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12/28/2010

リズム音読、高校生に大好評

https://sites.google.com/site/zukeshomepage/publications/invited-talks/271-kanso2

に、山形県長井高校に出前授業(マライア・キャリーのhero を読解教材として扱い、リズム音読とパラフレーズを中心にした2年生対象の65分授業)を受けた生徒の感想をアップした。

手を叩いたり足踏みをしたりして英語を読む体験は非常に新鮮であったようだ。

まず教師の英語をまともに

3時間かけて「教科書の普通の本文からリズムをいかに取り出すか」の演習をしたあとで出た質問が、

「こういうリズム音読を普通の音読に生かすにはどうしたらいいですか?」

「こういうリズム音読と普通の音読はどちらを先にやったほうがいいですか?」

(それをいままで3時間かけてやってきたんですが、まことにものを伝えるのは難しい...)

「ふつうの音読」と「リズム音読」には、本質的な差はない。手や足でリズムをとっているかいないかの違いで、リズムはそのままである。つまり


リズム音読 = 普通の音読 + 手足の動き

であり、

普通の音読 = リズム音読 - 手足の動き 

であるべきなのである。

思ったことは、普通の先生の「普通の音読」は、あまり英語らしくない。英語のリズムがなく、強く、高く、長くあるべき強音節に、十分な焦点が当たっていない。だから、「リズム音読」が「普通でない音読」のように思えるらしい。

リズム音読を使って生徒に英語のリズムを教えるやり方を教師に教える前に、リズム音読を使って、英語教師に英語のリズムを教えるほうが先決のようだ。

The average Japanese EFL teacher's English does not sound very like English because it lacks the stress-timed rhythm which characterizes the languages when contrasted with a mora-timed language like Japanese.  I should think about teaching THEM how to read English more like English before teaching them how to teach their STUDENTS how to read English more like English.

12/15/2010

いまどきの音声合成ソフトはすごい!

http://voicetext.jp/blog/149.html

に、利用しているTTSソフト(GlobalVoiceEnglish)の感想記事を書いた。

12/11/2010

最初に日本語を書いてから英訳する生徒

自分の意見を100語程度で書くというタスクに対して、いつもいつも、どうにも意味がとれない、だらだらした英語もどきを書いてくる学生がいた。

たとえば、

Because the road is asked, it is not felt that it is quite scary only it is to show the road when thinking that it is relations only at that time though it speaks.

というような文を書いてくる。 ちなみに、この英文の心は、

I sometimes speak to strangers when they ask me for directions, but since I have to talk to strangers only at such times, I don’t fear strangers.

というような意味。

一生懸命課題に取り組む、まじめな学生なのだが、これはなんなんだろう、といぶかっていたが、ある日、その原因がわかった。

彼女は、まず日本語で完全原稿を作成してからそれを「翻訳」していたのである。

ネイティブスピーカーである我々が書いた達意の(=だらだらと長く、日本語特有の表現も多い)日本文を前にそれを文単位で「翻訳」しようとすると非常にやりにくいのは、我々のレベルであってもよく体験することである。

日本語をまず書くのはやめなさい。それをやっているからまともな英文がかけないんだよ。とアドバイスしたのは言うまでもない。日本語で「文」を書きつけてしまわず、いいたい「ことがら」を思い浮かべながら、それを知っている英語をつかって「表現しよう」としなさい、と言ったのだ。

はたして、翌週から彼女の英語は劇的に、わかりやすくなった。

There was a hard-working student who always produced almost incomprehensible essays.  The root cause turned out to be the fact that she always first put down what she wanted to say in Japanese and then tried translating it into English.  No wonder the product was always really really bad.  I advised her that she stop writing first in Japanese but rather that she should use English from the start.  Actually, that change of strategy did work, and her composition became drastically much much easier to understand.

12/06/2010

音読力検定始めます!

「英語教師としてモデルリーディングをする力」の絶対評価を始める。

学部1年生から大学院生、現職教員までを共通の尺度に乗せる。

Category Labels は...

3級    Very Poor    30点
2級    Poor       40点
1級    Unsatisfactory 50点
初段   Okay       60点
二段   Good      70点
三段    Very good   80点
四段   Excellent    90点
五段   Mastery    100点

I am developing the Oral Reading Proficiency Scale (ORPS) for Japanese teachers of English in order to locate every prospective and current English teacher I meet on one and the same dimension of the single most crucial skill as an EFL teacher.

12/05/2010

習熟度別の成績にも応用できる

前回のポストでは、

「共通テストによる平均点を維持しながら、別の独自データを加味することで個人個人の点数を上下動させる」

方法を紹介したが、これはそのまま、

「習熟度別クラスの相対的位置を維持しながら、クラス内では独自データで成績をつける」

ことにも応用できる。

つまり、名称はともかく、上級、中級、下級クラスがあったとする。

それぞれのクラス内で独自に点数をつければよい、つまり、上級クラス内での85点と下級クラス内での85点は意味が違ってもいい、という状況であれば、以下の話は読まなくてよい。

そうでなくて、以下は、上級クラス内での65点と下級クラス内での65点は比較可能な同じ意味であったほうが望ましい、という状況を前提にしている。

上級、中級、下級と分けたからには、その分けるときに使った共通データがあるはずである。それによってクラス平均を出しておく。

上級 80.3
中級  65.2
下級 50.8

あとは前回のポストと同じ要領で、この平均を維持しながら、それぞれのクラス内で行う授業に対応した成績データを利用して、成績をつければよい。授業に応じた試験内容によるが、学年を通じて共通の尺度上にある成績をつけることが可能である。

誤解がないように言っておくと、下級クラスのなかでものすごく頑張っている生徒の成績が、中級クラスの下位者よりも上になる(=そのようにする)ことはもちろん可能である。

このクラス間の平均点の関係はずっと固定でなく、学期に一回とか、年に2回とか、再び共通テストを実施して、アップデートすればよい。またその結果に基づいて、レベル間でメンバーの入れ替えを行うのが可能ならばすればよい。


It is possible to evaluate students in different classes at different levels using different materials such that (A) the grades given to all the students are on one and the same scale and, therefore, comparable across classes, but at the same time (B) those given to the students in a given class reflect the class-specific content and data not shared with the other classes, if you do the following.

(1) Compute the class means based on some data obtained from some tests administered across classes.

(2) The mean of your class should be anchored at that value.  Let your class mean be Mn1.
   Find the maximum score in your class.  Let it be Mx1.

(3) Add up all the class-specific scores you want the grades to reflect.  Let the mean of those scores be Mn2.  Let the maximum of those scores be Mx2

(4) Using EXCEL, find a and b that satisfy:

Mn2 = a*Mn1 + b   AND  Mx2 = a*Mx1 + b

This is easy as pie if you use "=SLOPE()" for a and "=INTERCEPT()" for b.

12/04/2010

評価における同僚問題を解決する方法

他のクラスと不公平にならず、自分独自の評価を成績に反映させる方法

靜 哲人 2010/12/04

問題の所在

多くの学校で、成績は学年共通の定期テストの素点によるという縛りがある。このため、自分の授業の平常点や音読テストなどの自分の独自の視点による実技点を成績に反映させたいと思ってもできない、というジレンマを抱えている教師は多い。そこで、「成績は定期テストの素点による」と「自分独自のデータを反映させる」という二律背反を解決する方法を紹介する。

概要

1 学年で決まっている定期テストの素点により、クラス平均を出す。たとえば、

A組 73.2
B  68.1
C  66.3
D  70.6
E  71.9

となったとする。このうち、E組をあなたが担当しているとする。E組のクラス平均は71.9点なので、E組の成績の平均は71.9点である。

ここからがポイントである。他のクラスの先生は、あなたがE組にどういう方法で成績をつけようと、本当のところ、定期テストで決定された相対的なクラス関係が変わらない限り、文句はないはずである。つまり、あなたがE組に対して平均が71.9である成績をつけている限りは、その中身に多少平常点を加味しようがすまいが、基本的には自分には関わらないので、文句はないはずである。

(それも許されない、となると話は終わるが、交渉してみればそれなら構わないというケースは少なくないと思われる。)

以下は、それは交渉によって了解をとりつける、という前提で論を進める。であれば、つぎに担当のE組のクラスの生徒に対して、「自分は授業の内容を反映して平常点など独自のデータを加味した成績をつける」と宣言し、説明のうえ納得させる。

結局どういうことかと言うと、

(1)  クラスの平均点は学年共通の定期テストの点数をそのまま維持して評価がつく。
(2)  クラス内の個人個人の点数は、定期テストに加えて授業内容を反映したデータによって評価が変わる。

