まなければ、時間がもったいないですし、授業料のドロボウです。

6/21/2014

私はしらける授業をしていました

盛岡の講演で、講演者紹介をしてくださった研究会の会長先生が、思いがけず、随分前に書いた「しらける授業をしていた私」という私の文章に言及してくださいました。しかし雑誌自体も廃刊になり、一般の読者にはもう手に入りにくいと思われるので、原稿をここに貼りつけておきます。

いまから17年前に、すでに「10年ほど前にはオールイングリッシュの授業にこだわっていて馬鹿でした」という懺悔をしております。今読むと気恥ずかしい表現も随所に見られますが、我ながらすばらしいことを書いていますね。

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現代英語教育97年12月号)

しらける授業をしていた私

靜 哲人

しらける授業というテーマを与えられて考えてみて、私はついぞ自分の授業で生徒がしらけないか、という心配をしたことがないことに気づいた。しらけ、というのは授業を受けている側がふと我に返り、授業者のやっていることを、ある距離を置いて見て、そしてそのことについて否定的な感情を持つ時に起こる感情であろうと思う。だとすれば生徒をしらけさせたくなければ、こちらのやっていることを客体視するような余裕を与えなければ解決する。私の場合、常にいかに生徒をいじめるか、を模索しているので、嫌がることはあってもしらける暇はないと思われる。

 そういう訳で、過去の授業を振り返ったとき、生徒がしらけていたことはまずなかった思うが、むしろ自分で自分の授業に対して「何をやっていたのか」と、しらけてしまうことは多く、恥ずかしい思い、生徒に申し訳ないという思いがこみ上げてくる。紙面を借りて、その反省をさせていただき、せめてもの罪滅ぼしをしたいと思う。

授業の手順が大切だと思っていた頃

英語教師になって数年は、授業内の活動の手順というか順番を大変気にしていた。当時おもに勉強していたオーラルアプローチの解説書が、「かくかくしかじかの理由により、活動Aは活動Bの後にこなければならない」などと、"teaching procedure"をたいへん重要視していたためである。まず、Review。次にOral Introduction。そして次にReading for Comprehension...等々。これらにまた細かい下位区分があった。これらの手順を頭に入れておくだけでも、新米教師にとっては大変なことだった。教案というほどのものではないが、おおまかな授業の手順を書いた紙をいつも教室に持って行ったが、授業中、おうおうにしてひとつの活動が終わると「えーと次は何だっけ?」という感じで教卓に置いた教案の紙をのぞき込んでいた。その間当然生徒の顔は見ていない。しかも教案通りに進まないとその日は一日気分が晴れなかった。

 これは生徒にしてみればしらける状況だったろうと思う。なんといってもこの先生は、自分たちにとっていい授業ではなく、先生の考える良い授業をしようとしていたのである。きょう何気なくテレビをつけてみると、医院を舞台にしたホームドラマをやっていた。この医院では患者のカルテの整理等にまだコンピュータを導入せず、手作業でやっている。時流に乗ったコンピュータシステムの導入を説かれて、経営者が一喝する:「あんたが言っていることは医者にとって便利なだけで、患者さんにとってはまったく便利なことじゃない。医者は効率よく診断を済ませて短時間で終わらせるのが便利や。けど患者にしてみたら時間をかけて話を聞いて欲しいのや。患者は医者の不便を望んでいるんや。」

この台詞を「生徒は教師の不便を望んでいるんや」と読み代えれば、機器を使って教師の手間を省く工夫が花盛りのこのご時世に、何とも心に響くではないか。当たり前の話だが、英語授業は本来生徒のためにあるべきで、教師の自己満足、英語教育業界内での自己顕示のためであってはならない。授業手順の話に戻ると、つぎに何をするべきかは生徒の表情が教えてくれる、と思えるようになるまでずいぶんかかった。

日本語を使わないのが大切と思っていた頃

約10年前にエレックの研究大会で実演授業をやらせていただく機会があった。生徒は中学3年生である。午後1時開始のその時まで、最初から最後まで英語で通そうか、どうしようか実は迷っていたのだった。そんな時、同じ日の午前中に別の会場で研究授業をされた語研の先生が、やはり中学生を対象に全部英語で通した、という情報が伝わってきた。それを聞いて迷いは消えた。「よし俺も」というわけで、その日の授業はオールイングリッシュになったのだった。
あの日のことが印象に残っているのは、当時は(少なくとも自分の見聞きしていた範囲では)研究授業でもオールイングリッシュはまだそれほど当然ではなかったような気がするからだ。あれから10年。今では研究授業でのオールイングリッシュは当たり前で、そうでなければ恥ずかしい、ような風潮があるような気がする。誤解であれば幸いである。

