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11/30/2018

英国人研究者を迎えたラウンドテーブルセッション、大成功だった(そうです。。。)

本日は、大東文化大学の教職課程センター主催で、ケンブリッジ大学教育学部からクリスティ・クルツ博士を迎えて、

Teaching and Learning in Neoliberal Age

と題したラウンドテーブルセッションを開催しました。 私はセンター所長として冒頭にご挨拶をする。。。役目だったのですが、昨日の朝、ジョギングに行こうと玄関でシューズの紐をしめたと思ったら、あ! 「魔女の一突き」とも呼ばれる年中行事 Gikkury Goashy がキタ〜〜!

というわけで今朝も起きてみるとほぼ歩けず、最後まで葛藤の末、面目ないことに本日の出席は断念。で、以下の挨拶を音声ファイルに録音して送り、「声の出演」とさせていただきました。

It is a shame that I cannot be here with you in person due to a temporary health problem, but as the Director of The Center for Teacher Development and Educational Research, let me say a few words to start this wonderful event. It is our great pleasure to host this round-table session Teaching and Learning in Neoliberal age, with Dr. Christy Kulz as the main speaker.

一時的な健康上の理由のため、直接ご一緒できず残念ですが、教職課程センター所長として一言ご挨拶申し上げます。本日のラウンドテーブルにクリスティ・クルズ先生をお迎えすることは大変光栄なことです。

Dr. Kulz specializes in the sociology of education and has published a book, with a rather shocking title Factories for Learning, which is a reworked version of her award-winning Doctoral Thesis.

先生は教育に軸足をおいた社会学がご専門で、博士論文を「学びの工場」というショッキングなタイトルの単行本として出版されています。

According to the flyer prepared by my colleague Prof Nakata, since the late 1980s, educational reforms have been going on in England, with a strong emphasis on test results, which creates the dichotomy of winners and losers. The government has forced schools to ‘perform’ no matter what their social context is.

仲田先生がまとめてくださったこのフライヤーによりますと、イングランドでは1980年代後半からテスト結果を重視するような教育改革が進行し、勝ち組と負け組が明らかに色分けされ、それぞれの学校をとりまく文脈にかかわらず、テスト結果をあげるよう強制されている、とのことです。

Having read up to this point, I believe I am not alone in this room to be reminded of rather similar developments in Japan that have drawn attention and criticism in the educational circle.

とここまで聞いて、日本でも最近,教育関係者の耳目をあつめ批判を巻き起こした似たような動きがあったなあ、と思い出するのは私だけではないでしょう。

On Aug 2, Osaka Mayor Hirofumi Yoshimura said in a press conference that because he is very unhappy about the fact that city of Osaka has been at the very bottom in the nation-wide achievement test for years, he would try to raise the scores on next year’s exam by linking the test results to personnel evaluations and bonuses for school principals and teachers.

8月2日、大阪市長の吉村洋文氏が、記者会見を開き、全国学力テストで大阪市がずっと最下位に甘んじているのはけしからん、来年のテスト結果を教員と校長の人事考課やボーナスに連動させる、と言い出しました。

Upon hearing this, we cannot help but feel the City of Osaka may be at the bottom definitely not because teachers in Osaka are not trying hard enough. But most likely because unfavorable socio-economic backgrounds are working against the students in that area.

これを聞いて、大阪市が最下位なのは決して教員が怠けているわけではなく、おそらく社会経済的な背景が生徒たちの学習を困難にしているからではないのか、と感じざるを得ません。

Ignoring those complex factors and blaming only the teachers for the test results is very misguided to say the least and linking the test results with their bonuses is simply outrageous.

そういう複雑な要因を無視して教員だけを責めるのはすくなくとも誤っていますし、テスト結果を教員のボーナスに結びつけるなどはめちゃくちゃな話です。

Teachers not machines and students are not products. They are all humans.

教師は機械ではありませんし、生徒は製品ではありません。みな人間です。

Fortunately, as far as I know, such a movement is still an exception, not a rule, in Japan. So I hope today's round-table session will be a valuable occasion to learn a lot from Dr. Kulz about what is happening in England as well as to exchange ideas on the issue in order to reflect upon what we can and should do to prevent our schools from degenerating into Factories for Learning.

幸いなことに、私の知る限り、こういう動きは日本ではまだ例外的です。本日はクルズ先生からイングランドで何が起こっているのかを学び、われわれの学校を「工場」に堕落させないために我々には何ができるのか、何をなすべきなのか、を考える機会といたしたいと思います。

Thank you.

後で聞けばなんと50名を超える参加者があり議論も盛り上がって大成功だった、とのこと。オーガナイズしてくださった専担教員各位、サポートしてくださった事務職員各位、そして参加者の皆様、お疲れ様でした。イテテテ。。。




11/27/2018

入試広報の動画、大学のHPで正式に公開となりました。

あらためて、よろしくお願いいたします。

高校生にご紹介ください。


11/25/2018

子ども英語教室の先生方、パワー全開!

