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1/30/2018

第2回教職関係教員&学生親睦スキー・スノボ大会敢行!

昨年の第1回からほぼ1年。今年も教職メンバー有志でGala湯沢に行ってきました。

天候は午前中こそ雪が降ってはいたものの昨年のように吹雪くことはなく、午後の最後の方ではうっすら晴れ間も見えるというまずまずのコンディション。


3年生・4年生あわせて10名を超える参加者になるはずが、先日の大雪の日に全学休講になった余波をうけて、3年生がこれなくなってしまったため、我々教員と4年生だけの、当初の予定よりややこじんまりとしたイベントとなりました。


しかし4年生オンリーになったぶん、行き帰りの車内では、これまでの大東での日々を振り返るような話題も自然と多くなり、じんわりと暖かい、ちょっぴりセンチメンタルな気分に(すくなくとも私は)なりました。


間近に迫った彼らの人生の門出に祝福のエールを贈るとともに、この親睦イベントが今後も続いてゆくことを願います。


フォームチェック用に淡路先生に撮影していただいた私の滑降映像。ん。。ちょっと後傾になっているところがあるな。



迷わず地獄へ落ちるがよい!

というのは松平長七郎の決め台詞だったな。。。

どうぞ迷わずに成仏なすってください。

1/29/2018

Justice has been done.

Let us move on.

1/28/2018

「お前はもう死んでいる」

というのは、ケンシロウのセリフだったな。

あたたたたた!!!

決戦は月曜日

気分はTerminator である。

1/27/2018

お父さんのようでした【英語教育学入門、別名、歌づくし授業】

最初の授業説明会で靜先生の発表を聞いて、この授業は取りたい!と思いました。歌と英語が好きなのでこの授業の時は他の授業の息抜きにもなったくらい、楽しみに毎回受けていました。私は負けず嫌いなので、予習をしてきて間違えないように必死でした。皆の足でまといにならないように一人一人が頑張れるので、とてもいい授業の進め方だと思いました。 
いつも靜先生は歌詞を覚えて指導されていましたが、車の中などで聴いて覚えるのかなと思っていました。特にJustin BieberのBabyと、All I want for Christmas is youは楽しかったです。 
この授業を受けてから、少しずつ普段の英語の発音(LとRの違いなど)が上手くなったような気がします。 最後の発表は今までの学習を見せたくて、堂々と緊張せずに歌うことが出来ました。 前期は何度か欠席してしまいましたが、後期はほぼ無欠席でたくさん授業が受けれてよかったです。 最後の皆の発表を見守る先生は、お父さんのようでした。 1年間ありがとうございました。 これからも、宜しくお願い致します。

いろんな人が楽しめる【英語教育学入門、別名、歌づくし授業】

最初は、今までに無い新しい授業で、恥ずかしさや不安がありましたが、やっていくうちに洋楽歌えるようになるし、発音も学べるし、文法も学べるしで、この授業を受講して、本当に良かったなと思いました。又、ディズニーなど誰もが知っている曲から知らない曲まで幅広く取り扱っていたのもとても良かったです。そして、この授業で発音を学べたおかげで、授業でやらなかったけど、自分が知っている洋楽あるけど歌えなかったのが歌えるようになり、より歌を好きになることもできました。他の英語の授業とは違い、この授業1つで、英語を楽しみながら且つ英語についての情報を先生が沢山教えてくれたので、洋楽が好きな人や英語が好きな人はもちろん、色んな人が楽しめる授業だと感じました。

責任を持ちながら取り組めた【英語教育学入門、別名、歌づくし授業】

最初はふわっとした理由で受講を決めましたが今では取って正解だったと思います。普段あまり気にすることの無い発音について重点的に指導して頂き気持ち上手になったような気がします。またグループワークのため他のクラスに友人ができ人脈も増えたのが良かったです。グループで話し合いながら高め合いお互いに各パートを成功させるという責任を持ちながら授業に取り組めたと思います。授業で学んだことをこれからの学校生活に活かせたらと思います。加えて授業の内容だけでなく人脈作り、責任意識など社会的にも役に立つことを学べたのでもし後輩がいたらオススメしたいと思っています。1年間ありがとうございました。

