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12/27/2012

3月3日 大阪でセミナーします

3月3日に大阪でセミナーをします。よろしければどうぞ参加してください。

◆第8回英語力UPゼミ ご案内ページ
=第一部のみ=
 http://www.alc.co.jp/event/13/03031/

=第一部・二部セット=
 http://www.alc.co.jp/event/13/0303/

ELEC講習会の参加者コメント

英語教師がみにつけるべき発音力とその指導力

満足できた 25名   普通  0名  満足できなかった  0名  不参加または未記入  0名

コメント:

<満足>

1.演習もあり、非常に有意義でした。

2.自分が正しく発音できないと生徒の発音を正してあげられないので、自ら発音矯正は急務です。歌を使った練習は楽しく、Story の説明もゆっくり話して正しい発音を聞かせることで効果が上がるように思いました。ありがとうございました。

3.発音についての意識が変わった。授業での具体的な使い方なども教えていただけたので、よかったです。


4.とても勉強になりました。教員になって自分の発音についてしっかり考える機会がなかったことをすごく反省しました。今日からすこしずつひとつひとつちゃんとやっていく気持ちになれました。 

5.長い間あいまいだったものが整理できてよかったです。 

6.自分が思っていた以上に発音に気をつけるポイントがあるということに気づけた (わかりやすい やf、thだけでなく、nやlの大事さ)ことが身になりました。「その気なって聴く」ためのポイントが増えました。ALTにはできない事、CDにはできないことがむしろnon-nativeの私(たち)にあることがうれしかったです。

7.アクティビティーを通して、私たちが苦手とする発音を認識することができました。今後、どのようにして発音力を向上させていくか(自分に対しても、生徒に対しても)考えていきたいと思います。

8.発音チェックが一人ひとりあり、ドキドキしましたが、よくわかりました。また発音の大切さを実感するとともに、こちらの話す英語の明瞭さに自己反省しています。ありがとうございました。

9.具体的な技術が学べてとてもためになりました。

10.具体策が聞けて非常に勉強になりました。ありがとうございました。

11.楽しかった。自分が正しい発音ができるように頑張らなければいけないと思ったので、本買います。新しいドリルが出るのを楽しみにしています。

12.今回2回目の参加となりましたが、日ごろ子供たちに提示している発音が正しいかどうか、しっかりと反省できる場と思います。繰り返しやるところがとてもいいですね。

13.発音指導について明確なインストラクションが与えられました。ありがとうございました。

14.厳しいレッスンでしたが、楽しく、ためになりました。発音には少し自信があったのですが・・・まだまだです。冬休みに「絶対発音力」でもう一度トレーニングします。

15.発音ドリルが役に立った。歌を活用するとよい。発音の練習にどれだけ時間を充てることができるか?細かくやればやるほど、他のカバーすべき内容にあてる時間が好くなるのでバランスが大切か。

16.英語発音指導の厳しさを学びました。教師としての意識、姿勢を勉強することができたのが何よりもためになりました。

17.発音指導が具体的でわかりやすかった。40人でも発音指導ができるように仕組みを作って指導し
ていきたいと思いました。貴重な講義ありがとうございました。

18.発音指導、細かく厳しく教えていただきためになりました。知らない事ばかりで目からウロコでした。自信ができていないことや初めて知ることばかりだったので授業に生かしていくのに勉強が必要です。また教師向けの講習よろしくお願いします。

19.自分の発音を見直すことをこの冬休みにしようと決意しました。授業の中で発音指導がおろそかになっていたので、自信をもって臨めるよう、やはり自分がしっかりしなければと思いました。

20.生徒に最低限の発音の区別の力をつけるために、自分自身が訓練して自信を持って指導できるようになりたいと思いました。

21.ひさしぶりに先生の授業を受けることができて楽しかったです。音読walking実践します。ありがとうございました。

22.靜先生の御本は何冊か読ませていただいて、授業でも取り入れさせてい頂いてますが、実際ご指導されている様子を拝見し(きっと生徒にはもっと厳しいかと思いますが)、次から授業に生かせると思います。ますます自分の力を向上させなければと、喝が入りました。ありがとうございました。

12/19/2012

Christmas の a はシュワか否か

All I want for Christmas is you に関して気づいたこと。

この歌の中の Christmas の発音に2種類ある。

♫ I don't want a lot for Christmas.  とか、

♫ Underneath the Christmas tree.

の場合の mas の発音と、

♫ All I want for Christmas is you.

の mas の発音が違う。

前者の場合は辞書の記述通りのシュワだが、後者は明らかに音価が明瞭である。

これはメロディを考えると納得するだろう。前者は Christ の音符が mas よりも高い。後者は、逆に、mas のほうが高い。しかも長い。

後者の文脈で無理にシュワにすると逆に不自然だろう。メロディ的に焦点が当たってかつ呼気のエネルギー(intensity) も大きい。シュワというのは要するにストレスがなく、エネルギーがないので舌のポジションがもっとも負荷のかからないニュートラルもどる、ということだと思われるので、文脈によって、その部分にエネルギーが注がれば音価が明瞭になる、というのが本質だと思われる。


12/18/2012

One Direction やってきました

今日は、高校に出張模擬授業で、One Direction の That's What Makes You Beautiful を歌って(歌わせて)きました。

12人の高校2年生との初対面。

最初はおっかなびっくりのようでしたが、一斉練習のあとグルグルをやって、最終的にはまあまあ楽しそうに歌ってくれましたね。

あの中から数名はきっとうちに来てくれるでしょう(^^)。

12/15/2012

教師の卵の声(2)

英語教師を目指す学生の声:


私は友人の誘いで小学校6年生から英語というものを学び始めました。当時はひたすら先生の発音した単語を復唱するだけでしたが、それでも「リンゴ」を「apple」と言えただけで嬉しくて仕方がなく、英語が話せることをとても楽しいと感じていました。

(中略)
しかし、中学校に進学してみると、同じ「英語」という分野にもかかわらず、その内容は英文和訳と文法問題が中心。そこには、私が好きだった「話す」英語はほとんどありませんでした。先生たちが気にしていたのは生徒の成績ただ一つ。成績さえ良ければ、英語らしい発音なんか出来なくても、英語に興味を持ってもらわなくても関係ない、今思えばそういう態度で授業をしていたように感じます。いつの間にか私自身も成績重視の考え方になっていて、英語を話す楽しさなんかすっかり忘れてここまで来てしまいました。  
初めて英語を学ぶ子供たちにとって、目の前にいる英語教師こそが英語そのものであり、その教師の英語力がそのまま子供たちに反映されます。生徒を大切に思うのなら、最初からしっかりとした英語を教えるべきです。しかし、今の私にはそのための十分な力がありません。万が一教師になれたとしても、このままでは私の大嫌いだったあの先生と同じように生徒を苦しめることになります。そうなるくらいなら、今すぐ教職をやめて他の道に進んだ方が良いのかと悩みました。

でも、靜先生の授業を受けて、こんなに面白い英語の授業をする人がいるのかと心底驚きました。今までの人生で、こんなに自己流の授業を展開してくる先生は他にいなかったので。ですが、20歳を目前にして、初めて生きた英語を学んでいる気がします。正直なところ、英語を書くこと話すことが極端に苦手な私にとって、先生の授業はかなり辛いです。でも、それを克服して生徒たちに「最初から」こんなわくわくする授業をしてあげたい。 
生徒たちに胸を張ってちゃんとした英語を教えられる教師になり(中略)、生徒たちに英語を学ぶ楽しさを伝えたいです。