というふたつの条件を満たすように評価する、ということである。すると言い方を変えると、クラスの平均点は定期テストのみでつけた場合と変わらないが、クラス内の順位は独自の視点によって変動する、ということである。

方法

具体的にやり方をしめす。次のようなデータがあるとする。定期テストの平均は71.9。このほかにあなたは小テスト10回および音読テスト3回それぞれの合計点を使って成績をつけたいと思っている。

定期テストだけでつけると明石家さんまがクラストップだが、音読テストなどもふくめてみると黒木メイサがトップである。なんとか授業中に頑張っている黒木メイサによい評価をつけたいのだ。





単純に、定期テスト+小テスト+音読テスト を出すと、クラス平均が178.8になってしまうので、このままで成績をつけることはできない。要はこれを「圧縮」して、平均71.9に変換してやればよいのである。

(1)ケース1

最も単純な方法は、全員の点数に等しく、

71.9/178.8 = 0.4021

をかけることである。実際にやってみると




となり、小数点以下を四捨五入すると、


 となる。黒木メイサが97点でトップとなり、明石家さんまは69点に抑えられた。

(2)ケース2

この成績に満足ならそれでよいが、場合によっては最高点が高すぎる(100点をオーバーすることも理論的にはある)とか、最低点が低すぎる(教育的な理由から、最低点は一定の点に押さえておきたい、など)などと感じられる場合がある。そこで、こんどは、

A 平均点は 71.9 であり、
最高点は、90点である

という条件を満たすような変換をしてみる。(平均点と最高点と最低点のすべてを満たすことはできないのはわかるね?)

こんどは、

x 178.8(クラスの平均点) なら、y が 71.9 になり、
x 242 (黒木メイサの点数)なら、y 90 になるような、

y = ax + b

と の値を発見すればよいのである。

こういう変換を一次変換と言い、a を 「傾き」、b を「切片」という。英語ではそれぞれ、

slope  と  intercept

と言う。なぜこんな用語を出したかと言うと、エクセルで必要になるからだ。次のように入力する。






178.8 と 242 が x の値(もとの値)であり、 71.9 と 90 がyの値(変換後の値)である。まず、slopeを求めるには、



傾きを求めたいセルに =SLOPE( 

と打つと、既知のyは何かと聞いてくるから 71.990を選択して、





カンマを打つと、こんどは、既知のxは何かと聞いてくるから、178.824.2を選択してやり、




enterキーを打つと、





傾き、つまりaの値が求まった。約 0.286 である。次に、同様に切片を求める。

切片を求めたいセルに、=INTERCEPT( 
と入力すると、既知のy、既知の xを聞いてくるので、順番に指定してやる。



enterで決定すると、切片つまりbの値が求まる。




結局、a = 0.286  b = 20.69 である。つまり求める一次変換の式は、

y = 0.286 x + 20.69

である。この式を全員の点数に適用すれば、平均が71.9 で、最高が90 になる。実際にやってみよう。







確かに黒木メイサの得点は90 点になった。平均も71.9であることは確認すればわかる。

以上は、平均点と最高点を指定して y = ax + b を求めたが、同じ要領で、平均点と最低点を指定して、そのような条件を満たす y = ax + b を求めることもできる。また、今回の「平均を固定しておく」という趣旨とはずれるが、最高点と最低点を指定してそれを満たすようなy = ax + b を求めることもできる。
 たとえば、なるべくクラスの中でばらつきを出したい(悪い者は悪い点に、良い者は良い点に)とか、逆に、差をぎゅっと圧縮したい(良い者と悪い者の差を、全員に公平になるようにしながら縮めたい)とかの場合である。

ケース3 最高点と最低点を指定する

最高の黒木メイサを99点、最低のビートたけしを10点にすることとしよう。今度は、平均点ではなく、最高と最低を使うので、それぞれ =MAX(    =MIN(    を使って(使わずに目で見て最高と最低を探し、手で入力してもいいが)を入力し、それぞれのよこに、変換後の最高点99、変換後の最低点 10 を打っておく。





先ほどと同じように、変換前のx 242 144  変換後のyが9910 なので、SLOPE と INTERCEPT を求める。




求まった。この y = 0.908 x + (-120.78) を全員に適用すると、




たしかに、99点から10点までにばらついた。
 しかしよく考えてみると、9910はやっぱり良くないな、と思ったとする。9060にしておこう、とあなたは思い直した。その場合は、変換後の最高点と最低点として入力しておいた 9910を、それぞれ、9060 に打ち直すだけで、すべてのセルの再計算を自動でしてくれる。




このように微調整しながら、自分の教師としての感覚に最もあう数値を採用すればいいのである。

なお、最高点、最低点、平均点の3つを指定しておいて、同じような 
= SLOPE(     =INTERCPET (    を求めるとどうなるかというと、指定した3つの値をおよそ満たすような y = ax + b  の a b を教えてくれる。

以上の方法を用いて、是非、自分の視点を反映させながら、他クラスとの不公平感が生じないような妥当性のある評価をしてもらいたい。

以上

11/30/2010

tonの発音、間違っていました!

『絶対発音力』の中で、私が間違っている箇所がありましたので訂正します。

ハレイの英語学習ブログのハレイさんの指摘で気づいたものです:

http://foreignlanguages.blog29.fc2.com/blog-entry-77.html

私は、ton の母音を、hot の母音と同じだと思ってそう書いた(p.169)のですが、これは誤りで、son の発音と同じです。

綴りが o だと、圧倒的に hotの母音が多く、また、カタカナ語としても「トン」なので、疑うことなくそう思っていたのですが、違いました。

(言い訳しておくと、ton は、中英語の tunne (酒樽)が、son は古英語 sunu (息子)が語源になっていて、いずれも u の文字がもとのようです。)

いずれにしても、指摘してくださったハレイさんには感謝しています。知るは一時の恥、知らぬは一生の恥。恥どころか我々の場合には誤った知識を何百人もの生徒たちに広げてしまうことになるので、むしろ罪となります。

50年目にして正しい知識が得られて嬉しいです。

以上、『絶対』の読者の方には、お詫びして訂正します。ton は、tun だと思って発音してください。

英語は道徳じゃね-!

Mona Lisa さんのブログ

http://ameblo.jp/monalisa-eigo/entry-10700114844.html

で、私のことを:

靜先生は、英語は道徳じゃね-!英語をできるようにしてやってなんぼだー!!そもそも英語教師の英語が下手すぎる!!!という感じなので、先生たちの間では賛否分かれる、というか、「耳が痛い」的な感じもあって、敬遠する人も多いのではないかなと思います。

と書いていただいているのを発見しました。

まさにおっしゃる通りだと思います。英語授業の十五戒で言っていることを煎じ詰めるとこうなります。

学校英語教師ではないモナリザさんだからこそ、ずばりと的を射た描写・記述をしてくださっている、と感じました。大変嬉しいです。



11/23/2010

教科書本文ごときに縛られるな

教科書本文を金科玉条のごとく扱う教員が多い。本文から一歩も逸脱出来ないような人が。

教科書の本文は、編集の過程で、さまざまなeditingを経て、改変され、最終的にたどりついたものである。それは、全体の語数とか、文法事項の配列とか、語彙制限とか、さまざまな制約をうけて、「たまたま」たどりついたものであって、決して the one and only な文ではない。

つまり、単なる one of many ways of saying the same thing である。

ほかにいくらでも表現のしかたはある。

また、ひとつひとつの文はあくまでテキストのなかで意味を持つのであって、文脈から取り出したら意味がよくわからなくなることも多い。代名詞や接続詞など。

だからたとえばグルグルに使う時に、代名詞を名詞に戻したり、長さを調整するために2文を1文にしたり、逆に1文をふたつに切ったり、リズム調整のために単語を足したり引いたり、することは当然必要なことである。

ただ、そうやって本文を改変した時に、不自然な英文や誤った英文になっては話にならないわけで、いちいちAETなどに頼らなくても、「十分な程度に正しい」英文を書けるだけの力量と自信がここでもキーになるわけである。自作の文が不安で使えない、のではどうしょうもない。

やっぱり心技体では「体」が大切、という結論になる。「体」をつけて、教科書本文を「使い倒そう」。

Materials in textbooks are not something you should never deviate from.  They are just examples of expressions that convey certain messages or ideas.  You need to be confident and proficient enough to be able to modify them to suit your purposes and students' needs.