今日は、74名の、「アルク Kiddy Cat 英語教室」で子どもに英語を教えている先生がたを対象に、

英語の歌をきちんと歌うとなぜ発音が良くなるの?
- グルグルメソッドで体感する音節感覚 –

というタイトルのセミナーをやらせていただきました。

会場に一歩足を踏み入れたとたんに感じる華やぎ。予想はしていましたが、74名中95%以上が「オトナ女子」の方々ですね。ちょうどお昼休みで談笑中だったタイミングだったこともあり、中高の先生方対象の研修会からはあまり感じたことのない空気中のカラフルなバイブレーションのようなものが伝わってきました。

90分の最初の30分ほどは音節と音符の話をし、残りの50分ほどを All I Want for Christmas Is You を大学でやっているような4人グループ・グルグルをやりました。

グルグルは初めてだったらしく、動きというか動線を飲み込むまでは戸惑っている場面がありましたが、いざ軌道に乗ると、いやぁ凄い。。。

ノリノリで身体を揺らしながら、ぴょんぴょん跳ねながら、あるいはステップを踏みながら、さらには踊りながら歌うひと数知れず。例によって4人グループのひとりでも歌詞をミスったり、記憶が飛んだりするとその瞬間ペケにして容赦なく次のグループに行く、というグルグルの鉄則は適用したので、そのドS方式が新鮮だったのか、大げさに悔しがるオトナ女子、続出。

(なお、発音をミスる人は驚くほど少なかったです。中高の先生がたよりも、ふだんから発音にこだわっている方が多いからか、と思います。)

All I want for Christmas is YOU!! の部分では YOU!!で4人で一斉に私を指さして一歩踏み出してグイグイ迫ってくるグループまで出て、会場全体がけっこうな大騒ぎに!

最後はマライアのビデオを見ながら会場に3本のマイクを回して少しずつ歌うという、大学でもたまにやる手法をとったのですが、マイクが回ってくるとみなさん、臆せず歌う歌う。。。

シンプルに最高に楽しかったです。

またやりたいな。。。





11/23/2018

ある若手教師の気づき:「生徒は発音指導に飢えていたのだ!」

いくつかのポストでも明らかなように、私は先日の語研の公開授業を参観し、質疑応答の際に意見を述べた。その様子を聞いていたある若い中学教師がそのときのやり取りについての感想を書き、それが今日私のもとに転送されてきた。

読んでみると、ああやって性懲りもなくまた敵を増やしながら(?笑)でも率直に意見を言ってみるのは、悪いことばかりではないな、と思える内容である。御本人の同意を得て、固有名詞を削除し(かつ、それに伴って生じる読みにくさを回避するために最小限のeditingをし、明らかな脱字は補い、ブログ上で読みやすいように原文よりも多くの段落に分け)た上で、以下に紹介する。

語研の研究大会に参加し、多くの刺激を受けた。その中でも公開授業は特別で、靜先生からの鋭い指摘が印象的だった。「生徒に発表活動をさせた後に発音指導をしているのですか」と。「今回の公開授業では英語自体に対するフィードバックがゼロである」と。 
英語教師の仕事は生徒が少しでも流暢に英語が話せるように指導することである。子音、母音、リズムなど発音が少しでも良くなるように生徒に指導すべきであり、使っていればそのうち上手くなるというものではない。誤った発音をしたすぐその瞬間に間違いを指摘しなければ生徒の成長は止まる。その成長を止めてしまうかどうかはその場に立ち会った教師次第なのだと感じた。その教師の責任は大きい。 
また、靜先生は若林俊輔先生の言葉を引用し「言語の習得は不完全なものからより完全なものへの過程」であると主張されていた。生徒に嫌われようが、より完全な英語が話せるように、厳しい指導をしていかなければならないと感じた。 
自分の授業を振り返るととても恥ずかしい。今まで発表活動をしてきたが、発音やリズムについて指導してきたことはほとんど無かったのではないかと思われる。今回の靜先生の指摘がそのまま自分の胸にもつきささった。何より、正しい発音を指導できない自分へのもどかしさや、生徒への申し訳ない気持ちになった。自分の授業を変えなければならない、正確な発音を指導できるように自分が成長しなければならないと痛感した。 
語研大会に参加してからは自分の授業に対する姿勢が変わった。次の日のうちに靜先生の『英語授業の心・技・体』を読んだ。また、ちょうど今週から生徒のスピーチの発表活動をする授業があり、生徒の発音ミスを一言も見逃すまいと真剣に生徒の口元を見つめ、耳を澄ますようになった。 
発音の指摘をすると生徒たちは英語を苦手に感じるのではないかという不安もあったが、実際は違った。発音について指摘すると生徒たちは「こうするともっと綺麗な発音ができるのか!」と嬉しそうに自分の指導を聞いていた。中には授業が終わった後も「自分の発音はどこか変なところがありましたか?」と質問してくる生徒が数名いた。 
要するに、生徒たちは自分の発音を良くしていきたいと思っているし、そうした教師からのフィードバックに飢えているのだと気づくことができた。今週の授業ではFの発音を指導し、できるようになったと喜ぶ生徒の顔が印象的だった。綺麗な発音で英語が話せたと喜ぶ生徒を一人でも多く育てたい。そんな教員に一日でも早く成長しなければならない。

これを読んだとき、このことに気づいてもらえてよかった、すぐに自分の授業を変えられる彼は今後どんどん教師として成長できるだろう、彼が教えている生徒たちのためにも私は発言して良かったなぁ、という嬉しい気持ちが半分と、一般的に「発表をさせたときには英語の指導はしない」という practiceがいかに強固に根を張っているのかを改めて感じ、なんでかな~、という呆れた気持ちが半分、の複雑な思いを抱いた。

「発表をさせたときには英語の指導はしない」というpracticeが生じている元凶は、大学での英語教員養成での刷り込みだろうか。教員として生徒に強く出る自信のなかった中高教員が大学教員になり、大学の教員養成課程でそういう刷り込みをして、また生徒に強く出る自信のない中高教員を再生産している、という構図か?