「自己流」って、おいおい。。。(笑)  まあ靜流だから、そうか。

それはともかく、「初めて英語を学ぶ子供たちにとって、目の前にいる英語教師こそが英語そのもの」は、これいじょうの真実はないくらいの真実だ。

中1を担当する英語教師は、その生徒の英語人生を決めてしまう。それくらい重要で、責任重大で、やりがいがあって、コワイ仕事なのだ。

君が君の未来の生徒に「わくわくする授業」ができる教師になれるよう、精一杯手助けをさせてもらうよ。

30年目の気づき:シュワ~

英語を30年教えていても、毎年毎年あらたな「気づき」というのも、どういうわけかあるもので、ここのところの私の中での最大の気づきは「あいまい母音schwaを教えることの大切さ」の再確認です。

もちろん以前から大切さはわかっていましたが、ここにきて、それが音声面に関して日本人の英語が英語っぽくない最大の原因のひとつであり、機能語および内容語の弱音節のschwaができないから、それ以外の強い音節の音が「目立たず」、結果的にどこが意味の焦点なのか、何が言いたいのかが、非常にわかりにくくなってしまうのだ、というのがさらに強く感じられてきました。


過去におしえた生徒たちにも学生たちにも、もっともっとそのことを教えてやるべきだったなあ、と思います。が、それを言ってもしかたないので、今の学生には、bad

と bud の母音の違いと同じくらいの力点をおいて、object (名)と

object(動)の、oの部分の音の違いを言い続けようと思います。


もうひとつは、英語の音節の「強さ」はかなりの部分が「高さ」と「長さ」による、という気づきです。だから、

object(名)は、東京アクセントの、「箸」

object(動)は東京アクセントの、「橋」

とパラレルと考えられる、ということを利用して、あらたな指導方法が見えてきました。

たとえば、

I think so.



日本語の「おもう」と同じアクセントだよ、というような指導表現です。

教師の卵の声(1)

英語教師を目指す学生の声:

英語ができる楽しさも悔しさもすべて経験しました。だからこそ、その楽しさを生徒に教えたいです。 
(英語には関係ないですが学校は楽しいこともつらいことも経験できる、本当に人を成長させる場所だと思います。だからそこでわたしは生徒の成長の手助けをしてあげたいです。)

学校は本当にすばらしい場所だと思う。こういう思いをもった学生が教壇に立てるように、私は手助けをしたい。


12/14/2012

クリスマス、楽しい!

毎年この時期は、どの授業でもマライアの All I Want for Christmas Is You を歌ってグルグルしているのでめっちゃ楽しい。

あ~たのしい!

12/07/2012

通じないよ

発音がまずい時、

「あ~、通じないよ」

と言うのがよいと思う。

実際、普通の生徒・学生が言う learn は run と区別がつかない。

lavish と言ったら、rubbish と思われた、という英語の先生からの告白もあった。

あいまい母音の威力

あいまい母音のschwa はエライ。

自分が目立たなくなるお陰で、主役である、ストレスのある音節の母音がはっきり聞こえる。

人間かくありたい。

だが、ずっと目立たないわけではなく、(品詞が変わって)自分にストレスが降りてくるときは、めざめて、本来のはっきり、くっきりした音価になる。

人間も、英語発音も、メリハリとギャップだろう。

しつければ、しつく

音読のたびに、

「L ガンバッテ!」

といいつづければ、それなりに定着してくる、ということがわかった。

やはり、授業は愛情と迫力と根気だね。

12/05/2012

留学生の間違い

中国からの留学生が、

private を、provide のように発音した。ので、まったく分からなかった。

母語が異なると発音上のミスのパタンもまったく違うので、日本語以外を母語にする英語学習者の誤りは予測できないので、対応が難しい。

裏を返せば、日本語母語英語学習者の発音ミスはすべて予測がつくから、完全に対応できる。

せめて自分のレベルにまで

教師としての自分のレベルを超えさせるか超えさせないか、という、それこそレベルの高い話はともかく、私が理解できない、我慢できないのは、

世の英語教師の多く(many であることは間違いない。mostと言っても過言ではない)に、せめて自分と同等のレベルまで目の前の生徒のレベルを引き上げてやろう、という姿勢がない

ように見えることです。

どうしようもなく音声的レベルの低い英語を「発表」させて、意味なく Thank you! といってハイおしまい、という授業が金太郎飴のように見られます。

自分の英語の音声レベルが必ずしも非常に高いと思っていない場合であっても、目の前の多くの生徒よりは格段にレベルは高いはずです。(そうでなかったら即、廃業すべきです。)

だったらせめて自分のレベルまでは生徒を引き上げてやろう、という気持ちがあって当然だと思いますが。

なぜ!?


12/04/2012

自分を超えたレベル

前のポストの「自分を超えたレベルは自分には指導不可能だ」という部分に、友人から物言い(challenge)がついたので、ちょっと考えてみます。

スポーツのコーチなどの例を引いて、「指導者は自分を超えたレベルを育てるのが仕事だ」というのが友人の意見の骨子です。

たしかにスポーツとか歌とか楽器の演奏とか、motor skill とか体力や筋力が占める部分が大きいパフォーマンスについてはそうだと思います。

しかし英語はどうなんでしょう。

自分の現・教え子が自分よりも英語ができるようになる、といった事態があったら、その教え子は褒めるべきだと思いますが、「自分」は教師として情けないと思わねばならないと思うし、その教え子のレベルにまで最低限追いつかねばならないと思います。

こうすればもっと単語が覚えられる、こうすればもっとうまく話せるようになる、こうすればもっと速く正確に読めるようになる、こうすればもっとうまい英文が書けるようになる、というアドバイスができるならば、アドバイスする前に、まずそれを自分に適用して、じぶんのレベルを上げないといけないのではないかな、と思います。

12/02/2012

1なら2に、7なら8に。

私が発音に関して完璧主義者である、という印象を持っている人は、先日の

Are you like tennis?  がどれほど悪いんだよ?

という問いかけに戸惑う場合があるらしい。

しかし私の中では、発音はとにかくきちんと、というベクトルと、Are you like tennis? がなんでそんなに悪いんだよ、というベクトルは矛盾していない。両方とも、上を目指しているのは同じだからである。

発音も英作文も目指すものは、自分と同じレベルである。なぜ自分と同じレベルかというと、すくなくとも自分と同じレベルまでにはしてやりたいし、自分を超えたレベルというのは、自分には指導不可能だからである。

そして、発音でも文法でも作文でも、目の前の生徒を1ステップずつ、上達させたい、というのには変わりない。

/r/ができない生徒ならできるようにしてやりたい。/r/ができるようになったら/l/もできるようにしてやりたい。それもできるようになったら、 cars と cards もきちんといえるようにしてやりたい。segmental ができるようになったら、(というか同時でもいいが) suprasegmentalも英語らしくしてやりたい。英語らしくなったら、もっとスラスラ話せるようにしたやりたい。

主語もないような文をかく生徒なら、まず主語をたてるようにしてやりたい。主語と述語を書けるようなったら、動詞の形にも気をつけさせたい。徐々に冠詞や、相なども適切になるようにしてやりたい。短い文が書けるようになったら、徐々に、T-unitも長くしてやりたい。

「どこまで指導すればよいのか、といつも迷います」

どこまで、の答えは、自分と同じレベルを目指して、である。

それは究極の目標であって、個々の生徒に対する指導のレベルは個々に応じて千差万別だ。

目の前の生徒のレベルを1ランク上げてやること。それだけである。

10段階で1の生徒なら、2にすることを考える。8の生徒なら9にすることを考える。それだけである。

自分の生徒は2だ、3だ、と文句を言うのは筋違いだ。伸びしろが大きいのだから、今後の楽しみが大きいのだから。


12/01/2012

最近の口グセ: Lガンバレ。

Lガンバレ!

ほら次はTHから始まるぞ。

RRRR!


ほら、いまの a rot of は、「腐る」だぞ。 rot は腐るだから。

LLLLL ときちんと舌をつけろ!!


