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8/31/2019

ディニングバー

フォニックス的なことをちゃんと中学高校で教えないからこういうことになっちゃうんだね。


8/28/2019

なぜ イビス?

Ibis Osaka Umeda Hotel というホテルに今日まで泊まっていた。ネットにはイビス大阪梅田と出ている。


イビス?って妙な名前だし、響きも悪いし言いにくいなぁ、と思いつつチェックインしてみると世界的なホテルチェーンらしく、客も従業員も日本人はたぶん半分以下で、テレビモニターをオンにするとデフォルト画面は英語による自分のところのホテルPRであった。(あとで検索してみるとヨーロッパを中心に6大陸に 1152のIbis Hotelがある、とのこと)。

でその録画ナレーションを聞きながらあれっと思ったら、やっぱり英語の発音は イビス じゃなくて アイビス である。

そりゃそうだろ。Ibis というスペリングで イビスと読みたくなるのは日本人くらいで、どう考えても  アイビスだ。

で、勝手に想像したのが Ibis hotelが日本にチェーン展開しようと思ったときに、日本語での正式名称を本来の原音の「アイビス」にするかローマ字読みも「イビス」にするか迷った末、なぜか「イビス」を選択したのだろうかな、ということである。

よけいなお世話だが、語感としても「アイビス」のほうが良かったのではないだろうか。いまどき  iPad と書いて イパッドと読む人はいないのだから。


追記:と思ってチェックアウト時に対応してくれた女性(白人)にこの件聞いてみたところ「う〜ん、ドイツでもイビスみたいに言うかもしれないですね。(発祥の地の)フランスでの発音についてはちょっとわかりません。。。」とのことだった。ちなみに彼女はドイツ出身であると。というわけで上に書いたことはあくまで英語での感覚に過ぎない、ということが判明。

8/25/2019

英語の歌を歌わせることの害はある?

LETのセミナーでグルグルと歌の指導法について話したあと、ある小学校の先生から質問を受けて気になっていたことがあるので書いておく。

なんでもその方は英語の歌を取り入れている(取り入れたい?)のだが、何かのセミナー?で指導的な立場にある人(詳細不明)に、「歌は弊害があるからやめたほういい」と言われたのですが、本当にそうなんでしょうか?という質問だった。

「弊害ってどういう?」

「歌だと、歌詞が1音節の単語なのに、2つ以上の音符を当てて伸ばすことがあり、そういう練習をすると不自然な癖がつくから、って言われたんです。」

は?なんでそういうくだらないことを言うかな。たしかに主にバラードでそういうケースがないことはが、それはごく例外的だし、それがあったとしても、そんなものが普通のスピーキングに転移するわけがないだろうが。

カラオケで日本語の歌を、ビブラートかけたりしゃくりとかこぶしで音程を上下させていると、日常会話でもそういう癖が出ますか?

そういうことはありませんから安心して歌を使ってください、とお答えしたら「私もそう思ったんですが。ありがとうございました。」ということでした。

グランフロント大阪・北館 B1F 世界のビール博物館。
昨夜の関大ゼミ同窓会の会場。

今朝の中之島公園のバラ園。中央公会堂が見えます。

8/23/2019

平和が一番

去年とウッテカワッて今年の大阪は平和だ。。。

朝は中之島公園まで走り


午前中はホテルにこもって『○○の教科書』シリーズ第2弾の執筆。昼に関大前について鉄板の大学亭。おばちゃんまだまだ going strong. ずっとやっていて欲しい。




講義には何年かぶりのOGが来て、シンコペーションについて焼き鳥メソッドで説明してくれた。これで3日目が終了。

その後は、懐かしの「大学院生に殴られた後に土下座させた事件」が発生した現場であるボルカノあらためマルベラでマスターに挨拶し

古巣の茨木まで足を伸ばしてグレープスで、そよ風の誘惑に身を任せた。



8/22/2019

「靜さんだからできる」

先般のKATEでのプレゼンに関してJASELEで言われたことで、嬉しいような、嬉しくないような、と思ったこと。

「あのビデオ見て改めて思いましたけど、やっぱり靜さんだからできる、ってのはありますね」

こう言ったのは数十年来の知人/仲間です。

まあね、一般化できようができまいが、汎用性があろうがなかろうだどうでもいいから、俺は自分がいいと思ったことをやるのだ、という意味をこめて「靜流英語授業道」を名乗ったわけなので、他の人が「自分にはできない」と思ってもそれは織り込み済みです。

