Can Do 騒ぎが現場に降りていき、無理無理 Can Do 表現をさせられてる感、がいっぱい。
かと言って実質的に変わっているかと言えば、とくに何も変わっていないのではないだろうか。
流行りとしての、バズワードとしての can do などではなく、授業の到達目標として、1時間1時間の最後に何が出来るようになっている
(たとえば、このフレーズが read and look up できちんと言える、とか、この文を理解したうえできちんと書ける、とか、このやりとりが流暢に性格にできる、とかピンポイントに具体的なもの)
ことを目指すのか、ということを皆が意識しながら授業をするようになれば、授業は変わるのではないかと思う。
Can Do リストの文言の作成に血道をあげている、いやあげさせられていながら、すこしも can do をめざした授業にならないのは、文書としての指導案の作成に時間をかけながら、すこしも良い指導にならないのに似ている。