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9/30/2010

歌と prose と チャンツの境界

歌は、歌うだけでなく、歌詞を音読したり、読解したりすることもできる。スピーキングの題材にすることだってできる。文法の授業をすることだってできうる。

読解教材だって、黙読するだけでなく、部分的にチャンツにしたり、それにあわせて踊ったりすることができる。

文法の教科書の例文だって、それを題材にしてグルグルもできるし、ダンスもできる。

これはたぶん非常に大事というか、授業力のコアの部分だと思う。

そうでないと、「雰囲気作り」に歌をやって(CDを聞かせて)、それとはまったく関係ない教科書本文に入って、...とか、発音練習、リズム練習と銘打って、グラハムさんのジャズチャンツをお楽しみにやって、教科書は訳読する...というような、有機的関わりのない授業構成になるはず。

英語は英語だから、どんな教材でも読んで話して歌って踊って書いて...というのが当たり前だ、という感覚がとても大事だと思う。

Songs can be read, spoken, and chanted. in addition to be sung.  Likewise, prose can be spoken, chanted, sung, or even danced.   Songs are meant be sung, but can be read.   Prose may be meant to be read, but CAN be danced, which helps our students realize that grammar is important in songs as well as in prose, and rhythm is important in prose as well as in songs or chants.

9/27/2010

ゲーゲー言うな

おいおい。英語教師が

language



lanゲージ

なんて言わないでくれよ。

スペリングをよく見よう。

langage じゃない。 language だろ。

lanゲージ になるわけなかろう。


How many more times do I have to be disappointed to hear an English teacher pronounce "language" as "lan-gage"?

9/25/2010

紙辞書と電子辞書

紙辞書と電子辞書は一長一短というか、それぞれ特性があるので、使い分けるように指導すべきだ、と言われることがある。

しかし

(1)ふたつの辞書を使い分けていると、「オレの辞書はこれだ」というマイ辞書感が分散してしまう

(2)紙辞書にできて電子辞書にできないことは、事実上 (practically speaking)もう存在しない

という理由で、上の意見には同意できない。

そのコンテンツが電子辞書に収録されているならば、という条件で、紙の辞書の必要性はゼロである。

固定電話とスマートフォンを比較しようとするのがナンセンスなように、鉛筆プラス原稿用紙とパソコンを比べるのが無理なように、1冊の紙辞書と、100のコンテンツを搭載した1台の電子辞書を比較しようとするのが、すでにナンセンスだ。

だいたい、狭い住宅で、紙辞書を何冊も置いておく余裕はないよ。

Paper dictionaries whose electronic versions are already available have no place in learning English as long as you can afford the latter.  Comparing e-dictionaries with paper ones is as meaningful as discussing advantages and disadvantages of pens and PCs in writing academic papers.

9/19/2010

早口言葉なんかやめろ

英語授業で早口言葉は基本的には不適切だ。

tongue twisters というのは定義上、通常のスピーキングは不自由なくできる母語話者でも「舌がひねれる」ような難しいフレーズや文、である。

それほど難しくない単語も満足に発音できないノンテイティブが挑戦するにはもともと不適切なフレーズなのである。普通のスピーキングでL、R、V、Bの切り替えすらまともにできない人間が、まともにできるはずがない。

事実、今まで見た英語授業関係、あるいは英語イベント関係での早口言葉イベントは、生徒に挑戦させ、ひどく滑稽な結果になったのを、みんなで「あははははは!」と笑って、はいおしまい。あ~英語って楽しいなあ...

というものばかりだった。

もちろん、早口言葉に挑戦させるのはいい。

だが、挑戦させるなら、かならずできるようになるまで導け。

そうでないなら時間の無駄だからやめろ。もっと基本的な練習をしろ。

Tongue twisters basically do not have a place in an EFL class.  They are by definitions sentences or phrases that even native speakers, who have no difficulty pronouncing ordinary phrases, need to twist their tongue to say them right.  There is no way non-native learners of that language can get them right without making great efforts. Those efforts would be better spent on getting ordinary phrases right.

9/15/2010

実務家の英語、教育の総論と各論

補足:

実務家の英語

私が出した明石氏や小柴氏を例に対して、柳瀬さんは、「実務家は英語はある程度でいいから、それ以上は専門の本を読め」という論を出した。

もしかすると、私が明石氏や小柴氏ご本人たちが、これから英語発音の修業をすることをすすめている、と読んだのかもしれない。そうじゃないかもしれないが、もしそうだとすると、それは違う。

そうじゃなくて、私はどんな時でも英語教師の立場から話をしている。つまり、明石少年や小柴少年が中学生、高校生、大学生として英語の授業に出ていたなら、英語教師としてては、徹底的に鍛えてもっともっとうまくしてやれるのになあ、という話。

そうなった上で、両氏のコンテンツがあれば、いまよりさらにいいのは間違いない。誰がなんと言おうがこの点について疑問はないね。外国人だろうが宇宙人だろうがうまいほうがいいに決まっている。

日本語ネイティブの立場で言うが、どんなにコンテンツがよくても、聞きとるのにわずかでもエネルギーを消費しつづけれる日本語より、まったく消費しない日本語のほうを聞きたいから。コンテンツが同じなら。