中国・韓国人学生は知っていているが日本人学生は知らないこと

これも昨日、ネイティブ教員に言われて、唸った話:

You don't need to teach Korean students and Chinese students that English is important.  They know it.  But to Japanese students, you often need to emphasize that English is important. They are not hungry.

11/30/2012

なぜ速く話すのか?

きょう、とある懇親会で会ったネイティブが言っていたことで、おお良いこと言うねえ、と思ったのが:

「日本人のスピーキングは全体に、非常にレベルが低い。それは主に発音面である。しかもレベルが低いのに速く話そうとするのが理解できない。うまければ速く話せばいいが、リズムもなにもなく速く話すので困る。なぜ、区切って、ゆっくり、英語らしいリズムで話さないのか?」

「切られた」(斬られた?)私

学生に、

「◯◯君が、この授業は切ると言っていました。忙しいらしいです。」

と言われた。

もちろん授業を履修するか否か、履修を続けるか否かは本人の自由(選択科目のなので)なのでよいのだが、

「この授業は切る」

という表現を、その授業をしている教員本人に対して用いるのは極めて失礼であるのは言うまでもない。

その場でその学生にはきちんと説明した。学生には物事をはっきり教えよう。


「ふつうの」人の思い込みスキーマの怖さ

今回の、山口新聞の記者による、

「聞いていない講演をあたかも聞いていたかのように書いた結果とんでも記事になってしまった事件」

に関連して知人に、

「新聞記者はもともと自分のストーリーがあって、取材した内容を、それに合うように構成するだけですよ、自分の近い人もひどい記事を書かれたことがあります」

と慰められ(?)た。

しかし考えてみると、おざなりな「取材」で思い込み記事を書いた結果があれだ、ということは裏を返せば、

「間違いを恐れずに話そう」

というメッセージが「ありがちな話」「思い込み」として新聞記者という「一般人」のなかにいかに強固に刷り込まれているか、ということを示していると言える。

もともとそういうスキーマが蓄えられているから、講演自体は聞かなくとも、私のレジュメに、「間違いを恐れずに」という文字を見つけた瞬間、

「ああ、間違いを恐れずに話そう、という例のメッセージをこの教授は伝えたのか」

と早合点して、適当に記事を書いたわけである。

(でも、レジュメのその部分のタイトルも、「『間違いを恐れずに』 アホちゃうか。」だったのだが、よほど急いでいたのか、「アホちゃうか」は見落としたか無視したらしい。信じられませんけどね。)

いかに「間違いを恐れずに」というメッセージが一般的であるかの証左である。

他にも英語教育に関して次のような言説は一般的だろう。


  • ネイティブ・スピーカーの授業を増やすべきだ!
  • iPad(など)を使った授業は効果的だ!
  • 英語を英語で教えるべきだ!
  • ディベートをするべきだ!
  • 遊び感覚で楽しく学ぶべきだ!
  • 会話中心の授業をするべきだ!
  • 生きた英語を学ぶべきだ!
  • シャドウイングをするべきだ!


よって、仮に次のようなことをいくら力説しても、おざなりな聞き方をする一般人には、上のように受け取られる恐れは十分にあるので、気をつけねばならぬ:


  • ネイティブ・スピーカーの授業をうけても、一般に思われるほど英語はうまくならないことが多い。直してくれないから。
  • 教師の実力の無さはICTで補うことはできない。チョーク&トークが基本。
  • 英語を英語で教えれば英語がうまくなるとは限らない。英語がうまい生徒は英語で教えられるが、逆は真でない。ゆくゆくは英語で教えられるように、日本語も用いて教えないとだめ。
  • ディベートしてもとんでも英語早口大会になるのが関の山だ。まともな英語で話す日本人ディベータを見たことがない。(もちろんいるのでしょう。が、見たことがないですね。)
  • 遊んでいても身につかない。遊んでいる暇はないよ。
  • 「会話」って何?読んだことについて話すほうがよっぽと中身があるでしょ。
  • 死んだ英語なんてないよ。
  • シャドウイングなんてむやみにやっても意味ない。うまくなっている人を見た覚えがない。


困ったものである。。。


最後に話を戻すと、「間違いを恐れずに」でなく、新聞記者は、自分の書く記事の間違いを恐れるべきであるし、間違えたら訂正するべきである。当たり前だが。

Reporters! Be afraid of making mistakes!






11/28/2012

実際には聞いていなかった(!)、そうです

2つ前のポストの記事を書いた記者は、なんでああいう記事になったかというと、なんと

「(次の取材があったから)実はあの講演は聞いていなかった」

ということです。

実際には聞いていなかった講演を、あたかもその場にいたかのようにレポートしたので、ああいう全く正反対の内容になった、ということですね。

That explains.

ちょっと考えられないくらい理解能力が低かったのでも、なんらかの意図をもって趣旨を捻じ曲げようとしたわけでもなく、単に記者として(控えめに言って)怠慢だった...というオチとなりました。

でもそれならそれで、「お詫びの上、訂正します」という記事を出すべきだと思いますがねえ。。。

11/27/2012

小学校の先生、いっしょにがんばりましょう


[先日の山口の講演に出席していた小学校教師のみなさんに対してメッセージを寄せてくれませんか、と、英語の授業を頑張っている小学校の先生に依頼して書いてもらった文章]


大阪府の小学校で35年間教師をしています。(中略) 靜先生の授業を受けるまで、「私にはRの発音は無理」だと思っていたし、「Lは日本語のラ行で問題ないだろう」と考えていました。きちんとした指導を受ければだれでも身につけることができると今では思います。 
小学校英語というといつも指導者の問題が取りざたされます。小学校教師に求められる英語の力はと聞かれたら、私は「アルファベットの一つ一つの音が正確に出せて、易しい絵本やチャンツ、歌が正しいリズムで読めたり歌えたりすること」と答えます。これができないから小学校での英語教育に反対だという先生もたくさんいます。これが今の日本の英語教育の大きな問題点であって、個々の教師の怠慢といえるものではないでしょう。 
でもこの点について今さら中高の英語の先生をうらんでみてもはじまらないし、文科省の研修も期待できそうにありません。まずはLとRから始めて見ませんか。具体的には、マザーグースでも歌でも絵本でも簡単なものでいいので、自分の気に入ったものを選んで教師自身がモデルを徹底的にまねて覚える、というのを勧めます。そしてターゲットの語を決めて教える。小学校教師は音を大事にした入門期の文字指導の経験を持っているし、楽しい音読指導の方法もたくさん知っています。「あ」の一文字だけで45分の授業を組み立てられる力もあります。それらは英語の指導にも必ず生かされます。 
 今、一年生を担任していて、運動会のダンスで使った「under the sea」の歌を一緒に歌っています。RとLだけ、サビだけと思っていたのに、一つの音にこだわってみると、また次の音が気になってきます。帰る前に1、2回歌うだけですが、「今日はbetter とwetter の違いに気をつけて歌ってみよう」といった感じで、日に日にうまくなってノリノリになっていく子どもたちを見るのは楽しくてしかたがないです。実はその前の晩には必死になって「w」の音を練習しているのですが。子どもを鍛えるつもりが私自身が鍛えられている毎日です。まだまだこれからです。いっしょにがんばりましょう。


ありがとうございます。小学校教師に求められる英語の力についてはまったく同感です。「あ」の一文字だけで45分間の授業を組み立てる力、はすごいものですね。それにきちんとした発音さえ備われば、鬼に金棒です。英語の発音はこつさえつかめば決して難しいものではありません。小学校の先生方、どうぞ子どもたちのために、ガンバッテください。