英語で通す授業が悪いと言っているわけではない。またあの日の自分の授業も、それなりにうまくいった方だと思う。英語でやった授業の結果が悪かったのではなく、恥ずべきは「英語で通して見る人を感心させてやろう。」、(さらに告白すれば)「本場もどきの英語で生徒をびびらせて、その後のコントロールをやりやすくしよう」という当時の私の醜い心根である。当時の私の授業を受けた生徒のひとりに後年言われた。「中学生にとって誰でも英語は恐いもの。入らなければならないのは知っているけど、入るのが恐い水のようなもの。つま先からすこしずつ入りたい。そこにいきなり頭の上から氷水が降ってくれるのは誰にだって恐怖ですよ。」嗚呼、神よ許したまえ!

 別の例を引いてみる。あなたは翌日の授業のプランを練っている。あしたは宿題の答え合わせをやってから、音読をやって、その後重要文型の解説の補足をしよう...。そこに教頭が突然やってきて「明日見学者があるので、悪いけど授業を見せてやってくれないか」と言ったとする。あるいは同僚もしくは後輩の英語教師が「ちょっと授業のやり方で悩んでいるんで、あした3組の授業見せてくれませんか?」と来たとする。この状況でまったく動ぜず、予定通り答え合わせと音読と文法解説を敢行できるなら、あなたは偉い。尊敬する。だが小心者の私はできなかった。

見学者があれば、流れが不自然になりすぎない程度のぎりぎりまで、その時間帯に、オーラルイントロダクションやえせコミュニケーション活動などの「見栄えのする」 活動を持っていった。見学者が教室内にいる限りは英語で授業を行うようにした。夏などでドアを開け放しての授業で、日本語で解説をしているときにたまたま同僚が廊下を通りかかるようなことがあれば、「しまった!聞かれた。」と恥ずかしい気持ちでいっぱいになるのだった。

日本語でやる解説も立派な局面であり、答え合わせの効率的なやり方もきわめて重要な技術だ、と胸をはって予定通りの授業を見せられなかった自分が情けない。それより何より、誰の方を向いて授業をしていたのかと、生徒に申し訳ない。

リーディングスキル養成が大切だと思っていた頃

リーディングスキルという表現がこの業界でポピュラーになって久しい。そしてリーディングスキルというと決まってでてくるのがスキャニングとスキミングのスキスキコンビである。学生時代にこの用語に初めて触れた時は、「おお!なるほど。これぞニューリーディング」などと感動したものだった。あほくさ。

まずひとつ言えることは、スキスキは、日本語であれば新聞のテレビ欄や時刻表などの例をあげるまでもなく日常茶飯事だということである。必要な情報のみを求めて、紙面上を縦横無尽に視線を走らせるたり、斜め読みしてもっと詳しく読むか決めたり、という行為自体は改めて学習するまでもなく、中学生くらいの年齢になればまず例外無く身に付いている能力だと考えられる。

しかし中学生のような初学者に限らず、もう十年単位で英語に接している我々英語教師でも、英語で書かれた時刻表やらテレビ番組表やら新聞の分類広告欄やらを見たときに、日本語のそれと同じ気軽さと効率でスキスキをするのが困難なのは実感するところである。(少なくとも私の場合そうだ。)これは英語と日本語でのスキスキには、その技能自体に違いがあるのか?そうではないだろう。技能自体には違いはないのだが、その技能を発揮する相手である言語が違うのだ。つまり、日本語と英語の違いである。

なにをくどくど当たり前のことを、を思われるかもしれないが、つまりこういうことである。英語でのスキャニングが難しいのは、平たく言えば英語の文字や単語などに慣れていないせいである。堅く言えば文字認識や語彙認識などのlower-order processes の問題であって、higher-order process の問題ではない。 Alderson (1984)が広めた表現を使うなら問題はreading problem にではなくlanguage problem にある。

