世の中にはいろいろな人がいるのである。
LもGもBもTもストレートもいるのである。
(No matter gay straight or bi lesbian transgendered life, I'm on the right track baby I was born this way. ...)
頭のいい人もいれば、そうでない人もいるのである。
足の速い人もいれば、そうでない人もいるのである。
ルックスの良い人もいれば、そうでもない人もいるのである。
太った人もいれば、痩せた人もいるのである。
物覚えのいい人もいれば、そうでない人もいるのである。
しょうがいをかなりもっているひとも、多少もっているひとも、あまりもっていないひとも、いろいろいるのである。
身体的にしょうがいのあるひともいれば、知的にしょうがいのあるひともいれば、情緒的にしょうがいのあるひともいるのである。
しょうがいをもった子がうまれてくれば、その家庭は、その子が存在する以前とはいろいろな意味で異なる状況で進んでゆくことになるとおもう。
しかし異なってしまうからといって、しょうがいという個性をもったその子を排除しよう、という家庭はないはず。それも含めて自分の子なのだから。その子もふくめた全体が、自分たちという家族なのだから。自分の子は自分たちで生んだ、自分の一部だ。
学校も同じである。しょうがいという個性をもった生徒や学生を排除しよう、という学校はないはず。自分たちの生徒は、自分たちの一部だ。
頭が最高に良くて、視力は裸眼で2.0で、背が高くて、イケメンで、美女で、プロポーション抜群で、運動能力抜群で、思いやりがあって、品行方正な生徒や学生だけしか入学させない学校は、教師から見て手はかからないが、つまらないのではないだろうか。というかそんな学校に教師はいらんだろう。
また、そんな学校、わたしもあなたも含めて、世の中の99.9%の人は、入学試験に通らないだろうし。
2月25日の東京新聞に、自身も重度障害者である海老原宏美さんという方が、「障害者の自立を考える」という文章の中で、次のように書いている。
「貢献率の低い重度障害者を切り捨てれば、次は高齢者が貢献していない存在になる。高齢者を切り捨てれば次は病弱者...。どんなに切り捨てても、また新たな社会的弱者が生まれる。」
「価値を創り出すという能力は、唯一、人間にのみ与えられている。そう考えるとき、ただそこに静かに存在するだけの人間にその尊厳を見いだすことも、人間だからこそできるはずだ。それができなくなった時、相模原であったような悲惨な事件が起こってしまうのではないだろうか。」
「存在するだけで社会に『価値とは何か』を問い続ける。そんな重度障害者は、存在しているだけで社会に大きく貢献しているとは言えないだろうか。」