まあそんなことはいまさら嘆いてもしかたがない。すくなくともひとりの若い教師に転機が訪れたことを心から喜びたい。

研究室の窓から見る夕焼け

サプリって SUPRE じゃないんだけどね。。。

池袋の東武ホープセンター内で見かけてしまった気持ち悪い看板。


(いつかの「ベリー・ベリー・スープ」の一件を思い出す。)

店名だからどういうスペリングをつけても勝手なのだが、商品ラインナップから考えて、supplements という意味の「サプリ」だと思ってこういう看板を作った可能性が極めて高い。

そうではなくあえてモジッたのだ、という強弁されるかもしれないが、こういう「もじり」(とは私は信じないが)は、今後英語話者が多く日本を訪れるようになったときに、日本人全体が「バカに」されるネタになる Engrish のひとつになる、ことは指摘しておきたい。


11/20/2018

学生に対する「特別解説」の責任

研究大会に参加し、公開授業を見る教員は、peerの立場で参加しているのであり、その場で意見があればそれを表明することができ、他のpeerの意見を聞き、場合によっては意見を戦わせ、議論することができる。

しかし学生用の別室での「特別解説」を聴く学生は全く異なる。「解説者」に対して気分的に対等な立場にあるとは言い難い。目上の方から「解説」していただく、というone down な立場にある。解説者の側から言うならば「解説」とは、one up な位置からの上から目線の行為である。上から目線であるからには、その内容は概ね議論の余地なく「正しい」とされる、certifiedな autheticated なものである必要がある。その「解説」を聞くために学生が何がしかの料金を支払っているのであればなおさら、である。

先日の語研大会の「特別解説」を聴講したうちの学生の多くが強い違和感を抱いたのは、「このようなジャパニーズイングリッシュでもこんな素晴らしい授業ができる」という趣旨の「解説」だった。(しかも質問の時間は設けられなかったという。)これは「概ね議論の余地なく「正しい」とされる、certifiedな autheticated な」見解か?すくなくとも、それが語研のendorseする見解か?

そういう残念な個人的見解もあるのだろう。しかし私は全く同意しないし、もしそれが語研の公式見解なのだとすれば元・研究員、現・評議員として大変に遺憾である。少なくとも、参加料金を払って聞きに来ている学生にする「解説」の中で言ってよいことではない。

教科教育法の担当者は、語研を信じ、語研大会ならば学ぶことがたくさんあると信じているから、自分の授業を履修している学生に対して参加を指示したり、推奨したりしているのである。もし上の一言が語研の見解であるのならば、自分の教え子に語研大会への参加を呼びかけるのはやめる。







11/19/2018

発音にユルイ語研など語研ではない。

若林俊輔先生は発音に非常に厳しかった。研究員の発音に何度も何度もダメ出しをされていたのをよく覚えている。

当時研究員として約一回り先輩だった新里眞男先生のクリアな英語は、そのハスキーな声質とも相まってとにかく耳に心地よかった。偉大な先輩の背中を追いかけて自分も負けずに精進しよう、と思ったのを覚えている。当時公開授業をやっていたその他の方々もおしなべて英語がうまかった。

あれから30年。今の語研は大多数のメンバーの中に「言いたいことが伝わるなら、多少発音がおかしくても許容したほうがいい」という雰囲気があるのだろうか。

まさかそうではないと思いたいが、もしそうだとすれば、大いに情けないことだ。

「多少発音がおかしくても」の「発音」は「教師である自分の」発音を指す場合と、「教えている生徒の」発音を指す場合があり、このふたつは峻別する必要がある。

(1)言いたいことは伝わるけれど、多少発音がおかしい教師

これは英語を教えて対価を取る資格がない。教壇で英語を口から出す資格はない。一刻も早く「発音がおかしい」という状態を脱する努力をする職業倫理上の義務を負う。

(2)言いたいことは伝わるけれど、多少発音がおかしい生徒

学習者とは、徐々にあまりおかしくない発音ができるように指導してもらう権利をもった存在である。指導の方法、アプローチにはいろいろあってよい。いろいろあってよいが、その授業時間中に何も言ってやらない、のはナイ。拍手するだけなら猿でもできる。

「きょうの力点はそこじゃなかったから」などというみっともない言い訳をするな。ひとつでいいから、その生徒の最も伸びしろの大きい点をピンポイントで指摘して、その場で一回でも練習させろ。それをまた全体で言わせてみろ。3秒もかからない。またそういう「指導」を欲しがり、また歓迎するような生徒を育てろ。