スキミングも同様である。確かに生徒で英語を飛ばし読みする者は少ない。これは彼らが飛ばし読みという行動自体を知らないからであろうか。そんなはずはない。スキャニングと同様、スキミングも日本語の世界では日常的に行っている読み行動である。ではなぜ英語では飛ばし読みをしないのか?それはしたくないからではなく、できないのでだ。あるいはそのような読み方をすると理解度が極端に落ちることを事実として知っているからだと思われる。リーディングの「スキル」などではなく、もっと基本的な読む力、具体的には文字認識の速さ、語彙のサイズ、語彙認識の速さ、文法解析の速さが向上してくるにつれて、読む(精読)スピードは自然に上がってくるし、そうすればスキスキ(雑読)もこなせるようになるだろう。

 常識で考えてもわかるこんなことも忘れ、単に教科教育法のテキストや、英語教育の雑誌記事や学者の言葉を鵜呑みにし、いわば時流にのって、「速読だ!」「スキミングだ!」と言って、時にはストップウォッチ片手に生徒を急かしていた私は、馬鹿であった。例えるならば、基本的な脚力が不足している短距離走者をオートバイで牽引して速く走らせようとする、無茶な陸上コーチのようであった。そんなことで走力は向上すまい。オートバイのスピードに、脚の送りがついていけなくなってけがをさせるのが落ちである。速く走る方法をしらないから走れないのではない。方法は知っているが自分の筋肉が言うことを聞かないのだ。

スキミングと速読についての最も本格的な研究のひとつはおそらくMasson, Carpenter & Just(1982) である。通常の読み、スキミング、そして速読の最中の眼球運動と、読後の理解度を調べたこの研究で明らかになったことは、

(1)スキミングは、通常の読みのようにすべての語を読む速度を速めることではなく、まばらに読むことによって達成される。
(2)通常の読みとスキミングでは大筋の理解には差はないが、細部の理解は、スキミングが劣る。

この第2点を聞くと、「概要・要点がわかるならスキミングでもいいではないか」と思う人がいると思うが、それでは次の第3点を考え合わせるとどうであろうか?

(3)通常の読みとスキミングの差は、文章の内容がノンフィクションの場合より、フィクションの場合のほうが大きい。

これはつまり、スキミングはそのテキストの内容に関する予備知識に大きく頼っているので、フィクションになると、おおきく理解度が落ちる、ということである。文章中の断片だけを見て、不明な部分を予備知識によって推測する、のがスキミングの正体である。つまり

スキミング=断片的な読み+予備知識+当て推量

という式がなりたつ。果たしてこのような行動が、真の意味で「読む」と呼ぶに値するであろうか?L1リーディング研究では一般に、リーディングといえば、一語一語きちんと読む「普通の黙読」(ordinary silent reading) を指す。なお、読むときはすべての語を見ているわけではない、とか、一度に数語を読みとっている、というのは錯覚である(Rayner & Pollatsek 1989). スキミングはリーディングの範疇に入れないか、もしくは入れたとしても特殊な読み方として、せいぜい周辺的な扱いをされるのが普通だ。スキャニングにいたってはL1リーディング研究で触れられているのを私は見たことがない。なぜわれわれの分野だけ、精読よりスキスキが本筋であるかのような珍妙なことになっているのか不思議である。

メインアイデア把握が大切だと考えていた頃

 8年前、私は高校3年生を相手に、Reader's Choice (Michigan University Press)というESL教材を使ってリーディングを教えていた。A4判に近い大きさと約2cmの厚さ、中身はほとんどauthentic materials、という代物だった。それを持ち前のDrill sergeantスタイルで、がんがん進んだ。1学期の中間試験の範囲が何と120ページを超えたのを今でも覚えている。文字どおり泣いて抗議する生徒もいたが、信念を持ってブルドーザーのように進んだ。 

 このようなスパルタ授業を1年間続けた結果は決して悪くなかったと思う。かなりの生徒が高校生として第1級の英語力を身につけて卒業してくれた(と信じている...)。さて卒業式の前日の謝恩会でのこと。謝恩会では生徒たちがクラスごとに高校生活を総括するような出し物をすることになっている。くだんのクラスは私の真似をしたのだが、その中に、私役の生徒が「ペラペラペラ」と、意味不明のことを超早口でまくしたてたと思うと間髪を入れず、生徒役の生徒を指名し"What's the main idea!"とこれまた高圧的な口調で詰問する、という場面があった。嗚呼、ああいう風に見えていたのか、と一気に酔いも醒めた。