11/23/2012

新聞記者というのはバカだったのか。

昨日やった講演について、山口新聞の記事があったので見たらビックリ、

http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2012/1123/9p.html

「大東文化大学の靜哲人教授が『実力は細部に宿る~音声と文字を大切にした指導を!」と題して講演。会話中心の英語教育を勧め『間違いを恐れず思い切ってしゃべって。しゃべった後失敗から学ぶ。きっと次は成功する』と上達の秘訣を述べた。」


とありました。

(フザケルナ)

まず、会話中心の英語教育など勧めてはおりません。だいたい「会話」という浅薄な響きの用語は使ったことはありません。音声を大事にしろ、と言ったのであります。主として書いてある教材の音読の話であって、「会話」の話など一言もしておりません。

つぎに、間違いを恐れず思い切ってしゃべって、などは死んでも言っておりません。私のことを知っている人ならば私がそんなことを私が言うハズがないことはわかると思います。言ったのは、

「間違いを恐れず」という表現は大嫌いである。間違いを恐れずしゃべらせた後は、どこが間違ったかきちんと指摘して、次は同じ間違いをしないようにさせなければ意味がない。 Don't be afraid of making mistakes! などと脳天気に言っているな。

ということです。

それが180度違う、正反対の発言にされるとは。。。。 

新聞なんてこんなものですかね。

この記者が個人的に理解力and/or要約力が尋常でなく低いのか、なんらかの意図を持ってこういう記事をでっち上げた確信犯なのかは不明。

今井遥選手、応援よろしくお願いします

大東文化大学の外国語学部英語学科の

今井遥選手

が、今夜のフィギュアスケートNHK杯に出場します。

次代を担うホープ!

応援、よろしくお願いします。

ゴミを送ってくるんじゃねえ!

(学生への一斉メール)

どうしても self-monitoring ができないようなので、manzoku2は提出前に、最低限、別の誰か1名に聞いてもらい、

L

R

TH

V

F

さらに

リズムの適正さ、

などを批判的にチェックしてもらい、必要に応じて録り直しを何度もし、それで合格した最終バージョンを送りなさい。

チェックしてもらった他人の名前も、ファイル名に。

ゴミみたいな英語の録音を送ってくるな!

自分の very best を送ってこい。

博士号と授業の二律背反

同僚とのカフェテリアでの茶飲み話:

授業が「できる」人は博士号(なんかとっている暇はないからそんなもの)は持っていない。。。

博士号を持っている(ような)人は授業が「できない」。。。

よねえ。。。

だよねえ。。。

今どき、大学だと博士号を持っていないと苦しいし、かといってそういう人を採用しても授業がイマイチじゃあ元も子もないしねえ。。。

博士号を持っていて授業が「できる」人、

授業が「できる」けど博士号も持っている人、

いないかねえ。。。

++

補足:

いや、もちろんうちの大学では、授業が「できて」かつ博士号を持っている人を育てますよ(汗)





11/22/2012

基地の街で

きょうは米軍基地の街、岩国で講演(公演)だったのですが、いくつか面白いことがありました。

最初の1時間弱くらいは、

「私は他人の授業を見たくない。なぜなら見れば90%以上、嫌な気持ちになり、いたたまれなくなり、耳を塞ぎたくなるからだ。それはあなたたち教師が、生徒のダメダメ英語を聞いても英語自体の指導をすることが一切無く、無意味に OK! Thank you! Great! というばかりだからだ。」

という話をしました。で、そこで、ここまで聞いて何か質問とか反論とかありませんか、とフロアに振ったところ、手が上がり、

「(言いたいことはわかったがお前が)実際にどういう指導をするのか見てみたいから、この場で、俺たち全員を生徒にみたてて、模擬授業をやってくれないか?」

というchallengeが来たので、

「じゃあ先生を生徒にに見たてて音読の指導をするので、舞台に上がってください」

と言って舞台に上がってもらい、中学教科書の本文を使って、Rの指導、語末のNの指導をしながら、強弱というか高低のプロソディの指導を、ステップを踏んだり、手で波乗りを表すジェスチャーメソッドで指導デモンストレーションをしたところ、まあまあ納得してくださったようでした。

その後、懇親会に移りましたが、懇談の中でさすが岩国というか、

「自分は中2の頃から米兵と付き合いがあり、ずっとコミュニケーションはとれてきたから、これでいいと思ってきた。しかし今日の話を聞いて、自分がコミュニケーションをとれていたのは、相手が母語話者だったからで、非母語話者同士のインタラクションになるとまた別問題なのかもしれないと思った。また、自分の英語は1ユーザーとしてはこれでいいだろうが、1ティーチャーとしてはまずかったのなあ、と思った。」

という告白をしてくださった方がいました。

なるほどねえ。

基地の街ならでは、の感想ですね。


11/20/2012

バカであった

(学生あての一斉送信メールの一部)

今日の授業にはがっかりした。自分に。

ここまできたらトーナメントをやれば、すぐれたパフォーマンスが勝ち上がってくるだろう、と予測していたのはバカであった。

どういうものが優れたパフォーマンスで、どういうものがダメダメなのか、もう十分教えられたと思っていたのはバカであった。

あれがよくある中高の授業であれば、最後の発表は「どうどうと乗ってやった」からOK!すばらしい!ぱちぱち! と終わる。

しかしあれは3つとも、ダメダメな質の低いパフォーマンスである。

あの3つに手を上げて勝ち進ませたすべての人間が、ダメダメ学生である。

恥を知れ。

11/18/2012

同じ文法でも軽重がある

2つ前の「アカン発言」に補足


英語とはどういう特徴のある言語か、を頭に入れて指導しよう。教科書にでてくる文法事項がすべて同じように重要なわけではない

言語的に言えば、3人称単数現在 など(意味伝達のためには)不要である。 実際 she don't なんていくらでも聞く。
代名詞の人称変化だって、ほぼ不要である。実際、教養のないネイティブ英語で、 their の代りに them をよく使っている。

そういう、語形の変化に関わるような「文法」というのは、相対的に、言語としての重要度が低いのである。

それに対して重要度が高い、これを間違えると意味が通じなくなる、というのは、語順に関わるような「文法」である。「てにをは」があるためにご順にそれほど頼っていない日本語と比べて、英語は語順が絶対だ。

Mary love(s) Tom. と Tom love(s) Mary.
では、単語はまったく同じでも意味が変わるのが英語なのだ。日本語は、「てひをは」さえあれば、語順はかなり自由が聞く。

だから、生徒の英語を見て、聞いたときに、「また間違えている」という単純発想ではなく、「また減点対象の間違えをしている」という減点教師根性だけではなくて、

「たぶん意味は通じるね、でも、教養がないと思われるよ」

なのか

「まったく意味が不明だよ、なぜなら。。。」

なのか

「意味は通じる。でも実は違う意味になっているよ。。」

なのか、

英語という言語としてどうなのか、一段上の、言語学的な、鳥瞰的な立場から切り分けてやるひつようがあるのだ。

上の Are you like tennis は、 are you と、like tennis という語順はそれぞれ定着しているのだから、そこから出発して、一歩上を目指せばいいではないか。

コップの半分の水にたいして、「半分しかはいっていない」という発想はやめよう。「半分は入っている」と発想をしよう。

11/16/2012

うまくなってきた

1年生がようやく少しうまくなってきた。

鱒寿司の竹へらメソッドがじわじわと効いてきたのだ。

2012年一のアカン発言 Are you like tennis?

