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11/13/2020

Intra-word chunk reading(単語内チャンク読み)とか、 Intra-word chunk dictation (単語内チャンクディクテーション)やってみては?

帯広の実習生は予想通りかなり頑張ってくれていた。Englishアイウエオもしっかりパワポにして、その結果 realize などのR/Lの切り替えがある単語なども、少なくとも単語のコーラスの段階ではかなりの生徒がしっかりと言えていたのは流石である。

反面、やはり単語の発音指導に際して、文字と音の結びつきを明示的に教えるという努力が足らないので、とくに下位の生徒には大げさにいうと、「単語はとにかくただひたすら真似して唱えて、ただひたすら英文字の組み合わせを暗記するのだ」という苦行になってしまっている。

その光景を見ながら考えたのだが、「単語内チャンク」というものを決めて、「単語内チャンク読み」や、「単語内チャンク・ディクテーション」をしたらどうだろうか。単語内チャンクとは、文字と音の結びつきを感じやすいようにな区切り、という意味である。音節の区切りとは必ずしも一致しなくてよい。

trans/por/ta/tion

のように黒板やスクリーン上に書いて、/で囲まれたチャンクごとに発音する。そして生徒に単語を「書きましょう」という時にも、/と/で囲まれた文字列の塊は少なくとも一気に短期記憶に入れて覚えて書き写しなさい、と指示するのである。塊の音をブツブツとつぶやきながら書かせるならなおよい。そして、単語内チャンクディクションは、例えば、「じゃあこれを書いてください。 / ʃən/ 」と問題を出して、tionを正解にするのである。こういうクイズを日頃からやっていけば、徐々に文字列と音の対応関係が把握されていくはずだ。


11/08/2020

カナカナふるならもう少し工夫して

以下はある高校検定教科書の新出語欄である。苦手な生徒をターゲットとしているようですべてカタカナで発音を表記している。



 

どうせカタカナ表記するなら、もうすこしなんとかしたほうがよい。所詮カタカナでは正確な音は表せないのは承知の上であるが、tionを「ション」  cal を「カル」 filmを「フィルム」はダメでしょ。(ただし、magicalの  gi を  ジ でなく  ヂ にしているのはよいですね)

location   ロウケイション  →  ロウケイシュン

magical    マァヂカル   →  メァヂコウ

film     フィルム    →  フィオム


を提案します。

もとの表記には、すこしでもこの本を使う生徒たちに、英語らしい英語で読ませてあげたい、という愛情が感じられない。やる気がない、というか。

あとに母音が来ないLを、「ル」だと本気に思い込んでいる学習者は大学生になっても多い。教科書がこういう表記をしているようでは無理もない、ということになってしまう。

11/06/2020

不如帰と夜露死苦の関係 〜中学の先生は単語を読めるようになる指導をしていないのでは?〜

カタカナで単語にフリガナ

 中学で(ときには高校でも?)、特に下位の生徒のために、英文の要所要所に、カタカナで発音のふりがなをつけるという実践をしている場合がある。

発音をカタカナ表記するのは私は全く否定しないし、むしろ積極的使用論者だ。そういえば研究社から出してもらった『カタカナでやさしくできるリスニング』(1997)が私の初めての著書であった。

ただしよく見かける表記よりも、(1)一工夫してより英語音に近く、かつ(2)単独の単語より、複数語がリンキングしたときのイメージなどをカタカナで表すとよい、と思っている。たとえば、not at all (ナタトー もしくは ナラロー)とか、Can you (ケニュー)とか。

しかし今回の本題はカタカナ表記の巧拙ではない。表記の詳細はともかく、カタカナをふる必要を感じるというのは、その生徒たちが、英語表記+英語の音 だけでは、表記と音の結びつきが形成できず、「いつまでたっても英語が読めるようにならない」から、最後の手段としてカタカナをふる、ということなのだと思う。

しかし、「英単語が読めるようにならない」のは、その生徒たちだけの責任なのだろうか、というのが今回のテーマである。


読めるように指導していないのでは?

