という、ちょっとやりすぎのタイトルをつけたくなるものを、期せずして見てしまった。
今日、某県で前のポストのような趣旨の講演をしたあとでの、「研究発表」のひとつ:
題して、「英語ディベートについて」。
つまりこの大きな教育大会の「英語部会」には講演と研究発表があり、講演を私が担当し、その後に現場の先生による研究発表が2件あった、という構図である。
この県の英語ディベートの最先端?のとりくみを発表する、というような趣旨のようだったが、内容は、教員が二人きて解説しつつ、なんと高校生が9人会場に来て、その場で昨年?どこかの大会で実践したディベートの様子をライブで再現する、というもの。
事前に配られたスクリプトによると、論題は、日本に basic income 制度を導入すべきである、という、かなり社会性が高く、経済についての知識も必要なもの。
実はディベートというと、良い思い出がない。30年前、大妻高校のESSの顧問として何度となく試合を引率・観察した。結論は、日本における英語ディベートというものは、ざっくりいってしまうと、
デタラメ発音を如何に早口でまくし立てるかを競う無意味な大会
だ、というものだった。
あれから30年。
状況は(きっと)変わったに違いない。。。と思いたかったのだが。
こんなふうに(個人的に嫌な予感とともに)始まった生徒によるライブ発表、。。。だったが、司会役の生徒が口を開いてものの数秒で、「これはヒドイ」。 zaの嵐。
つぎに、肯定側、否定側それぞれ3人の生徒による自己紹介が。。ヒドイ。sunk you の嵐。
あとは延々、手者とに用意したディベートのスクリプトを6名の生徒たちが入れ替わり立ち替わり、時にボソボソ、時に早口で、読み上げたのである。30分だったか、40分だったか、50分だったか、あまりのことにこちらは憤死寸前、朦朧としていたので、よくわからない。
曰く、「OEシーD」
曰く、「シックス パーセント」
曰く、「ポーバティ」(解説: poverty)
曰く、「コンシークエンス」(←シーにアクセント) (consequence)
曰く、「タックス late」 (rate)
曰く、「スカラースィップ」 (scholarship)
曰く、「プレビアス」 (previous)
曰く、「ライt?」 (right?)
普通の、「ザ日本人英語」高校生のなかでも、けっこうヒドイ部類なのである。しかも、6名の生徒中、2名を除いては、声も小さければ、覇気もない。
まあ、これを何十分も聞いているのはまさにこの世の地獄だった。こういう生徒の音読を小一時間にわたって、何十人もいる英語教員に聞かせ続けたことの意図はよくわからない。発表者としては、実際の論のやりとりを紹介して、ディベートでの主張や、論駁や、結論のもっていきかたなどを解説したかったように、推測はされる。
しかしそれならば、手元にすべてスクリプトがあるのであるから、それを発表者が解説すればこと足りたはず。あの音声で延々と聞かされるのは、ほとんどすべての単語がスペリングミスの結果、実際にはない単語になっている英文を延々と読まされるのと同じだ。
(あとで、会場にいた若い教員から、「靜先生が途中で、『やめろ、やめろ!』って怒鳴ったらどうしようかと思ってヒヤヒヤしていました。」と言われた。たぶん、あの場に、生徒がいなかったら、そしてあと20歳若かったら、それと同じような行動を取ったかもしれない。)
なぜ地獄だと思ったのか。それは生徒の発音が地獄のようにヒドイから(だけ)ではない。それは、その生徒たちがおそらく非常に熱心な生徒たちで、自分は英語に上達したいと思っていて、おそらく週に何時間もそのために放課後の時間を使って、努力した生徒たちだったからである。
あの一所懸命の生徒たちを、たった1日でもいいから、いや1時間でもいいから、きちんとした英語の教員が、きちんとした英語はこういう音声だから、zaでなくtheだよ、sunk youでなくthank you だよ。。といった指導をしてやっていたら、あの子たちはすぐに劇的に変わり、1年だか2年だかを、デタラメ英語を力いっぱい口から出すことに精力を使わなくても済んだはずである、と思ったからである。
生徒に罪はない。彼ら、彼女らは、人一倍時間とエネルギーをつかって、英語でのディベーをにチャレンジするすばらしい生徒たちである。地獄に落ちるべきは、そのすばらしい生徒たちに、「英語はこれでいいのだ」と思わせて、何年もデタラメ英語活動に時間を浪費させる担当教員である。
Go to h***!!!