「うちの生徒はレベルが低いです。be動詞と一般動詞の区別もつきません。Are you like tennis? なんて平気でいいます。ほとほと嫌気がさして、次の異動では行き先が◯◯工業と◯◯工業だったら、金の問題じゃなくて仕事を辞めます、と申し入れているんですよ。」

そういう気持ちでいるなら次の異動といわず今すぐ辞めたほうが生徒のためである。

だいたい、Are you like tennis? がどれだけ悪いのか。

Are you は身についている。 Are you a student? などが頭に残っているのだろう。

like tennisも身についている。 「テニスが好き」が、tennis like じゃなくて like tennis という VO になっているのだから大したものである。

I tennis like. じゃなくて、 I like tennis. と言えたら、英語の根本はクリアしていると思わねばならない。

高校で教えていて、中学レベルの事項があやふやな生徒がいたら、ラッキーと思えないのだろうか。

高校にいながらにして、バーチャルに中学でも教えるような体験ができるのである。楽しいではないか。

中学の初期というのは英語教育においてもっともエキサイティングで、もっともクリティカルな時期なのである。そのような時期に、高校にいながらにして立ち会えるのだ。

ABCから教えるのは楽しいではないか。文字と音の結びつきの最も大切な部分を教えられるのだ。

「うちの生徒はとても英語で英語を教えるなんてことができるレベルではない」と、できないのを生徒のせいにするのは発想が腐っている。それは生徒のレベルではなくて、そう言っている教員のレベルの問題である。

大学から高校、中学、小学校と降りていくにしたがって、「英語で」授業をするのはより易しいのである。限られた語彙だけ使えばイイのだから。

(もちろん英語で授業するというのは英語をたくさん生徒に言わせるということであって、コーチングは日本語でやったほうがずっとよいのはいうまでもない)

できる生徒には先生はいらないのである。先生はできない生徒のためにこそいるのである。

できない生徒がいるから、我々の商売が成り立つのであって、大変ありがたいことである。そんなにすぐみんな英語ができるようになってしまったら、英語教師はいらなくなってしまって、我々は商売上がったりだ。なんどもなんども繰り返しが必要だから、われわれの出番があるのである。ありがたいことだ。

できないのが当たり前なのだ。やる気がないのが当たり前なのだ。やる気があってできる生徒なんか、いま時、ネットでもなんでも教材を探して自分でどんどん勉強できるのだから、先生なんかいらないのである。やる気がなくてできない生徒のためにこそ教員は存在しているのである。

やる気がなくて出来ない生徒を、やる気があって出来る生徒に変えることこそが我々のしごとのコアなのである。


11/15/2012

「国際関係」と「国際◯◯関係」の大きな違い

今日勉強になったことがありました。

国際関係学部は、Faculty of International Relations であって、決して ... International Relationship ではない、と。

ふうん、なるほどなあ。でも、その場合、relations と relationship って、どう違うの、と尋ねたところ、

I'm majoring in international relationship.

と言うと、いろいろな国の異性とつきあっているように聞こえるよ、アハハ。。。

と、いうことでした。

11/11/2012

音読の悩みとプロソディ

大修館書店『英語教育』の12月号に、2本文章を書かせてもらいました。


音読指導の実践Q&Aの一部として


Q9 音読が上手く行かないときは、どうすればよいでしょうか?

(回答要旨: 音読がうまい教師がきちんどダメだしすれば必ずうまくいきます。)


Q14 音読のなかでどのようにリズム(プロソディ)を指導すればよいでしょうか?

(回答要旨: 先生自身がリズムを体現して歌って踊って下さい。)


他の回答者とはテイストが違った回答だと思いますが、是非書店で手にとって御覧ください。

音読特集

あさましきもの

音読についての記事を、聞くに耐えない音読をする教師が書くこと

11/09/2012

スピーキング指導とライティング指導のパラレル性

ライティングをさせても書かせっぱなしで、「よく出来ました」というハンコウを押すだけとか、Well written.という内容のないコメントをするだけとか、あるいは、英語自体には触れずに、内容に対するフィードバックをするだけ、というのは、スピーキングに直せば、発表やプレゼンをさせても言わせっぱなしで、"Wonderful!"  "Great!" という空疎な褒め言葉を発するだけ、とか、英語の発音や表現や文法にはいっさい触れずに、内容に対してコメントをするだけとか、内容どころか、「積極的に話そうとする態度が良かった」などのコドモダマシのフィードバックをするだけ、というのとちょうどパラレルだ。

また、スピーキングで発音や語法など英語自体にコメントしても、コメントするだけでそれを incorporateして再度言い直させないのは、ライティングに置き換えれば、添削しても添削しっぱなして、その添削を反映した書き直しをさせない、のとパラレルだ。

添削されたらそれをすべて学生が咀嚼して自主的に肝に銘じて書きなおしてパフォーマンスを向上させるなどというのが多くの場合は期待できないのと同様、スピーキングでも、これこれこうしたほうがよかった、と後から言われただけで次からそのようなパフォーマンスができるようになることは期待できない。

スピーキングでもライティングでも、まず、必ず英語自体の添削をしよう。そして添削したらそれを取り入れた望ましい形にして、言い直させよう、書きなおさせよう。

よく出来ましたマル、のハンコウを押し続ければライティング力が伸びると思う人はおとぎの国に生きている。

Wonderful! と言い続ければスピーキング力が伸びると思う人は、どうかしてる。

内容についてコメントしていれば書く英語も向上すると思う方がおかしい。

話す英語についてもまったく同じ。

誤りを指摘しただけで終わってはいけない。かならず言い直させなければ。

そうすると英語が嫌いになるのでは、という発想自体が腐っている。生徒をバカにしてるんじゃないかね。

生徒はうまくなりたいんだよ。

自分の英語が下手なことはわかっているんだよ。下手な英語をほめられても嘘っぽすぎてうれしくないよ。

下手な英語をほめていないで、下手は下手だ、何が下手の原因か、どうすれば上手になるか教えてやり、実際に上手くしてやって、上手くなったらほめようよ。

11/04/2012

圧倒的だった

今日の授業はざっくり言って、素晴らしかった。

バスケットボール、車椅子などの実物を使って生徒を巻き込んだ実演パフォーマンスは圧巻だった。もちろんその実演が確かな英語に裏打ちされていることは言うまでもない。

また新語の導入、新教材の音読練習でも、個々の音素、"basketball" の、tの非開放、can の強形、弱形の区別、文アクセントの中で弱く発音すべきところ、強く発音すべきところ、など、非常に大切なのに、中学高校ではまったくといっていいほど指導されていない、指導されていないどころか、たぶん多くの教師が知識としても知らないようなレベルの事柄にまで、まさに痒い所に手が届くような音声指導がなされていた。

オレのこの口の形を見よ、舌を見よ、ほらこうやって発音するんだよ、というメッセージを発しながら自分の顔に注目させる教師は、自分以外ではほぼ初めて観た。

ペアワークもよかった。Aをペアからもらえたら座って良い、というのを厳しく判定しているパートナーも多かったようだ。

自分ならこうするだろう、と思ったのは read and look up で、生徒のコーラスがまわりにあわせてリズムがゆっくり平板になってしまった時である。私なら「まわりにあわせなくともいいからきちんとリズムをとって」というか、またはきちんとリズムを取ったモデルをもう一度提示してリピートさせるかしたと思う。

いずれにせよ、観ていて幸せな気分になったのは、彼が自分の指導で子どもたちの英語がうまくなっていくのを心から喜んでいるのが伝わってきたからである。

(自分の子どもよりも若い世代というのは、いわば「孫」感覚に近くなってきて、一段とかわいくなる、というのも有るのかもしれない。)

あれだけきめ細やかに中1から指導されればあの子たちはうまくなる。彼に担当されたあの子どもたちは本当にラッキーである。 

They are lucky to have him as their teacher.

11/03/2012

いいところを見つけよう、って?

お友達の発表を聞いて、いいところを見つけてコメントしよう!