言うまでもなく英文字は表音文字である。それぞれの子音字とそれぞれの母音字が一定の音を表して、その集合体が単語の発音だ。  d が  ドゥ で、 oが オ で、g が グ だから、d + o + g = ドーグ となるわけである。もちろんこういう単純な音の足し算ができる単語ばかりではないが、こういう、一つ一つの文字、あるいは文字の固まりが、どういう音を表しているか、ということを常に意識しておくこと、生徒に意識させることはとても大切だ。

そういうフォニックス的な感覚をやしなっていかないといつまでたっても「英単語の発音は丸覚えしないといけないのだ」というとんでもない誤りから抜け出せない。100語、500語、1000語、2000語の英単語の読み方を「丸覚え」していける頭のある生徒はいいが、そうではない生徒には地獄が待っていて、落ちこぼれていく。つまり「読めない」。

そういう「読めない」生徒に出会ったときに、けっこう多くの先生がとる方略がなにかというと、「とにかく何度も読ませる」アプローチである。よく見かけるフラッシュカードの読み練習なども、大いにその匂いがする。(今回は、発音がよい、悪いという話は脇においておいても)とにかく何度も何度も、すばやく読ませる。「え?こんな単語まだ読めないの?じゃあ5回よみなさい!まだ覚えないの?じゃああと10回読みなさい!」とばかりに、むやみやたらとテンポよく読ませる、という光景を何度も目撃した。


「不如帰=ホトトギス」式の無駄

しかしそういう反復練習が必要になる、「弱い」生徒たちの頭のなかでは、おそらく英語のひとつひとつの文字と音の結びつきがそもそもないから、彼ら彼女らにとっては、そういう音読練習は、たとえてみれば

「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」「不如帰」「ホトトギス!」

というような、とにかく「不如帰」という形の文字の固まりを見たら条件反射的に「ホトトギス」と読むのだ、という問答無用の丸暗記を強制される、というとっても可愛そうな状況なのだと思う。発展性がない。不如帰をが「ホトトギス」と読めるようになっても、無花果が「イチジク」と読めるようにはならない。


「夜露死苦=夜+露+死+苦」だと教えよう

そうではなくて、夜は「よ」だよ、「露」は「ろ」だよ、死は「し」だよ、苦は「く」だよ、だから、夜露死苦は、「よろしく」なんだよ、ということがわかった上で、

「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」「夜露死苦」「ヨロシク!」

と連呼するなら多少の意味はある。死が「シ」と読めるようになることは、愛死天流を「アイシテル」と読めるようになることにつながってゆく。


カタカナをふるだけでなく

魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよう、という格言がある。むやみにカタカナを振っている先生は、ただ単に魚を与えているのではないだろうか。もちろんカタカナを振ってやれば、(発音の巧拙はおいておいて)とりあえずその場でその単語を読めるようにはなるだろう。しかし、それは実はその英単語ではなくカタカナを読んでいるに過ぎないのでは?つまり、その単語のカタカナを与えることによって、別の新しい単語に遭遇したときに自力で読めるようになる方向に1ミリでも2ミリでも近づいているか、というとまったくそんなことはない、場合もあるのではないか、ということは考えて見る必要がある。

カタカナを補助として与えるのはいいが、プラスして、一文字、あるいはひとかたまりの文字の連続の読み方、音を教えよう。それが「魚のとり方を教える」ということだ。徐々に魚のとり方がわかれば、人から魚を恵んで貰う必要はなくなるのだから。


ホトトギス先生、猛省せよ

textbookを、tekistubook 的に発音する英語の先生が実際にいる。自身が中学生だったときから英語教員になった今日まで、text = t + e + x + t  という、夜露死苦方式を意識したことがなかったのだろう。  そうではなく、 text =「テキスト」(というカタカナ語)で、ホトトギス方式で生きてきた、そのツケなのだ。英語教師となった今は大いに反省し、ゆめゆめそういう学習者を自分の教室で再生産しないよう、肝に銘じていただきたい。