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11/18/2018

プレゼンテーションさせたら指導しようよ、英語の。

今日の語研の公開授業(ビデオ)は、要約すると:

「環境問題についての文章をジグソー仕立てで読み、そのインフォメーション ギャプを利用してグループ内で英語でギャップを埋めるために話し合い(グループ内発表をしあい)、 それをもとにグループごとにまとめた環境保全のための自分たちの考えについてのプレゼンテーションを発表する」

というものだった。

グループ内で情報を共有するところまでビデオを見ての感想は以下の2つ。

(1)出だしがあまりジグソーらしくない

3つのエクスパートグループに分ける前に、全体に対してエクスパートグループで読む題材についてのキーワードをオーラルイントロダクション風にしたのだが、全体にするなら、エクスパートグループで読む題材には直接関係ないものにしないと、ジグソー度が落ちる。ジグソー度が落ちるというのは、インフォメーションのギャップが減ってしまう、という意味。つまり、 グループA(を含む全員)に対して、グループBのキーワードも与えてしまっているので、あとからB担当者からA担当者が情報を引き出す必要がなくなってしまう。いぜん私がジグソーとやったときは、グループAには私が口頭で、グループBにはALTが口頭で、グループC は壁に貼ってある文章を読ませる、という形で完全な情報のギャップを保証した。今日の授業もせっかくALTがいたのだから、そういうアレンジのほうが適していたと思う。

(2)題材がジグソーにあまり適しているとは言えない

ジグソー活動はジグソーパズルからその名をとっている。ジグソーパズルが完成せず、全体像が見えないと気持ち悪い。そういう「全体像が見えないと話が見えない」的な題材であればジグソー仕立てが生きるのだが、きょうの題材だと、もともと持っている背景知識もふくまれているし、「パズル」が完成しなくても「全体像が見えない!」感がない。もうひと工夫欲しかった。

以上の2点は前半の区切りで挙手してコメントしたのだが、(2)については「その通りです」という同意を得た。そしてビデオの再生が再開。。。。ビデオが発表にさしかかると悪い予感が的中し、ビデオを見ているのも苦痛になってしまった。一区切りついてした質問というかコメントは次のもの:

(3)英語に対するフィードバックをまったくしないのはナンデ???

ひとつのグループが発表し、それに対し 別のグループが 質問し、それに対して即興でとつとつとながらも答え、さらにALTがコメントする、というパターンが6回繰り返される。日本人教員はほぼ称賛と拍手するだけ。ALTは(例によって)「それはとてもいいポイントだ。さらにこういうこともあるね。」という内容に対するコメントするだけ。

嗚呼。。。またか。何度目のデジャヴュ感だろうか。

何年も前、某県での研究大会での公開授業でも生徒にコメントを求め、生徒がなんとか英語でコメントするとそれに対して(日本人)教員は That's a good point! 的なコメントのみ繰り返したを見た。ある程度知っている人だったので事後にそのことについて問うと、「イマイチの英語だと思っても、その瞬間より適切な表現が思い浮かばないために、流してしまいました」との正直な告白を得た。

一番最近では本年の本学のグローバルキャンプ埼玉でも、ネイティブ講師(外部委託)が5日間にわたって受講者のプレゼンを少しずつ完成させてゆき、最終日にプレゼンを行ったのだが、過程においても、最終プレゼンにおいても、フィードバックは100%内容や構成に関するもので、英語の音声の質や文法に関するフィードバックはゼロ。

5:5にするのが嫌ならばせめて、7:3とか8:2とか、どんなに少なくても9:1で英語についても指導してほしいのだが、3人の講師が3人とも10:0。その結果、最終日のプレゼンでも残念な音声のまま、偽りの称賛をもらってプログラムを終わった受講生、多し。主催者(発注者)の側の責任として次回は、フィードバックは7:3くらいで英語も上手くなるようにしてくれ、と外部委託の講師に注文しようと思っている。

ネイティブ講師の場合は、よりよい表現が思いつかないとか、生徒の発音が変なのに気づかないことはありえないので、なんらかのフィロソフィーとして「フィードバックは内容面だけにするのが politically correct(?)なのだ、という誤った、残念な方針を持っているのが原因だと考えられる。

ノンネイティブの場合は、フィロソフィーというよりも、上の某県の彼氏の正直な告白のように、文法の場合は「より適切な表現がとっさに思いつかない」ということであり、発音やリズムの場合はそもそも生徒の発音、リズムが「イマイチであるという事実自体わからない」のが原因なのだと推測される。

今日の授業は生徒がいろいろ即興も含めて「やりとり」をした授業、である。「やりとり」に慣れる意味では意味のある授業である。しかし、ハッキリ言うが、それを繰り返しても、「下手な」英語でやりとりをするのに慣れるのみ、というか、自分のレベルで足踏みをしながら足踏みがうまくなるだけで、前進はしない。前進させてやるためには、1度にひとつでいいから、文法面、表現面、音声面などでの「ワンポイントアドバイス」をするのが不可欠(=絶対に必要)なことである。

学生向けの解説はどうなってるのかな?

それで気になったのが、別室の学生向けの解説ではどういう解説をしているのか、ということである。うちの大学の学生も数名は行っていたので、その学生向けの部屋の解説者がなにを言っていたのかは大いに気になる。

もちろんひとつの試みではあるが、「ジグソーとしては今ひとつジグソーらしさがないし、発表の授業としては『これではイケナイ』の典型である」ということをきちんと解説してくれているだろうか?大いに疑わしい。「このようにジグソー方式で工夫すれば生徒同士の発話量も多くなるし、生徒も発表から多くのことを学んだはずです」などということだけ言っているのではないだろうな。。。

そもそも、この「学生向けの別室の解説」というシステムが有効に機能するのは、その公開授業が語研が提唱する模範的な授業で、その手順や活動の価値について語研のメンバーの間で完全に認識が一致しているときだけのはずである。

今日の授業について3人の解説者は認識が一致していたのか?「要改善点が多い授業」としての認識が?でも、もしそうならなぜ語研として自信を持って世間に問う師範授業という位置づけである「公開授業」として公開したのか、ということになる。では、改善点が多いとは思わなかったのか?もしそう思わないならば、 doomed である。