 このReader's Choice はリーディングスキルを重視していて、ひとつのセクションがメインアイデアをつかませるために設けられていた。200語くらいのパラグラフがいくつかあり、それぞれのメインアイデアを選択肢から選ぶのである。何が失敗だったかというと、このセクションの英文が、全編を通じて最も難解で抽象的であったのである。つまり、丁寧に精読してやっと理解できるレベルの題材を、英語による質問と解説、そしてメインアイデアの選択、という方法で進んだものだから、生徒は消化不良を起こしたのである。

 あのセクションで生徒がメインアイデアをつかむのが難しかったのは、「概要をつかむ技能」に問題があったのではない。そんなものは母語でも訓練されているし、仮にあの題材を日本語訳で読めば、正しいメインアイデアを全員が選択しただろう。問題があったのは、語彙、そして構文が難解だったのである。逆に言えば、細部まで正確に理解できれば、メインアイデアなどは自動的にわかるはずであった。英語教育業界の動向などに惑わされず、きちっと構文を解説し、語彙に注意をはらわせる、地に足のついた授業をすべきだった。

辞書を引くより推測を、と力説していた頃

 当時は今思えば本当に極端な指導が多かった。たとえば生徒が単語帳を作っていると嫌な顔をした。つまり単語は文脈のなかで覚えねばならない、と思っていたのである。

「単語は文脈の中でこそ意味がある。単語自体には意味はないのだ。やはり野におけ英単語、と言う。英単語という花は、野山に咲いているからこそ美しいのだ。野山に咲いていれば、その花がどんな地形のところに多いか、とか、どんな季節に観察されるか、というようなことまでわかる。それをひとたび摘んで持って帰ってきて標本にしてしまうともうダメだ。標本にして家に飾っておく必要はないのだ。花の色を忘れたなら、またすぐ裏山に出かけていって、実際に自然の中の姿を見ればいいだろ!」
 文章を読むとき、しらない単語があると最初からしらみつぶしに辞書を引きたがる生徒には、「全部の単語がわかる必要はない。要点がわかればよいのだから。」という指導をしていた。明らかにFrank Smithあたりのトップダウン理論の影響を受けている。いや、率直に言って、影響というより単なる盲信である。

 3年ほど前のある日、授業中、Mini-Worldを教材にして各自読ませていた時、やはり記事の中の未知語に全部印をつけ、それをひとつひとつ辞書で引いている学生がいた。いつも通り、「概要が分かればよいのだから、そんなに全部単語を引かなくてもいいんだよ。」とアドバイスした時に、「でも気になりますから。」という答えが返ってきた。なぜか、このやりとりをひとつのきっかけに、「辞書を引き過ぎるのは、リーデイング力養成にとってはむしろマイナスだ」などと思っていた私の気持ちに変化が現れたのである。

 彼女の英語力はクラスでも上位の方であった。意味の見当をつけずにむやみに辞書を引いて見当はずれの語義を書くような学生ではない。文脈からある程度語義を推測することも知っている。しかし、自分が読んでいる英文の未知語の意味は気になる、というのである。考えてみれば当たり前であった。

 ボトムアップ処理効率化のためには語彙のサイズは決定的な意味を持つ。GoodmanやSmithに代表されるトップダウン重視のリーディング観は誤りであったことが今では実証されている(Rayner & Pollatsek 1989; Stanovich 1991; Eysenck & Keane 1995 など)

ではどうすれば?

 結局、私は昔ながら文法訳読式の授業でよいと言っているのか? つい昨日、ある学生が訴えた。「○○先生の授業は、毎日、読んで訳して、読んで訳して...それだけでした...。クラスのみんなはほとんど誰も聞いていませんでした...。」これを聞くと、やはり訳読式の授業は、と思いがちかもしれない。しかしおそらく問題は「英語」教授法ではなく、この教師の生徒掌握力、授業運営法、人間力、そしてその根本の「どんな手段を用いても実力をつけてやる!」という命がけの愛情、の欠如にある。これさえあれば、英語教育に難しい理屈などいらない。単語を教えて、文法を教えて、あとはどんどん使わせるだけ。他に何かありますか?

(しずか・てつひと/福島工業高等専門学校助教授)

参考文献

Alderson, J. C. 1984. "Reading in a foreign language: a reading problem or a language problem?" In Alderson, J. C & Urquhart, A. H. (Eds.) _Reading in a Foreign Language._  Harlow: Longman.