3人でのグループ発表をさせたら、(よほどひどくない限り拍手をした上で)、そのグループ の発表の英語面でもっとも伸びしろが大きい部分、つまり「そこをひとつだけ直せば一番英語としての質が大きく改善するだろう部分を指摘(「ここを〜するともっといいよ」)し、必要に応じて1回だけ、言わせるなどがよい。別に音声面に限らず、文法・ご方面に最も大きい伸びしろがある場合もあるだろう。

小学生でも大学生でも自分が徐々にうまくなっていると実感するのが最も嬉しいことであり、自己肯定感も高まり、さらなる上達に対する動機づけにもなる。

これを読んでいるわが教え子たちよ、肝に銘ぜよ。拍手して終わり、の授業をやったとき、教師としての君も終わり、である。指導しない指導者はもやは指導者ではないからだ。



11/18/2018

すべての音節を同じ長さで言ってはいけません。

英語のような stress-timedな言語においては、日本語のようにすべての音節を同じ長さで同じ強さで言ってはいけません。

高く、長く、強く、はっきりとしたfull vowelで発音する音節と、低く、短く、弱く、曖昧なreduced vowelで発音する音節のコントラストが英語らしさを作り出すのです。

英語らしくない英語をモデルにして生徒にリピートさせるのはやめよう。


プレゼンテーションさせたら指導しようよ、英語の。

今日の語研の公開授業(ビデオ)は、要約すると:

「環境問題についての文章をジグソー仕立てで読み、そのインフォメーション ギャプを利用してグループ内で英語でギャップを埋めるために話し合い(グループ内発表をしあい)、 それをもとにグループごとにまとめた環境保全のための自分たちの考えについてのプレゼンテーションを発表する」

というものだった。

グループ内で情報を共有するところまでビデオを見ての感想は以下の2つ。

(1)出だしがあまりジグソーらしくない

3つのエクスパートグループに分ける前に、全体に対してエクスパートグループで読む題材についてのキーワードをオーラルイントロダクション風にしたのだが、全体にするなら、エクスパートグループで読む題材には直接関係ないものにしないと、ジグソー度が落ちる。ジグソー度が落ちるというのは、インフォメーションのギャップが減ってしまう、という意味。つまり、 グループA(を含む全員)に対して、グループBのキーワードも与えてしまっているので、あとからB担当者からA担当者が情報を引き出す必要がなくなってしまう。いぜん私がジグソーとやったときは、グループAには私が口頭で、グループBにはALTが口頭で、グループC は壁に貼ってある文章を読ませる、という形で完全な情報のギャップを保証した。今日の授業もせっかくALTがいたのだから、そういうアレンジのほうが適していたと思う。

(2)題材がジグソーにあまり適しているとは言えない

ジグソー活動はジグソーパズルからその名をとっている。ジグソーパズルが完成せず、全体像が見えないと気持ち悪い。そういう「全体像が見えないと話が見えない」的な題材であればジグソー仕立てが生きるのだが、きょうの題材だと、もともと持っている背景知識もふくまれているし、「パズル」が完成しなくても「全体像が見えない!」感がない。もうひと工夫欲しかった。

以上の2点は前半の区切りで挙手してコメントしたのだが、(2)については「その通りです」という同意を得た。そしてビデオの再生が再開。。。。ビデオが発表にさしかかると悪い予感が的中し、ビデオを見ているのも苦痛になってしまった。一区切りついてした質問というかコメントは次のもの:

(3)英語に対するフィードバックをまったくしないのはナンデ???

ひとつのグループが発表し、それに対し 別のグループが 質問し、それに対して即興でとつとつとながらも答え、さらにALTがコメントする、というパターンが6回繰り返される。日本人教員はほぼ称賛と拍手するだけ。ALTは(例によって)「それはとてもいいポイントだ。さらにこういうこともあるね。」という内容に対するコメントするだけ。

嗚呼。。。またか。何度目のデジャヴュ感だろうか。

何年も前、某県での研究大会での公開授業でも生徒にコメントを求め、生徒がなんとか英語でコメントするとそれに対して(日本人)教員は That's a good point! 的なコメントのみ繰り返したを見た。ある程度知っている人だったので事後にそのことについて問うと、「イマイチの英語だと思っても、その瞬間より適切な表現が思い浮かばないために、流してしまいました」との正直な告白を得た。

一番最近では本年の本学のグローバルキャンプ埼玉でも、ネイティブ講師(外部委託)が5日間にわたって受講者のプレゼンを少しずつ完成させてゆき、最終日にプレゼンを行ったのだが、過程においても、最終プレゼンにおいても、フィードバックは100%内容や構成に関するもので、英語の音声の質や文法に関するフィードバックはゼロ。

5:5にするのが嫌ならばせめて、7:3とか8:2とか、どんなに少なくても9:1で英語についても指導してほしいのだが、3人の講師が3人とも10:0。その結果、最終日のプレゼンでも残念な音声のまま、偽りの称賛をもらってプログラムを終わった受講生、多し。主催者(発注者)の側の責任として次回は、フィードバックは7:3くらいで英語も上手くなるようにしてくれ、と外部委託の講師に注文しようと思っている。

