Total Pageviews

6/23/2018

終戦直後の教育方針の転換と現在の学習指導要領

本日、教職課程センターの催しとして、「語り継ぐ戦争体験 ―教育の立場から考える人権と平和―」と題して、太平洋戦争を身をもって体験された、もうすぐ90歳になる小島民子さんのお話を伺う機会を得ましたが、150名近い参加者を得て盛況でした。

「可愛らしい」語り口と、ときどき予告なしに現れる残虐なエピソード(近所のお兄さんが、中国での大量虐殺を捉えた連続写真を自慢げに見せた、等)のギャップに翻弄されながらのあっというまの90分でした。

心に迫られた話はいくつもあったのですが、個人的に最も relateし、「あ、そうだ!」と思ったのが次:

それまで「天皇陛下が絶対だ」と教えていた校長が、敗戦の日を境に、手の平を返すように、「今日からは民主主義だ」と言い出した時、「どうしてそんなことができるのですか?」と問うた小島さんに校長が「昨日までは天皇陛下が、天皇陛下が絶対だ、とおっしゃっていたからそう教えていた。今日からは天皇陛下が、これからは民主主義だ、とおっしゃっているからそう教える。それだけだ。それをなんで小島さんが責任を感じる必要があるの?」と言い放った。

要は、内容はどうでもいいから、権威の言うことに従っていればいい、という自己思考停止処世術です。

これは現代の、ころころ変わる学習指導要領にとにかく従っていればいい、というポリシーとまさに軌を一にするものでしょう。英語はコミュニケーションだの、英語は英語で教えろだの、アクティブ・ラーニングでなければならぬだの、CEFRだの、ヨンギノーだの、と時々の流行語が変わるたびに、「こうでなければならぬ」と思ってしまうマインドセットとまさに同一。

その時々の文科省役人が何を言っても、生徒の英語力を伸ばすためにやるべきことは、30年たっても50年たっても変わらないし、変わるはずもない。

時々の為政者にくっついている役人がどう言っていようが、目の前の生徒に必要なことは、現場の自分が判断して決める。

そういう自信と気概と見識のある教師を私は育てたい、と強く思っています。

現場教師たるもの、誇りと実力と見識と反骨精神を持とうではありませんか! (という丁寧な語り口は志位委員長を見習いました。)