それは、たまたまその年度にたまたま自分の学校で採用している教科書をあたかも唯一絶対で改変すべできはない「聖書」のごとく感じる結果、その教科書の(おおげさにいえば)奴隷になっている、ということである。
教科書の本文は全部を「やる」必要があると思っている。そしてその「やる」の定義は、教室で、口頭で逐一解説し、訳を言ってやる、というものである。
これについてずいぶん前に書いた文章があり、いま読み返しても我ながらとても良いことを言っていると思うので、(HPには前からおいていたが)ここに改めて貼り付けておく。
この時点の筆者は教歴9年めの高校教員であった。
現代英語教育1993年4月号
リ ー デ ィ ン グ 教 材 の 扱 い 方
静 哲 人
高校段階では、やはり中心的な位置を占める活動はリーディングであろう。本稿では、筆者が日頃、特に検定教科書を使って授業を進める上で実践していることを紹介させて頂く。なお、以下の実践例は、すべて英語Ⅰ(4単位)あるいは英語Ⅱ(5単位)の枠内でのものである。
1.全課をやらない
検定教科書は、全国をマーケットとするその性質上、全課が自分の生徒達の好みやレベルに最適だということはまずない。筆者の勤務校は女子高だが、研究会等で、「この教材を使ってみたらとてもうまくいったから、是非試してみて下さい」などと、他校の先生方に勧めてみても「そりゃ女子高だから受けるんだよ」と片付けられてしまうことも多い。
また生徒の好みだけでなく、担当の先生の好みも重要である。文学性の強い作品が好きな先生もいれば、社会性の強い評論こそ読みの訓練に最適だと考える先生もいるだろう。教員の恣意的な趣味だけで教材を選択してしまうのは問題だが、その先生自身が情熱を持って教えたいと感じる教材を使うことは重要である。
そこで教科書の教材を、生徒と先生の好みとニーズに合わせて取捨選択することが、主体的に教科書を使いこなす第一歩になる。いくつかの課を捨てれば当然教材量としては不足するので、投げ込み教材で補ったり、あるいは可能であれば2冊の教科書を相補的に使うことが考えられる。実は筆者の場合はその両方を実行している。
東京書籍の What's New? と三省堂の Crown の2冊を採択しているのだが、前者は非常に新しく後者は非常に難しい教科書だと思う。年度始めに担当者間で話し合い、扱う課と、その組み合わせの順番を決める。この選択にあたっては、内容や形式などのバランスと同時に、授業担当者の個人的思い入れを良い意味で積極的に反映させる。我々の場合、What's New と Crown の比率は、課の数で2:1くらいになった。
2 2課の次に3課をやらない
高校の場合、編集された通りの順番に課を追う必要はないと思う。もちろん課は易から難への順番で配列されているので、それに沿っていればやり易いのかも知れない。しかし、以下の理由で、その配列からはずれることを恐れる必要はない。
まず単語の既習/未習の区別は個別生徒にとってはほとんど意味がない。全員の生徒に同じ語彙が定着していることはあり得ないのであって、それまで全く同じ授業を受けて来ていても、生徒Aにとっての既習語が生徒Bにとっては未習語同然である、という状態はむしろ当たり前である。よって、教科書の欄外に必ずある新出語のリストなど、もともと頼れるものでもないのであり、それほど義理立てする必要もないのである。
文法事項などでも、既習/未習の区別に関しては語彙と同様のことが言える。また、学習者が文型・文法事項と初めて出会うに当たって、唯一の理想の順序などはない。最初にどこでどのような形で出会ったかということよりも、その後どのような場所でどのようなデートを何回重ねたか、ということの方が、その人を理解し、つきあいを深めるのにはずっと大切だと思う。
よって、課の配列は、お仕着せのものにとらわれず、物語文と説明文のバランス、難易度のバランス(例えば難と易が交互に現れれば、易の部分で一息つける、という考えもある。)、季節や学校行事との関連、課同士の内容的関連、そして担当者の考える理想の文法事項提示順序等を考慮して、柔軟に考えた方が良い。もちろんその結果が教科書編集通りの配列と大差ないこともあるだろうが、要は、担当者の先生が話し合って、主体的に決定するものだということである。