11/22/2010

授業は稽古で本番じゃない

ひとつの芝居が完成して公演にいたるまでには何週間、何ヶ月にもわたる厳しい稽古がある。

また本番が始まってからも、その日、その日の本番が終わってから、反省会のようなものがあって、微調整がなされる(のかも知れない)。

当然ながら英語の授業の本質はそういう「稽古」や「反省会」のようなものであって、最終的に「観客」に見せる「本番」ではない。

公開授業や研究授業というのは、授業を公開してみんなで研究するもだから、とうぜん、そういう「稽古」の公開のはずだ。

ところが、どういう勘違いだか、芝居の本番にあたる段階を見せているような公開授業が多くないだろうか。

生徒にディベートさせて、褒めて拍手して、はい終わり、みたいな。


稽古であるかぎり、ダメだしや、修正点の確認の繰り返しこそがその中心であるはず。演出家、監督からのダメ出しや注文付や演技指導がまったくない「稽古」って、何の意味がある?

授業もまったく一緒。昨日より今日、今日より明日、と向上させるための地道な努力を見せるのが公開授業であるはずだ。

A demonstration class is just that: a demonstration of a class, which is an activity to improve each student's performance until students measure up to the teacher's expectation, just like practice sessions of a play is an occasion where players are trained receiving feedback and directions by the director.  Why do I have a feeling that I always see a demonstration class where there is no feedback or directions from the "director"?

11/15/2010

ひっくり返して書け、書け、書け! Flip Writing

鹿児島高英研の研究大会で、久しぶりに、「ほ~! それいいじゃん」と感じる実践報告を聞いた。

その名は Flip Writing。

1枚の紙の表に、テキストの英文(スラッシュつき)を、裏におなじテキストの和訳(英文にあわせた語順でスラッシュつき)を印刷しておく。和訳のほうは、行間を広くとり、行間に書き込みができるようにレイアウトする。

これを生徒に渡し、「表の英文を見て、それを裏の和訳の行間に書写しなさい」と指示する。

生徒は、表の英文を少しずつ短期記憶に格納しながら紙をflipしながら書き進むのだが、flipするのは面倒くさいので、なるべく多く(1語より2語、2語より3語)覚えようとする、という。

なるほど。そうであろう。そして「なるべく頑張って、スラッシュごとに頭に入れて書くようにすると力がつくよ」と言うとさらにいいだろう。

Flip Writing がいいと思うのは、作業がシンプルであることと、英文をチャンクごとに覚えて書こうと努力するのが本質的に英語力(受容力と運用力)の向上に寄与すると思われるからだ。


授業内の最後の仕上げ、でもいいし、復習として家庭学習に課してもよいだろう。(生徒に趣旨を理解させておいて、ズルしないようにさせる必要はある。)

One task that I believe is quite useful and effective for enhancing students' proficiency is "flip writing," in which students try copying the English text printed on side A of a worksheet onto the reverse side of the same sheet.  

11/13/2010

電子辞書で用例を見比べる

紙の辞書でできて電子辞書にできないことはなく、逆はたくさんあるので、もう紙辞書はいらない、というポストに関して友人から以下のご意見をもらいました:

(1)電子辞書では、1番の語義での用例と2番の語義での用例を見比べる、ということはできないのでは?

(2)すくなくとも最初は紙の辞書を使わせて、辞書というものは語義、用例、成句などがこのように整理されているものだ、というのを理解させたほうがいいのでは?

これについて私の考えは:

(1)について:

要は、紙辞書は物理的に1枚の紙の上に、複数の語義に対応する用例が載っているが、電子辞書は同じスクリーン上には複数語義に対応する用例は載っていない、ということですね。

しかし厳密に言うと、紙辞書であっても、複数の用例を「同時に」見比べることは不可能です。

なぜかと言うと、人間の視野というのは実は驚くほど狭く、せいぜい10-15 character strokes
ひらたく言うと1~2語しか、ある瞬間に見る(見て読み取るほどきちんと見える、という意味)ことができないことが知られています。

すると、1文であっても全部を同時に見渡していることはなく、1~2語ずつ、順番に読み取っています。最初の1~2語を見てそれを短期記憶に格納し、その状態で次の1~2語に移り、それを短期記憶に格納しつつ、最初の1~2語と記憶の中で統合して意味を構築し、...という作業を瞬間的に次々に繰り返して読んでいるに過ぎません。

ということは、紙の上で上下に2~3センチ離れた箇所に印刷されている2つの例文を「見比べる」のも、同時に見ることはできず、上の例文と下の例文の間を秒単位で視線が行き来しながら、脳内で「見比べる」という意識が形成されるということです。

すると、これは電子辞書の2画面を行き来するのと本質的には変わらないことになります。そして今の電子辞書のレスポンスの良さを前提とすると、2画面を行き来して「見比べる」ことは十分可能だと感じます。

(2)について:

「最初は紙の辞書を使うべき」という論点ですが、これも「べき」とまでは思いません。辞書の構造を理解させるのは、電子辞書でもできますし、どうしても紙で一度説明したければ、ある見出し語に関わる全記述を1枚の紙に印刷して見せて、一度解説し、あとは電子辞書を使わせても問題ないのではないかと思います。

ただ現実問題として、最低でも数万円はする電子辞書を最初から全員に揃えさせることは無理ですから、現状としては、最初は紙の辞書を持っている生徒が多いことは間違いないとは思います。でも仮定の話で、今の性能と機能の電子辞書が、3000円で買えるならば、最初の段階から全員に電子辞書を使わせてもまったく問題ないと思います。

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すくなくとも私に関しては、紙の辞書に手を触れることは過去10年間ゼロになりました。

I am not really convinced by the argument that usage samples can be better viewed (and compared if necessary) on paper dictionaries than on electronic counterparts, nor do I buy the idea that beginners should get used to paper ones to get an idea about what a dictionary is like before beginning to use e-dictionaries. 

11/10/2010

カタカナ読みと化石化

もうひとつ、先日もらった質問:

「先生は英語読みとカタカナ読みを両方言わせて対比させるエクササイズを提唱していますが、敢えてカタカナ読みをさせることで、その良くない読み方を化石化することになりませんか?」

回答:

なりませんん。カタカナ読みは化石化どころか、日本人の中に日本語として確固として存在しています。

日本語としては、例えば「ブログ」(burogu)という発音が「正しい」のです。それを、blogと対比させて、

burogu / blog / burogu / blog

とし、日本語と英語の違いを体感させることが大切なのです。

大切なのは code switching です。

日本語を話しているときは日本語の音韻ですべてを話し、英語を話している時は英語の音韻ですべてを話すように、「スイッチ」を整備することが大事なのです。

カタカナ読みをこの夜から駆逐することは不可能ですし、まったくそんな必要はありません。

日本語なんですから。

11/07/2010

発音をカタカナで書く生徒は...?

昨日もらった質問:

「私は発音指導に凝っています。生徒に発音をさせるための補助としてカタカナで書かせたのですが、先輩教師からそれはやめろ、と言われてしまいました。先生は発音をカタカナで書かせることはどう思いますか?」

この問題は一概に言えない。

カタカナで書いてはダメだ、ということはないし、カタカナで書いた方がいい、ということもない。

(また敵を増やすのを承知で言うと、カタカナ絶対反対主義の教員は、実際に発音指導をしていないのだと思う)

実際、私の厳しく細かい発音実技指導を受ける生徒、学生(中学生、大学生)の中には、部分てきにカタカナでメモしている者はめずらしくない。さらに言うと、この夏やった教員免許更新講習でも、つまり現職教員でも、カタカナで発音イメージを書き取っていた人がいた。全然悪いことではない。

よいカタカナ表記と、ダメなカタカナ表記がある。

質問者が言ったのは、

she を シー  sea を スィー

と書かせるような話らしく、これは害はほとんどない。厳密に英語の音とイコールではない、というレベルの話は当面クリアすべき目標とは無縁だし、ひつようなら、実際の実技指導で教えればいいことだ。

また、

level  レヴォ
possible パッサボー
milk  メオ


のような工夫した表記なら、やはりほとんど害はなく、益が大きい。

また、実技指導していて、どうしても視覚に引きずられて、まともにリンキングができないような時に、

when I was in Osaka
ウェイワズィノサー

like it a lot
イケタローt

again and again
ナナ


と書くと、はじめてまともに読めるようになる、という体験は何度もある。

ただ、これを、

ウェン アイ ワズ イン オーサカ

と書かせて放っておくのは害のほうが大きいだろうね。英語に聞こえないでしょ。

まとめると、

(1)発音のことをよく分かっている教師が、工夫したカタカナ表記を、ピンポイント的に使うのはとても効果的である。一律にカタカナを嫌悪する教師は、現実を見ていないのだ。学習者が音声を記憶するために表記する手段としては他に何がある?