そして多くの人が「自分にはできない」と思うようなことが私はできているということは、個人としては嬉しいことです。それは他の人にはできないことを成しているということであって、世の中に対して余人をもって代えがたい唯一無二の貢献をしていることになるからです。

しかし「靜さんだからできる/靜さんにしかできない」というのは当たっていません。私のような心・技・体があればできるからです。現に私が過去20年にわたって関西大学、埼玉大学、そして大東文化大学で心・技・体を注入した学生たちは、数多く、現場で奮闘し、それぞれのやりかたで自分の生徒を幸せにするために闘っているはずです。

8/21/2019

グルグルって「圧迫面接」?!

先日のJASELE期間中に言われた、どちらかというと嬉しかったこと。

グルグル=圧迫面接 説。

その先生が私のグルグルをジャパンライムのビデオで見て思ったのが、「なんだ、これって圧迫面接じゃん」だったそうな。

たしかにね。うまいこと言うな。その被圧迫状態のなかで出てくるパフォーマンスが実力なので、プレッシャーをかけることでその生徒の「真の」実力をあぶり出しているのである。そういうつもりでやってます、たしかに。

そして圧迫を受けた状態でも満足なパフォーマンスができるようにトレーニングを積むのが大切なのである。

ジャパンレールパスは乗りません

最近、新宿駅とか新幹線でも、お手製の英語アナウンスが増えている。お手製のというのは、明らかに普通に日本で英語教育を受けた人が、自分で頑張って英語でアナウンスしている、という意味である。微笑ましいような、もうすこしなんとかしてほしいような気持ちになることも多い。

さきほどから何度となくこののぞみ社内でアナウンスされるのが、

Japan Rail Pass cannot take this train.

パスは人間じゃないから列車に乗らないわな。

また、たぶん同じ意味で言っているのだろう。

Japan Rail Pass is not available on this train.

そりゃ販売もしてないだろう。

どうしたらいいですかね。

You cannot take this train with a Japan Rail Pass. とか
A Japan Rail Pass is not valid for this train. かな。

こういうのは社内チェックとか社内の協力体勢とかはないのかな。

8/19/2019

グルグルは「悪即斬」などではない

先般のシンポジウムで、私に対して「靜先生のような『悪即斬』. . .」に類した表現を使った質問があった。私は「悪即斬」という熟語は初耳だったでの少し戸惑ったのだが、「悪は即、斬る」という説明をうけてとりあえず納得して、その場で聞かれたことに答えたはずである。

が、今になってみると、グルグルにせよコーラス音読にせよ、生徒の発音不備に気づいたらすぐに指摘しなければ効果がない、という私の提言を、「悪即斬」という(あとから検索してみると映画の主人公のセリフだというが)表現でとらえるのは、なにか違うと思うので、書いておく。

道徳的な「悪」人は直ちに「斬って」殺すべきだ、というニュアンスと、誤った/不十分な/不明瞭な発音・文法表現・語彙は、直ちに指摘し、向上のためのアドバイスをすべきだ、というニュアンスはまったく違う。

それではダメだというフィードバックを negative feedback、その調子でやれよというフィードバックを positive feedbackということがあるが、positive と negativeという反対語を用いるのはミスリーディングだと思う。どちらのフィードバックも、学習者のパフォーマンスをもっていきたい方向、近づけたい方向は一緒であり、同じベクトルを向いているからだ。

私は目の前の学習者のパフォーマンスを良くするために、悪い点を指摘し、こうあるべきだというモデルを示す。そのフィードバックで改善した学習者は、よりよい英語ユーザーになってゆく。悪即斬で、悪人を斬り殺せば、その悪人は死に、世の中からいなくなる。そのふたつは全然ちがう。