決定した後は、1年間の英語授業で扱うレッスン名と順番を表にして生徒に配布しておく。今年の英語Ⅱを例に取ると、What's New 第13課 “Sharing a Laugh" とCrown 第10課 “The King of Comedy”は「笑い」という観点から、What's New の Further Reading Ⅳ “It's No Longer Just a Fireman'sWorld." と Crown 第8課 “He, She, or He or She?" は「フェミニズム」という観点からまとめて扱った。同様のテーマに別の角度から光をあてることになり、より深い題材理解が得られたと思う。
3 イントロからエクササイズまでやらない
前に述べたように、2冊の教科書を取捨選択してとは言え、同時に使えば、課の数はかなりにのぼる。今年の英語Ⅱでは結局What's New? から10の本課と4つのFurther Reading、Crownから8つの本課を取った。これに加えて小さな投げ込み教材は言うに及ばず、Roald Dahlの作品をふたつ読んだから、1年間ではかなりの教材量となった。冒頭に述べたように、すべて5単位の授業時間内の話である。
なぜこんなことが可能かと言うと、ひとつには筆者には「食卓に出されたものは、すべて戴かなければバチがあたる」という気持ちが、さらさらないからである。検定教科書は、おおむね、イントロ、本文、文法語法、そして最後にエクササイズ、といった構成になっているが、筆者の場合、これらをすべて、あるいはそのまま扱うことはまずない。だいたい「この題材での重要事項はこれだ」と押しつけられるのは、プロのプライドが許さない。その時の自分の生徒にとっての「重要」事項は、自分が決める。自分の生徒に最適な例文は自分だけが知っている。エクササイズにしても良いと思えるものはまれだ。だから教科書は頭から尻尾まできれいに戴くのではなく、本文を中心に食い散らかすことこそが、正しい食べ方であると信じる。たった一匹をきれいに食べて満腹してしまうより、多少消化不良を起こしても10匹食い散らかした方がよっぽど栄養になるというものだ。
誤解のないよう言っておくが、これは検定教科書自体の質が悪いとか、執筆者のセンスがないとか言っているわけでは決してない。現に筆者は某教科書の編集委員であり、編集会議の席上では自分(達)に作り得る最高の教科書を作ろうと努力しているつもりである。しかしどんなにすばらしい教科書であっても、そのマスプロ的宿命を考えれば、一現場教師の立場に戻った時は、自分の生徒のニーズに答えるのは自分でなければならないと思っている。
4 全課同じような授業をしない
人間は本来飽きっぽい。だから生徒も当然飽きっぽい。毎時間、そして全課、まず「スキーマ」とやらの活性化、次にオーラルイントロ、本文の内容理解、重要事項の説明、一斉音読、個別音読、コミュニケーション活動、そしてまとめ、という金太郎飴状態では、筆者が生徒だったらうんざりである。教材の特質と、その時期その時期の生徒の状態を見極め、限りなくバラエティーに富んだ授業を展開することが必要である。
例えば、すべての課を、あるいは一つの課の本文全体を音読する必要はない。内容的に音読するのにふさわしい教材とそうでない教材がある。表現豊かな音声化によってイメージをかきたてたくなる物語もあれば、音読する気にならない無機質な説明文もある。英語のStress-timed Rhythmを体得させるのに最適な一文もあれば、読みにくい語だけ発音練習すれば足りる一文もある。全文を音読しないと不安な向きもいるだろうが、オウム返しで音読しなければ音読が上達しないのであれば、生徒は永遠に自分の力では初見の文章を音読できないことになってしまう。この世のすべての英文を音読させることは不可能なのだから、必要なのはむしろ、限られた部分を徹底的に練習することで、個別音素を正確に調音する能力と、文強勢が来るべき音節を自分で決定できる知識・感覚を養うことであろう。
また、本文に手を加えてプリント化することも教科書の使用法のバラエティを増やしてくれる。例えば全体の構成がはっきりしている評論文などでは、授業の最初にいきなり本文のパラグラフの順番をバラバラにして印刷したものを配布し、トピックセンテンスのみを頼りに整序させる。実際にはさみでプリントを切らせて、机の上で並べ替えてみるとよい。この時、意味内容を把握する作業は必然的になされてくる。文構造や、特定の語の使われかたに焦点をあてたい本文の時は、特定の語を黒く塗りつぶたプリントを作り、復元作業をさせる。どちらの場合も、ある程度作業が進んだら、教科書を開いて確認させる。