と思っていたのだが、さらなる地獄が待ち受けていた。それは、本日の2件の研究発表に関して、「大学の先生」として「指導助言」をせねばならない、という役目があったのである。
言いたいことを言えばいいのなら簡単だ。が、日本的予定調和の中では、セッションの締めでである指導助言は、9割褒めて、1割今後の課題を言わねばならないことになっているのである。いつぞやの某県での全英連大会のまったくの再現ではないか。
あの時も構図とすると、大会全体のメインの講演者として呼ばれ、1日目に、「生徒の英語にきちんとフィードバックしてくださいね」というのを主たるメッセージとする講演をしたと思ったら、2日目の最後のプログラムとして、そのメッセージの真逆をいくような「公開授業ビデオ」を得意げにみせられ、その授業をあろうことか(これも発音がけっこうデタラメな英語で!)指導助言者が褒めちぎり、さあ最後に私の番で、指導助言をどうぞ、という、まるで構成作家が考え出したような喜劇のような悲劇的な状況だった。
どうする。困った。
せめて生徒たちは退出してくれたので、あとは教員同士、腹蔵なくものを申すしかあるまい。
コメント要旨:
「ディベートはきっと生徒たちの論理的思考力、批判的思考力を伸ばす。エビデンスを重視して実証的に話す手法の練習にもなる。それはプラスである。しかし、L2として英語ディベートをする時には細心の注意が必要である。今日のような状態では、生徒がかわいそうである。児童の世話放棄、ネグレクト、ではないか。ディベートの審査基準にも、スピーチの審査基準と同じような、英語自体の音声的適切さ、を入れなくてはならないのではないだろうか。率直に言って、きょうは、50分間、聞いているのが辛かった。あの生徒たちならもっとずっと伸びたはず(仮定法過去)。きょうの講演でも言ったとおり、ダメなパフォーマンスを褒めても、ダメであり、いいのか、わるいのか、をはっきり教えてやるのが、指導者たる教員の役目である。セッションの最後で、ポジティブなトーンで終えるのが役目なのですが、すべては目の前の生徒のため、ということで、お許しいだければ、と思います」
このコメントの最中でくだんの発表をした「教員」は退席していった。何を思ったのかはわからない。ふてくされての退席なら、すこし大人げないと思う。しかし、あとで知ったのだが、かれは教頭であって、教科は英語ではなかった。単に「特色ある教育」というやつで英語ディベートに目をつけて、(どういうわけか知らないが、英語教員ではなく、他教科教員であった現在教頭の)彼が、中心になって回している、ということらしいということであった。
この情報を得た時、安堵を感じた。もちろん生徒たちに犯している罪は変わらない。しかしその下手人が、すくなくとも英語教員ではなかった。英語のなんたるかを知らない、単なるドシロートが、単に学校の名前を上げたいがためにやっているPRプロジェクトなのであれば、嘆かわしいことではあるが、納得はできる。すくなくとも英語教員はそこまでヒドイのはいないのだ、と思いたい。
その後の懇親会。
「われわれが言いたいけれど言えないことを、あそこまでズバリいってくださって、有難かったです。」
「私は英語が専門ではないですが、それでも、『え~。。。あんなものなのかな』と思っていました。はっきり言ってくださって良かったです」
「眼の前の生徒を愛しているのか、もっとよくしてやるという気持ちがあるのか、ということだと思いました」
といった反応を、ベテラン、中堅、若手教員からも異口同音にいただけたので、よかった。いつぞやの全英連での、2000人から入る会場の全員を敵に回して「袈裟懸けに一刀両断する」ような物言いではなくなったからだろう、と解釈している。
良心のある英語教師なら、今の「日本の英語ディベート」カルチャーを抜本的に変えるべし!
あの「化け物」を退治してやらないと、きょうこの瞬間にも多くの若者たちが犠牲になっているのだ。
心が痛む。