そういう捉え方をしていること自体がダメなような気がしてきた。

8/17/2019

Wh疑問文についての発表終えました。

昨日とは打って変わってカンカン照りの弘前。



夜は青森・秋田ゆかりの大東卒業生たちと、青森と秋田の酒を利き酒。


大学院生3人+ 新婚ホヤホヤの若手教員一人。

授業研究後は、血みどろがいいでしょう。

授業研究後の検討会のあり方、という学会フォーラムを聞いた。

偉い人が最初にコメントすると後から(偉くない人が)それに外れたことは言いづらくなる、とか、みんな来たときよりもハッピー(er)で帰れるのがよい検討会だ、などの意見が開陳されていた。

面白い試みで会場からリアルタイムでGoogle Formに回答を送り、それがスクリーンに表示される、という設定であった。どういう授業検討が理想だと思いますか?という問があったので、私が送信したのが以下:

「血みどろで終わる、真剣による斬り合い」

もちろん傷を負わせ合うのが目的ではなく、お互いの後ろにいる数百人の生徒のためなので、メンツやら忖度やらはなしで、「偉い」人も、偉くないペーペーも、自分の信ずることをぶつけ合って真剣勝負をするべきだ。真剣勝負なので、勝ち負けはあり、血が流れる。

それは仕方ない。本当に死ぬわけではないので。そのくらいの痛みは給料のうち。


8/14/2019

ライオンキングのハクナ・マタタ

Lion King 観ました。どうやって撮ったの?と思うくらい見事に動物たちがリアルに動くので、Mufasaが崖から転落するシーンなど、撮影時に本物のライオンに残酷なことをしたのでなければいいけど、とキャット・オーナーとしては思うくらいでした。検索してみるとフルCGということでした。すごい世の中になったものです。

心配ないよ、という意味の Hakuna Matata (スワヒリ語だそうですね)が初めて出るシーンでハッとたのですが、Matataの2音節目のtは帯気音で、3音節目ははじき音で発音されるのですね。

ター

って感じ。

音節の強弱パターンで考えてみればそうなるはずですが、そんな(英語母語話者にとっては)無意味語にも北米英語音声のルールが自動的に適用されるのだなぁ、と妙に感心してしまいました。

8/11/2019

評価の「枠組み」での技能の矮小化を憂える

昨日のシンポジウムで、フロアからの質問 のなかに、「評価のなかで『技能』はどの程度重要ですか?」といった趣旨のものがあり、 私は

  • 技能だけを教えるのがいいと思います。
  • 英語の授業では英語だけを教えるのがいいと思います。
  • 文法と発音と語彙だけを教えるのがいいと思います。
  • いわゆる grammatial competenceだけを教えるのがいいと思います。文科省の学力観は『技能』を矮小化していて困ったものだと思っています

と答えた。

が考えてみるとこの件についてはすでに

新「学力の3要素」は思考力の低さの証拠か?


で、言いたいことを書いていた。是非、お読みください。

8/10/2019

KATEシンポジウム終わりました

予想通り、同じ英語教員が同じテーマについて考えること・言いたいことのベクトルがこれほど違ってしまうのはなぜなのか . . . と考えさせられる機会となりました。



私の最後のスライドはこれ:



KATEで小山内滉君と共同で発表

横浜国立大学にて、淡路科研のデータの分析の一部を発表。

あの喧騒のなかで何が起こっているのか?
―図表および数値による「グルグル」発音指導見える化の試み―

靜哲人(大東文化大学)・小山内滉(大東文化大学大学院生
キーワード:発音指導,グルグル,見える化

グルグル発音指導とは文レベルの個別発音チェックを連続的かつ反復的に行う手法であるが、喧騒を生むため第三者には実態がつかみにくい。そこで今回、「グルグル」の姿を図表や数値で「見える化」ができないかを探った。言語教育EXPO2017でのワークショップとして、24名の小学校教員を2グループに分けて靜を含む二人の講師がグルグルで指導し、それを教師目線のウェアラブルカメラで録画した計72分間の映像をサンプルデータとし、その映像情報を紙上で要約再現する方法を模索した。教師がひとりの学習者の前に立った瞬間から次の学習者に移る瞬間までの一区切りを「グルグル・エンカウンター」とし、その区切り毎に時間、学習者、目標文、教師のフィードバック内容が分かる形で書き起こした。また、教師のフィードバックはカテゴリーを立てて分類した。結果として5種類の図表とひとつの数値指標を創出し、これらがグルグルの描写に役立つであろうという感触を得た。



セバス小林先生からプレゼント戴きました!