コンテンツと英語

よく、発音がよくてコンテンツがない英語と、発音が悪くてコンテンツが豊かな英語を比較する論があるのだが、誰もそんな話はしていない。そしてコンテンツは決して英語教師の守備範囲ではない。英語教育に「英語」以外のコンテンツはいらない。英語は content subject ではない。

発音技能というのは、筋肉習慣というもっとも「低レベル」 lower-order のスキルなので、自動化することが可能だ。いったん自動化してしまえば、認知資源を一切消費しないので、貴重な認知資源を「専門」のコンテンツに100%振り向けることができる。

それを実現してやるための、トレーナーこそが「英語教師」だ。英語教師の仕事は、それぞれの学習者が自分の「専門」のコンテンツをすこしでもいい形で英語で表現できるためのツールを授けてやる、磨いてやる、ことに尽きる。

それを「言葉の教師」は「テニスのコーチ」や「自動車学校の教官」よりも、よりアカデミックで高級な職業、営みである、ように考えたがる英語教師、英語教育学者(?)は、いかがなものでしょうかね。八百屋や魚屋と同列に英語屋としておかれるのがどうしてそんなにイヤなんだろう。

法律や指導要領の抽象的な文言をこねくりまわすのは役人と学者の仕事。教員の仕事は目の前の生徒にとってもっとも必要なことを教えること。それが現場人の良心です。

我々の仕事は、practical business なのです。理屈をこねてないで世の中の役に立とうよ。

教育の総論と各論

よく「教育の目的は人格形成云々」ということを言い出す人がいるけど、それは総論であって、各論が必要ないという意味ではないでしょ。

世界史の年号も、化学式も、数学の公式も、体育の跳び箱も、英語の分詞構文も(そして発音も)、それぞれ、それ自体を理解して覚えることが望ましい必要な知識・技能だ(と考えられる)から学校でやっているのであって、それぞれがすぐ、直接、「人格形成」に関わる営みだからやっている、とするには無理がある。

社会も理科も国語も体育も書道も英語も、それぞれ別の分野の「各論」をうけもつことによって、全体として人間の「知、徳、体」を高めようとしているのであって、それぞれの分野が「各論」をないがしろにして一足飛びに直接「総論」の達成を求め出してはおかしい。

だから、英語力アップのために必ずしもベストではない、もしかすると弊害もかなり大きい、とわかっているのに、「思考力」に資するだろうから、と抽象的な英文を和訳だか翻訳(注:「和訳」と「翻訳」が違う、とかいうレベルのpedanticな話で現場の人間(英語教師=教育の実務家)の足をひっぱるのはやめてほしいなあ)だかさせて喜んでいるのもおかしい。

『心技体」にも書いたが、数学の先生が、定理の証明や微分積分をきちんと教えず、「人間としてのゆたかさ」云々を言い出すのはおかしい。物理の先生が力学の法則を中途半端にして「生徒の人間形成」を語るのはおかしい。それとまったくおなじ。英語の先生が「英語」自体をきちんと教えず、「生きる力」「人格形成」を論じるのは、自分の仕事をはき違えている。

学校の教師の本分

数学の授業、英語の授業で人格形成をしてもらおうとは誰も期待していない。期待されていると思うのは大きな勘違いです。それはあくまでボーナスであって、あるに超したことはないが、まずちゃんと数学を、英語を教えてよ!!というのが保護者の気持ちです。当たり前の話でしょ。(授業を成立させるために必要な生徒指導、というレベルの「人格形成」は期待されています。念のため。)

もちろん分野は何であっても情熱をもって教育にあたる教師から生徒がその分野以外で人間形成の上で薫陶を受けることは多いはずです。そうあってほしいと思います。が、それはあくまで incidental learning なのであって、それを教師の側が意図しだしたら、嫌らしいし、道を誤ると思います。


I was not proposing that Mr Akashi or Dr Koshiba should try to improve their English pronunciation themselves now.  No, I was not.   But IF I had been their English teacher when they were students, I would have surely made them better speakers of English, which no doubt would have made them even greater assets to the world.

9/11/2010

限定的? んなこたない。

『英語教育』の増刊号で、柳瀬陽介氏が『心技体』の書評を書いているのだが、中に、

「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度は大局を見失う恐れもある」

とある。

英語教育は英語を教えてこそで、それができていなければ他の何ができても意味がない、という私の主張あたりを指しているのかもしれない。

しかし別に限定的じゃないでしょ。英語以外を「教えてはいかん」と言っている覚えはないから。

そうでなくて、「他の何かを教えるのは、英語をきちんと教えられている人間だけがやれ」と言っているだけ。

「生きる力」でも「国際理解」でも「人権教育」も「国際平和」でも「異文化理解」でも「言語というものに対する理解」でも何でもいいけど、そんなものはスキルとしての英語をきちんと学習して、その上で余力があったら場合にのみやってもいい、というレベルの話。