というメンタリティが私にはわからない。

いいところを言っても向上はないでしょ。そのままでいいんだから。

ダメだったところ、こうしたほうが良くなるところを言わなければ向上はないでしょ。

その場で止めて、やり直させよ

授業をふたつ観た。

学年は違うが両方とも授業の最後のほうに「発表」があった。3人(3ペア)とか5人(5ペア)とかピックアップして発表させていた。

5つ発表があったならば、一つ目より2つ目、2つ目より3つ目、とパフォーマンスの質が徐々に上がらなければならないと思う。

つまり、一つ目の発表に対して具体的なフィードバックをして、2つ目の発表に生かさせなければならない、という意味である。もし2つ目の発表が一つ目の発表と同じ「誤り」「不十分さ」を伴っていたら、

「さっき言ったのを聞いていなかったのか!?」

という叱責(実際の言い方や厳しさはいろいろであっていいが)があってしかるべきで、またそういうつもりで、一人目に対するフィードバックを全員が受け止める雰囲気、態度を育成する必要がある。

一人目<二人目<3人目<4人目

ならよいが、

一人目=二人目=3人め=4人め

へたすると 3人め>4人め

では、時間の無駄であろう。これでは仮に40人「発表」させてもパフォーマンスが変わらない。あてればあてるだけ、時間の無駄だろう。お手本にすべきレベルでない友達のパフォーマンスを見ているのなら、お手本にすべきパフォーマンスを繰り返し見せるほうがよいであろう。

そして、

一人目=二人目=3人め

であれば、その延長線上にあるのは、

今日のレベル=明日のレベル=明後日のレベル

であろう。

つまり、いくら授業を繰り返してもうまくならない、ということだ。

しかし、すこしであっても、

一人目<二人目<3人め

であれば、あるいはそれを教師も生徒も目指しているならば、

今日のレベル<明日のレベル<明後日のレベル

になるであろう。

世の中の英語教師は、クラス内の「発表」について根本的に考えなおしたほうがよい。

何分かの発表が終わってから、「少し文法もいい加減になっていたから、気をつけようね」と言うだけでは、何も言わないのと同じである。そのコメントを聞いてその生徒はなにも変わりようがないからだ。

やっぱり Freeze Coaching である。その瞬間、その場で笛を吹いてプレーを止めなければ。

あとから言う場合でも、最低限、具体的に指摘して、それを望ましいレベルになるように「やり直させる」のでなければ、「言うだけ、形だけのフィードバック」だ。




10/27/2012

『音トレーニングドリル』出来ました!


ジャーン!!

このたび、アルク(株)より、

発音入門 音トレーニングドリル

出しました。



家庭学習でも授業でも使えます。

ざっくり言うと、『絶対発音力』のアプローチをベースにして、高校生用に書きなおし、授業でも宿題としても使いやすいように構成し、新作の「575」もふんだんに盛り込んだ、というイメージです。

学校採択のみなので、先生方、是非サンプルを請求してみてください。

英語の発音で人格(?)の印象が変わる

今日の学会では以前から知っている人が英語で話すのを初めて聞く、というケースが2つあった。

ひとつは、え~!!!というほどひどく、あまりにも情けない発音で、おいおいおい。。。こっちがいたたまれなくなった。いくらなんでも恥ずかしいでしょ、というレベル。easyをイージー、はないでしょ。生徒じゃないんだから。

もうひとつは、日本語での話し方はどちらかというと方言アクセントでとつとつと話すという印象を持っていた人だったのだが、英語を話すのを聞いて、ビックリ!!おおうまい。歯切れがいい。当意即妙。

これでこのふたりに対する印象は180度変わった。

10/26/2012

英語教師のスキルは1次元じゃないね

教育実習生の授業を観た。

発音はかなりひどかった。

のだが、全体には観ていて楽しい気持ちになる授業だった。

というのは、学生がその場を、教えることを、子どもたちとのインタラクションを心から楽しんでいることが伝わってくる授業だったからだ。

当然、子どもたちも彼女とのやりとりを楽しんでいる。

教師の表情、ちょっとした目付き、仕草、間のとり方、そのすべてが魅力的で、子どもをよく掌握し、コントロールしていた。

個々の指導も行き届いていた。

発音はこれから鍛えれば直ると思う。

しかし、教えられるスキルと教えられないスキルがある。

彼女は、教えられないスキル、というか資質の部分ですばらしいものを持っている。

現場に出るまでにはすばらしい教師になると思う。

10/23/2012

英語のアクセントも高低だろ

「英語のアクセントは日本語と違って強弱だ」という例の決まり文句は、やっぱりまずいようである。

実際、専門書によれば、stressの正体は、pitch > duration > intensity の順番でこの3つがくっついている、となっている場合が多い。intensity はどちらかというとどうでもいい、的な記述もある。

日本語標準アクセントでの、箸 と 橋 の関係になぞらえて

record (名) と record (動)

の関係を説明(もちろん母音のqualityとdurationについては補足するにせよ)したほうがいのではないかな、と思い至った。

昨日、citizen という単語で、「ciが強いです」といいながら発音するとどうしても oOo としか言えない学生がいた。

つまり、ある音節、パートを「強く」言う、というイメージができないのである。

だから、これを、

「進歩」「粘度」「今度」

などとと同じ雰囲気で言ってみろ、

という指導をすれば一発で解決するはずだ。

日本語は高低アクセント、だが、英語は高低プラス長短アクセントなんだよ、という指導に切り替えよう。

なお、じゃあイントネーションとのカラミはどうなるの?という質問が出そうだが、

箸?  橋?

と、

record?(名) record?(動)

はパラレルでしょ。



10/21/2012

教師はヘルパーだから

教師はヘルパーなので、当たり前ながら、ヘルプを必要としている人に、より切実に必要なものである。

だから大学より高校、高校より中学、で教師の役割は大きい。

また上位者より中位者、中位者より下位者にとって、教師の必要性は大きい。

だから「より高度なことが教えられるから、ボクは中学校教師より高校教師になりたいです」というような学生にはどうしても違和感を覚えずにはいられない。

いずれにせよ、英語の授業で「高度な知識を伝授してやろう」というような姿勢がある教師は、生徒にとってありがたくない。

知識というより、スキルを上達させようという姿勢、スポーツコーチのような姿勢、サマーキャンプの指導者のような姿勢、がないと。

理論が好きなら研究者になりなさい。

Teaching is a practical business.

大東文化大学 箱根駅伝出場決定!

3年ぶりの出場決定。イェ~!! ガンバレ~!!

10/17/2012

残念なこと: 英語教師の英語

英語の教師が運営する催しで、生徒を聴衆にして英語教師が言う英語の発音や表現がまずい、というのは絶対にまずいでしょう。

そんなことは当たり前なのだから、どうして事前にプロとして、お互いに二重三重のチェックをする、というようなつもりがないのでしょうか。

つもり、というか仕組み。

悪しきプライドか。

ヒトのことを言えるほど自分も大したことない、という自信のなさと遠慮か。

だがどんなに言い訳しても、その英語を聞く生徒たちにたいする愛情がない、ということになるのではないかと思ってしまう。

自分(たち)のメンツを生徒への正しいインプットよりも優先する、という恥ずべき体質。

恥を知れ。(←私の最初に勤めた学校の校訓)

嬉しかったこと: 変顔グルグル

ことしから非常勤で教えはじめた教え子が、

「授業は本当に楽しいです!!」

「目の前の生徒をまずなんとか、と思います!!」

と喜色満面で報告してくれたこと。

教師が「授業は本当に楽しい」と感じていれば生徒もそう感じていないはずはない。

「目の前の生徒」という表現がでてきたのも素敵である。

コミュニケーションをとるために、グルグルの最中、生徒が目標のフレーズを言おうとした瞬間、彼(教師)が変顔をして、生徒が吹き出し、「はいダメね!!」と言って、次に移った、という信じがたい高度な技も。。。

感動しました。

10/12/2012

感動したこと 命より店

行きつけの床屋さんが狭心症の疑いがあるという。

が、1人でやっている店を休んで病院にはいけないので、検査をするのは早くて年内、ひょっとすると2月か3月になる、という。

いや、おひとりでやっているんだから、1日お店を休んで早めに検査にいったらどうですかね。

いや、1日休んで失うお客さんがいることを思うと怖くて休めませんよ。

でも、命にかかわることですから、そっちのほうが優先でしょ?