(2)カタカナは英語ではなく日本語を表記するためのものだから、基本的にダメだ、という議論は、専門家向けのものであって、一般学習者には関係ない。100%正確な音を表すのでなく、あくまで教室で実際の音を実技練習したことを記憶にとどめるためのものとして使えば、非常に有効である。(ALTが嫌うのは放って置いてよい。彼らはカタカナの威力を知らないだけなのだ。)

(3)ただし、あくまで目標は、英語文字を直接読めるようにすることなので、カタカナは補助として、文字と音の関係を丁寧に指導する必要があるのはもちろんである。

It is definitely true that using Kakakana to represent English sounds CAN be quite effective in helping your students to learn to produce real or good-enough English sounds.  No doubt about it.

挨拶する心と Hello!

「挨拶する心のない生徒に、Hello! という表現だけ教えてもしょうがない。」

そうかな...?

それはそれ、これはこれ、じゃないかな。

挨拶する心、と言っても、いつでもどこでも誰にも挨拶しない、というよりも、teenagerとして、ある特定の状況下で挨拶をしないことを選択している、のではないだろうか。教師には挨拶しなくとも、部活の先輩には挨拶しているのではないだろうか。

ま、ともかく。挨拶に関する生徒指導は生徒指導としてきちんとすべきである。

しかしそれと英語授業を連動させるのは、逆におかしな事態を招くような気がするけど。

私なら、その時、その生徒に、その「アイサツスルココロ」があろうがなかろうが、Helloという言語形式はきちんと教える。発音を含めて。Lは決して日本語の「ロ」じゃないよ、というのも含めて。

その生徒がその挨拶をしたくなった時、きちんとした発音とイントネーションでそれを使えるように、自分の英語の授業では、道具としての英語自体をきちんと教える。その道具を使う日がくるかもしれないから。

英語の授業は道徳や倫理ではない。

「世界平和を願わない生徒に、英語の文法を教えてもしょうがない」

「イジメを卑劣なことだと思わない生徒に、発音を教えてもしょうがない」

とは全然思わない。

I disagree with the view that it is a pointless endeavor to teach how to pronounce "hello" to someone who does not feel like greeting in the first place, or put differently, that moral education should come before language skills education.

嬉しい書評みつけた

心・技・体について嬉しい書評見つけた:

http://ameblo.jp/monalisa-eigo/theme-10026510323.html

嫌いな歌 No. 1: 世界に一つだけの花

花屋の店先のいろいろな花をみて、どれもそれぞれ綺麗だ、と言って、それを人間に当てはめて、一番にならなくてもいい、というが、それはマッタクオカシイ。

それぞれ綺麗だ、といっているのは、いろいろに異なる花の種類の話で、バラのなかの一本一本ではない。

赤いバラを買うときには、すこしでも生きの良さそうな、発色のいい、きれいなものを選んで買うだろう。

競争しなくてもいいよ、自分は世界に一つだけの花だよ、などという歌詞の歌が、これだけ支持を集めていること自体が、日本が駄目になっていることの原因であり、結果だ。

You are OK as you are (without making any more effort to get better).

なんていうメッセージを、生徒に言ってどうする?

OKじゃないから、学校に来て、教育を受ける必要があるんじゃないの?

The very fact that Sekainihitotsudakenohana is so popular today is evidence that something is very wrong with our society.

好きだ、嫌いだ、ばかり何で気にするの?

フタコトメには、「~の結果、英語が好きだ、という率が増えた・減った」ということを言いたがる教員の気持ちがわからん。

いや、わかる。だから情けない。

~では「好きだ、楽しい」が~%になった。それが、~では、~%になった...云々。

そういうことばかり気にしている・言ってるから駄目なんだよ。

好きだ、嫌いだ、楽しい、つまらない、じゃないんだよ。

学校は勉強するところで、勉強とは、強いて勉めるものであり、べつに

♫楽しい楽しい楽しい♫

ものであるわけはないし、そんな必要はまったくない。

必要だからやるんだよ。

教師が生徒に迎合する必要はまったくない、というか、そういうことをしているからダメなんだよ。

大人が子供に迎合する必要はないし、そんなことをしているから、今の日本になっているんだよ。

もっと毅然として、「教師」として「大人」として、自分のやっていることに自信を持とうよ!

「支援者」などという生ぬるいものに成り下がるな。

授業の本質は、強制と矯正だ。

Being obsessed with how much your students "like English" and/or "feel that English classes are enjoyable"is actually doing them disservice.  Like it or hate it, they need to do what they need to do.

英語の授業は日本語でやれ

昨日、今日と、初めて全英連の大会というものに行ってきた。

昨日は公開授業(小、中、高)、今日はそれについての討論等があったのだが、

昨日の授業(中学・高校)に関して

「高校は日本語が多かった while 中学はすべて英語で(教師が)パフォーマンスしていた」

というコメントを聞き、ちょっとこれは書いておかねば、と思い、書く。

見ていない人のために解説しておくと、高校は私が助言者として関わった授業で、授業内タスクとしては、私が心・技・体で提唱しているものや、Reading in Action (金星堂)として教材化しているものにかなりの部分はそった形で、「絶対発音力」等も取り入れた授業で、いわゆるクラスルームイングリッシュはほとんどなく指示は日本語、また、生徒に対する発音面、文法面のフィードバックもすべて日本語であった。ただし生徒の発言はすべて英語。

一方中学は、すべて教師は英語で、しかし発音やリズム、語法はかなりヨタヨタ、something を somesing 、That's right を Zats right というレベルの「クラスルームイングリッシュ」。生徒に対する発音面、文法面の明示的フィードバックはゼロ。いわゆる recast (生徒が間違ったことを言った時、それをさりげなく、正しい形を言ってやる。生徒がそれに気づくことはほぼない。)をやっていた。


生徒の英語はとんでも発音が多い。「プレゼン」と称して、生徒に写真を説明する発表をさせていたが、かなりのとんでも英語。それを指摘して直そうとはしない。しかしそのあとで、「発表の良かった点を話しあってみよう。Japanese, OK」というpidginみたいな指示も。


まあ、最近はやりの典型的な勘違い授業である。

今日は分科会で、私は高校の授業について「助言」をしたが、その中で、開口一番、「昨日の高校の授業で一番よかったことは、日本語をたくさん使ったことです」と言った。

詳しくは

https://sites.google.com/site/zukeshomepage/publications/practical-papers/eigode_okonau_yori

を(もういちど)読んで欲しいが、要は、「生徒の英語の形式面(発音、リズム、語法、文法)の質を向上させる気があるなら、絶対に日本語を使え、ということである。

意味のやりとりは英語で、形式についてのやりとりは日本語で。

なお、今日の討議会は、私は英語でやったが、他の方々の様子を見るとやっぱり、ほとんどの英語教師には、英語の授業について英語で討論するのはかなりハードルが高いようである。

ま、気持ちはわかるが、それではいつまで立っても上達はしない。日本の中ではそれでも普通なのだが、世界水準でみると、情けない話である。たぶん韓国にも水をあけられつつあるだろう。

この業界で全国に名前が知られているような人にも、英語で話してくださいと言われるとなんとなく逃げたり、実際に話してみると、かなり情けない英語だったり、という例はたくさんある。

だからダメなんだろう。まあ、日本の英語教育がダメであることの、結果であり原因である。

これを読んでいる特に若手のみなさんは、是非、少なくとも自分の毎日やっている仕事に関わる事柄については、いつでも、どこでも、誰が相手でも、自由に英語でも日本語でも、構えず、語れるようになって欲しいと思う。

なんといっても、here and nowの話題である。何も哲学について語れとか、世界の経済情勢を論じろ、という話ではない。自分が毎日やっている、一番よく知っている事柄である。そのもっとも話やすい話題について、comfortableに英語で語れないのは、プロとして絶対的に運用力が不足している。

で、どうして不足しているかというと、練習量が足らないからである。で、どうして練習量が足らないかというと、英語の授業について実践報告したり、協議したり、という絶好の機会に、英語の練習をしないからである。

要は、悪循環:

自信がない→練習しない→自信がつかない→練習しない→いつまでもダメダメ

ちなみに、そういう fluency は、CNNを「シャドウイング」しても身につかない、のは分かるよね?