ネイティブ講師の場合は、よりよい表現が思いつかないとか、生徒の発音が変なのに気づかないことはありえないので、なんらかのフィロソフィーとして「フィードバックは内容面だけにするのが politically correct(?)なのだ、という誤った、残念な方針を持っているのが原因だと考えられる。

ノンネイティブの場合は、フィロソフィーというよりも、上の某県の彼氏の正直な告白のように、文法の場合は「より適切な表現がとっさに思いつかない」ということであり、発音やリズムの場合はそもそも生徒の発音、リズムが「イマイチであるという事実自体わからない」のが原因なのだと推測される。

今日の授業は生徒がいろいろ即興も含めて「やりとり」をした授業、である。「やりとり」に慣れる意味では意味のある授業である。しかし、ハッキリ言うが、それを繰り返しても、「下手な」英語でやりとりをするのに慣れるのみ、というか、自分のレベルで足踏みをしながら足踏みがうまくなるだけで、前進はしない。前進させてやるためには、1度にひとつでいいから、文法面、表現面、音声面などでの「ワンポイントアドバイス」をするのが不可欠(=絶対に必要)なことである。

学生向けの解説はどうなってるのかな?

それで気になったのが、別室の学生向けの解説ではどういう解説をしているのか、ということである。うちの大学の学生も数名は行っていたので、その学生向けの部屋の解説者がなにを言っていたのかは大いに気になる。

もちろんひとつの試みではあるが、「ジグソーとしては今ひとつジグソーらしさがないし、発表の授業としては『これではイケナイ』の典型である」ということをきちんと解説してくれているだろうか?大いに疑わしい。「このようにジグソー方式で工夫すれば生徒同士の発話量も多くなるし、生徒も発表から多くのことを学んだはずです」などということだけ言っているのではないだろうな。。。

そもそも、この「学生向けの別室の解説」というシステムが有効に機能するのは、その公開授業が語研が提唱する模範的な授業で、その手順や活動の価値について語研のメンバーの間で完全に認識が一致しているときだけのはずである。

今日の授業について3人の解説者は認識が一致していたのか?「要改善点が多い授業」としての認識が?でも、もしそうならなぜ語研として自信を持って世間に問う師範授業という位置づけである「公開授業」として公開したのか、ということになる。では、改善点が多いとは思わなかったのか?もしそう思わないならば、 doomed である。


11/16/2018

英語発音レシピ本の追加録音完了しました!

完成間近の『大人のための英語発音レシピ』(仮題:実は本当のイケてるタイトルがすでに決定されているのですが、まだ秘密。。。)の音声の追加録音を行いました。主として総仕上げの映画(Love Actually) ナレーション、スピーチ (Steve Jobs)、歌 (Over the Rainbow) の一部です。

映画もスピーチも、ネイティブ男性→ネイティブ女性→日本人男性(私)と同一スクリプトを読み上げて録音しています。

Over the Rainbowについては、ネイティブ男性、ネイティブ女性は歌わずに詞を朗読します。彼らはプロのナレーターであって歌手ではない、というのが理由です。その後は私も朗読してもいいのですが、考えた末やはり歌なので歌おう、ということにしました。もちろん歌は素人ですけど発音本の歌なので発音さえしっかりしていればいいか、と。ただ歌うにしても伴奏はないのでアカペラ。私がただアカペラで歌っても色気がないなぁ。。。

ということで、考えた末、女子ゼミ生をひとりスカウトし、彼女に日本人代表(!)として歌ってもらうことにしました。

彼女にはスローバラードとしてソロで切々と歌い上げてもらい、その後で私のほうは打って変わってアップテンポのノリノリテイストにするのですが、ところどころ彼女に合いの手を入れてもらったり、同時に歌ってもらったり、というコントラストをつけることとしました。

こちらにはせめて打楽器(というのは大げさですが)の伴奏をつけることにして、何が使えるか様々試行錯誤しました。お茶の缶、クッキーの缶、結婚式の引出物のマグカップが入っていた桐の箱、フリスビーなどを叩いていろいろ試し、音合わせをしてみた結果決めたのが、彼女はタンバリン、私はネコのカスタネット。(このカスタネットは実は2011.3.11の日に訳有って鎌倉で求めた思い出の品です。)

ということで臨んだ録音。。。 スローバラードは純粋に歌としてもかなりのクオリティになったのではないかと思います!スタジオでの録音は初めてだったはずですが、臆せず堂々と歌いあげてくれました。アップテンポバージョンのほうは時間が押してしまい1テイクしかとれない、という切羽詰まった状況になりましたが、前日の音合わせの甲斐があって、なんとかOK! 

まあ音楽に関してはふたりとも専門家ではないので、多少のアラはご愛嬌、ということでお願いします。しかしふたりとも本当に楽しんで歌っている、のは感じ取っていただける仕上がりになったかと思います。もちろん発音のクオリティの方は著者として保証します。

心地よい達成感のあった1日でした。本が発売になりましたら、是非、熱唱をお聞きください!


久々に出番が来た、ネコのカスタネット。。 
ん?ま、まさかこれイヌか? 
いやいやいやネコに決ってるよ、ネコに!


英語教員志望者対象特別講演会を開催しました!