速いのでなく、短い【英語教育学入門、別名、歌づくし授業】

今まで発音を意識して英語と向き合ったことが少なかった僕は、この授業を通して英語の本質に踏み込めたと思っています。シングリッシュやオーストラリアの英語のように独特の訛りがある英語の世界で、日本人の僕が話す英語は訛りと言い訳できるレベルではなく、そもそも英語の音ではなかったと思います。 
この授業で、歌を通し、英語の音節、基本的な発音の仕方、そして発音を学ぶことの大切さを身に染みて感じました。そして、発音を知り、弱形を意識することでリスニング力も付いたと実感しています。英語は早いのではなく、短い。音の間に余計な母音を入れて捉えていたので、リスニングは早い、苦手と感じていました。 
この授業を通して、発音の大切さ、リスニングへの新たな考え方が見つけられたことを一生大切にしていこうと思います。そして、日々発音の練習をして将来使える商売道具の英語を確立させようと思います。一年間、お世話になりました。

1/26/2018

どう発音したか分からないなんて無責任だ【教科教育法(英語)】

この授業では、毎回必ず課題があり自分自身でしっかり準備をし臨まなければならないという面で、本当に辛いと思うこともたくさんありました。しかしそれ以上にこの授業を通して得た事は沢山あります。

出来ていると思っていた自分の発音が全く出来ていないことに気づくことができ、先生に"こうやって発音する"と具体的に教えて頂いたことで改めて自分の発音を見つめ直すことができました。

また、"自分の発音に責任を持つ"ということも先生から教わったことの一つです。曖昧に発音し、今自分がどう発音したか分からないなんて、無責任だと思えるようになりました。

授業では毎週、単語テスト、暗写テスト、その他のテストがありましたが、出題形式は必ず同じではなくとてもプレッシャーがかかりました。中でも、全員起立して先生がランダムに指名し単語帳の文章を言うテストはとても怖かったです。。しかしきちんと準備した分できるテストだと思うのでもっと前半から準備して取り組むべきだったと思います。

前期後期通してこのように自分で主体的に取り組む授業、発音に徹底して学ぶことが出来る授業、プレッシャーがかかる授業はこの授業だけだったので受けて本当に良かったと思います。一年間ありがとうございました。

1/25/2018

合格のあとの絵文字【教科教育法(英語)】

毎週、授業が始まるまで何をやるのかわからないという、常に緊張感のある授業でした。 
対面グルグルでもメールグルグルでも何度も何度も挑戦し、合格を頂いた時の達成感とメールグルグルでの合格の後に付いている絵文字が本当に嬉しかったです。靜先生のダメなとき厳しく、出来た時にはいいねと褒めてくださる愛のあるご指導が大好きでした。 
靜先生には英語だけでなく、社会人としての常識も教えて頂きました。3年次は靜先生の授業がないということなので4年生になって靜先生の授業を履修する時、少しでも成長した姿を見ていただけるように頑張ります。 
1年間ありがとうございました!

刺し違えても排除してやる

正義の味方だからね。

それができないじゃあ、学生に顔向けできん。


なぜか注意に愛を感じました【教科教育法(英語)】


毎週火曜日を中心に 一週間が まわるような感じでした。火曜が終わったら、次の日から また次週の暗写、単語をやる、という一週間でした。月曜日の夜はすごく長かったです。

(中略)

間違っていて 何度も何度も注意してもらうことで、心折れたこともありましたが、できた時に 合格、OKと言われると、その分すごくうれしくて、心が折れた時も また頑張ろうと思えました。 
どうせ出来ないんだと感じて逃げそうになった時もありましたが、なぜか先生の注意は 愛というか、頑張れよというような気持ちを感じるというか、そんなふうに感じて踏ん張ることが出来ました。

授業は気が抜けないし、だからといって内容がキツキツすぎてということではなく、中途半端で終わることもなく、ほかのどの授業より充実した90分でした。 
まだまだ 勉強しなければならないし、足りない部分ばかりですが、この授業をうけたという自信というか、自分の気持ち的な部分の力になりました。もちろん英語力も去年より あげることが出来たと思います。