今日のまとめ:

(1)英語の授業中は、自分は大いに日本語を活用して、生徒の英語のレベルを上げようとせよ。

(2)英語教師同士が集まって公的に語る時(協議会とか)は、場の空気がどうであろうが、自分だけは、意地でも英語を使う、くらいの気持ちをもて。それで、うまく語れなかったら、家にかえって辞書を使って、どう言えばよかったか調べて次回に備えよ。

comfortable じゃないから、つぎは少しでも less uncomfortable になるために練習が必要なのだ。

11/05/2010

全英連: ダメ出しのないダメダメ授業

小、中、高の授業を見た。

小と中はいずれも、

七. 「通じる」ことは必要条件であって十分条件ではない。意味が通じる英語をさらに良いものにブラッシュアップしてやれる場所は教室しかない。「通じればよい」という世間の基準に合わせていては、コーチングの専門家たる教師の存在価値がない。

八.  生徒のパフォーマンスは常に評価してそれを伝えよ。どんな場合にも足らない点を見つけてダメを出せ。ダメ出しとはすなわち向上のためのヒントでありアドバイスである。評価のない発表は時間の無駄遣いと心得よ。

という点においては、「教師の存在価値のない」「時間の無駄遣い」とも言える、ダメ授業だった。

中は教師の英語発音もかなりしんどいものがあった。

プレゼンと称して、とんでも発音での発表を続けさせ、それを褒めちぎっていた。誤解ないように書くと、生徒は一生懸命であり、それは尊いことである。しかし、あれでは駄目なのだ、別の言い方をしないと英語ではないのだ、ということをきちんと教えてやらないのは、彼らの頑張りに対して、不当なことである。

やっぱり、

■英語教師が英語を話し続けるのがいい授業である

■発表の態度とか中身でよい点を発見して無理にでもホメるのがいい授業である

■発音とか文法のミスをあからさまに生徒に知らせないのがいい授業である

という根本的な思い込みがある限り、他の何をどうしようが、この国の英語授業はほとんど時間の無駄であり続けるだろう。

この点、高はまったく違う授業だった。

「この生徒たちに、もっとうまく、まともに英語をしゃべらせてやろう」という当たり前の姿勢があり、そのためには、日本語を使って、「○○を直して、もう一度!」と何度も言わせる、という、当たり前の「授業」の姿があった。

I regret that I was made to observe another two classes that wasted everyone's time by neglecting to explicitly correct students' less-than-satisfactory English.

10/24/2010

アニメーションと animation

特にカタカナ語として身近になっている単語は、注意をそこに向けるようアドバイスをしないと、英語音声を聞いても日本人の耳にはカタカナ語として聞こえてしまう、ということを改めて確認させられる経験をした。

10年選手なのだが、animation (エァイシュ)という音を何度CDで聞いても、気をつけて聞くように言っても、「アイション」としか聞こえなかったのである。

英語教師からしてこうであれば、いわんや初学者である生徒においてをや。

こういう時こそ、カタカナ表記の出番かもしれない。

family フェアムリ   travel  tレァヴォ   animal エァナモウ   ...

そばについていて言葉をかけてやるコーチは絶対的に重要なのである。


I confirmed once again that an L1 Japanese learners of English will, upon hearing an English word whose transliteration is already used in Japanese, only hear its katakana approximation.  This serves as another piece of evidence that a teacher's advice is crucial in making learners perceive real English sounds.

10/22/2010

CDプレーヤーは使える!

少し前に「CDプレーヤーは捨てよう」というポストを書いた。カセットや、PC上のメディアプレーヤーのような小刻みな「巻き戻し」ができないため、語学の指導には不適である、という趣旨であった。

のだが、このたび、実はそれは自分の無知によるものであって、CDプレーヤーでもなんと小刻み巻き戻しが可能なのだ、ということが判明した。

トラックを戻すボタンを長押しすると、キュルキュル、という音とともに、戻るのである。

おお、なんと素晴らしい! そうだったのか。 そんなことを知らずに的はずれなポストをして、穴があったら入りたい気分である。

CDプレーヤー様には、大変失礼なこと申し上げてしまい、お詫びの言葉もございません。

ここに謹んでお詫びし、前言を撤回し、次のように訂正いたします:

CDプレーヤーはエライ!

だから、みなさん、小刻みバックを活用し、きめ細かい指導をしましょう。

I learned for the first time that CD players can also be used to deliver recordings bit by bit, not only track by track.

10/16/2010

カラオケ: dispiriting vs. inspiring

50代英語教師が、英語教師達を前にして、TH音もL音もR音も全部カタカナ音を使って英語の歌を熱唱するのを聞いてしまった。そういうオーディエンスの前でどうどうと歌う、ということは問題の所在に気づいていない、としか解釈できまい。

彼のこれまでの30年以上のキャリアの中でどれだけの数の生徒にとんでも英語を教えてきたのか....怖い話である。が、そんなケースは例外的ではないのだろう、と思うとますます滅入った。

一方、来日まだ3ヶ月足らずのALTが、カラオケの画面を読みながらレミオロメンの「粉雪」を完璧に歌いこなすのを聞いて、目が点になった。うまい。ラ行はL音でもR音でもなく、日本語の弾音をちゃんと使っていた。すごいものを見てしまった。

A stark contrast was between a JTE in his 50s singing an English song, substituting all voiced THs with Zs and all Ls and Rs with Japanese flaps, and an ALT, still barely in her third month in Japan, perfectly singing Konayuki, following the karaoke screen.  The former was as dispiriting as the latter was inspiring.

カタカナ語

文法用語を振り回したがる英語教師にろくなのがいないのと同様、(日本語で話している時に)カタカナの英語教育用語を使わないと言いたいことが言えない人間には、たぶん、おそらく、ろくなのはいない。日本人なんだからふつーに日本語使えよ。じゃなければ全部英語で話せば?ただし術語をきちんと定義した上で。

Those who cannot talk, when discussing English education in Japan, without using imported technical terms are most likely to be fakes.  

10/11/2010

さんたんげん

実際に話させてみると....

3単現が使えない

単数複数の区別ができない

時制が使えない

be動詞が使えない

英語教員がゴマンといる!

知れば知るほど、「日本の英語教育のレベルは、英語教員の英語運用能力が決めている」という確信は深まるばかり。

では、そういう英語教員を養成する大学英語教員養成の責任はどうなんだ!!!!

ということで、唾は我が身に返ってくる。

It is not at all rare that an English teacher cannot properly use third person singular, the plural as opposed to the singular, tense, or even be-verbs!!  No wonder EFL students in our country cannot use English.  And it is our responsibility, university teachers who are in charge of EFL methodology courses, to make a difference in this pathetic situation.

10/08/2010

テストあって授業なし

多くのリスニングの「授業」では....

音声を聞かせる

答え合わせをする

以上。

という状態が多い。

聞き取れなかったなら、どの部分がどのような原因で聞き取れなかったのか、聞き間違えたのか、次回に同じミスをしないためには、なにをどう修正したらいいのか、

に関するフィードバックは一切ない。

問題演習をして答え合わせするだけなら、human teacher は必要ない。

さっきは聞き取れなかったけど、言われてみれば確かにそう言っているな!

という感覚を味合わせねば、意味がない。

A listening class should be more than a mere listening test. The purpose of a class is to find out what went wrong, and what should be done to avoid the same mistakes..

10/04/2010

CDプレーヤーは捨てよう

カセットがCDになって、語学の授業から失われたものは大きい。

授業に関する限り、カセットのほうがずっと良かった。

例えばリスニングで、partial dictationをするとき、一度で聞き取れなかった箇所を、即座に2秒だけ巻き戻して何度も聞かせたり、正解を教えてから、本当にそう言っているか確認するために、さらにもう一回聞かせるために3秒巻き戻したり、という作業が、カセットは造作もなかった。

それがCDになってから、数十秒の区切りのトラックごとにしかアクセスができなくなってしまい、きめ細かいリスニング授業が成立しなくなった。

リスニングだけでない。スピーキングに関わる音読を、録音音源の後をついてリピートさせるときも、生徒のリピートの発音やリズムがまずく、それに対して即座にフィードバックし、その上で、もういちどその文だけを聴かせる、などという作業も、カセット時代は容易かったが、CDになってから、なにもなくなった。

だから、CDプレーヤーを使って授業している限り、その点に関してはロクなことはできない。

CDプレーヤーを使うのはやめよう。

選択肢は二つ。

(1)カセットに戻る。まだ販売されている。

(2)CDの音源をPCに取り込んで、PCの音声プレーヤー、もしくはiPodなどで再生する。そうすれば、バーが走るので、カセットと同様のきめ細かい「巻き戻し」(レトロな語ですが)が可能になる。

CDプレーヤーを捨てよう。

このまえテレビ番組で、アダルトタレントが平成の歌を、ヤングタレントが昭和の歌を練習して歌う、という企画を見た。出場したタレントは短期間で50曲の(自分にとっては)新曲をマスターしなければならない、という状況だったのだが、その中で森口博子さんが、携帯用のカセットプレーヤーを使って練習していたシーンがあり、非常に印象的だった。

あるフレーズのメロディがわからなくなると即座にそこだけ巻き戻して何度も何度も聴きこむのである。私はこれでないとだめですね、という言葉が印象的であった。

まさにあれが授業にも当てはまる。

CDプレーヤーを使っている限り、きめ細かい音声提示は不可能だ。

Cassette tape players were ten times more useful than a CD player in presenting recorded stimuli  in English classes.  It was a piece of cake to playing the same phrase again and again and again by using a tape player, which is impossibility for a CD player.