昨日、英語学科主催で今年度の英語教員志望者特別講演会を開催しました。講師は奥住桂先生(埼玉県宮代町立前原中学校教諭)。奥住先生は、英語教師にとって役に立つリソース満載のブログの管理人として広く広く知られた方です。今回は「中学校で身につけるべき『英語のコア』を考える」と題してお話をいただきました。

ご自身の約20年間の中学教師としての歩みを振り返り、その時々に力を入れていた活動を紹介しながら、授業に対する考え方の変遷を解説する、という形で講演は進みました。

個々の文法事項に応じた様々な導入の創出に力を入れ小道具に凝りながら会話練習に重点をおいていた初期から、一斉授業での習熟度別の活動、ライティング指導、発音指導と「意味順」、と興味・関心が移ってきて、現在は「内容先渡し」という考え方に行き着いている、とのことでした。

大きな流れとしては20年間でバラエティ豊かな華やかさを求める姿勢が、英語のコアを見極めてそれをシンプルに追求する姿勢に変わってきた、ということであったように思います。(そのことについて、靜の『大技・小技』と『心・技・体』の関係(前者は華麗な技のオンパレード、後者はよりコアな「地味」な部分に焦点)とのアナロジーを感じている、と言っていただきました。光栄です。)

聴衆として英語学科を中心に55名の学生と4名の教員が集まり、熱心にお話に聞き入りました。今年教育実習を終えた学生には自分の体験を振り返って考察を深める機会となり、来年から教壇に立つ学生、教育実習に行く学生たちにとっては、使ってみたいアイディア、授業づくりのヒントがたくさん得られた90分間であったと思います。
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11/14/2018

特別授業「歌を歌えば英語発音が上達するって本当? --本当です!」完成しました!

じゃ〜ん!

先日、メイキングの様子を報告した、入試広報PRとしての特別授業の様子が完成しました。

手前味噌ですが、なかなかの出来に仕上がっていると思います。編集してくださった業者の方の腕も大変大きいですね。

なお、出演してくれたかわいい学生たちの名誉のために言っておきますと、グルグル場面での彼らのパフォーマンスは、すべて、私の「ここの発音をこういうふうに間違ってくれ」という指示に従っての「やらせ」です。教職の3〜4年生ですから、いまさらあのレベルのミスは現実にはいたしません。かれらの迫真の「やらせ」演技をみてやってください。

また、クライマックスでのカネツグ君の高音ハスキーボイスにもご注目!

8名の出演学生の全員に、あらためて感謝!





11/11/2018

UpDATES 秋の会 2018 開催しました!

淡路先生 and/or 私に関わって英語教員になった&なる大東文化大学卒業生&卒業見込み学生の集まりであるUpDATES(Upgrated Daito Alumni Teachers of English Soceity)の秋の会を行いました。


卒業生10名、卒業見込み生3名と我々2名が集まり、初対面のメンバーもいるので自己紹介をし、近況報告をし、仕事のこと、プライベートのことなどいろいろ語り合いました。

長子誕生報告が約1名、婚約発表が約1名、婚約願望表明が約1名、まだ数年は働いてから結婚したいです表明が約1名、結婚しないけど付き合っています表明が約1名、付き合う人いません表明が約1名、などなど。。。若い彼らの未来に思いをはせて、私まで温かい気持ちになりました。

君たちの輝く未来に乾杯!!

AI では代われない HI になりましょう

私は、教職を夢見る学生を一人でも多く導きたい、と考えていますが、何がなんでも免許を取得する学生の数、教壇に立つ学生の数を伸ばしたいと思ってはいません。

なぜかというと、生徒は先生を選べないからです。素晴らしい先生に当たった子はそのことによってその後の人生の可能性を切り開くことができますが、 素晴らしくない先生に当たった子は、大げさに言うとその後の人生の可能性を減らしてしまうこともあるからです。

だから、子どものためなる、子どもを幸せにする力を持った先生(だけ)を一人でも多く送り出したい、それが私たちの目標です。

ではどういう先生が「子どものためになる」のでしょうか。その答えは簡単ではありません。しかしどういう先生が「子どものためにならない」のかという問いに対しては、ひとつの確信があります。

それは、「その時々の文科省、監督官庁の言うこと、学習指導要領などの教育行政の方針を忠実に守ることだけを考えている先生、は子供のためにはならない」ということです。

国の教育行政を動かす人々は、それなりに一生懸命に考えて、国の教育の方針を決め、教員をひとつの方向に向かせようとしますが、残念ながら、その方向が理にかなった方向ではないことがあります。

教養系のイベントとして今年の6月に、「語り継ぐ戦争体験、教育の立場から考える戦争と平和」という講演会を行いました。89歳になる小島民子さんが語った言葉の中で、印象に残ったことがあります。

それまで「天皇陛下が絶対だ」と教えていた校長が、敗戦の日を境に、手の平を返すように、「今日からは民主主義だ」と言い出した時、「どうしてそんなことができるのですか?」と問うた小島さんに校長が「昨日までは天皇陛下が、天皇陛下が絶対だ、とおっしゃっていたからそう教えていた。今日からは天皇陛下が、これからは民主主義だ、とおっしゃっているからそう教える。それだけだ。それをなんで小島さんが責任を感じる必要があるの?」と言い放った。