いや、自分が死んでも保険がありますけど、店が死んだら女房子供が路頭に迷いますから。

なるほど。たしかに。エライな。

カラオケボックスで日本がもっと好きになりました

昨晩のTVで、インドネシアからの留学生が言っていたこと。

そのこころは、カラオケの日本語の歌には漢字にすべてルビが振ってあるので、最高の日本語教材になるのです、と。

一番最初に覚えた歌は平井堅の「瞳を閉じて」です、と。日本語学校の教材には「瞳」は出て来ませんでした、と。

なるほど~

確かにね。日本語の場合は非漢字圏の学習者にとっては漢字が最大の障壁になるのでしょうからね。

英語のカラオケにも同じようなことが言える。最高の英語教材になるのだ。ただし、ルビを読んでいるといつまでたっても歌えない、ということがわかるという意味で。

音符に対応する音節で発音しないとダメだ、ということがわかるという意味で。

嬉しいこと

嬉しいこと

たぶん、これまで発音なんて考えたこともなかった、

英文の暗記なんて死ぬほど苦手だった、

毎週が地獄だと思っていた、

最初は1行もまともに覚えて来(られ)なかった、

男子学生(たち)が、

鬼将軍に脅されたり、すかされたり、おだてられたりした結果、

毎回、きちんと100語以上覚えてくるようになり、

徐々にきちんとした発音ができるようになり、

すぐに合格がゲットできるうよになり

そんな自分に自分で驚き、

自分で達成できることによろこび、

生まれ変わったようになったこと。

もちろん女子学生でも嬉しいが、概して女子は発音にももともと関心があり、まじめだから、ある意味、それほど意外性はない。

だが、男子はその逆の場合も多いので、とくにじわりと嬉しいねぇ。。。

10/11/2012

新技: 口パク・シンクロ・リピーティング(KSR)

ちょっと前からやっていて、これはいい、と思い、今日になって晴れて命名した技がありますので紹介します。

「口パク・シンクロ・リピーティング」(長いか。。。)

口パクするのは教師です。

以前から、口を酸っぱくして言っていますが、生徒が何か(英語)を言っているときは、教師はかならず黙らねばなりません。リードしようとして一緒に声をだす教師が多いのですが、生徒の音声が聞こえなくなりますから、ダメです。

ただリードはしてやりたい。しかし生徒の音声は聞きたい。

その二律背反を弁証法的に解決するのが、この技、口パク・リピーティング。

通常の repeat after me は、教師が言って、そのあとに生徒が言います。

その生徒がいう時に、教師が、同時に口パクで言うのです。しかも唇や舌を大きく動かして。

生徒はその教師の発音器官の動きを見ながら、真似し、かつテンポもシンクロするように発音します。

もともとはグルグルで始めました。どうしても、Rで lip rounding
をするのを忘れる生徒、THで舌を使い忘れる生徒、Vで両唇を使ってしまう生徒を、その場で補助、というか、矯正、するために、彼らがグルグルで発話している時、目の前で同時に大げさに口パクしてやる、というものです。

これは効果があります。もちろん補助輪なので最終的には目の前に口パクモデルがなくてもできなくてはなりませんが、その前段階としては、非常に有効な
scaffolding です。

で、それをグルグルだけでなく、一斉リピート練習のときにも使う、ということです。もちろん、教科書から顔を挙げさせ、こちらを向かせる、という意図もあり、それが前提でもあります。

前から見て明らかに見える発音は結構あります。TH, F, V, W, R, L、Bなど、主要な子音はすべて可視化できます。

次の授業で試してみてください。

何も言わなくても、こちらの意図を察して口パクをシンクロしてくる生徒は、少なくとも2割くらいはいますよ。

口パク・シンクロ・リピーティング、がながければ、「パックロ」でいいか。それともKSRがいいか。。

10/10/2012

教室でコミュニケーションしてたら始まらんだろ

英語の授業を「英語でコミュニケーションする場にしよう」という考えは、根本的におかしいだろ。

サッカーの指導で、「サッカーの練習はすべて試合する場にしよう」という考えと同じくらいおかしいだろ。

笛を吹いて集めて指導してもいかん、基本練習させてもいかん、ということか。

まんぜんと試合ばかりして反省もなければそれ以上のレベルに上達せんとちゃうの?

つうか試合やってれば試合がうまくなる、というのはサッカーをなめてんで。

そんなんやったら指導者いらんやろ。

「学習指導要領には」は禁句にしよう

生徒指導で、校則にはこうあるから、というのを禁句にしよう。

英語指導で、学習指導要領にはこうあるから、というのを禁句にしよう。

てめえの頭で考えたことをてめえの言葉で語ろう。

人のふんどしで相撲をとるのをやめよう。

いかに無難な公務員であるかばかり考えるのはやめよう。

いかによい教師であるかを考えよう。

いかに目の前の生徒たちに役に立つかを考えよう。

思考停止はやめよう。

どっかのエライ人が言っていたことだから正しいことだと押し付けるのはやめよう。

てめえの頭で考えよう。

真実は目の前にある。

教室の床に、ほらそこに、落ちている。

生徒の目のなかにある。

誰かの言うことには耳を貸さなくてイイ。

生徒の目を見ればいい。

あなたの生徒たちの目が、あなたにとって最高の、「学習指導要領」だ。

10/07/2012

文法用語を教えないでも文が書けるようになるんですか?

(英語科教育法を受講している学生へのメール)

--

◯◯君、メールありがとう。

文法用語については、基本姿勢は、

用語というよりも、その用語が表している現象を理解させる

ことが大切です。

で、そのためには、用語は精選して、必要最小限に抑える必要があると思います。

それから、文法(の参考書)というのは、いろいろ言語を分析して分類した結果を記述するのが仕事なので、ややもすると分類のための分類になる傾向があります。

例えば、現在完了の、完了、経験、結果というのも、

have + 過去分詞

で、今現在、すでに終わっている、という状態を持って(have)している

のが本質であり、それが文脈によって、

終わっているという点が焦点になったり

そういう経験をしたとうい点が焦点になったり、

今までずっと続いていた、という点が焦点になったりする

とも考えられます。

だから指導にあたっては、いたずらに分類のラベルをつけさせるというよりも、have + 過去分詞 がもっている本質的なイメージを伝える、のが大切なわけです。

また別の例だと、

It is ... for .... to ..