10/02/2010

新 速読・精読トレーナー Fly High! 完成

ご好評いただいています、「速読 精読トレーナー」(東京書籍)の新版ができました。

Fly High ! Level 1 / Level 2 と言います。






















色々な新機軸を盛り込んだ自信作ですよ。

視線をページの中心に固定したチャンク読み
重要部分だけを救うスキミング
すべての語を音速で処理する速読
行間を読み取る味読
パラグラフのタイトルを考える統合読み
英語の意味を英語で考えるパラフレーズ読み
パラグラフ間の関係を読み取る鳥瞰読み

センター試験から二次試験まで対応。

自習にも使えるし、活発にペアワークをさせるような授業でも使えます。

是非ご活用下さい。

(東京書籍に審査用見本を請求してください)

Inspection copies for Fly High! Levels 1 & 2 are now available from Tokyo Shoseki.  Designed to train high school students in a wide range of "reading" skills from skimming to between-the-lines reading to repeating/shadowing, Fly High! Levels 1 & 2 are the best choice for those who want to prepare their students for university entrance examinations as well as for those whose main interest is enhancing their students' overall command of English.

9/30/2010

歌と prose と チャンツの境界

歌は、歌うだけでなく、歌詞を音読したり、読解したりすることもできる。スピーキングの題材にすることだってできる。文法の授業をすることだってできうる。

読解教材だって、黙読するだけでなく、部分的にチャンツにしたり、それにあわせて踊ったりすることができる。

文法の教科書の例文だって、それを題材にしてグルグルもできるし、ダンスもできる。

これはたぶん非常に大事というか、授業力のコアの部分だと思う。

そうでないと、「雰囲気作り」に歌をやって(CDを聞かせて)、それとはまったく関係ない教科書本文に入って、...とか、発音練習、リズム練習と銘打って、グラハムさんのジャズチャンツをお楽しみにやって、教科書は訳読する...というような、有機的関わりのない授業構成になるはず。

英語は英語だから、どんな教材でも読んで話して歌って踊って書いて...というのが当たり前だ、という感覚がとても大事だと思う。

Songs can be read, spoken, and chanted. in addition to be sung.  Likewise, prose can be spoken, chanted, sung, or even danced.   Songs are meant be sung, but can be read.   Prose may be meant to be read, but CAN be danced, which helps our students realize that grammar is important in songs as well as in prose, and rhythm is important in prose as well as in songs or chants.

9/27/2010

ゲーゲー言うな

おいおい。英語教師が

language



lanゲージ

なんて言わないでくれよ。

スペリングをよく見よう。

langage じゃない。 language だろ。

lanゲージ になるわけなかろう。


How many more times do I have to be disappointed to hear an English teacher pronounce "language" as "lan-gage"?

9/25/2010

紙辞書と電子辞書

紙辞書と電子辞書は一長一短というか、それぞれ特性があるので、使い分けるように指導すべきだ、と言われることがある。

しかし

(1)ふたつの辞書を使い分けていると、「オレの辞書はこれだ」というマイ辞書感が分散してしまう

(2)紙辞書にできて電子辞書にできないことは、事実上 (practically speaking)もう存在しない

という理由で、上の意見には同意できない。

そのコンテンツが電子辞書に収録されているならば、という条件で、紙の辞書の必要性はゼロである。

固定電話とスマートフォンを比較しようとするのがナンセンスなように、鉛筆プラス原稿用紙とパソコンを比べるのが無理なように、1冊の紙辞書と、100のコンテンツを搭載した1台の電子辞書を比較しようとするのが、すでにナンセンスだ。

だいたい、狭い住宅で、紙辞書を何冊も置いておく余裕はないよ。

Paper dictionaries whose electronic versions are already available have no place in learning English as long as you can afford the latter.  Comparing e-dictionaries with paper ones is as meaningful as discussing advantages and disadvantages of pens and PCs in writing academic papers.

9/19/2010

早口言葉なんかやめろ

英語授業で早口言葉は基本的には不適切だ。

tongue twisters というのは定義上、通常のスピーキングは不自由なくできる母語話者でも「舌がひねれる」ような難しいフレーズや文、である。

それほど難しくない単語も満足に発音できないノンテイティブが挑戦するにはもともと不適切なフレーズなのである。普通のスピーキングでL、R、V、Bの切り替えすらまともにできない人間が、まともにできるはずがない。

事実、今まで見た英語授業関係、あるいは英語イベント関係での早口言葉イベントは、生徒に挑戦させ、ひどく滑稽な結果になったのを、みんなで「あははははは!」と笑って、はいおしまい。あ~英語って楽しいなあ...

というものばかりだった。

もちろん、早口言葉に挑戦させるのはいい。

だが、挑戦させるなら、かならずできるようになるまで導け。

そうでないなら時間の無駄だからやめろ。もっと基本的な練習をしろ。

Tongue twisters basically do not have a place in an EFL class.  They are by definitions sentences or phrases that even native speakers, who have no difficulty pronouncing ordinary phrases, need to twist their tongue to say them right.  There is no way non-native learners of that language can get them right without making great efforts. Those efforts would be better spent on getting ordinary phrases right.

9/15/2010

実務家の英語、教育の総論と各論

補足:

実務家の英語

私が出した明石氏や小柴氏を例に対して、柳瀬さんは、「実務家は英語はある程度でいいから、それ以上は専門の本を読め」という論を出した。

もしかすると、私が明石氏や小柴氏ご本人たちが、これから英語発音の修業をすることをすすめている、と読んだのかもしれない。そうじゃないかもしれないが、もしそうだとすると、それは違う。

そうじゃなくて、私はどんな時でも英語教師の立場から話をしている。つまり、明石少年や小柴少年が中学生、高校生、大学生として英語の授業に出ていたなら、英語教師としてては、徹底的に鍛えてもっともっとうまくしてやれるのになあ、という話。

そうなった上で、両氏のコンテンツがあれば、いまよりさらにいいのは間違いない。誰がなんと言おうがこの点について疑問はないね。外国人だろうが宇宙人だろうがうまいほうがいいに決まっている。

日本語ネイティブの立場で言うが、どんなにコンテンツがよくても、聞きとるのにわずかでもエネルギーを消費しつづけれる日本語より、まったく消費しない日本語のほうを聞きたいから。コンテンツが同じなら。

コンテンツと英語

よく、発音がよくてコンテンツがない英語と、発音が悪くてコンテンツが豊かな英語を比較する論があるのだが、誰もそんな話はしていない。そしてコンテンツは決して英語教師の守備範囲ではない。英語教育に「英語」以外のコンテンツはいらない。英語は content subject ではない。

発音技能というのは、筋肉習慣というもっとも「低レベル」 lower-order のスキルなので、自動化することが可能だ。いったん自動化してしまえば、認知資源を一切消費しないので、貴重な認知資源を「専門」のコンテンツに100%振り向けることができる。

それを実現してやるための、トレーナーこそが「英語教師」だ。英語教師の仕事は、それぞれの学習者が自分の「専門」のコンテンツをすこしでもいい形で英語で表現できるためのツールを授けてやる、磨いてやる、ことに尽きる。

それを「言葉の教師」は「テニスのコーチ」や「自動車学校の教官」よりも、よりアカデミックで高級な職業、営みである、ように考えたがる英語教師、英語教育学者(?)は、いかがなものでしょうかね。八百屋や魚屋と同列に英語屋としておかれるのがどうしてそんなにイヤなんだろう。