ありがとうございました。

毎週がとてもつらかった【教科教育法(英語)】


この教科教育法は一年生の時の歌を歌って英語の発音を楽しく練習する英語教育学入門とは違い、毎週がとてもつらかったです。正直にいうと火曜日のこの授業が終わればほぼ週末になったも同然という感覚でした。

しかし、逆にいうとそれほど密度が濃く、プレッシャーに晒された時間でした。自分の発音は自分では良くなったかどうかあまりわからなかったのですが靜先生に対面グルグルで「マル!」、メールグルグルで少ない提出回数で「合格」と言われる度に「少しずつ良くなってきているんだ」と実感しました。

大学の授業でこんなに厳しく指導されるなんて他の学部、他の大学ではまずないと思います。それだけ私達の発音を直そうと必死にぶつかっていってるのだと自分は感じました。

最後になりますが一年間ありがとうございました。来年度もおそらく教職科目でお会いするのだろうと思いますがその時はよろしくお願いします。

格段に上達しました【教科教育法(英語)】


今年度、初めて靜先生の授業を受けたとき、「私はこんなとんでもない発音で英語学科に入ったのか・・・」と、それまでの自分の発音を恥じました。それまではthとs・lとr・mとnの違いなど何も考えずに発音していました。

ですが靜先生の授業を受けて、こんな発音じゃ英語学科として恥ずかしいと思い、絶対に矯正しなくてはと思いました。先生の教えて下さる通りに発音を練習していると自分でも気づかないうちにいつの間にか以前の発音より格段に改善されていることに気づきました。

他の授業の先生方からも「とても上達したね」と言って頂けて、スピーキングの授業でスピーチをする際にはネイティブの先生にも「個々の発音もストレスもイントネーションもとても良くなったね」と言って頂けました。努力の成果が出ている!ととても嬉しかったです。

ですがまだまだ私の発音は未熟で、まだまだ修行が足りないと日々痛感もしています。これからももっと努力して発音を鍛えたいと思います!

今までの教師像、授業像が間違っていた【教科教育法(英語)】

全ての学校の授業の中で一番英語を使う授業でした。 
きちんと発音することの大切さを学ぶことが出来ないまま人前で英語を話すことの恥ずかしさを見に染みて感じることが出来ました。 厳しく向き合ってくれる先生のいる環境がないと、きっと自分の発音や英語力に向き合うことはなかったと思います。 自分の欠点を見つけ出し、欠点を流すことなく改善することの大切さを学びました。 
私は静先生の授業を受けてみたくて大学に入学しました。2年になってこの授業をとり、最初はなんて大変な授業を取ってしまったのだとさえ思いました、しかし、この授業がなければ私は間違った発音で間違ったイントネーションで間違った文法で話すことになるのだと考えるとそっちの方がなんて大変なことに!と思ってしまいます。 
また私の今まで受けてきた教師像、授業像が間違っていることに気づきました。生徒に英語を使わさせ、活動をさせるという授業のあり方が私には新鮮なものでした。そのような授業を行えるようになるためにも自らの英語力を伸ばすことに重点をおきまだまだ学習者の身であることを自覚して学びたいと思います。 
一年間本当にありがとうございました。