先日、LETの日、セバスこと小林翔先生が、ご著書『生徒のやる気を引き出すモチベーション・マネジメント 50』(明示図書)が重版になった(おめでとうございます!)ということで、わざわざ持ってきてくれました。

私の2冊めの著書『英語授業の大技・小技』(研究社)は恩師の若林俊輔先生に差し上げることができたが、3冊めの『英語テスト作成の達人マニュアル』(大修館)は残念ながら間に合わなかった、というエピソードをを覚えていて、それにからめて私が生きているうちに(笑)渡したかった、ということです。


中野で最近お気に入りの Logicで会食。


プラスアルファで、私そっくりだ、というマグカップをプレゼントしてくれました。確かに似ているな。



研究室でポトスを水栽培するのに使わせていただきます。






8/03/2019

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」を支持します。

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」に対して、名古屋市長が抗議をし、官房長官は補助金交付の是非に言及するなど、大きな騒ぎになっている。

一番大きな問題になっているのはいわゆる「慰安婦像」によく似た「平和の少女像」の展示だ。

電話やメールでの抗議があまりにもひどいということで、ついに実行委員会・芸術監督の津田大介氏が声明で「展示の変更も含めた何らかの対処を行う」可能性について示唆した。(https://aichitriennale.jp/news/2019/004011.html)
●今後について
この企画が報道された7月31日(水)から連日、事務局への電話が殺到しております。その中には、テロ予告や脅迫とも取れるようなものや、また電話に応対しただけの職員個人を攻撃するものも多く含まれています。また、事務局への電話は夜間にもなされ、その数は増え続けています。この状態が続き、来場者及び職員の安全が危ぶまれる状況が改善されないようであれば、展示の変更も含め何らかの対処を行うことを考えています。ただし、日本が、自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっていることをそうやって内外に示すことの意味を、よくお考えいただき、自制的に振る舞っていただくことを期待しております。(津田氏の声明の最後部分)
私の見た批判のなかでは「公的な博物館」で「公的資金」を利用してこのような展示をするのは許されない、という論旨のものが多い。官房長官が補助金交付について言及したのも同じ趣旨である。公金とはつまり税金ということであり、このような展示に国民から徴収した血税を使うのは許されない、という主張である。このことについて異見を述べる。

税金は国民が納めたものであり、国民の希望・要求・必要にそって適正に使われるべきである。

しかし、というべきか、そして、というべきか「国民」の希望とは決して一枚岩ではない。ソウルの日本大使館前の慰安婦像を撤去するべきだと思う日本国民もいれば、戦争犯罪のシンボルとして、女性に対する組織的歴史的犯罪があったことを忘れないためのモニュメントとして永遠に設置しておくべきだと考える日本国民だっている。

一般日本国民が戦争犯罪の「被害者」であったことが明確でわかりやすいヒロシマ・ナガサキはかならず毎年その時期になれば大きくとりあげられるが、日本人が「加害者」であったとされる、たとえば関東大震災時の朝鮮人大虐殺や、いわゆる南京虐殺や、旧日本軍の従軍慰安婦については年々、公的に話題にしたり、公的に展示をするのが難しくなっている傾向を憂える日本国民だっている。

朝鮮学校に対する補助金打切りに快哉を叫ぶ日本人もいるが、同じ日本という国に生まれ育った子どもたちに対する許しがたい差別だと憤る日本人だっている。

当たり前だが、決して全国民が現政権の見解を支持しているわけではなく、さまざまな意見があるのである。そしてそのさまざまな意見を持っているのは、きちんと税金を納めているれっきとした日本国民である。

国は、成熟した民主主義国家の誇りを持って、国民の考えの多様性を適切に認識し、受け止め、その多様性にもとづく多様な方向の助成を、税金を原資として、いわば「広い、成熟した、大人の心」で実施してもらいたい。

すくなくとも私個人が納めている税金は、まわりまわって、たとえば「平和の少女像」の展示や、「従軍慰安婦」の写真や資料の展示や、朝鮮学校に対する補助金に充当されるならば、納めた甲斐があった、と思う。

津田氏の言葉にもある「日本が、自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっている」ことを深く危惧するものである。