法律や指導要領の抽象的な文言をこねくりまわすのは役人と学者の仕事。教員の仕事は目の前の生徒にとってもっとも必要なことを教えること。それが現場人の良心です。

我々の仕事は、practical business なのです。理屈をこねてないで世の中の役に立とうよ。

教育の総論と各論

よく「教育の目的は人格形成云々」ということを言い出す人がいるけど、それは総論であって、各論が必要ないという意味ではないでしょ。

世界史の年号も、化学式も、数学の公式も、体育の跳び箱も、英語の分詞構文も(そして発音も)、それぞれ、それ自体を理解して覚えることが望ましい必要な知識・技能だ(と考えられる)から学校でやっているのであって、それぞれがすぐ、直接、「人格形成」に関わる営みだからやっている、とするには無理がある。

社会も理科も国語も体育も書道も英語も、それぞれ別の分野の「各論」をうけもつことによって、全体として人間の「知、徳、体」を高めようとしているのであって、それぞれの分野が「各論」をないがしろにして一足飛びに直接「総論」の達成を求め出してはおかしい。

だから、英語力アップのために必ずしもベストではない、もしかすると弊害もかなり大きい、とわかっているのに、「思考力」に資するだろうから、と抽象的な英文を和訳だか翻訳(注:「和訳」と「翻訳」が違う、とかいうレベルのpedanticな話で現場の人間(英語教師=教育の実務家)の足をひっぱるのはやめてほしいなあ)だかさせて喜んでいるのもおかしい。

『心技体」にも書いたが、数学の先生が、定理の証明や微分積分をきちんと教えず、「人間としてのゆたかさ」云々を言い出すのはおかしい。物理の先生が力学の法則を中途半端にして「生徒の人間形成」を語るのはおかしい。それとまったくおなじ。英語の先生が「英語」自体をきちんと教えず、「生きる力」「人格形成」を論じるのは、自分の仕事をはき違えている。

学校の教師の本分

数学の授業、英語の授業で人格形成をしてもらおうとは誰も期待していない。期待されていると思うのは大きな勘違いです。それはあくまでボーナスであって、あるに超したことはないが、まずちゃんと数学を、英語を教えてよ!!というのが保護者の気持ちです。当たり前の話でしょ。(授業を成立させるために必要な生徒指導、というレベルの「人格形成」は期待されています。念のため。)

もちろん分野は何であっても情熱をもって教育にあたる教師から生徒がその分野以外で人間形成の上で薫陶を受けることは多いはずです。そうあってほしいと思います。が、それはあくまで incidental learning なのであって、それを教師の側が意図しだしたら、嫌らしいし、道を誤ると思います。


I was not proposing that Mr Akashi or Dr Koshiba should try to improve their English pronunciation themselves now.  No, I was not.   But IF I had been their English teacher when they were students, I would have surely made them better speakers of English, which no doubt would have made them even greater assets to the world.

9/11/2010

限定的? んなこたない。

『英語教育』の増刊号で、柳瀬陽介氏が『心技体』の書評を書いているのだが、中に、

「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度は大局を見失う恐れもある」

とある。

英語教育は英語を教えてこそで、それができていなければ他の何ができても意味がない、という私の主張あたりを指しているのかもしれない。

しかし別に限定的じゃないでしょ。英語以外を「教えてはいかん」と言っている覚えはないから。

そうでなくて、「他の何かを教えるのは、英語をきちんと教えられている人間だけがやれ」と言っているだけ。

「生きる力」でも「国際理解」でも「人権教育」も「国際平和」でも「異文化理解」でも「言語というものに対する理解」でも何でもいいけど、そんなものはスキルとしての英語をきちんと学習して、その上で余力があったら場合にのみやってもいい、というレベルの話。

そうでなく、そのコアの部分を適当にしながら、上の「 」に入れたほうのことばかり騒いでいる連中が多く、それが本末転倒だ、と言っているだけです。

全然、「過度」じゃないです。

八百屋はまず新鮮でおいしい野菜を消費者に供給することによって、地域に貢献するのが、その本分です。

魚屋はおいしい魚を売るのが第一(あるいは唯一)の仕事です。

それができた上で、プラスアルファで地域のなんとかサークルを立ち上げたり、商店会のイベントをやったりすればいいけど、そっちばっかりやっても、肝心の野菜や魚がいまいちの品質だったら、八百屋として、魚屋としては、失格。

それと同じ。

英語教師は英語を教えるのが仕事です。単純な話です。

別に世の中全員(←英語教師を指す)が、「英語とは何か? 言語の本質とは何か? 英語をやる意味は何なのか?」 といった理屈をこねる哲学者になる必要はないし、そんなことは望ましくもない。

発音教えて、単語教えて、文法教える。そういう「低レベル?」の「語学屋」「職人」としての仕事に誇りをもとうよ。少なくとも私は持っています。

別に言語学者になったり哲学者になったりする必要はないよ。

また柳瀬さんは、実務家は、英語は「外国人にしてはうまいな」と思われるぐらいがちょうどよい、と述べている。

それはその通りでしょう。

だが問題は、「発音に関して」どのくらいが「外国人にしてはうまいな」と思われるのか、という点だ。「発音に関して」明石氏が「外国人にしてはうまい」と思う人が多いとは思えない。ちなみに緒方氏は間違いなくうまい。

それから、「大局を見失う」件だが、私のとっての「大局」は、なりふりかまわず努力する韓国にますます水をあけられ、相対的に国民の英語力が世界のなかでますます落ちこぼれていき、ますます国際競争力が落ちてゆく日本、という構図だ。先日、ある方から次の事実を知らされて、ショックを受けた:

【プレジデント・6月11日記事】
サムスンの2009年12月期の売上高は、10兆9000億円、本業の儲けを示す営業利益は8736億円。
一方、ソニー、パナソニック、日立製作所や東芝、シャープなど、電機大手9社の営業利益の合計は、
6400億円(10年3月期見通し)。日本の電機大手が束になっても、サムスン1社の営業利益に届かないのである。

理屈をこねていないで、英語のスキルを上げた方が身のためだと思うよ、日本は。

I am not at all being too restrictive about what an EFL teacher should and should not do.  I am just stating the truism that an English teacher's top priority is to develop his/her students' English proficiency and  that if that is not happening, whatever else happening is meaningless.

9/06/2010

もっと文字をきちんと指導せよ

最近、多くの小学校の先生がたに英単語を発音してもらう、という機会を得た。なかで印象に残ったことのひとつに、

delicious

を見て、

ディファレント とか、 ディフィカルト

と読む方が結構いた、

ということである。もちろん、普段、英単語を見ていないので慣れておらず、緊張して読み間違ったのだとか、もしかすると視力的に細かい文字が読めなかったのかもしれない、とか、その前の文脈に実際に different  があったので、それに引きずられた、とかの解釈は可能である。そして、それらはいずれも一理あるとは思う。

しかしここでは最初の文字 d しか共有してない、delicious と difficult あるいは differentを見誤る、というエラーがあったという点に関してこだわってみたい。

これは、その先生方が中学生、高校生だったころにも、ひとつひとつの文字がどういう音に対応していて、どうして different というスペリングで ディファレントという音になり、どうして、delicious というスペリングで、デリシャスという音になるか、というのを、実はいちどもきちんと教師から教えてもらわなかったせいではないか、と思う。

いぜん、「フラッシュカードやめろ」のポストの中でも書いたが、日本の英語教育だと、単語全体を見せて、全体として、「~」という発音の単語だ、という乱暴な教え方しかしていない場合がほとんどのように思う。

だから、大学生になっても、新しい語は辞書をいちいち引かないと読めないと思っている学生が珍しくない。

それどころか、英語教師の中にも、いまだに文字と音がきちんと対応していない者が珍しくない。

たとえば、 textbook という語は、クラスルームイングリッシュにも頻出なのだが、これを、

テ「キ」ストbook

という発音をする人が結構いる。つまり、

text ... もしくは、 tekst ....

でなく、

teKIst.. (te-kissed)

という綴りに対応する発音をする、ということだ。

これなど、

te は テ で、 x は、ks で、 t は tだ、

という意識がない証拠である。

ようするに、textbook 全体で、カタカナ語の「テキストブック」と読むのだ、というレベルの意識だ。そいう意識の教師から、まともに文字が読める生徒が育つはずもない。

とくべつに「フォニックス」などというコーナーも設けるまでもなく、普段の授業中から、単語の一部の綴りだけを読ませてみたり、最初から読み方を教えずに、規則的な綴りの部分は、自力で読み方を当てさせてみたり、ということを繰り返して、はやいうちに、自分で英語の綴りがある程度読める生徒を育てるべきである。

You should pay more attention to the letter-sound correspondence when introducing new words.  In many cases, Japanese learners develop only a vague notion about how a certain word as a whole is pronounced as a whole, without being conscious of what sound each letter or sequence of letters represents.  As such they will never learn how to read a new word.