そうでなく、そのコアの部分を適当にしながら、上の「 」に入れたほうのことばかり騒いでいる連中が多く、それが本末転倒だ、と言っているだけです。

全然、「過度」じゃないです。

八百屋はまず新鮮でおいしい野菜を消費者に供給することによって、地域に貢献するのが、その本分です。

魚屋はおいしい魚を売るのが第一(あるいは唯一)の仕事です。

それができた上で、プラスアルファで地域のなんとかサークルを立ち上げたり、商店会のイベントをやったりすればいいけど、そっちばっかりやっても、肝心の野菜や魚がいまいちの品質だったら、八百屋として、魚屋としては、失格。

それと同じ。

英語教師は英語を教えるのが仕事です。単純な話です。

別に世の中全員(←英語教師を指す)が、「英語とは何か? 言語の本質とは何か? 英語をやる意味は何なのか?」 といった理屈をこねる哲学者になる必要はないし、そんなことは望ましくもない。

発音教えて、単語教えて、文法教える。そういう「低レベル?」の「語学屋」「職人」としての仕事に誇りをもとうよ。少なくとも私は持っています。

別に言語学者になったり哲学者になったりする必要はないよ。

また柳瀬さんは、実務家は、英語は「外国人にしてはうまいな」と思われるぐらいがちょうどよい、と述べている。

それはその通りでしょう。

だが問題は、「発音に関して」どのくらいが「外国人にしてはうまいな」と思われるのか、という点だ。「発音に関して」明石氏が「外国人にしてはうまい」と思う人が多いとは思えない。ちなみに緒方氏は間違いなくうまい。

それから、「大局を見失う」件だが、私のとっての「大局」は、なりふりかまわず努力する韓国にますます水をあけられ、相対的に国民の英語力が世界のなかでますます落ちこぼれていき、ますます国際競争力が落ちてゆく日本、という構図だ。先日、ある方から次の事実を知らされて、ショックを受けた:

【プレジデント・6月11日記事】
サムスンの2009年12月期の売上高は、10兆9000億円、本業の儲けを示す営業利益は8736億円。
一方、ソニー、パナソニック、日立製作所や東芝、シャープなど、電機大手9社の営業利益の合計は、
6400億円(10年3月期見通し)。日本の電機大手が束になっても、サムスン1社の営業利益に届かないのである。

理屈をこねていないで、英語のスキルを上げた方が身のためだと思うよ、日本は。

I am not at all being too restrictive about what an EFL teacher should and should not do.  I am just stating the truism that an English teacher's top priority is to develop his/her students' English proficiency and  that if that is not happening, whatever else happening is meaningless.

9/06/2010

もっと文字をきちんと指導せよ

最近、多くの小学校の先生がたに英単語を発音してもらう、という機会を得た。なかで印象に残ったことのひとつに、

delicious

を見て、

ディファレント とか、 ディフィカルト

と読む方が結構いた、

ということである。もちろん、普段、英単語を見ていないので慣れておらず、緊張して読み間違ったのだとか、もしかすると視力的に細かい文字が読めなかったのかもしれない、とか、その前の文脈に実際に different  があったので、それに引きずられた、とかの解釈は可能である。そして、それらはいずれも一理あるとは思う。

しかしここでは最初の文字 d しか共有してない、delicious と difficult あるいは differentを見誤る、というエラーがあったという点に関してこだわってみたい。

これは、その先生方が中学生、高校生だったころにも、ひとつひとつの文字がどういう音に対応していて、どうして different というスペリングで ディファレントという音になり、どうして、delicious というスペリングで、デリシャスという音になるか、というのを、実はいちどもきちんと教師から教えてもらわなかったせいではないか、と思う。

いぜん、「フラッシュカードやめろ」のポストの中でも書いたが、日本の英語教育だと、単語全体を見せて、全体として、「~」という発音の単語だ、という乱暴な教え方しかしていない場合がほとんどのように思う。

だから、大学生になっても、新しい語は辞書をいちいち引かないと読めないと思っている学生が珍しくない。

それどころか、英語教師の中にも、いまだに文字と音がきちんと対応していない者が珍しくない。

たとえば、 textbook という語は、クラスルームイングリッシュにも頻出なのだが、これを、

テ「キ」ストbook

という発音をする人が結構いる。つまり、

text ... もしくは、 tekst ....

でなく、

teKIst.. (te-kissed)

という綴りに対応する発音をする、ということだ。

これなど、

te は テ で、 x は、ks で、 t は tだ、

という意識がない証拠である。

ようするに、textbook 全体で、カタカナ語の「テキストブック」と読むのだ、というレベルの意識だ。そいう意識の教師から、まともに文字が読める生徒が育つはずもない。

とくべつに「フォニックス」などというコーナーも設けるまでもなく、普段の授業中から、単語の一部の綴りだけを読ませてみたり、最初から読み方を教えずに、規則的な綴りの部分は、自力で読み方を当てさせてみたり、ということを繰り返して、はやいうちに、自分で英語の綴りがある程度読める生徒を育てるべきである。

You should pay more attention to the letter-sound correspondence when introducing new words.  In many cases, Japanese learners develop only a vague notion about how a certain word as a whole is pronounced as a whole, without being conscious of what sound each letter or sequence of letters represents.  As such they will never learn how to read a new word.