この授業をやめてしまうのは本当にもったいない【教科教育法(英語)】

1年間諦めずに頑張って本当に良かったと思います。毎週の暗写、単語テスト、聞き取り課題や音読課題も毎週のようにあって、ほかの授業より追い込まれることが多かったです。 
授業中や音読課題で、先生からフィードバックを受けて、自分が出来なさすぎて、悔しくて、泣いたこともありました。自分はできてない所をほかの人が出来ていると、とても悔しかったです。自分もできるようになりたいと努力しました。 
本当に辛い時もありました。正直いって、今日は休んでしまいたいと思う日もありました。だけど、それでは上達しないし、自分に甘えるのは嫌だと思い、毎週授業に参加しました。 
授業中のグルグルや、前に出て何かをするという時は本当に心臓が止まるくらい緊張しました。 
自分は完璧なつもりでいても、先生からのフィードバックを受けて聞いてみると、本当に先生の仰ったその通りでした。私も先生のようになりたいと思いました。 
まだまだではありますが、1年前と比べると、自分の発音や英語力は上達したのではないかと思います。発音上手だね、と友達に褒めてもらったこともあります。 
それと、色々場面で、ほかの授業の先生や友達の発音を無意識にチェックするようになりました。母音の前なのにザって言ってる…とか、カタカナ英語になってるなぁとか。これは私だけじゃなくて、靜先生の授業を履修している私の友達も、人の発音チェックをしてしまうと言っていました。 
何人も友達が途中でやめていったりしたけど、理由はともあれ、この授業をやめてしまうのは本当にもったいないと思いました。他の授業よりも、その場ですぐに力がつくと思うし、自分のためになると思うからです。 
来年度、この授業を取りたいと思っている人達に、厳しくて辛くて課題もたくさん出るけど、終わってみたら、楽しかったし、力がつくから絶対に諦めないで1年間頑張ってほしい。と伝えたいです。 
1年間ありがとうございました。

1/21/2018

メール・グルグル、「メルグル」やってます

課題を音声を録音させ、メールで送付させたものに対して、合格するまでメールでフィードバックをする、という、「終われまテン」形式のメールグルグル、ただいまやっております。

合格期限まであとちょうど50時間。間断なく入ってくるメールとの格闘が続きます。

『大人のための発音レシピ』(仮)の原稿も最終段階ですが、ちょこちょこ入ってくる学生からのメールに返信するのは、ちょうどよい気分転換にもなります。

1/20/2018

著者の方、ていねいに確認してくださっているそうです

松村昌紀(2017)氏の編著の中の福田純也氏担当の章内での、拙著『心・技・体』の引用に関する私の異議については、あのブログポストをしたと同時に、そのコピーを添えて、編者および著者にお伝えいただきたいというメールを出版社に差し上げました(1月12日づけ)。

それに対して「なるべくていねいに確認させていただいてお返事をさしあげたいのでしばらく時間をいただきたい」旨のご返答を、担当の編集者の方を介して、いただいております(1月15日づけ)。

「ていねいに確認」していただけるということなので、ご回答をお待ちしたいと思います。『心・技・体』の著者として、的はずれな紹介で貶められている『心・技・体』の名誉が、一日も早く回復されることを願ってやみません。(注:2018.02.07 下線部の表現を修正しました)

『心・技・体』での私の主張が、万人に受け入れられるほど「甘口」のものでないことはもとより承知しております。とくに中高の現場で教えたことのない「英語教育研究者」の方々、「英語教育」というものを、教壇での日々の生徒との格闘のなかにある泥臭い営みとしてでなく、「第二言語習得」という、一般化かつ抽象化した一種の「きれいなもの」としてとらえたい方々などには、たぶん受け入れられない内容であろうと、最初からわかっております。

反論・批判するならしていただいてもちろん構いません。受け入れられないと書くのもご自由です。「研究」とやらの知見と異なる、と書くのもご自由です。

しかしそれもこれも、当たり前のことですが、『心・技・体』の内容を正しく理解し、適切にパラフレーズもしくは要約引用していただいた上での批評であるならば、という条件のもとでの話です。

200頁を超える書籍を、たった1〜2行のmisleading な表現で、的はずれな文脈で 「要約引用」して misrepresentし、あげくに
文法の指導と練習によって正確さが向上するのを待ち、その後になって流暢さを高めるための言語使用機会を提供するという指導モデルが学習者の発達プロセスを十分考慮できているとは言いがたい (福田  2017, p. 44) 
つまり、「学習者の発達プロセスをちゃんと知らないからそういうモデルになっているのだ」的ななんとも condescending な表現で片付けるとは . . . . 言語道断です。

そしてこの「モデル」は、前のページで言及している、「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え」(p.43)を指している、としか読めません。そこに典拠として「靜 2007など」と引いているのですが、繰り返しますと、靜(2007)すなわち『心・技・体』では、そんな文法指導モデルは一切打ち出しておりません。

このようなミスリーディングな引用は、許されることではありません。いやこの際、そういう気取った、他人事的な受け身表現はやめます。著者である私は絶対に許せませんし、許しません。I can't and I won't.