8/29/2010

バセバジュウイチ

英語科指導法をとっている学生から、中学生の妹が習ってる英語教師について聞いた話。スペリングをローマ字で覚えるように指導しているという。

は? たとえば?

baseball は バセバ11

なんじゃそれ? 意味わからんね。

確かに、Wednesday を ウェドゥネスデー とか言って覚えたことはある。それは、Wednesday のスペリングと音の関係が不規則だからである。baseball は、100% フォニックスの規則に合っているのだから、バセバ11はいただけない。

以前書いた、bとdの混同を過度に気にする教員と同じように、一般に日本の英語教師は、「発音はどぅであっても、結果としてのスペリングが合っているか間違っているか」ばかりを気にしすぎているように思う。

だから、こういうローマ字語呂合わせ的なスペリング記憶指導が出るのだ。

発想を変えて、まずきちんと発音を押さえ、その発音を表す(あるいは表し得る)英語のスペリングにはどういうものがあるか、をまともに授業で取り上げたらどうか。

Avril Lavigne に、Sk8er Boi というタイトルの曲があるのだが、もちろん

Skater Boy をもじったつづりである。 こういう、

Skate = Sk+eight

ater = eight + er

のような感覚を、正規の授業でもっともっと取り上げればよいと思うのである。

「でも、そうすると本当のスペリングがどれか、混同するから...」

という発想する人は、バイバイ。以降は読まなくていいです。

「混同」してもいいんだよ。たまたま「現実の」スペリングがどれなのかを「くそ暗記」するより、英語のスペリングの規則を「覚える」ほうが、ずっと応用範囲が広いし、価値がある。

ある、音に対してルールに則ったスペリングに得点を与えるテスト、というのもあっていいでしょう。

さらに進めると、日本語の音をもし仮に英語スペリングで表したらどうなるか、という話にもなる。たとえば、桃太郎の出だしあたり、


「どんぶらこ どんぶらこ と 拾われた 桃から生まれた桃太郎」

を、たとえば、

Don't black coat, don't black coat, oh, hero wallet tar

Momma color womb her let her Momma tarot oh!

というスペリングにすれば、英語ネイティブが発音すると原語の日本語音に近くなる、

というような話を正規の授業でやってみるのだ。

たとえば、

http://www2.research.att.com/~ttsweb/tts/demo.php

に、上のテキストを貼り付けて、音を聞いてみてください。

ちなみに、この「桃太郎」は鬼退治するまでのお話全体を、ジャパンライムから発売している、英語発音の達人ワークアウト: English あいうえお (DVD)

http://www.japanlaim.co.jp/fs/jplm/c/486

に ちゃんと収録しているから、興味のある人は是非、みてくださいな。


An English teacher who teaches her students to memorize the spelling of "baseball" by chanting bah-seh-bah-jew-eechie is doing them considerable disservice.  Such a practice is evidence that the teacher is only interested in making students to get the spelling, as a series of orthographical symbols, right, ignoring whether or not they get the pronunciation right.

8/24/2010

英語は「学力」ではない

英語力が、「学力」のくくりで語られるのを聞いて、なにか違和感を覚えた。

「学力」という用語からは、要するにペーパーテストおよびその点数、およびそれを偏差値化したもの、などのイメージしか浮かんで来ない。

英語の運用力、実技、スキル、使える、スピーキング、ライティング、といったイメージは浮かんでこない。

はなせてナンボ、かけてナンボ、というイメージをもたないと。

Using the term "academic achievement" when talking about English sounds at least to me off the mark.  That, I believe, reflects a mindset that considers English as just another school subject, as opposed to a language to be used in the real world.

8/22/2010

英語教師は英語で発表しろ

今日、関東甲信越英語教育学会で発表してきました。

CNNのファイルの書き取りをさせるとき、わからなかったら空欄にするのでなく、

If you do アカリオ エナリ...

のように、カタカナで書かせておいて、あとで、正解の

If you do a cardio and not eat, ...

と照らしあわせると、いろいろ気づくことがあるよ~

という内容です。

それはともかく、自分以外に英語で発表する人がほとんどいないのが気になりました

前から言っているように、日本の英語教育のレベルが低いことの原因であり、かつ結果であるのは、「英語教師が英語が使えない」ことです。そしてそのひとつの現れが、学会や、研修会で、英語教員が英語教員を対象にして英語教育に関して発表したり、討論したりする時に、ほとんど、日本語を使って行う、ということです。

「どうやって、生徒に英語をつかって積極的にコミュニケーションをさせようか」というテーマを、英語教師が日本語でコミュニケーションするのが当たり前、というほとんんど冗談のような状況です。

自分がつかわねえものを、生徒がつかうわけねえだろうが。

話し手も聞き手も日本人なのだから、日本語でもいいのでは、と言う人が多いのですが、問題は、じゃあ聴衆に英語ネイティブがいれば、即、英語に切り替えて、同じように自由に討論や発表できるのか、と問われて、YESと言えない教員がほとんどだ、ということです。

つまり、「英語でやる必然性がないから」というのは、実は言い訳で、本音は、「英語でやる自信がないし、無理にやってみると、お互い話が深まらないから」日本語でやる、のです。

何度も言っているように、教員の英語運用力は、直接、どういう授業テクニックを利用できるか、と決定します。EIYOWはいいな、と思っても、自由にパラフレーズできる自信がなければ、そんな教授法は、使えません。

つまり、まず「体」なのです。

だから、自分の日頃やっている仕事である英語教育についてのことを、リラックスして正しい英語で話せる力がないならば、生徒を惹きつける活動について悠長に日本語で話し合っているヒマがあったら、自分のスピーキングをなんとかする努力をすべきなのです。

その格好の場は、授業であり、英語教員同士での研修や発表なのです。

我々、non-native English teachers は、

日本語より、格段に、英語で話すのがおっくうで、労力がかかって、リラックスできない

からこそ、あらゆる機会をとらえて、英語で話すことによって、自分をimprove する職業的義務があるのです。

英語のほうが苦手だから、その英語を教えてカネをもらうプロとしては、最低限の運用力をつけようするために英語で話す義務があるのです

その意味で、英語教育の学会で、英語での発表が norm になる日がくるまでは、日本の英語のレベルは世界ではもちろん、アジアでも最低のままでしょう。 韓国にももうかなり水をあけられつつあるようです。

私個人は、講演やワークショップで呼ばれると、英語教師がオーディエンスである限りは、主催者の意向は一切無視して、原則として英語で通す、という実践を少なくとも15年以上は続けています。

大きな会場の講演後の質疑応答で、なまりのきついALTに質問されて、わからず、四苦八苦して恥もかいたこともあります。

参照 → https://sites.google.com/site/zukeshomepage/publications/practical-papers/064-gentei

しかし、だから、次からは英語でやるのはやめよう、とは思いませんでした。そう思っては進歩がないからです。

言いたいことが言えない、というフラストレーションを感じるからこそ、やるのです。そのフラストレーションがあるからこそ、辞書をしらべ、次の機会にはすらすらその表現を使おう、と思うのです。フラストレーションを感じたくないから、日本語の世界にとどまって、お互いに、低いレベルで慰め合っていては、進歩はありません。

だから、すくなくとも、私の授業を受けた学生には、将来教師になったら、研修や発表は、相手が英語教師であるかぎり、腕ずくで阻止されない限り、何が何でも英語でやる、自分もそれをメシの種にしているプロだし、相手もそうだから、という強い気持ちを持って欲しい、と願っています。

英語を喋るのに苦手意識があるままで、英語教師をつづけるような人間にはなって欲しくないからです。


I strongly believe that not until Japanese English teachers begin to make presentations in English, not in Japanese, at conferences or meetings where the audience is their colleagues will the average English proficiency of Japanese people stop being the lowest in the world.   The level of your command of English severely limits the range of teaching techniques you can use in your classroom.   When you cannot use English comfortably, how can you put paraphrasing activities at the core of your class?   As someone who is poorer at a language that he or she is being paid to teach, you have a professional obligation to use that second language whenever and wherever possible to improve your proficiency.