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11/21/2016

人間の音声の生の力

10月末から11月にかけて6日間ほど、ドイツで行われた The English Week という催しに参加してきました。これは、Waldorf Schools 別名シュタイナー学校で教える英語教師が集まって合宿し、プロの詩人、役者、ストーリーテラー、道化師、音楽家、そして教師が行うさまざまなワークショップを受ける、というものです。

Waldorf では、芸術的要素というものを、英語教育のなかで非常に重視しています。

私は歌のクラスと、clowning のクラスと、小学生を教えるライムや詩のクラスに参加しました。あまりに内容が濃すぎてまたバラエティに富んでおり、いちどにレポートは不可能ですが、少しずつ書いてみたいと思います。

期間中を通じて強く印象に残ったことのひとつは、プログラムの内容もさることながら、マイクが一度も使用されなかった、ということです。参加者は100余名なのでそこそこの集団なのですが、ホールで行われた全体の講演でも、スピーカーのだれもがみな、肉声でした。

そしてその肉声が、ひとりひとり、すばらしいのです。なんといっても舞台芸術の分野のプロばかりなので、その発声、声質、緩急のつけかた、間の取り方など、こちらがおもわず息を殺して聞き入ってしまうような人たちばかり。

これはたまたまではなく、Waldorf Schools では、自分の口から出た音声を、相手の耳に、さらに心にいかに効果的に届けるかという部分を重視していることと関係しているとのことでした。

自分も大学に移ってからマイクが手放せなくなってしまっていますが、言われてみれば、直接の声と、マイクというデジタル処理を通した声では、伝わるものが違うということは感じられます。

仮にも「ことば」を教える者として、人間の音声、human speech というものの本質、原点をremind されたような気持になる体験でした。


11/19/2016

今日の語研の公開授業での不満なところ

1 教師の英語音声がプロソディ面でいまひとつ、1語1語で話しているブツギリイングリッシュで、とつとつとした印象があり、モデルとしてイマイチ。

2 それもそうだし、自分の英語の細部までクリアに聞かせよう、という意識が感じられないし、たぶんない。

3 偏差値72の高校ということで最高レベルの生徒なのだろうが、それにしては教科書のレベルがかなり基礎的。それならばあれだけの1レッスンに5時間も6時間もかけず、1時間で一気に読んだほうが感動がひろがるのでは。

4 テキストは emotional なナラティブ。単なる音読を超えた、朗読、oral interpretation をするにふさわしい題材だが、授業者は、たとえば、地球温暖化にかんする説明文を読んでいるのと同じような、ボー読み。間の工夫もないし、地の文と、セリフを、音声だけで区別できるよう読み分けよう、という意識はそもそもなさそう。もったいない。

5 ああいうストーリーなら、機械的にすべてを音読するのではなく、セリフだけを抜き出して、いきいきと act out する、というような工夫が欲しい。ああいうセリフこそ、うまく、感情を込めて音声化する練習をする価値がある。生徒が聞いているだけで、心を動かされるような、「読み聞かせ」をしてほしい。

6 生徒はそこそこ、あるいはかなり、話す。が、そこそこ、かなり、という程度どまり。それをさらに、非常に、うまく、というレベルにもってゆくには、もっとプロソディをどうしたらいいか、チャンクとチャンクのまとまりをどうしたらよいか、文法や表現をどうしたらよいか、という教師からのアドバイスが不可欠だが、そういうアドバイスはほぼゼロ。
 たとえば、生徒が、If Mike weren't killed in Vietnam, ... という、仮定法過去完了をつかうべきところ過去形をつかった時は、「そう、ナイストライだけど、そこでこそ、文法の授業でやった仮定法過去完了の使い所で、正しくは If Mike had not been killed in Vietnam, ... と言えたらよかったね、さあ言ってみよう」というようなフィードバックをする絶好のチャンスだった。(明示的訂正はよくない教の信者であっても、せめてリキャストくらいせよ。)
 しかしあくまで意味のやりとりに終始していたため、せっかくああやって英語教師の前で英語を話してみた生徒は、一般人の前で話したのかのごとく、意味のやりとりをしただけで、かんじんの形式にはいっさいの指導を受けられずに授業を終了した。
 だから、この1時間の授業を受けたことによって、before / after の向上があったか、というとほぼゼロ。授業開始時の実力が、授業終了時の実力とイコール。たんに、自分の英語を話してみる機会があった、というだけの、場数を踏んだ回数が1回増えた、というだけ。

7 last but not least, 「解説者」(学生向けの部屋ではないです。教員向けの部屋のです。学生向けの解説は必要です。私が聞いていた部屋の学生向け解説は丁寧で、かつバランスがとれており、見習いたいと思いました。)の「解説」が鬱陶しい 。そもそも語研の公開授業とは、会員に対して100%の示範するための授業なのか、それとも、こうベストをつくしてみましたがどうでしょうか、もっとよくするにはどうしたら良いでしょうか、と問いかけるための授業なのかどっち。いずれにしてもひとつ高い立場で横に座っているならば、この授業にはこういういい点はあるが、こういう点が足らないからもっと頑張るべきだ、という「指導」をするのが仕事ではないのか。自分の子分?に飛んでくる矢を払ってやる、あるいは飛んでこないために予防をする露払いのような庇護者なのか。
 そもそもなんでプログラムの公開授業のところで、司会・解説者の名前が、授業者より上にあるのだろうか。保護者か。
 来年からは、teacher talk ならぬ 解説者トークを大幅に縮小して、そのぶん、フロアと授業者本人の実質的な議論を深めることを、一会員として希望する。