Eysenck, M. W. & Keane, M. T. 1995. _Cognitive Psychology_ 3rd Edition. Hove, East Sussex: Psychology Press.

Masson, M. E., Carpenter, P. A., & Just, M. A. 1982. "Comprehension of gist and details by speed-readers, skimmers, and normal readers." Unpublished manusucript, Carnegie-Mellon University. 

Rayner, K. & Pollatsek, A. 1989. _The Psychology of Reading._ Hillsdale, NJ: Lawrence Earlbaum. 

Stanovich, K. E. 1991. "Changing models of reading and readign acquisition." In Rieben, L. & Perfetti, C. A. (Eds.). _Learning to Read: Basic Research and Its Implications._ HIllsdale, NJ: Lawrence Erlbaum.

6/20/2014

ラッキー・ガール

嬉しかったこと:

昨日、非常勤先の大学で、自分はこの大学は今日だけ週一で来ているパートさんだよ(非常勤だよ)、と改めて言う状況になったとき、

え~、そうなんですか。じゃあ私たちラッキーガールだ。。。

と、つぶやくのが聞こえたこと。

大東大と埼玉大

きょう盛岡に講演に行った。

講演前には大東大の卒業生(ただし私のいる外国語学部ではなく文学部とのことでしたが)の教員の方が声をかけてくださった。

講演後には、埼玉大の卒業生で、数年前に私の授業を受け、今年度から臨時採用の講師をしている若者が声をかけてくれた。

どちらもとてもありがたく、嬉しかったですね。

講演の資料(本のさわり)

先週、今週とつづけて講演した資料はこちら。『心・技・愛』のなかで、私が執筆した項目のポイントを拾いながら話した。(実際の本には、あとのふたりの共著者が書いた項目があるので、この3倍の内容がある。)


英語授業の心・技・
小・中・高・大で変わらないこと

靜 哲人
大東文化大学外国語学部英語学科

英語教師としての心
入室したら一人ひとりにガンを飛ばす
モデルとしての意識を持つ            
自分のレベルまでは上手くさせる
英語教師なら内容と形式の両方聞く
授業は本番ではなく稽古である

音声指導の基本
スペリングばかり気にせず、音を気にせよ 
いたずらにスピードを求めない     
音読でのアドバイスは1度に1つずつ与える           
CD音源をよく聞いて音についてコメントする        
ものまね芸人に学ぶ         
リスニング指導は答え合わせで終わらない 
歌を使って英語音節感覚を養う     

授業方法の工夫
一斉授業とペアワークを分け過ぎず、小刻みに混ぜる           
ライティングでは必ずリライトさせる        
可能な限りグルグルを行う            

宿題・テストをうまく使う        
定期試験より毎回の授業で成績をつける    


参考文献: 
靜哲人・正頭英和・小林翔共著 
『英語授業の心・技・愛 小中高大で変わらないこと- 』

研究社(2014.11月刊行予定)

心・技・体の普及率

先週、今週とつづけて地方に講演に行き、感じたことは、『英語授業の心・技・体』を読んでくださっている英語教員は、ごくごく少数派(1割、せいぜい2割)だ、ということである。

そしてそれはとても、とても、残念なことだ。というか、もったいないことだ。

『心・技・体』に書いてあることを実践すれば(できれば)、その人が今やっている英語授業の質が格段に、100%確実に、上がる、からだ。

I truly wish that would happen.

そして、それは11月に刊行される『英語授業の心・技・愛』も、同じことである。

ひとの授業をみるにつけ、授業の問題の解決策は、すべて『心・技・体』と『心・技・愛』に書いた、という思いを強くする。毎回。毎回。


6/19/2014

弾音化

/ t / や /d/ が主としてアメリカ英語で弾音化する、という現象は日本人が習得すべき技能としての優先順位は非常に低い。

そういう現象があると知っていることはリスニングの際には有効だが、自分でもそのように発音する「必要」はまったくない。

きちんとした通常の閉鎖・破裂音でまずいことはまったくない。

better や butter の発音で焦点をあてるべきは、そんな regional な瑣末な現象ではなく、er の部分の曖昧な音価と短さ、ピッチの低さである。

t が r になる、などというミスリーディングな言説があるためか、/ t / が、接近音の [ r ] になる、という誤解で berrer とか burrer のようなありえない発音をする英語教員にも学生にも何度も遭遇した。