これを読んでいる皆様は、どうぞ『心・技・体』に関してかような誤解なきよう、お願いいたします。

もっとも実際に『心・技・体』を読まれた方々にはそのような誤解をしている方はないと信じております。もともと、そんなことは書いてないのですから、誤解・誤読の余地はありません。懸念するのは『心・技・体』は読まず、福田(2017)の引用記述にだけ接する人です。

『心・技・体』を読まれていない方は、この機会にぜひ、ご自分の目で、ご一読くださいませ。

絶賛発売中!


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念のためにClarifyしておきますと、『心・技・体』に書いてあるのは、

最終的に正確でかつ流暢な発音を身につけるのが目標であるならば、発音の流暢さは正確な発音ができようになった後で、徐々に求めてゆくのが、少なくとも日本のEFL環境においては、(王道であるどころか)唯一の正しい道である。正確に発音できない状態で、流暢さを求めてしまうと、永遠に発音の正確さは身につかない。

ということです。

そして、これは私が見聞きしてきた範囲において真実であり、(おそらく発音だけでなくmotor-skillが関わるおおくの身体的技能にも広く当てはまる)真理です。この真理を無視した結果、ひどい発音で流暢に英語を操る大学英語教員すら(そして、あまっさえ、英語教員養成担当の大学英語教師にすら!)英語教育研究大会ではしばしば見られるのは、本ブログでも折々に心のそこから嘆きつつ指摘してきたとおりです。


1/15/2018

教師の矜持: Stand tall

二日間、ただの一度も座ることなく、業務を完遂。学生を見る視線は授業にも通ずる。これを読んでいる教職学生、将来似たような機会があったら、絶対に座るな。座って授業が務まるのか?

1/12/2018

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)にみられる、拙著のミスリーディングな引用に対する異議申し立て:編者および著者の見解を問う

松村昌紀編(2017)『タスク・ベースの英語指導 -- TBLTの理解と実践』(大修館書店)

の pp.37-62 は、

福田純也(2017)「第2章 タスク・ベースの言語指導と認知のメカニズム -- 第二言語の学習を促す心理的要因」

であるが、その p. 43に、次のようにある(赤字および下線は私が付した)。

基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる。しかし,言語表出の正確さが必ずしも流暢さより先に発達するとは言えないようである。

この一節がどういう文脈の中かを示しておくと、以下のようである(pp.43-44):


(この文章を「福田(2017)」とする。)

ちなみに、「靜,2009」とは引用文献によれば、拙著、『英語授業の心・技・体』(研究社)(以下、『心・技・体』)のことである。

福田(2017)の上の下線部の記述は、

(1)『心・技・体』は、言語学習、言語指導の一般原則として「流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え」を打ち出している、が
(2)そのような「考え」は、当たらない、

と読める。それ以外には読めないだろう。

しかし(1)は、事実と異なる。少なくとも不正確、場合によっては不適切な引用であり、引用された側として大変遺憾である。

(また「(靜,2009など)」とあるが、この「など」はどういう意味だろうか。靜の著作で、2009年の『心・技・体』以外の著作、という意味だろうか?もしそうであればどの著作か示されたい。どの著作でもそういうことを言った記憶はないので、教えてもらいたい。それとも、この「など」は、「2009など」ではなく、「「靜 2009」など」、つまり、他の著者の著作を指しているのだろうか。そういう用法の「など」はあまり見たことがないが。)