というものです。つまり内容の是非はどうでもいいから、とにかく上が言っていることに従っていればいいのだ、という思考停止処世術です。そういう教員ではいけないはずです。

小島さんが体験した激動とは比べるべくもありませんが、私が中学校の教壇に立ってから今日までの約35年に、文科省の言うことは、私の専門である英語教育に限ってみても、頻繁に変わってきました。海外から無批判に輸入した概念や新しい概念を流行り言葉として振り回し、無理難題を押し付け、そのたびに、現場の教員が振り回されてきた、ように見えます。

具体的に言うと、たとえばほんの何年か前までは「英語の授業は英語でするのが基本だ」と行っていました。「生徒のレベルにかかわらず」「文法を教えるのも英語でやるのですか?」という様々な疑問がでたものです。それがいまはこんどは「アクティブ・ラーニング」になって、「英語の授業は英語で」というのはあまり話題にならなくなっています。

activeな learning という本来の概念は大変に結構であり、どんな学習も activeであるべきです。しかし、そういう本質ではなく「主体的で対話的な深い学び」という文言自体を指導案に入れなければダメだ、とか、授業の形態として目に見える部分で対話的でなければダメだ、といった表面的な形式主義で押し付けてくることが多いので、まさに本末転倒です。

学校という組織の一員である以上、学校全体の方針に沿って動くことは必要です。また国全体としての教育を進める方針も必要です。しかしそれはあくまでガイドライン的なものであるべきで、実際の運用にあたっては、専門家である個々の教員の裁量が最大限に尊重されるべきものだと考えます。

われわれはAIではありません。またAIであってはなりません。HI Human Intelligence でなければなりません。プログラムされた通りに効率的に動くロボットではなく、上から降りてくるガイドラインを教育の専門家としての高いスキルと知見をもって、一度自分の頭のフィルターを通した上で、消化し、是々非々の判断にもとづいて、取捨選択した上で、自分の眼の前の生徒に与えていく、そういうことができるだけの自信と能力をプライドを備えていたいと思います。

AIには代わりのできない教員になりましょう。学習指導要領に書いてあること、時のオーソリティが言うことに無批判に従うのではなく、指導要領に書いてあろうがなかろうが、眼の前の生徒のためになると自分が信ずることをする、そういう教員になりましょう。

11/09/2018

11/07/2018

なんと! フランスでは蠅(ハエ)を食べるのだ。。。

たった今見ていたTV番組

クローズアップ現代+「英会話時代が到来!メイドも救急隊員も!どう乗り切る?」
2018年11月7日(水) 22時00分~22時25分

で、公立小学校でALTや専科教員が英語を指導している場面があったのだが、レストランでの注文のロールプレイをしていて、ウェイター役の専科教員が What would you like to have? と言うと、客役のALTが答えたのだが、同時に画面の下に出たキャプションを見て絶句した。

I would like to have French flies.

ものの1〜2秒で消えたが、間違いない。fries ではなく、 flies である。

当たり前だが、英語ネイティブのALTが flies と言ったわけではもちろんない。この番組を制作した会社の(たぶん有名大学卒の)担当者が書き、それを(別の有名大学卒の上司が)チェックしたのかしないのか、このとんでもキャプションが(有名大学卒業生ばかりであろう)天下のNHKの看板番組で全国に放映されてしまったのである。

その辺の民法のバラエティではない。我々から受信料を徴収して成り立っている国営放送のNHKだぞ。

受信料返せ!!


つまりこれが日本人の英語力の現実なのである。泣けてくる。

NHKオンデマンドで見られるそうなので、お疑いの向きはご自分の目でご確認を。

11/05/2018

授業で「時間が余った」などと口が裂けても言うべからず。

本日の研究授業を見て

象徴的な出来事:残り5分の時点で、「じゃあ時間が余ったからサブノート(?)をやってください」と言ったことがこの授業の本質を物語っている。この「時間が余ったから」発言に、授業者の意識の中に「この授業で生徒にできるようにならせたかったことが、実際にできるようになっているか」を問う意識がなく、「指導案で予定していた活動をこなせたかどうか」しか考えていないことが集約されていた。

その直前の活動は、4名の個人を指名してのロールプレイ的な音読をたった1組。おせじにも十分な音声レベルとは言えないものである。例によって一回やらせて「拍手」して終わり。心・技・体読まなかったか?

その前の活動は、起立させての「四方読み」のバズリーディング。もちろん不十分な読み方をしている生徒が多い。やらせながらの全体に対するフィードバックはなし。心・技・体よまなかったか?

だいたい英語の授業で「時間が余る」ことなどありえないのである。全員が本文を完全に理解したのか?全員が本文を完璧な発音と完璧なプロソディで完璧に情感を込めて読めるようになったのか?Read and look upができるようになったのか?スクリプトを見ないですばらしいペアでのロールプレイができるようになったのか?

それを、限られた時間のなかでどこまで達成するのが授業での勝負ではないのか。そう思えば、口が裂けても「時間が余った」などという言葉がでてこないはずである。授業終了間際に読ませてみてあのパフォーマンスであれば、「予定したゴールがまったく達成できていない!」とあせって、残り時間で少しでも上達させようと試みるはずである。

それを「時間が余った」とは何事か!?