教えて諭す、この素晴らしい仕事

『英語教育』7月号の「英語教育時評」に、

日本の教育学部に在籍している時に、「教えて諭す」という名前の職業が嫌だったので海外の大学院に行き (靜注:私は、ついついこれを「逃げ」と読み替えたくなる)、そこで「SLA研究の素晴らしさ」に感動したので、是非、日本の「教えて諭す」職業についている人たちを養成するための教育課程にも、必修科目としてSLA研究を取り入れて欲しい、

という意見が載っている。

教えて諭すのが嫌だ、などという考えの持ち主だったことを(行間から読み取るにおそらくは)誇らしげに、すくなくとも恥ずかしいとは思わずに世の中に開陳するような大学教員/研究者に、一生懸命あるいは一所懸命、授業で、学級で、部活動で、学校行事で、子どもたちを「教えて」「諭す」という substantial な仕事を行っている中高教員に何が足らないか、などを言って欲しくはないし、またそのようにいう資格があるとは思わない。

教諭は教授にはなれるが、教授は教諭にはなれない、とは高校教員時代の教え子が大学に進学してまもなく私に言ってきた名言だ。

冒頭の意見はおごりだと私は思う。



6/13/2014

Can-Do はドコへ行く。。。?

「英語の授業は英語で」、は是非はともかく、させようとしていることは分かる/分かった。

が、今の Can-Do 騒ぎは、させようとしている事自体がよくわからない。

「うちの県は Can-Do 実施率が低いので、実施率を上げるためにテコ入れして云々」

などと、不毛な努力がなされているとのこと。

実施率って何? 何を実施している? Can-Doリストとやらを紙に書いて作った率?

意味はわからない、役にたたないけど、上がやれやれと騒ぐので、しょうがない、作っておけばいいか、的な先生も珍しくないのだろうと推察する。そして、中間管理職たる指導主事も、心のなかは似たり寄ったりのはず。

どんなに忙しくなっても、どんなに作業量があっても、それが意味のあること、生徒のためになることであれば、構わないし我慢できると思うが、意味が不明で、たぶん生徒のためにもならないだろうことで、自分の時間と労力をとられる先生方は、たまらないだろう。


いよいよ放送日が。。。


Rの法則 「話せる英語」
~アナ雪主題歌「Let it go」で発音力&リスニング力アップ!~

NHK Eテレ
6月16日(月)18:55~19:25


あらかじめ予防線を張っておきますと、知らない人が見るとただの「変な先生」に見えるかも。。。

6/12/2014

閉鎖音が続くと開放がなくなる

おはようございます。昨日の授業できづいた一部のみなさんの誤解をときます:

p, t, k, b, d, g を、閉鎖音、あるいは 破裂音といいます。

唇や舌で呼気の流れをいったん「閉鎖」して、その後一気に開放することで「破裂」させるので、こう呼ばれます。

つまり、これらの音は、(1)閉鎖、(2)破裂、という2ステップをとる音です。

ところが、ステップ1は必ずありますが、ステップ2はあったりなかったりです。

閉鎖は必ずしますが、開放はしない場合もあります。

ではどういう場合に開放しない(破裂しない)ことがあるかと言うと、2つの閉鎖音が連続した場合、最初の閉鎖音は開放しません。

たとえば、dのあとにbがきて、db となると、dは破裂しません。

例) I should be studying.  の、 should と be のつながりは、db です。よって、shouldのdは開放しません。shouldのdのために舌を歯茎につけたら、それを離さず、そのまま唇を閉じてbに移り、bで開放して be といいます。

I could go. の、could+go などもそうです。

did not の did+not は、 nも鼻音ですが破裂音の一種なので同じ現象です。


Let it go. で、 it+go は、...tg... なので、tは開放しません。なくなるわけではなく、あくまで開放しないだけです。

単語のなかでも、..kt... という連続では、kは開放しません。 

rejected では、cは、/k/という音を表しますが、ctの部分は、cを開放しません。

よって、apt と act は、ほぼ同じ音になる場合があります。

これからいろいろな授業でCD音声を聞く場合、この点に注意してみてください。また自分で発音するときも気をつけると、英語として自然な音になってゆきます。そのほうが、慣れれば発音しやすいのです。

6/11/2014

『英語授業の心・技・愛』脱稿しました

11月に研究社から刊行していただく予定の、

『英語授業の心・技・ --小中高大で変わらないこと --』
(靜哲人+正頭英和+小林翔)

の原稿が完成しました!

めっちゃいい本になっております。