福田(2017)が、『心・技・体』のどこをどう読んでこのような引用をするに至ったかは推測するしかないが、もっとも該当する可能性が高いと思われる、

第1章
3,音声指導に関する8つの誤り
3)流暢さが大切だ 

から、部分的に引用してみる。私が「よくあるmyths 」だと考える言説を取り上げて、その誤りを指摘する、という一節である。

--以下、『心技体』より引用--

   (3) 流暢さが大切だ
個々の発音の正確さ(accuracy)を気にしすぎると、流暢さ(fluency)が身につかない。 だから正確さを気にしすぎないほうがよい。
これは完全な考え違いである。まず前提として、我々の目標は(ネイティブと同じでなくともよいが、音素の区別はできているような)「きちんとした」発音で、(早口のネイティブと同じほどペラペラとでなくともよいが、聞き手がいらいらしない程度には)「スラスラと」ある程度のスピードをもって話せる生徒を育てることだ、とする。つまり「正確さ」も「流暢さ」も両方必要だ、ということである。正確さのない流暢さ(ペラペラと何かしゃべっているが、まったく意味がわからない)には意味がないし、流暢さのない正確さ(非常にはっきりとわかるが、1文を言い終えるのに30秒かかる)には実用性がないので、この前提は妥当なものだろう 
その前提に立って言うならば、最終的に正確さと流暢さの両方兼ね備えた状態に到達するには、まず正確さを手に入れ、その状態を維持しながら徐々に流暢さを手に入れてゆく、のが上策だと思われる。同時は無理だし、ましてや、流暢さを手に入れてから、その状態を維持しつつ徐々に正確になることはあり得ない。
(中略)
正確でない英語の行き着く先
これに対して、最初に正確さをきちんと担保せず中途半端な状態のまま、流暢さに重点を置いた練習を始めてしまうと、いつまでたっても正確さが身につかない。当然である。最初は意識をそれだけに集中してゆっくり大げさに舌や唇を動かしてようやく発せられるような「外国語の」が、せかされるようにしゃべっている状況で身につく道理がないのである。何年たってもきちんとした英語が身につかない。せいぜい、カタカナ発音(=非英語)で聞きづらい英語が速くしゃべれるようになるだけである。(悪くすると、アブハチ取らずになる恐れだってある。) 
(中略) 
話をわかりやすくするため、英語の発音ではなく、タイピング技能について考えてみよう。「個々の発音の正確さを気にしすぎると、流暢さが育たない」という議論をタイプ技能に当てはめると、「タイピングの正確さを気にしすぎると、タイプスピードが育たないから、正確さはあまり気にしすぎないほうがいい」となり、いかに馬鹿げた議論かがよくわかる。 
(中略) 
正確さのない読やシャドウイングは百害あって一利なし 
最近、「音読」や「シャドウイング」がブームである。文法訳読しかやっていなかったことの反省として「音」を出させようという姿勢自体はよいことだが、問題なのはその「音」の中身だ。個々の音はカタカナ発音のままで、やみくもに大きな声を出させたり、何度も読ませたり、速く読ませたりする場合が多い。そういう授業を「活気がある」といって歓迎するのは誤りだ。「正確でかつ流暢な」英語を目指す上では、まったく意味がない。大きな声で何度もすらすら読んでいるうちに、徐々に発音が良くなることは200%あり得ない。
-- 『心技体』より引用終わり --


章のタイトルが「音声指導に望む心」であり、節のタイトルが「音声指導に関する8つの誤り」であることから明らかなように、ここで論じている accuracy はすべて発音に関することである。

それを、
基本的に,ドリル活動や文法問題への解答などはかなり形式に重点を置いた指導である。流暢さは正確な言語使用ができるようになった後で求めるのが王道であるという考え(靜, 2009など)に基づけば,先に文法のトレーニングを行い,その後で流暢さを鍛えるような活動に移行するという手順が採用されることになる
という、文法指導に関する記述でサンドイッチするような文脈で引用されては、福田(2017)の読者は、

「『心・技・体』は、文法が正確に使用できるようになった後で初めて、流暢さを求める鍛える活動に移行べきだ、と提唱しているのか。。」

と誤解するだろう。このミスリーディングな記述は意図的なものだろうか、あるいは単なる杜撰さの結果なのだろうか?

上で明らかなように、そのようなことは私は『心・技・体』で一言も言っていない。『心・技・体』で論じているのは、いかに学習者の発する音声の質を向上させることが大切であるのか、そして、いかにしてそれを実現することができるか、ということに関する私の考えである。

ということで、福田(2017)の上の記述は、控えめに言って不正確、場合によっては不適切である。

編者および著者の見解を問いたい。