この教科書本文プリント化には思わぬ副産物もある。本文だけをある程度縮小して印刷してみると、ほとんどの課の本文全体がB4におさまってしまうのだ。ひと目で全体が見渡せるので、教材全体の構成、展開を把握しやすいことに加えて、教科書本文の量がいかに少ないか、を実感することができるのだ。大抵の教科書は十数レッスンからなっているが、たったB4十数枚の量の英文を1年間かけて読むのでは、不十分も良いところだと感じるのは筆者だけだろうか。不思議なもので、本文をプリント化しておくだけで、例えば1時間で1課終えたりすることに対する心理的抵抗は、かなり違ってくるのである。
5 そしてなるべく「授」業をしない
どんなに頑張っても、限られた授業時間の中ですべての知識を伝達するのは不可能である。だとすれば、知識自体よりも、生徒が自分で学習できる方略を与えることの方が大切かも知れない。このことを2年程前に強く感じ、もうなるべく「授」業はやめようと決意して以来、筆者の授業はがらりと変わった。それ以前の50分オールイングリッシュ爆撃スタイルから一転して、今では10分以上継続して黒板の前にいることが、ほとんどなくなった。
今の授業のひとつのメインは、ワークシートを使ったグループワークである。ワークシートにはその教材に関してやらせたい作業(トピックセンテンスに線を引け/この語を英和で引き例文を確認せよ/この語を英英で引き、定義を書け/この語は辞書を引かず意味を推測せよ/この場面を絵に描け/この動詞の主語を指摘せよ/このitの指すものを指摘せよ/この文を自然な日本語に翻訳せよ、等)をすべて印刷しておき、その場で配布する。生徒はわいわい言いながら、作業をこなしていく。筆者は教室内を歩き回りながら、ヒントを出したり、質問を受けたり、時には雑談したりしながら、全体の状況を見る。
この形式の第1の利点は、教師も生徒もリラックスできるので、教師としてはその分ひとりひとりの生徒に目がいくし、生徒としては先生に質問がしやすくなることである。第2の利点は、生徒同士が相談することで、上位の生徒は知識をより確かなものにし、下位の生徒は理解を深め、全体に主体的学習態度が生まれることである。これらはすべて生徒に対するアンケート結果からも読みとれたことで、特に英語の苦手意識が強いクラスの方が、この学習形式を強く支持しているのは興味深い。しかし同時に、友達に頼るので他力本願になる、という落とし穴にも生徒自身気づいていて、グループワークの最中でも全員がまず自分の力でトライし終わるまでは話し合わない、という光景もよく見られる。難しい理屈は抜きにして、この形式はとにかく楽しい!
もうひとつのメインは、2年の後半から徐々に始めた、グループによるいわばマイクロティーチングである。グループ毎に前に出て、あらかじめ分担しておいた範囲(最初は1パラグラフくらいで充分である)についてミニ授業をするのだ。授業の内容は、音読、内容の説明、構文の解説、関連派生語の紹介、英語による要約、フロアの生徒に対する英語での質問、その場面のスキット等である。大筋の手順は決めておくが、後は各グループの創意を生かして構成する。最後はフロアからの質疑に答える。
もちろんプロの教師の授業とは比べものにならない(なったら困る!)し、筆者が助け舟をだすことも多い。しかし、慣れてくると、同じことを教師がひとりでやった場合に比べても、進度はそれほど変わらない。そして何よりも生徒だけの力で調べ、正しく理解し、友達に伝えることのできる部分の大きさに改めて驚くのである。以前のような一斉講義型の授業を自分は7年間以上続けてきたが、それによって、実はこれほどの可能性を秘めていた生徒の自学自習能力が開花する機会を奪ってきたのではないか、という罪の意識さえ感じることがある。自分たちの学習の成果を皆に発表し、質疑に答える、というプレゼンテーションの体験自体も貴重なものだと思われる。(マタ、ナニヨリモ、コノケイシキハ、イチド、キドウニノレバ、アトハ、トニカク、キョウシガ、ラクナノダ!)
(しずか・てつひと/大妻多摩高等学校)