11/03/2018

スピーチコンテスト大成功!

そして本日のコンテストは大成功でした。英語スピーチコンテストの成功の度合いは、一にも二にも、出場者のスピーチのクオリティによると思います。

その意味で、本日の大学生10名のスピーチは最高のクオリティでした。我々は、基本的に日本国内で英語を学習し、日本国内でトレーニングを積んで、「きちんとした」英語を喋れるようになった(なろうとしている)学生を応援したいと思っています。

5年も10年も英語圏で過ごしてきた人はもちろん英語は達者ですが、英語が達者でない聴衆にわかろうがわかるまいが構わない、といった調子でまくしたてることも多く、個人的には???と感じます。

聞いている人間(の多くに)わからない英語スピーチでは意味がない、と私は思います。ノンネイティブの聴衆が多いなら、その人達に自分のメッセージが伝わるように話すのが筋なのではないか、と考えます。その意味をこめて、今回のスピコンの審査基準に、 audience awareness を新たに加えました。

その観点から言うと、今日のスピコンで、大学生のスピーチと高校生のスピーチの間には明らかなレベルの差がありました。それは高校生も痛感したはずです。それは大学生のほうが高級な英語を使っているとか、レベルの高い表現を使っているとか、そういうことではありません。大学生のほうが聞いていて圧倒的に「わかりやすかった」ということです。

高校生のスピーチも内容的には素晴らしいものでした。diversityのテーマにふさわしく様々な観点からアプローチしており、聞いていて思わず胸が熱くなるものもありました。しかし残念ながら、多くの場合発音の不明瞭さが原因で、せっかくのその内容の素晴らしさが十分には伝わりきらないものでした。絶対におさえねばならない、L/Rも怪しい場合、絶対にやめさせねばならない不要な母音挿入 epenthesisがある場合、日本人が絶対に意識せねばならない arと er の違いも押さえていない場合、などがありました。

それに対して大学生のスピーチは、10人が10人とも素晴らしいものでした。全員が、わかりやすくきちんとした英語を心がけ、きょうの本番でのパフォーマンスが今までで最高のできでした。大学生のスピーチがあそこまで良くなったのは、彼らが本学に入学し、淡路先生と私が担当する授業を履修し、淡路先生と私の事前トレーニングを受け、ダメ出しを受け、それを踏まえて自分で何度も何度も努力したからです。

彼らのパフォーマンスを心から誇らしく思います。

全員スピーチを終え、結果発表の前に、はい!ポーズ!
と思ったら、リキト君がいない。。。

高校生のみなさん、英語がうまくなりたいなら、どうぞ本学に来てください。

スピーチコンテストの指導と中高の部活の間の共通点?

本日、第19回スピーチコンテストを開催し、大成功に終わりました。

昨日の段階では大学のスピコンと中高の部活について考えることがありました。うちのスピコンは、予選を通過して本選に出場することが決まった大学生10名に関しては、かなり手厚く指導します。

(本当は高校生の本選出場者も指導したい気持ちもあるのですが、地理的に遠方の高校生もいるので「全員同じ程度に指導」というのが現実的でないため、実現していません。)

具体的には淡路先生と手分けして、最低でもひとりの学生を3回、一回につき30分〜1時間くらい、つまりのべ2時間くらいは指導します。2時間×10名=20時間
もっともっと、と来る学生に対しては淡路先生はもっと指導しているかもしれません。

司会の学生の英語もかなり時間をかけて指導をしています。前日の練習も8時くらいまで続きました。

結果的には淡路先生も私も、スピコンの前はこの事前トレーニングにかなりの時間をかけることになっています。そして我々は英語教員としてこういう授業外の指導を、自らのしごとのかなりの中核的部分だと認識しているので、とても楽しいです。1年のうちでも最も充実感のある季節です。

しかし、仮に、このスピーチコンテスト委員という役割を、誰か別の先生に頼むことを考えたときには、潜在的な問題があることに気づきます。しなくてもよい仕事を喜んでする先生ばかりではありません。本選出場が決まった大学生はまったく指導しなくても文句は言われないでしょう。大学生なのだから自主自立にまかせ、自己責任でブラッシュアップさせるほうがむしろ大義名分にはかなうのかもしれません。

つまり、われわれのスピコン指導というのは、中高の「部活指導をやりたくてやっている(それを意気に感じて休日出勤して練習試合を引率している)一部のイケイケ顧問」と一脈通ずるものがあるのかな、ということです。好きでやっている人間にはいいのですが、それをそうでない人間に強制するのは間違っています。

だれがやってもできるような指導体制にして、担当教員が変わっても同じようなクオリティの結果がでる程度のものにしたほうがいいのか、あるいは、目の前の学生のクオリティを向上させるためには夜遅くなろうが休日出勤になろうが構わない!のままでいいのかは悩ましいところです。

と書きながら、心のなかでは、「今のやり方で続けるのが学生の幸せのためにはベストなのだから、それでいいに決っている」と思っている自分に気づきました。

前日、会場で自主リハーサルに励む学生たち