は、まず~だよ、と言ってから、何のことかというのを to .. 以下で説明するんだよ、

というのが必要十分な説明であって、

この it は仮主語という、というのは憶えても覚えなくてもいい用語、です。

別の例では、「現在分詞」の「分詞」ですが、君自身、分詞ってなにか説明できますか?これなどはまあ説明に多用されるから憶えておいたほうがいい用語とは思いますが、-ing形という用語を使おう、という主張をする人もいます。

すると、現在分詞は、 ing形の形容詞的な使い方、であり、 動名詞は、ing形の 名詞的な使い方、とも言えます。

またたとえば、分詞構文、独立分詞構文、付帯状況を表す云々。。というあたりも初心者にはとてもハードルの高い用語、それだけで難しく感じてしまう用語です。分詞構文は、 ing形の副詞的な使い方、という説明をすることも可能でしょう。

まあ、ともかく言いたいのは、文法を教えることと、文法用語のラベルを教えることは決してイコールでないこと、本当によい教師は、ラベルはなるべく少なくして、日常的なことばで、文法現象の本質を説明できること、が必要だということです。

だから、「用語」を知らなければ文が作れない、ということは、まったくないです。わかってもらえるかな?第◯文型、という番号をしらなくても、その◯文型の文を作ることは十分可能です。

10/06/2012

授業にテーマなんか要らない

中学に勤める友人と話していて、そうだよな~、という話になったのが、研究授業などの、テーマというやつ。

その友人は、研究授業などの教案に、◯◯の☓☓を伸ばすための△△の工夫する授業、などという美辞麗句を書くことが「しんどい」と。

英語の授業なんだから、教材にかかわらず、単語を教えて、練習させて、意味をわからせて、音読させて、read and look up させて、ペアワークさせて、自分のことを言わせて etc の、あたりまえのことをあたりまえにやるだけなので、いちいち、内容のないようなテーマを書くのが気恥ずかしい、と。

ほんとうにそうでしょ。

ちょっと違うけれど、SELHiで、学校ごとに独自のテーマを設定していろいろやる、というのもおかしな話だと思っていた。他の学校でやらない独自のことをやる必要はないでしょ。

生徒にとってもっとも良い英語教育を追求した結果、隣の学校と同じ実践に行き着いた、というので全然問題ないでしょ。

独自のことをやろう、というのは気持ちが間違っている。

生徒にとってベストのことをやろう、のはず。

教案書く暇があったら

教材観だの生徒観だの指導要領とのからみだの、時間をかけて教案を書いている暇があったら、その日の教材を完璧に音読して暗唱して授業に臨めるトレーニングに当てたほうがいい。

教案には、その日扱うテキストと、おおまかな流れの箇条書き(と、自分が言う英語、オーラルインタラクションの英語)があればそれで必要かつ十分。

英語の授業なんだから、その日のテキストが理解できて音声化できて、できれば出てきた表現をつかって何か言ったり書いたりできるようにする、のに決まっているのだから、目標だのなんだの改めて書く必要はないです。

御託は要りません。

頭から降らせた!

あるところに、学生の恨みをかっている教員がいた。学生に対する厳しい言動が彼らをして、いつかあいつを懲らしめてやろう、という怨念につながった。

学生たちはあるところに一斗缶を設置し、そこにみんなで大便をためこんだ。

件の教員は朝、学生指導をするために、玄関で仁王立ちになって、学生を待ち構えるという行動パタンがあった。

ある日、彼がひとりで、いつものように玄関に立って学生を待ち構えていたその瞬間、頭の上から大量の人糞がドバドバ!!

この事件のあともその教師は学生に対する接し方を変えることはなかった、という。

教師も学生もどっちもあっぱれ、スゴイではないか。

まるで夏目漱石の「坊っちゃん」の世界である。



「きれいな研究」がしたいって。。。

キレイな研究がしたいんです、と言った英語教育研究者がいたそうな。

教室での生徒との生身の「格闘」を捨象した「キレイな」研究が、世の中に役立たないことは間違いない。

浮世離れした連中が跋扈するこの業界。

浮世離れした研究を追求するのは個人の自由だが、そういう人達が現実の教室を抱える中高の教員を「導こう」とするのは驕りだし、ミスリードにつながるし、逆にそれをありがたがる中高教員が多いのは彼らの自信の無さ、能力のなさの証であって悲しいことである。

10/05/2012

怒鳴る大学教師

きょうは授業で学生を怒鳴りあげた。

お前ら、バカか! そんな自分の時間を無駄にするようなことをしてどうする!!!! と。

そういうノリの大学教員は普通はいない。人種が違うのだ、と思う。

私は、教えて授ける教授よりも、教えて諭す教諭でありたい。

そういえば昔の教え子が言っていた:

「『先生』と『教授』の違いがわかりました! 先生は教授になれますが、教授は先生にはなれません。」

Can do Can do とキャンキャン言うな

CEFR との絡みで、猫も杓子も Can Do Can Do....

何の役に立つでしょう。

当たり前の授業を、当たり前に行うことのほうが、ずっと大切です。

10/02/2012

ICT がくだらない、のはコンテント科目ではないからだ。

ICTくだらん、と言ったことの補足。

社会科とか理科はコンテント科目だ。だから、世界遺産に指定されている建造物とか、珍しい生物の実態とかを映像で見せることができれば、それこそ百聞は一見にしかず、で、効果は絶大である。だからそういう科目には ICT の発達は福音である。

しかしわが英語科はそうではない。世界遺産に指定されている建造物の様子が non-verbally に分かっても、それだけでは何の意味もない。その建造物の様子を、コトバで、verbally に表現できるようになって、あるいは理解できるようになって、初めて価値がでる。

その当たり前のことを理解していない英語教員が多いのだと思う。教科書のテキストで扱っている題材自体のビジュアルイメージを提示して、生徒に「おお!なるほど!!」と思わせること自体が英語授業として価値がある、と勘違いしているのだ。

ビジュアルイメージはあるに越したことはないが、最終的に生徒の頭に残るのがその non-verbal content だけではまったく意味がない。ICT を使うなら、英語自体が頭に残る使い方をせねば。


9/30/2012

やっぱり ICT くだらん

その時々で最先端の ICT が話題になるが、それで生徒の英語の力がつくようになることはありえない、と現実の授業を見るたびに思う。

チョークと先生のトークが一番。

その部分の魅力のなさをiPadやら電子黒板やらで補おうとしても結局時間の無駄。素人の目にうつる外見が変わるだけ。

力の入れどころが違うんだよ。

こんごどんなニューテクノロジーが出てもそうだろうと予測する。

9/29/2012

誓い: 5年後からは



おかげさまで無事に教員採用試験に合格することができました。これからより良い教師になれるようにより一層の努力を積んでいきたいと思います。

私は静先生の熱心な指導のおかげで、英語の発音がかなりマシになりました。自信をもって英語を話すことができるようになりました。そしてなにより、英語を話すことが楽しくなりました。ありがとうございました。

先生からは発音指導だけではなく、教育に対する情熱的な姿勢も学ばせていただきました。

現在の小学校外国語活動では、指導をすることはできません。先生方との協力も大切であり、また初任者として謙虚に学ぶ姿勢を大切にしていきたいので、教師になってから少なくとも5年間は周りの先生方や先輩方から多くのことを学び、なるべく自分は出さずに行こうと思います。(年経っても謙虚に学ぶ姿勢は忘れずにいるつもりです。)

しかし、私がある程度の経験を積み、地位を確立した暁には、私が静先生の授業で味わった達成感や、英語の楽しさを児童に伝えられるように、様々な指導をしていくことをここに誓います。

だからそれまではおとなしく、きちんとした指導ができるように鍛錬を積んでいきたいと思います

毎回充実した講義と、熱心な指導をありがとうございました。卒業までにもう一度私の発音を厳しく指導していただけたら幸いです。

--

その誓い、憶えておくよ。

他人の授業を見ると

自分が毎回、当たり前だと思ってやっているひとつひとつの活動が、じつは全然当たり前ではなく、いかに exceptionally good なのか、現状の平均レベルからみるといかに図抜けて素晴しいものなのか、と思い知らされる。

それは非常に悲しいことだ。

他人の授業は見たくない

いたたまれなくなるから。

怒りがこみ上げてくるから。

やりきれなくなるから。

顔を背けたくなるから。

耳を塞ぎたくなるから。

気分が悪くなるから。

絶望を感じるから。

同業者として許せなくなるから。

子どもがかわいそうになるから。

痛々しいから。

悲しくなるから。

切なくなるから。

ニセモノだとわかってしまうから。

見たくなかった、と思うから。

子どもがダメにされているのがわかるから。

だからなるべく他人の授業は見たくない。